S1第2話【マーセナリイ・マージナル】
「助けてくれ」
「ただし相応の代価をもらう」
「サツガイという男を知っているか」
「おれは生かされた。奴が全ての始まりだ」
「ならば一人、ニンジャを売れ」
「ナハト……ローニン……」
「オレはサツガイを知っているぜ。マジにな」
オレが拾ったのは、死神だったんだ。
◆◆◆
1
マスラダがマッチを擦って火を灯し、それをオリガミに移していくのを見て、アユミは驚きに目を見張った。「ちょっと、何をしてるの!」「なにが」マスラダも逆に怪訝そうにアユミを見返した。金属の盆の上で、アブストラクトな水晶枝めいたオリガミ作品は燃え萎びてゆく。「もったいない!」「何?」
「だって……作品が」「作品?」マスラダは灰溜まりと化したオリガミを見た。そして合点がいった。「ああ。そういう事か。成る程」「でしょ」アユミは持ち上げかけた木箱を下ろした。マスラダは頷いた。「作品として出さないオリガミはその場で灰にする。万一これが市場に出れば、おれの作品が値崩れする」
「そういうものなの?」「そういうものだ」マスラダは肩をすくめた。「他の分野は知らないが、少なくとも、おれはそうする。周りの連中も。特に注意深く扱うんだ」彼は薄く透ける正方形の紙をつまんで見せた。「凄い技術で作られたワ・シだ。だけど、これは単なる素材だから、二束三文」「うん」
マスラダは長い指を紙の表面に滑らせた。すると一秒後、彼の手のひらの上にあったのは、歩きながら振り返った姿勢で凍り付いた鳩だった。アユミが息を呑んだ。「……ただの紙を、おれがこの形にした。これで価値が生まれた。おれという人間と、おれの技術と、注意深い取り扱い。意味と価値になった」
「凄い」アユミがおそるおそる鳩に触れた。マスラダは言った。「別におれはカネモチになりたいわけじゃない。カネ、好きだけどな」微かに笑い、「意味と価値を壊すのは容易いんだ。だけど、おれはおれの作品にしかるべき敬意を求めたい。カネのやり取りは一番公正な敬意の尺度だ。だからそれを守る必要がある」
マスラダは鳩を金属の盆に乗せ、やはり火を灯して灰に変えた。アユミを見て、問いかけるように首を傾げて見せた。アユミは苦笑した。「どうしても勿体ないと思っちゃうけど、わかった」「誠実に話したつもりだよ」マスラダは真顔で言った。アユミは頷いた。「本当に立派だ、カイは。私なんか平凡で」
「平凡かどうかは知らないけど、アユミは凄いだろ」マスラダはチャに手をつけた。アユミが淹れてくれてからだいぶ経っており、ぬるくなっている。「それに、おれは立派じゃない。少なくとも、まだ立派じゃない」ようやくオリガミ・アート市場で買い手がつくようになった。ほんの最近のことだ。
今度の個展にはセバタキ・ケンロが来る。セバタキの方から、わざわざ声をかけてきたのだ。お前のオリガミに幾つか、油断ならないアトモスフィアを持つ作品があった。次は展示を直接見に来る。セバタキはマスラダにそう言った。個展は黒字と赤字を行ったり来たりだ。ブレイクスルーできるかもしれない。
「私は凄くないよ」アユミは木箱を持ち上げた。「これ、外の配管の脇でいいね」少し日に焼けたしなやかな身体に正しいエネルギーを感じる。マスラダは伸びをして、凝りをほぐした。「義父さん、きっとカイのこと喜んでる」「思うのは自由だな」マスラダは次のワ・シに触れ、割れたボンボリを折る。
――風が唸り、破れ窓の覆いをガタガタと鳴らした。マスラダは物思いを断ち、掌の上、割れたボンボリのオリガミを見る。たったいま折りあげたものを。掌が赤黒い輪郭を帯び、オリガミは苦痛に身をよじるように揺れながら黒い灰と化した。
【マーセナリイ・マージナル】
「アイエエエ!」店内に蹴り込まれたタキは、明け方の光が縞になった板張り床を不様に転がった。顔の横を油虫が足早に通り過ぎた。逆光を受けて入って来るのは全部で四人。「なんでノコノコ戻って来たかは知らねえが」「帰巣本能か何かか? 想像できねえかなあ、こうなるッて事が」指をボキボキと鳴らして嘲る。
開店前。否、そもそも、タキがやらかして攫われた事は客の間で周知の事実だったから、店には誰もいない。ヤクザ四人はナックルダスターや金属バットを光らせ、這いつくばるタキを余裕ある足取りで取り囲む。「一応殺してもいいみたいなんだわ、タキ=サン」「どうする、タキ=サン」
「ふざけるな」タキは尺取虫めいて逃れようとする。「ここはオレの店だ。オレが戻ってきて何が悪い……」「ああ、何も悪くねえ!」「何も悪くねえな、少しもな! 帰って来るのはな!」ヤクザ達は答えた。「でも悪い事をしたよな、タキ=サン? 間違いなく、した!」「謝るような事をな!」
「だから誤解だって……」「スッゾオラー!」SMASH! 顔の横の床が爆ぜた。ヤクザが金属バットを振り下ろしたのだ!「アイエエエ!」「テメッコラー! どうやって99マイルズ・ベイから戻って来たのか知らねえが、許されねえぞ! 皮を剥いでから送り返すのと、送り返してから皮を剥いでもらうのと、どっちがいい!」「誰に?」「ストリングベンド=サンだ!」
「ア……そいつは、遠いとこで忙しいみたいだし……当分帰ってこねえんじゃ……ずっと……」「スッゾオラー! ワケワカンナメッゾラー!」「アイエエエ!」脇腹に蹴り! タキは床をのたうち回り、尻ポケットの端末を指で探った。「ク、クソが!」IRCホットラインがあるのだ。ソウカイヤのスンゴ=サンへの!
