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S1第11話【ウィア・スラッツ、チープ・プロダクツ、イン・サム・ニンジャズ・ノートブック】

総合目次 シーズン1目次


「どうした。ほしいのか?」「少しも」
「おれを解放しろ。お前に選択権は無い!」
「近こう寄れィ!」
「ザイバツのニーズヘグ。笑い飛ばすわけにもいかないようね」
「余興が一つ増えたぞ。貴様ら」
「こ奴がニンジャスレイヤーだ貴様ら!」
「おれはソウカイヤにはならない。取り引きだ」
「みすみす獅子の巣に迷い込んだネズミども」
「き、貴様ーッ!」
「ナラク……無駄だ……おれは……渡さない」
「タトゥーイストの力が要る」
「しかしまあ、細密な事よ。この通りやれと?」「然り」
「頼みましたぞ、センセイ」
「ドラゴンのようだ」「強く流れる」




1

「アー、アー、ンンッ」マイクを受け取り、咳払いをする。エドゥアルト・ナランホ。投資家。就労経験無し。大学は13歳で卒業。以来、安い時に買い、高くなれば売る、を繰り返している。とてもイージーだ。喧嘩には多少自信が無かったが、ニンジャになって以来、それもイージーになった。

 カンファレンス会場は白いビーチが見渡せるガラス張りの建物で、夜は現地人の古典芸能が楽しめる。勿論、カジノで楽しんでもいい。しかし集まる者達の目的は勿論そうした観光ではなく、エドゥアルトの「神の審美眼」の恩恵に預かること。そして自由奔放にとびかうインサイダー情報だ。

「ああ……今回で何度目でしたかね? この集まりは?」エドゥアルトは参加者に尋ねた。30名ほど。プラチナチケットだ。「六回かな?」誰かが呟いた。「ンン。六回。六は好きな数字だ」エドゥアルトが言った。誰かが急いでメモを取っている。エドゥアルトは苦笑する。

 彼らの中に、エドゥアルトがニンジャである事を知る者はない。ニンジャとなった時、デシケイターという名を得た。しかし既にそのとき彼には築き上げた地位があったし、無理に名乗りを変える必要など無かった。とはいえ、ニンジャになって良かった事もそれなりにある。たとえば、度を越してシツレイな人間に「わからせてやる」事も、ニンジャならば簡単だ。

 企業が武装し、互いに殺し合う今の世は、デシケイターの性に合っている。マネー・パワーを暴力の形で具現化する事が、とても簡単になった。デシケイターは暴力が好きだし、暴力をふるうのが好きだ。暴力はカネを作る。「毎回とくにトピックを用意してきているわけでもないが……」彼はトリイを見た。

「アラスカのエメツ、実際どうですか?」誰かが尋ねた(いちいち顔など覚えていない)。「ちょっと躊躇してしまいますが……」「躊躇? 躊躇とは?」デシケイターは不思議そうに首を傾げた。「何を?」「やはり、ああもロシアンヤクザとの関係が公になってしまうと……」「ああ。そういう事か」彼は荒地のトリイを眺める。

「荒れたほうが触りやすいし、私は好きです。むしろ楽しめる。それに……」白い砂浜、美しい青い海。荒地に黒いトリイが連なる。連なるトリイの奥から、歩いて来る者がある。「ンン……」デシケイターは瞬きした。「室内だよな?」「え?」参加者が顔を見合わせた。デシケイターは尋ねた。「ここ、室内だよな?」

 荒廃した地平には超自然の嵐が渦巻き、黒いトリイはカンファレンスルームの中央まで続いている。ビーチ。荒地。トリイ。デシケイターは苦笑した。今日はノードラッグだ。彼はトリイをくぐって進み出た者を見た。「うん?」その者の顔は黒い闇で、判然としない。一歩一歩踏みしめるような歩み。

「え?」「アイエッ?」「アイエエエ?」一人、また一人と、驚愕・恐怖の声をあげはじめた事で、デシケイターはようやくそれが幻覚ではないと理解した。もしくは集団ヒステリーだ。顔の見えぬ男が最後のトリイをくぐり、床に踏み出した。一歩。「アバーッ!」一歩。「アバーッ!」一歩。「アバーッ!」

