エルリック 他 (本兌有)
20191129
こんにちは。
漫画は生き方
最近、銃夢を再読していっている。銃夢、中学生の頃に初めて読んだ時「何でこんな異常に面白い漫画があるんだ!?」みたいな興奮があり、人格形成に強い影響を及ぼした「私を作った○冊」みたいなものだ。漫画は時として思想書である。すごい現実の人生を鼓舞するパワーをもった作品が時々ある。今なら、進撃の巨人を読んで、どう生きるべきか、みたいな事を考えた若者が沢山いるはず。自分の場合、当時それは銃夢だった。銃夢を通して、人間の弱さとか、強さとか、貧富とか、仕事とか、生きることを考えた。好きなキャラもいっぱい居るのだが、1~2巻のあたりでは、ベクターさんと「皇帝」アルムブレストが好き。ベクターさんはユーゴを騙してたわけだけど、徹頭徹尾邪悪な人間というわけではなくて、実際に彼はユーゴの才覚を買っていたし、バカな夢で破滅すんなよ、みたいな惜しむ気持ちみたいなものを持っていて、その善悪のグラデーション上にいる感じが良いんだよな。アニメとか映画のベクターさんはそういうところがなくて、単なる悪人で死ぬのだが、原作の奥深いキャラ造形は素晴らしい。アルムブレストは、嫌いな人はいないであろう。何十年経っても「んーーートランスアキシャル面切断!」「わァががががァ」「さがってよし!」「み、見えん、真っ暗だ」とか絵と台詞がアタマに浮かぶ。
フィクションはすごい
というわけで、漫画が時として思想書として生き方を啓発したり、デス・ストランディングを通して見ず知らずの人間と繋がる事をあらためてポジティブに捉え直したり、そういうパワーを、フィクションは持っている。フィクションは凄い。強い作品であればあるほど、劇薬だ。凶器にもなるよ。はじめから、全然安全なものではないんだよ。でも、だからこそ我々はフィクションを必要としているのだ。それは夢のエネルギーであり、人間を駆動する力の源だ。我々人類は、火や刃物のない時代には戻れないし、戻る必要もない。そういうことだ。そして、それゆえ取り扱いを各自で注意すべきで、悪用しないよう、濫用しないよう、バッドトリップしないように気をつけないといけない。悪用とは、フィクションを個人の偏った主張の援用の道具とすること。濫用とは、人生に支障をきたしたり、他人に迷惑をかけるほどにハマって、距離感を失してしまう事だ。
視界が、こう、ならない
フィクション摂取のバッドトリップは、だいたいの場合、「自分vs作品」の暗黒空間で考えすぎる事で目がグルグルしてきて発生する。作品の登場人物のたまたまの発言とか、たまたまの1シーンでの行動とかをメチャクチャ拡大し、「この作品の主張する正義とか価値観は、このシーンからもわかるように○○という、とても偏った思想だ!」みたいな結論に至ってしまったり……あるいは、たとえばジャンプの漫画とかで、自分の好きなキャラが出番が少ない事から、イコール、そのキャラの体現する思想とかを作者が忌避するようになったのだ! みたいに極端化したりとかで、負の感情を増幅させてしまう。字面にするとわかるけど、偏ってるのは作品じゃなくてむしろ、読み取り方だ。読み取り方が偏っていれば、見え方も偏る。メチャクチャ複雑に読もうとすれば作品もメチャクチャ複雑なように錯視できる。だが、フィクションを読み取るのは全て、己自身。銃で敵を殺すゲームを見て「こんなものがあると人は銃で実際に殺したくなるから有害!」と結論づけるのも、その人がそう結論づけたいから。フィクションは、自身を映す鏡のようなもの。無理やり読めば暗号予言書にもできるし、死亡説にもできるし、夢オチ説にもできる。読み取る内容の真贋、有益性と有害性の境界は、往々にしてグラデーションになっている。火で凍えた身体を温めるか、家を燃やしてしまうかは、その人次第。どっぷり浸かりすぎると、フィクションから得るエネルギーのコントロールは不可能になる。心が疲れていたりイーッてなっているとハマりこむから、視界が、こう(「こう」の時に、顔の両側面に当てた手を前後に動かす)なってしまう前に、サウナに行ったほうがよい。
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