タキの端末には五つのホットライン・キーがある。ヤクザ召喚スイッチである。なかでもソウカイ・シンジケートは、ニンジャすらも顎で使う若きオヤブンのラオモト・チバが率いる強大なヤクザ組織。手痛い代償は待つが、この際、背に腹は……。
『このIDは現在使われておりませんドスエ』マイコ音声が応えた。
「ハア!? ナメるな! 使えねえクソ! 勝手にID消して……」タキは焦って四つん這いになった。その尻にヤクザが蹴りを入れた。「アイエエエ!」「もういい、めんどくせえ」リーダー格がショットガンを構えた。「キモチよく殺して終わろうぜ」「だな」「待ってくれって!」
「取り込み中悪いが」別の声。
「こっちが取り込み中だコラ!」ヤクザが反射的に怒鳴り返し、タキに向けていたショットガンを構えた。……銃口を添える手の甲に鋼鉄の星が突き刺さった。スリケンである。「グワーッ!」逆光の中、黒いシルエットがツカツカと入店する。ナックルダスターのヤクザが迎え撃つ!「ナマッコラー!」
「イヤーッ!」「グワーッ!」ナックルダスターヤクザの下顎が吹き飛んだ! 容赦無し! 裏拳を打ち込んだ影は歩みを止めず近づいて来る。ヤクザ二人が得物で襲い掛かる!「「スッゾオラー!」」「どけ」「「グワーッ!」」影は二人の頭を掴み、力任せにかち合わせた。昏倒! 一呼吸のうちに決着はついた。「ア……」ヤクザ最後の一人はようやく異常事態に気づき、恐怖と笑顔を混ぜたような表情で硬直した。
◆◆◆
KRAAAAASH!
店外、「ピザタキ」のネオン看板の脇の窓ガラスが内側から爆ぜ飛び、ヤクザが射出されて、手足をあべこべに折れ曲げながら廃車に叩き込まれた。そのやや後、下顎の無いヤクザがよろよろと路上へ出、暴走自動車に撥ね飛ばされて動かなくなった。
「オーゴッド」タキは逆光の影を見上げ、手を差し出す。「起こしてくれ。腰が抜けた。誰だか知らねえが助かったよ。こいつら死んでる? 全く捨てるの大変……お前?」タキは目を見開く。ようやくわかった。痛みや恐怖や逆光でぼやけていた視界が慣れ、恐ろしい「忍」「殺」の面頬、不穏な眼光がはっきりと視認できた。ニンジャスレイヤー。
「サツガイについて話せ」ニンジャスレイヤーはタキの手を掴み、ジゴクめいて見下ろした。「約束したぞ」「いや、そんな」タキは震える愛想笑いを浮かべ、それから顔をしかめた。「急にいなくなるからよ……もういいのかと思って」「お前こそ、歩けないと言っていた筈だな」
「そ、そうさ」タキは後ずさった。「お前もいなくなるし、痛む足を強いて頑張ったんだよ。なのに……どうしていなくなった?」「所用だ。さあ、話せ」「急かすなって。見ての通り、オレはヤクザにボコられてたんだ、つい今まで。お前がいないからだぜ……」タキは肩をすくめ、「なあ、ピザ要るか? ピザ屋なんだ。一階はな」
ニンジャスレイヤーは懐からスシ・パックを取り出し、カウンターに無造作に置くと、蓋を開けてマグロ・スシを食べ始めた。タキは眉根を寄せた。スシの調達をしたのか? なんて奴だ。赤黒のニンジャはよく見れば傷だらけ。その背から仄かに白煙が立ち上っている。うっかり触れたら火傷しそうだ。
「へえ、スシか……」「……」ニンジャスレイヤーはタキを睨みながら黙々とスシを食べ終えた。タキは床のヤクザ二人を指さした。「こいつら、どうするよ」「イヤーッ!」割れ窓からヤクザが二人、立て続けに店外へ投げ出されて、廃車に叩き込まれた。「……わかった。お前にゃ実際感謝してる。ついて来い」
タキは薄汚いピザ屋を横切り、奥の更に薄汚いトイレのドアを開けた。「いや、ふざけてるわけじゃねえんだ。汚くてすまねえな!」左の壁に体重をかけると、壁がぐるりと裏返った。ドンデン・ガエシだ。「隠し通路だ」中には狭い梯子。これを降りる。
「いいか?」タキは下りながら言い繕う。「オレはトイレに逃げて隠し扉の奥に入って、お前をやり過ごしてもよかったんだ。だけど敢えて逃げなかった。オレが信頼に足る人間だってわからせるためにな」
ニンジャスレイヤーは無言でタキに続く。なにか言ったところで言い繕いを止めないと判断したのだ。
「この通路の欠点はさ、客がクソしてる間は中に入れないっていう設計ミスで……」下降は思いのほか長い。「地下1階・2階・3階はスルーだ。なにしろ秘密だからな」「ハシゴを滑って降りないのか、タキ=サン」「冗談きついぜ。スタントマンでもねえのに」
やがて彼らは底についた。壁に「B4」の文字。
「到着だ。オレの城だぜ」指紋認証をしてシャッターフスマを開くと、取調室めいたごく狭い部屋だ。ただでさえ狭い部屋が、うずたかいジャンク類やファイル類、マキモノ類によって足の踏み場のない有様。中央に粗末なオフィス机があり、UNIXデッキが置かれている。天井に無数のポルノ・ポスター。
「そこで止まれよ。専門家の領分だ」タキはニンジャスレイヤーを指さし、ジャンクを踏み分けてデスクの反対側へ廻った。「フー……」脂っぽい金髪を掻き、UNIXの電源を入れる。ニンジャスレイヤーは腕組みして待った。……ピボッ。電子音が鳴り、UNIXデッキのファンが動き出した。
「……」タキはタイピングを開始した。彼は依然として生死の瀬戸際にある事を理解していた。己を鼓舞し、視界の端に微動だにしないニンジャスレイヤーをちらちらと見ながら、自身の電子ネットワーク情報収集力をフルブーストした。サツガイ……サツガイ……サツガイ……。
(無いじゃねえか。何者なんだ。サツガイだと?)タキは乾いた唇を舐めた。IRCネットワーク・フォーラム・ツリーを辿り、さらに秒単位で課金される極めて強力なツリーにまで入り込んだ。サツガイ。情報無し。金額が増えていく。彼はニンジャスレイヤーを恨んだ。(パラノイア野郎め。さては架空情報でオレを追い詰めて楽しんでやがるか?)
ニンジャスレイヤーは瞬きひとつしない。タキは想像上の粉をスニッフし、極度集中した。……拷問部屋の記憶がフラッシュバックした。「いや、待て! そうか!」「そうか?」「こっちの話だ。領分だ。黙ってろ!」タキはまくしたて、情報ターゲットを変更した。ナハトローニン。(あった!)