 キュン。キュン。キュキュン。その者が一歩歩くたび、奇妙な澄んだ音が鳴り、会場の人間をめがけ、一枚ずつスリケンが飛んだ。「アバーッ!」「アバーッ!」「アババーッ!?」スリケンは過たずその一人一人を殺してゆく。デシケイターは何故か平静だった。彼は思った。非ニンジャだし、当然だな。

「……」その者は立ち止まり、なにか思案した。「アイエエエ……」「ア、アイエエエ」「はははは」「アハハ……」「スゴイ、スゴーイよォ……」まだ数名の生き残りがおり、半数は発狂していた。キュキュキュン。飽きたのか、全員を殺す枚数のスリケンが一度に飛んだ。「「「「アバーッ!」」」」

 カンファレンスルーム……荒地……?……カンファレンスルーム……?……の只中に、デシケイター唯一人が生存を許され、その者と向かい合っていた。当然である。彼はニンジャで、他のクズどもは非ニンジャだ。「ド……ドーモ……デシケイター……です」「BWAHAHAHAHA!」その者は笑った。

 デシケイターは自ら認める俗物であり、詩や絵画、仰々しい表現、何もかもをくだらないと考えている。投機できるか否かでしか見ていない。ゆえに彼は、荒廃した地平と連なる黒いトリイが地上の楽園と重なり合う光景、死の散乱、眼前の正体不明の存在を前に、ただ困惑し、持て余した。

「サツガイ」サツガイは言葉を発した。デシケイターは……。


【ウィア・スラッツ、チープ・プロダクツ、イン・サム・ニンジャズ・ノートブック】


「AAAARGH!」デシケイターは覚醒し、回転着地した。粉塵が立ち込めるスイートルーム、彼はゴキゴキと首を鳴らして横切り、壁の大穴を見て肩をすくめた。「何だ、これは」彼は自身の寝相の悪さに呆れた。地上14階、時刻はAM3。

 風が吹き込む。ムンバイの甘ったるい空気は、この高さにあっても同じだ。彼は見下ろした。掘っ建て小屋が何重にも縦に重なった街並み。道路に列を為すネオン・バス。縦横に巡る排水路に水は無く、代わりにゴミが埋め尽くしている。ゴミは上流にゆくほどにより集められて地上へ侵食し、丘を、山を作っている。

 街区に溢れるネオンの光と対照的に、不吉な赤い火を方々に灯すゴミの山。まるで眠りながら侵食する不定形の怪物で、成長を止める手立てはない。街区に散在する擬古典的な丸屋根の塔は数メートル上にホロ広告を投影し、巨大な怪物に対し、絶望的な戦いを挑んでいるようでもある。

 この甘い匂いは、ゴミの臭気を覆い隠す為に昼夜焚かれるインセンスに由来している。ある種の有害化学成分が含まれており、精神に好ましからぬ影響を及ぼす。デシケイターはニンジャゆえに何の問題もないが、あまり気持ちのよいものではなかった。畏怖の記憶を夢に見たのも、これのせいか。

 あるいは……「フフフ」デシケイターは乾いた笑いを笑った。エゾテリスムの死と、それに伴うエメツ事業の停滞に、自覚以上のイラつきがあるか。サンズ・オブ・ケオスを通じて知り合ったエゾテリスム。その思考には何の共感も持たなかったが、あれが用いた奇妙なジツには投資の価値が十二分にあった。

 彼は目を細めた。ここからでもムンバイの破壊の爪痕は視認できる。既にその地域の住民の排除は済ませた。傭兵部隊が封鎖を終え、軍事力をもって監視にあたっている。エゾテリスムの最後の破壊はそれまでの比ではない最大規模だった。産出させたエメツも最大だ。だがその夢は永遠に潰えた。

「まあいい。短期的には十分すぎるほどの量が得られた」彼は顎を掻いた。崩壊地域を確保した彼は、速やかにシンケンタメダ・カンザイ・メディケア社のヘッドオフィスを築いた。シンケンタメダは彼が敵対的買収で手に入れた製薬企業であり、ニューログラの製法はこの企業の門外不出の財産である。