「貴様は……」辛抱を切らせようとしたニンジャスレイヤーを手で制し、モニタ上を流れる文字列を必死で目で追う。「ストリングベンドの野郎が死に際にお前に言った "ナハトローニン" ってニンジャだ。あれを追うので間違いない。俺には奴の居場所とシノギがわかるぜ」ヤクザ後ろ盾リストは全員オフライン。
「ヤクザを呼んでおれにぶつける気か?」ニンジャスレイヤーの右拳がミシミシと音を立てた。「やってみろ」「ハ、ハ……」タキは笑い、さりげなく後ろ盾リストを閉じた。「冗談きついぜお友達。ンなわけないだろ。ええと、さて。ナハトローニン。奴は生粋のドイツ人でニンジャ。腕に『死の浪人』の刺青。こっちに来たのは二年前」
画面に何枚かの画像が表示され、また消える。「武器はカタナだ。アクティブ・カタナ? 何だろうな。まあ、ストリングベンドをブッ殺したお前の敵じゃないさ」「どこにいる」「奴はヒョットコムの闇エージェントで荒稼ぎしているんだ」「ヒョットコム?」「知らねえのか。フン……」タキはニンジャスレイヤーの闇社会への疎さを測る。
「……センタ試験、知ってるか?」「いきなり何の話だ」ニンジャスレイヤーは目を眇めた。タキはじっと見返し、言った。「知ってるよな、大学入学の為の統一学科試験だよ」「だから、それがどうした」ニンジャスレイヤーは苛立ちを深めた。タキは余裕を見せつけるように咳払いした。
「国家消滅後、センタ試験ってのはもはや大学への受験資格テストにゃ留まらねえ」タキは説明した。「知っての通り、ヒョットコってのはセンタ試験に失敗した受験生の成れの果て、それが愚連隊化したクランだろ。転じて、ヒョットコムはセンタ試験の点数ランキングを競い合う、闇のプロ受験生リーグの事さ。億のカネが動く」
「大学進学はメガコーポへの就職に直結するから、競争は激化する一方だ。受験は経済になった。試験の点数獲得能力が図抜けた奴はもはや大学に行かず、受験生の立場に居座り続けて、スポンサーをつけ、センタ試験を毎年受け続ける。トップランカーはほぼ10年以上センタ試験を受験している奴らなんだ」
「プロ浪人はスポンサー企業からギャランティーを得て生活する。朝から晩まで受験勉強トレーニング。手段の目的化だな。いびつなもんだぜ」タキは鼻をスンスン鳴らした。「いくら儲かってても、立場を代わりてえとは思わねえや。で、ナハトローニンってニンジャは、そいつらを守るヨージンボってワケ」
タキはこのニンジャの情報を目で追った。「奴はユバナ・キャピトルに直接スカウトされ、ポータルを使ってネオサイタマにやって来た。それ以後、受験生のボディ・ガードやら何やらでカネを稼いでやがるわけだが……廻ってるカネは投機マネーだ、こいつも実力不相応に評価されてるだけの雑魚ニンジャだ。お前ならきっと楽勝!」
「成る程。大体わかった。そいつの事は」ニンジャスレイヤーは低く言った。「サツガイはどこだ」「待て、焦りは禁物。サツガイの件はそう簡単に核心に辿り着けるパズルじゃねえんだッて!」ナハトローニンとサツガイの関連情報は一件も得られない。タキは喋り続け、平静を保つ。「ナハトローニンが重要な鍵なんだ。何らかの重大な関連がある。お前が直接確かめなきゃならねえぞ」
タキは情報を流し込んだディスクを抜き、机越しに投げつけた。「持ってけ。これで貸し借り無し」「……」受け取ったニンジャスレイヤーの目が赤黒く光った。背中まで見透かされる恐怖だ。タキは額の汗を拭った。(ストリングベンド=サン。出鱈目でナハトローニンの名前を挙げてたなら、ジゴクで殺すぜ)
「……」ニンジャスレイヤーは踵を返し、部屋を退出した。「イヤーッ!」ハシゴを蹴り上がるカラテ・シャウトが遠ざかっていった。タキは腰が抜けたようになり、椅子に倒れ込んだ。
――今度こそ、命を拾った。ナハトローニン。念の為、UNIXの収集情報を削除・洗浄しながら、タキは長い溜息をついた。経歴を垣間見るだけで震えあがるようなニンジャだ。
タキが得た情報によれば、欧州で「シュンシナム・グラウンドスフィア」のエージェントをつとめたナハトローニンは、専属部隊を率い、僅か半年で周辺地域の六社を威力吸収合併させている。その後、何らかの理由で職を辞する際には、今度は契約不履行だか何だかで、シュンシナムの代表取締役と同僚エージェント二名を葬っていった。圧倒的危険人物だ。
その無慈悲なカラテを評価し、ネオサイタマのユバナ・キャピトルが彼を迎えた。ネオサイタマに移り住んで以降、ヒョットコムにおいても、ナハトローニンは幾度も敵対ニンジャを葬っている。つまりは、凄腕も凄腕である。
非ニンジャ相手にイキがるニンジャなど幾らでもいる。同じニンジャ同士のイクサを躊躇せぬ者こそが真の戦士、一段上の危険人物といえる。ゆえにナハトローニンは、どだいストリングベンドのようなヤクザニンジャとは格が違う存在だ。一方、ニンジャスレイヤーは闇社会に疎く、行動は短絡的。勝てる要素はなにもない。
「ファック……! フーッ……!」タキは罵りを吐き出し、額の汗を拭った。全て片付いた。今回の一連のトラブルは、かなりヤバい橋だった。ヤクザにシメられ、逃れたと思えば、ヤバいニンジャがついてきた。
しかしそれも厄介払い完了。ニンジャスレイヤーは死ぬだろう。憂いはゼロになった。薄氷を踏む立ち回りを成功させた安堵と達成感が彼の本能にパワーを与えていた。タキはクシャクシャのチラシを開き、ホット・マイコ・サービスのコールIDを目で追った。
「アー。モシモシ? 今からなんだけど、一番……いや、二番目にホットな子を」
2
ピロティティ、ピロティティ、ピロティティ……特徴的なアラーム音がムキョウの眠りを自然に覚ました。遮光カーテンは時間と共に徐々に遮光率を下げ、曇天のネオサイタマの光を窓から忍び入らせる。テック枕の側面の液晶には、心拍数・体温・α波の推移データが折れ線グラフ状に表示されている。
枕も、シーツも、フートンも、ユバナ・キャピトルの子会社、ユバナ・ベッドクローズ社の製品で、脳環境を整える為に最適とされるハイ・テック寝具だ。効果のほどはわからないが、スポンサー契約をしている関係で使用は義務付けられている。ムキョウは起き抜けのビタミン・スシを食べ、背伸びをした。
「ハイ、ムキョウ」ショウジ戸を優しく開き、オイランドロイドがアイサツした。盆には起き抜けのコーヒーだ。「ハイ、リヨコ」ムキョウはオイランドロイドの頬にキスをし、コーヒーを啜った。今日は月一度の模擬試験の日。己の力を誇示せねばならない日だ。ロゴ入りシャツに袖を通し、ネクタイをする。
リヨコは旧式のオイランドロイドだが、ムキョウは彼女を心から愛し、信頼していた。家族は彼女だけだ。ヒョットコムのランカーは唸るようなフェイムとマネーを得るが、高層ビルのハイプなパーティーには縁がない。日々の暗記トレーニングを欠かせばたちどころに成績は落ちる。ハニートラップも危険だ。
規則正しい生活で脳を最適に保ち、暗記トレーニングを行い、ストレッチをし、マネージャーから送られてくる受験マーケターとの折衝結果のIRC報告文書を確認する。ムキョウの生活はルーティーンで出来ていた。ハイスクールの頃とほとんど変わらない環境に、彼は10年近く己を置いている。
UNIXモニタを眺めていた彼は、デッキを操作し、己の預金口座を確認した。たいして使うものもないので、金額ばかりが増えていく。カネのかかる娯楽も無いし、人生設計もあまりない。
人生設計か。ムキョウは微笑した。何を設計しようというのだろう。十年くらい前には国家があったが今は無い。このルーティーンの暮らしでいつまで食っていけるか。ネオサイタマがまたワケのわからぬ状態に陥るか。どっちが先だろう。それでも受験産業は生き続けるだろうか。
気になるニュースもある。プロ浪人生が上位を占有し過ぎている現状に、大学連盟が憂慮を明言するようになってきているのだ。そうなればヒョットコムはどうなるだろうか。IRCフォーラムでは諸説入り乱れている。企業は受験ビジネスを見捨て、ランカーがまとめて路頭に迷うという者もいる。しかし大勢の見解としては、プロ・リーグとしてヒョットコム自体が継続し、受験のための受験が存続していくという意見が多い。
受験という枠組み自体が既に、カネを回すタービンとして機能しているのだ。株券が飛び交い、毎月の模擬試験や年一回のセンタ試験では巨額の賭け金も動く。だから……。「わからない」ムキョウは呟いた。何もわからない。彼がやっている事は高校生の頃から変わらない。奪われるものもない。ビタミン・スシのように無味乾燥な人生だ。
「どうしたんですか?」リヨコが前傾姿勢で背中をそらし、胸を突き出すようにした。魅力的だ。オイランドロイドはムキョウの額に触れた。「お熱は? ありませんね」「ありがとう、リヨコ」「頑張ってね」彼女に自我は無い。噂によれば、薄暗いストリートには、自我をもった胡乱なオイランドロイドが蠢くという。
リヨコはチャーミングに瞬きし、ムキョウを心配そうに見ている。「大丈夫だよ、リヨコ」「よかった! 留守番しているからね」リヨコは笑顔になった。彼女は旧式だ。どう転んでも自我に目覚める事もない。これで充分に愛しい。自我に目覚めたオイランドロイドは、きっと疲れるだろう。
「行ってきます」耐汚染コートを着、部屋を出て、エレベータを使って20階から一気に降りる。入口のロビーで携帯端末に通信が入った。マネージャーのヤマナラ=サンだ。『ドーモ、ムキョウ=サン』「ドーモ」『単刀直入に言いますと、今回、妨害の危険があります』「妨害ですか?」ムキョウは立ち止まった。
ムキョウにはピンときた。マネージャーは受験への精神的悪影響を恐れてオブラートにくるんだ言い方をしている。ムキョウは試験会場への移動中に暗殺されたランカーを何人か知っている。「危険ですか」『問題ありません。既にエージェントがムキョウ=サンを守護しています』「既に? 今もですか」『そうです』
「フーッ……」ムキョウは深く息を吐いた。「問題ありません」『流石です。我々を信頼してください』「勿論です」気配すら感じないが、どこかで彼の事を監視しているのだろう。ニンジャだ。実物は見た事が無いが、実在する事は間違いない。こうした闇の荒事を行う存在……ムキョウとは別世界の住人。
足早に徒歩3分のヤイドマ・ステーションに向かい、そのままモノレールに乗り込んだ。クルマを使った移動はかえって危険が多い。交通事故率の高さは社会問題化しているし、ヤクザ同士の争いに巻き込まれてハチの巣になる車両が後を絶たないのだ。
ネオサイタマの限られた高所区域を往復するモノレールはメガコーポの武装治安部隊によって24時間の警備下にあり、カチグミ通勤通学者を運んでいる。車体にグラフィティもない。「お勤め、ご苦労様です」逆関節治安ロボ、モーターガシラの重厚な巨体が投げる冷たい音声を受けながら、改札を通過する。
シートに腰かけ、イヤホンを装着した。ゼン・アンビエンス音楽だ。試験当日の通勤時に暗記は行わない。隣には女子高生が座っている。十歳くらい歳が離れているのに、社会的な公の立場は同じだ。それからカチグミのサラリマン達。この車両内の誰かがアサシンで、誰かが護衛者なのかもしれない。
窓の外、ときおり黒い稲妻を光らせる曇天の下、黄灰色に霞んだネオサイタマの風景が流れ過ぎる。高層建築が並ぶ区域、庭園や朱塗りの瓦屋根の屋敷が配置されたカチグミ地域、屋台街や、海水が侵食した地域を埋め尽くす水上バラック群。火煙を噴き上げる黒々とした金属建築物。
早朝からすでにメガコーポ群の資本の血流は街を激しく動かし、サーチライトやネオン光を瞬かせて、ホロ・フクスケやホロ・トリイ、ホロ・フクロクジュなどの極彩色が黄灰色を割って花開き、「お座敷」「矢会社」「君な」「大きな安全」などの巨大ネオン看板のメッセージが明滅する。……ネオサイタマ。
『次は、シモタバイカ。シモタバイカ』車内放送が到着を告げる。ムキョウは端末を取り出した。試験会場はシモタバイカ駅から徒歩2分。ナビゲーションが起動し、ワイヤフレーム地図が目的地への最短距離を表示する。ただそれに従って動けばよい。彼が考えるべきは試験問題のアルゴリズム・パターンだ。
ガゴンプシュー……ドアが開き、乗客が吐き出された。女子高生も下りる。ムキョウもだ。同じ試験会場だろうか。やや郷愁めいた気分になった。彼女はまさかプロ浪人にはなるまい。大学へ進学し、研究職か、サラリマンか、スポーツか……これから生き方を決めていくのだろう。ホームの空気は寒かった。
人の列に従い階段を下りてゆく。自分はどこまでもマージナルな存在だ。影か、ユーレイだ。だからといってこの立場を抜け出そうとは思わない。ほかに生き方を知らず、経験もなく歳をとり、希望もない……。ムキョウは改札を抜け、路地を左に曲がった。重金属酸性雨がパラつく。ネオン傘をさす。
ねじれた配管パイプが左右の建物の壁を埋め尽くし、水蒸気が霧めいてたちこめる路地だった。表通りから入れば、すぐにこうした情景がひろがる。人通りもない。人通りも……「スミマセン、落としましたよ」背後から声が聞こえた。ムキョウの背筋が凍った。「定期券」「えっ」彼は振り返ろうとした。
男はムキョウより少し背が低く、平たい編み笠を被っていた。合成革ケースをアンダースローで投げつけた。ムキョウは反射的に手をかざした。「イヤーッ!」斜め横から別の声がきこえた。何かが高速回転しながら飛び出し、革ケースを三つに切り裂いた。KBAMBAM! 革ケースが散り、左右で爆発した!