 ニューログラ。端的にいえば、この薬はIRC中毒による急性重度自我希薄化症の特効薬だ。ネットワーク接続の慢性化によって自我を摩耗、UNIXを抱いたまま昏睡し、目覚めず、最悪の場合は死に至る……。誰もが恐れる病である。ゆえに今日日、この特効薬の名を知らぬ者はない。

 シンケンタメダ社は……デシケイターに言わせれば……呑気な企業であり、ノーガードと言ってよかった。脆弱性を発見し、その日のうちに買収を成功させた。彼はそのとき無上のエクスタシーに悶えた。翌日、ニューログラの価格を228倍に値上げした。「常識的な薬価」に設定し直してやったのだ。

「常識的な薬価」。然り。ニューログラの生成にはエメツ資源が必要だ。エメツは地球上にどれだけあるか定かでない神秘的物質であり、呑気な値付けでやっていては万人の損失だ。カネモチにカネを回し、経済を動かす。貧困IRC中毒者を救ってやる合理的な理由はどこにもない。救ったところで、遅かれ早かれまた繰り返す。彼はそう思った。

 インドは良質なオーガニック・トロマグロの生息地であり、ツキジと同規模の旧世紀冷凍マグロ施設「ツキジゴア」が存在している。エメツとトロマグロとニューログラ、この3点があわさり、ムンバイを中心とした「ニューログラ生産トライアングル」が完成したのである。

 残念ながら、エゾテリスムが死去した以上、このトライアングルもどれだけ保つかわからない。しかしそれはそれで次のモチベーションに繋がる。イノベーションの辞書に足踏みという文字はない。薬価をさらに二倍にして売り尽くし、その資本を元手に新たな産業に投資する。素晴らしい経済の旅だ。

「うむ」デシケイターは微笑んだ。ガツガツといこう。魔術ギルドの内紛に足元を掬われ、みすみす命を落とすようなニンジャは、所詮そこまでの奴だったという事。内紛に足元を……内紛。「……」彼はやや引っ掛かりを覚えた。何かが彼のニンジャ第六感に警鐘を鳴らさせている。


◆◆◆


「ッてわけでな」タキはカウンターに顎を乗せ、調査結果のパンチシートをダルそうに手繰った。「ムンバイのなんとかいうカイシャの視察に向かってる奴が、デシケイターとかいう野郎だ」「タキ=サン、いつにも増してダメ野郎的です」コトブキが言った。「IRCのやり過ぎです。運動しないと」

「運動? ケッ」タキが毒づいた。「ヤル気が出ねえだけだ。誰が楽しそうにやるンだよ。無給でよ」「でもそれはギブ・アンド・テイクの一環だと思います。約束をしたわけですから」「奴にゃ十分恩は返……あン? とっととプラハに帰れ、そこのオッサンよォ」セルフピザを焼くコルヴェットを見咎める。

「無論。時が来ればな」コルヴェットは答えた。「で? お前さんら、ムンバイへはどうやって行くのかね。企業ポータルを無断使用するのか?」「そう」「ポータルまでは送り届けよう」彼はコトブキに頷いてみせた。タキは唸った。「今回もロクな事になりゃしねえに決まってる。絶対だ」


2

「まだ開いていますか?」「あ……」マスラダが振り返ると、痩せた中年男性が人の好い笑顔を浮かべ、手を合わせた。「本当にスミマセン。ちょっと色々ありましてね」「ア……その」ギャラリーは広くない。マスラダはスタッフに目配せし、乞うた。スタッフの中年女性は微笑み、頷いた。

 マスラダは唾を飲んだ。「どうぞ」かすれ声で促す。「うん」男は肩の雨粒を払い、ギャラリーに入る。「人は来た?」セバタキ・ケンロは奥へ進みながら、親しい知人に向かって話すように尋ねた。だが、会うのはこれで二度目で、一度目も二言三言かわしただけだ。「そこそこです」マスラダは答えたが、セバタキはどうでもよさそうだった。

「うん。うん」ガラスケースに納められたアブストラクトなオリガミ作品を流し見るセバタキを、マスラダはやや離れたところで、邪魔をせぬよう見守る。緊張しないわけがない。セバタキ・ケンロはネオサイタマのサイバネ眼科医で、特許収入によって巨万の富を築いた成功者であり、美術愛好家であった。