SPLAASH! 爆発で破損した配管から水蒸気の飛沫が噴き出す中、二人の影は対峙した。「アイエエエ!」ムキョウは後ずさった。革ケースに偽装した小型手榴弾……暗殺! だがその危険な襲撃者からムキョウを守るように、飛び出してきた影がカタナを抜き放ち、構えたのだ。腕には「死の浪人」の刺青!
「チィ、貴様か」襲撃者は編み笠を捨て、紫のサイバネ・アイを敵意に光らせた。そしてオジギをした。「ドーモ。ナハトローニン=サン。フェイズホースです」「ドーモ。フェイズホース=サン。ナハトローニンです」互いに下げた頭を戻し、間合いを測り始めた。どちらもニンジャ。重要標的はムキョウだ!
「なッ……これは……」『ムキョウ=サン! 問題ありません。ナハトローニン=サンは貴方の護衛です』マネージャーのヤマナラが端末に音声を送った。『あまり離れすぎず! 別の襲撃者が控えておるやも』「そんな!」『彼はプロです、心配は……』「イヤーッ!」「イヤーッ!」目の前で二者はぶつかり合った。得物はジュッテとカタナだ!
「アイエエエ!」ムキョウは後ずさった。「イヤーッ!」「イヤーッ!」更なる切り結び! 二人のニンジャの足運びはマイめいて幻惑的ですらあった。色と色がぶつかり合い、離れ、また打ち合う!
「イヤーッ!」ムキョウの眉間めがけ突き出されたジュッテを、横合いからのカタナの柄が弾いた。「イヤーッ!」刃が翻った。ジュッテ持つ手が吹き飛び……貫通した刃がフェイズホースの背中を破って飛び出した! ナムアミダブツ!
「カッ……!」フェイズホースのメンポの隙間から鮮血が零れた。背中合わせに立って逆手に刃を突き刺したナハトローニンはカタナを捻じ込み、その傷を致命的なものとした。「カッ、カッ」フェイズホースが震えた。ナハトローニンの目が残虐性を帯びて細まり、ニタリと笑った。「辛抱(シンボ)……シンボ……!」
『ムキョウ=サン、タノシイを吸入してください。模擬試験に影響を及ぼしてはなりません』マネージャーが指示した。ムキョウは震えながら懐の吸入器を取り出し、プッシュした。カシュッ!「アー……イイ……」思わず声が漏れた。視界が輝き、恐怖は麻痺した。キラキラした視界の中、もがくフェイズホースが見える。「おのれ……!」
「貴様のクライアントは既に判明している。尋問は不要だが……ここからが楽しいんだ」ナハトローニンが言った。「ヒョットコムはなかなかホットな現場だ。貴様のようなプロ気取りの雑魚がひしめいている……たまらんぞ!」「グワーッ!」「シンボーッ!」「グワーッ!」刃を捻じり、血を掻き出す! ナムアミダブツ! ナムアミダブツ!
「アッ、アバッ、アバッ!」フェイズホースは身をもぎ離そうと必死になり、手をのばして壁の配管パイプを掴んだ。「シンボ、シンボ!」ナハトローニンは歌うように法悦の声をあげた。ムキョウは悪い夢めいた光景を眺めた。
そしてその時、壁の配管がミキミキと音たてて左右にひしゃげ、赤黒の炎が染み出した。それが新たな悪夢だった。
「三……人……目」ムキョウは呟いた。水蒸気の中から出現した赤黒装束のニンジャが、横からいきなりフェイズホースの顔面を掴んで、力を籠めた。フェイズホースのメンポ呼吸孔や目や耳が火を噴き、眼球は白濁しながら爆ぜて、握力と火によって無残な死を迎えた。「サヨナラ!」爆発四散!
赤黒のニンジャは勢いをそのまま乗せて、恐るべき速度のチョップを繰り出し、ナハトローニンはイアイめいた強烈な斬撃で応えた。「イヤーッ!」「イヤーッ!」手甲と刃が三度打ち合い、火花が飛び散った。二者はタタミ二枚の距離を取って対峙した。
「ドーモ。ナハトローニン=サン」先手を打ってアイサツしたのは赤黒のニンジャだった。「……ニンジャスレイヤーです」「ドーモ。ニンジャスレイヤー=サン。ナハトローニンです」ナハトローニンは油断なくアイサツを返した。「企業の猟犬どもに貴様の名は無いな。ソウカイヤの戦士でもない……」
グガガガ。ニンジャスレイヤーの背後で、裂けた壁と押し分けられて歪んだ配管が、悲鳴めいた軋み音を立てた。ニンジャスレイヤーは前傾姿勢を取る。掴みかかる獣の予備動作めいていた。メンポの「忍」「殺」の文字が一瞬、マグマめいて赤熱した。
「貴様を殺す」「誰の差し金だ」
「……おれ自身……!」
3
ムキョウは震えて携帯端末を取り落し、拾い、必死にコールした。「ヤマナラ=サン! ヤ、ヤマナラ=サン! 別のニンジャが……」『注意してください、ムキョウ=サン。ナハトローニン=サンからつかず離れず……』マネージャーはあてにならない。ムキョウのタノシイがバッドトリップを誘発する。
「イヤーッ!」ニンジャスレイヤーがナハトローニンに襲い掛かった。ナハトローニンは刃を振るうが、赤黒のニンジャは斬撃をすれすれにかわしながら胸に短打を打ち込みにいった。「イヤーッ!」ナハトローニンは牽制斬撃とともに横へ転がり回避!
「アイエエ……テストだ。類似の試験問題を考えるんだ……!」ムキョウは己に言い聞かせ、正気を保とうと務めた。彼には人生経験が乏しい。高級マンションと試験会場の行き来が彼の生活だ。どれほどメイクマネーしようと、彼の実経験はモノレールで見た女子高生とさして変わりはしない。ゆえに、こんな時も心の支えにできるのは、試験問題とテキスト類の疑似体験……それだけだ!
「イヤーッ!」「イヤーッ!」「イヤーッ!」「イヤーッ!」二人のニンジャは激しく打ち合う。ナハトローニンは刃をクルクルと回し、盾めいて打撃を近寄せず、突きを繰り出しながら間合いを取った。ニンジャ同士の戦闘において、素手のカラテと武器のカラテがかち合った場合、己の最適カラテ距離に実際の間合いをどれだけ嚙み合わせるかが重要になる。拳が届かず刃が届く距離。彼の間合いだ。
ニンジャスレイヤーは踏み込もうとした。「イヤーッ!」その膝頭にナハトローニンの冷たい刃が触れた。「グワーッ!」神速の牽制斬撃。ナハトローニンはバランスを崩したニンジャスレイヤーに返す刀を浴びせに行く!「終わりだ!」双眸の赤黒の炎が揺らいだ。死が迫る。彼は……「イヤーッ!」膝から血が噴き出す! ニンジャスレイヤーは敢えてロケットスタートした! 急加速のタックルだ!
「ヌウッ!」ナハトローニンは目を見開く。予想外の無謀なムーヴだ。迎撃のカタナ刺突はニンジャスレイヤーの左肩を貫いた。だが手ごたえが薄い。致命部位を捉えていない! そして弾丸めいた……否、バッファローめいた赤黒の質量が衝突した!「グワーッ!」
KRAASH! ナハトローニンが吹き飛ばされた先は配管パイプと壁の裂け目、ニンジャスレイヤーの出現地点だった。ニンジャスレイヤーは後を追おうとして、呻き、よろめき、膝をついた。「ヌウーッ……!」二か所に重傷。立っていられぬほどの。「アイエエエ!」ムキョウは周囲をせわしなく見渡した。どうする。
「ヤマナラ=サン! 護衛ニンジャが……」ムキョウは言葉を途中で飲み込んだ。赤黒の死神のジゴクめいた視線が彼を射抜いたのだ。ムキョウは死を覚悟した。『つかず離れず……』むなしいアドバイスが聞こえる。やがてニンジャスレイヤーはムキョウを無視した。壁の穴を睨み、武者震いめいて肩を震わせた。
赤黒の装束がグツグツと沸騰し、肩が陽炎に滲んだ。配管パイプが激しく蒸気を噴く。穴は闇。左肩に刺さった刀を掴み、引き抜いて捨てた。ムキョウは歯を食い縛った。己の行くべき場所……試験会場に正気の世界がある。意を決して、彼は逃走した。ニンジャスレイヤーは追わなかった。ムキョウは必死に走った!
ニンジャスレイヤーにムキョウは見えていなかったか? 否。当然、彼はナハトローニンに護られる非力な男を認識していた。だが彼が対すべきはナハトローニンである。あのプロ受験生ではない。ニューロンの奥底の邪悪な存在が彼の血管に新たな力を送り込む。かりそめに傷を癒し、腱を繋ぎ、装束を塞ぐ。
傷の治癒と引き換えに、ニンジャ聴力が、ニンジャ第六感が鈍化してゆく。ニンジャスレイヤーは身を起こし、カラテを構えた。壁穴の奥は倉庫だ。ナハトローニンの行動経路をある程度把握したうえで彼は倉庫内を回り込み、壁越しのアンブッシュを試みた。奴は逃れたか。追うべきか。
(力だ。ナラク。殺す力をよこせ)マスラダはニューロンの奥底の邪悪に呼びかけた。霞んだイメージと憎悪が反響し、過去の記憶の片鱗がフラッシュバックした。冷たくなってゆくアユミ……散らばったオリガミ……胸を貫いた……スリケン……サツガイの……スリケン……眼差し……サツガイ!
「イヤーッ!」攻撃は後方斜め上! ニンジャスレイヤーの目が燃え上がった。炎の軌跡を描き、かれは振り向きながらチョップを振り上げた。手甲とカタナがぶつかり合い、軋んだ。ナハトローニンは倉庫内から街路へ迂回し、道向かいの建物の屋根、死角から副剣を用いたアンブッシュ攻撃を試みたのだ!
飛び降りながらの斬撃でニンジャスレイヤーを真っ二つにすべく襲い掛かったナハトローニンであるが、企みは鮮やかに阻まれてしまった。「こいつ!」戦士は目を見開く。一方、ニンジャスレイヤーにとってもこの防御は博打だった。見て・感じて瞬時に反応したのではなかった。予測に過ぎなかった。
ナハトローニンは敵を侮りはしなかった。「イヤーッ!」空中蹴りを放ち、反動で間合いを取って着地した。そしてやおら、副剣の柄頭の機構を捻じった。『非戦闘員は即時緊急避難してください』冷たい音声が発せられ、刀身が不気味な青い光を帯びた。アクティブ・カタナ発動!
「御用!」「御用!」その時けたたましいサイレン音と金属音が鳴り響き、表通りから重厚な逆関節ロボットが靄を掻き分け現れた。モーターガシラだ。両脇には金属盾を構えた複数のメガコーポ武装自警従業員!「そこの戦闘者二名! ちょっとやめないか!」スピーカー音声が鳴り響いた。
ニンジャ二人はそちらを一瞥しただけだった。武装自警従業員の隊長はモーターガシラを前進させ、盾の陰から呼びかけた。「ニンジャといえど、この区域での戦闘は許されない。数分以内にこちらもニンジャ数名をこの区域に……アバーッ!?」突然の吐血!「アババーッ!」他の従業員も! 何が起きた!?
武装従業員は目、鼻、口から無残に出血し、地面をのたうち回った。「アバババーッ!」「ピガッ! ピガガガーッ!」モーターガシラすらも機能障害を起こし、横倒しになった。「アバーッ!」巻き添えに武装従業員下敷き殺!「ウツケめ。風下に立つからだ。どうでもよし」ナハトローニンが言い放った。
ナムアミダブツ。これがアクティブ・カタナだ。刀身の青は、極めて強力な毒素それ自体が放つ光だった。機械に対しても生物に対しても極めて有害な毒素を放つ粒子が放たれている。ニンジャスレイヤーは瞬時に状況判断し、死者たちの逆側へ足を運ぶ。ナハトローニンは舌打ちし、青く光るカタナを構えた。
(((これは……この毒は知らぬ))) ナラクが呻いた。(((これは奴のジツではない。文明の力よ。ナハトローニンのジツは奴自身に作用しておる……この毒に耐えうるブレッシング・ジツは、ハクメイ・ニンジャ・クランの秘伝……奴に憑依しておるのはキリカゼ・ニンジャ・クラン、辻褄が合わぬ)))
「イヤーッ!」ニンジャスレイヤーはスリケンを投擲し、飛び離れた。ナハトローニンは刃で打ち落とし、ゆっくりと間合いを整える。ニンジャスレイヤーの鼓動が強く打った。「……!」彼は咳き込み、力が失せゆく感覚に戸惑った。
「何者か知らぬが、並の使い手ではないな」ナハトローニンは青いカタナを掲げた。「さきの斬撃を防いだ手腕は見事だ。ここで必ず殺しておく」「サツガイ」ニンジャスレイヤーは呟いた。「サツガイというニンジャを知っているか」「……」ナハトローニンの目が微かに動いた。ニンジャスレイヤーは地を蹴った。「イヤーッ!」ナハトローニンは刃を返し、迎撃のイアイを繰り出す!
「イヤーッ!」ニンジャスレイヤーは高速側転を打ち、急接近した。またしても博打だ。彼は当初、スリケンを投げて牽制しながら間合いを離そうと考えていた。しかし身体を蝕む不可視の毒粒子の威力が想像以上のものである事がわかると、逆に一気に間合いを詰めにいった。ニンジャでなくば三度は死ぬ毒素量。ニンジャであっても……!
「イヤーッ!」更なる斬撃!「イヤーッ!」ニンジャスレイヤーは側転から前転に切り替え、刃の真下を潜り抜ける! 装束の繊維がボロボロと枯死し、劣化したペンキ屑めいて地面に散らばった。彼は血を吐きながらナハトローニンのゼロ・インチ距離に密着した。毒の進行の停止を感じる。ナハトローニンは離れようとする。それを許さない。掴む!
「やはり貴様の至近に毒は無しか」「離せ……!」「離さん」彼は眼前のナハトローニンの腰をかき抱き、己がニンジャ膂力を振り絞って締め上げた。「離さん!」「グワーッ!?」ベア・ハッグ! 江戸時代、レジェンドヨコヅナのライユウが岡山県の村を脅かしたグリズリーを素手で葬った際に用いたカラテである!
「貴様……グワーッ!」何たる一流の熟練ニンジャ戦士をして離脱をゆるさぬ決断的ニンジャ膂力か! ナハトローニンの足が地面を離れた。もはや彼はもがく以外に無し!「グワーッ!」逆手に持って刺そうとしたアクティブ・カタナが彼の手を離れ、地面に落ちた。ニンジャスレイヤーは締め続ける!「離さん!」
『認証者接触が必要です。セキュリティロックな』手を離れるや、カタナが冷たい電子音を放ち、青い光が失せた。無害! やがて仰け反ったナハトローニンの両目とメンポ呼吸孔から、赤黒の炎が溢れ出した!「アバーッ!」「イヤーッ!」ニンジャスレイヤーは締め続ける!「アバーッ!」ナムアミダブツ!
「サツガイというニンジャを……知っているか……!」ニンジャスレイヤーはジゴクめいて問うた。「貴様に新たなジツをもたらした男だ……知っている筈だ!」「アバーッ!」悶え苦しみながら、ナハトローニンが呪詛混じりの答えを返した。「サツガイ……確かに俺は……サツガイに……だが知らぬ……!」
「イヤーッ!」「アバーッ!」「辛抱しろ……死ぬのは許さん……死ぬ前に、おれに残してゆけ……残してゆけ!」ニンジャスレイヤーは言い放つ!「残せ! アユミを殺したニンジャの道筋を!」「アバババーッ!」ナハトローニンは赤黒の火を吐き、痙攣した。死神は彼の口から幾つかの言葉を引き出す……!
やがて彼はナハトローニンの背骨をへし折り、その臓腑を呪いの火で焼き焦がしてカイシャクした。「サヨナラ!」ナハトローニンは爆発四散した。ニンジャスレイヤーは膝から崩れ、身を震わせ、毒の自浄が生み出すジゴクの苦しみに声もなく耐えた。それは遠目には慟哭のようでもあったろう。
しかしそれを見たものはない。街路には監視カメラもない。ただ無残に毒死した武装従業員の死体だけが転がっていた。イクサの時間は実際ほんの数分にすぎなかった。やがてニンジャスレイヤーは起き上がり、訝しげに耳を澄ませた。
(アイエエエ!)それは先ほど逃走したプロ受験生の遠い悲鳴だった。靄の中でニンジャスレイヤーは目を閉じ、短く思考した。ナハトローニンはあのプロ受験生の護衛だった。丸腰のプロ受験生は五分ともたず、商売敵の手にかかるだろう。他人事だ。ニンジャスレイヤーは目を開く。後ろ姿が靄に消えた。
◆◆◆
「アイエッ!」ムキョウは公衆トイレの壁に押し付けられ、その口を塞がれた。彼を囲む三人のヤクザは三つ子のように同じ顔をしていた。クローンヤクザだ。「悪く思わんでくれよ。恨みはない」その後ろで、チョンマゲ・ヘアのサラリマンがガムを地面に吐き捨てた。「これは健全な経済活動の一環なんだからな」
「殺すのか」ムキョウは抑えつけられながら不明瞭な声を発した。ヤクザの一人がドス・ダガーを抜いた。「ああ殺すよ」サラリマンが外を気にしながら答えた。ここは試験会場のシモタバイカ大学の隣の公園だ。バンブー林に隠され、この狼藉を人々が知ることは無い。「ガリ勉野郎にはわからん世界だよ」
「自分は……」ムキョウの目に涙が浮かんだ。何の涙だろう。彼は思った。ヤクザから逃げるルートも、こうして試験会場を想定して組み立ててしまった。ニンジャ同士が殺し合って、ヤクザに襲われて、それなのにまだ自分はヒョットコムのランクの事を気にしている。「だって、それしかないんだ」
「そりゃそうだろうよ」サラリマンが新しいガムの包み紙を開いて口に入れた。「よくある、よくある。来世で頑張れ」彼は親指を下向けた。クローンヤクザが頷いた。ムキョウは目を閉じた。「……リヨコ……」「アバーッ!?」「ザッケンナコ、グワーッ!」「スッゾ、グワーッ!」「コラ、グワーッ!」
「……」殺戮音と悲鳴がひととおり聞こえ、そのあと静かになった。ムキョウは恐る恐る目を開いた。彼は息を呑んだ。首をへし折られ、あるいは刎ねられて床で動かない死体が四つと、赤と緑のツートーンの血溜まり。たった今までムキョウを殺そうとしていた連中の。
……そして赤黒の死神が立っていた。
死神。衝撃の中でじっとその恐ろしい影を見る。ムキョウでさえ気づいた。相当な負傷をしている。さきの戦闘の傷か。「ナンデ」ムキョウは思わず問うた。ニンジャスレイヤーは肩を揺らし、荒い息を吐きながら、壁に背をもたせた。「行けよ。試験なんだろ」言葉を切り、付け加える。「……悪かった」
「ア……」ムキョウは死体とニンジャスレイヤーを交互に見て、外へ走り出た。タノシイのトリップ効果はもはや無い。めちゃくちゃな出来事が起こり過ぎた。腕時計を見る。時間はまだかろうじてある。きっと試験の結果は散々だ。いや、カジバチカラが出るだろうか。
何故さっき、生きたいと思った? 違う、自分は生きたいのだ。家にはリヨコがいる。ルーチンでも生活だ。走る。ルーチン。センタ試験の結果を使って大学に進学してもいい。異常な出来事があったせいか、そんな夢想にまで考えが及ぶ。そんな事はしないが、選択肢はあるんだ。それで充分だ。走る。走る。
◆◆◆
「イェー! みんなアリガトな!」タキがソファの上に立って両手をひろげると、常連客は歓声で応え、おごりのグラスを高々と上げてみせた。壁には「生存おめでとうタキ」とショドーされた紙がダーツで留められている。ピロリリー! ピンボール台がタイミングよく電子音を発した。「カンパイ!」
タキはソファにストンと腰を落とし、左右に座るマイコの肩を抱いた。そしてグイグイと酒を呷る客たちを満足げに見渡した。「いやあ、ファッキング最高だな、こいつは!」タキが緩んだ笑顔で呟くと、誰かが「タキ、サイコー!」と叫んだ。なにしろタキの奢りだ。「いやあオレも最高! 面倒が全部消えた!」
「面倒って?」隣のマイコがタキにもたれかかった。「そりゃお前……」タキはマイコの豊満な胸を肘に感じながら、いいにおいを嗅いだ。「オレを詰めてたクソヤクザとヨージンボのニンジャを、イカレ頭のニンジャが潰してよ。超ラッキー。そのイカレ野郎も、もっと強い奴のところに行っちまって死んだから」
「エー、スゴーイ」マイコがくすくす笑った。「だろ?」タキはにんまりと笑い、「孫子の兵法だぜ、これは。要は、どっかにやっちまえば解決する。な?……ンー、なんだ?」目をすがめて入り口付近を見た。狭い店だ。入口周辺の客がやけにざわついている。やがて誰かが悲鳴を上げた。「アイエエエエ!」
悲鳴と共に、客たちがサッと壁に寄った。シャーレの油汚れに洗剤を一滴垂らすと、こんな風になる。タキはぼんやり思った。で、原因は誰だ? 彼はハッパでピースフルになった視神経を動員して、エントリー者を見た。「今日は貸し切りッていうか、一応オレの友達を集めてンだよね。悪いけどピザは……」
ジゴクの炎めいて煮えたぎる存在が近づいてくる。タキは困り笑いを浮かべて目を擦り、「そっち系のはキメてないんだけど?」マイコに同意を求めようとした。マイコ二人は同時にニンジャ・リアリティ・ショックを発症し、白目を剥いて気絶した。「え?」「アイエエエ!」「アバーッ!」気絶者! 嘔吐者!
「アイエエエ!」「アイエエエエ!」「アイエエエエ!」タキは悲鳴を上げて逃げようとしたが、ソファの背もたれに邪魔され動けない! 赤黒の眼光がタキを射た。「忍」「殺」のメンポがマグマめいた光を帯びた。焼けるように熱い手が肩を掴んだ!「サツガイの情報は」ニンジャスレイヤーは尋ねた。
「ウェイ! わかった! まあ待て」ジゴクの宮殿めいて喚き騒ぐ者たちで満たされた店内、タキは両手を挙げて観念した。「ッてことはお前、ナハトローニンを殺ったと! オーケイ! 追加の情報もあンだろ? よかったぜ、これでオレの情報収集も更にはかどる……はかど……ピ、ピザ食えよ。アツアツの!」
ニンジャスレイヤーは両手をタキの肩に乗せた。「要らん」彼は言った。タキは呻いた。ニンジャスレイヤーは上から力を籠めた。タキはソファに沈み込んだ。「オ、オレを殺すな……何も得られなく……」タキはしどろもどろだった。「……」ニンジャスレイヤーはやがて言った。「スシをとれ。今すぐにだ」
「スシだと」恐怖を一瞬忘れ、タキは傷ついた目で見上げた。「ふざけるな、ここはピザ、屋……?」ニンジャスレイヤーはタキを押さえつけたまま気絶していた。店内に正気の者はほとんどいなかった。半日もすれば誰もがこの恐怖の記憶を失ってしまうだろう。タキは溜息をつき、スシ屋にIRCを繋いだ。
【マーセナリイ・マージナル】終わり
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