 彼の得意分野は江戸時代のウキヨエと、時代を大きく隔てて、電子戦争以後の現代美術全般だ。特に新進の、名もないアーティストの作品に興味を示した。それらの中には今では大きく成功した者達の作品も多く含まれているが、もとは彼が……彼自身曰く……「単に新しいものが好き」で集めた作品である。

 彼は投機的な目的ではなく、ただ好きなものを集め、アーティストを支援した。彼は購入した品々を暗所に閉じ込め独占する事もせず、依頼があれば世界各地のギャラリーにこころよく所蔵品を貸し出した。そうして「セバタキ・コレクション展」は名声を築き、若いアーティスト達の憧れともなった。

 一方で彼は一種独特な人物としても知られた。彼はマスラダと殆ど一瞬しか視線を合わせなかったし、知人に対するようなくだけた態度でありながら、会話の一瞬後にはその相手を石ころか何かのように興味を失うようだった。「……これは、いいな」セバタキが足を止めたのは黒い火の欠片のオリガミだ。

 新作だった。マスラダ自身も、その作品の為に大きくスペースをとった。エメツで染めたワ・シを用いている。エメツは光のほとんどを吸収し、目の錯覚じみた黒さを作る。それが面白いと思ったのだ。「それは……」「強い。うん」セバタキはマスラダの言葉を遮った。「質量を感じる。とても強い」

 彼はそれから残りのオリガミをざっと見て回った。しかしすぐに黒い火のオリガミに戻ってきた。「何だろうな」セバタキは咀嚼するようにオリガミをじっと見る。「これは……とにかく、前に君の作品から感じた印象は錯覚ではなかった。無駄足にならず良かった」「……」「僕のグループ展に出さないか」

「つまり、」「展示だよ。君の作品があるといい」マスラダは首筋に鳥肌が立つのを感じた。極力、平静を保とうとした。両足を踏みしめると、床のタイルの冷たい感触が伝わってくる。「スミマセンね。時間」セバタキはマスラダの肩越しにスタッフに言った。感慨と畏怖とで、その会話は聞こえなかった。

 美しい瞬間の記憶だった。それでもナラク・ニンジャがマスラダに反芻させるのは、この美しく凍りついた記憶ではなく、あの日の記憶だ。黒炎の炉にくべるには、必要のない記憶だからだ。ウキハシ・ポータルの飛翔が、錯覚めいて思いがけず見せた記憶を、やはりマスラダはつかみ損ねてしまう。


◆◆◆


 アンキタにとって、このムンバイ・オフィスは三年ぶりの故郷である。だが彼女の心に感慨は少しもない。呪いのように足を掴まれ、引きずり戻された気分だ。しかも、デオナー処分場からこんなに近く。甘い空気を呼吸するたびに暗澹たる気持ちが蘇り、化学成分でややぼやかされ、沈み、また甦る。

 海を越えてネオサイタマに活路を求めたアンキタは、見事、シンケンタメダ社の狭き門を通り、職を得た。それがどうだ。今彼女が目にするのは黒々とした廃棄物の山。記憶していたよりも更に大きい。「アー……アーアー!」アンキタは苛立ちの唸りをあげて煙草を踏み消し、オフィスの中に戻った。

 急ごしらえの社屋はペンキのにおいがまだ強い。それでも外の甘ったるさよりはマシだ。廊下には「健康が素晴らしく、我々の歩いてゆく方向です」と奥ゆかしいスローガンが書かれたポスターが貼られている。手のひらに溜まった美しい滴から青葉が発芽する瞬間のコンピュータ・グラフィックだ。 

 こんなポスターすらも逐一苛立たしい。このグラフィックが作成された時はまだ一面の真実がそこにあった。ニューログラの薬価が228倍となった今は少しも無い。カイシャを買収した目つきの悪いどこかのカネモチは、疑問を呈する社員に言ったものだ。「逆に訊くけど、二束三文で売るメリットは?」

「メリット? それはもちろん、急性重度自我希薄化症は現代ある意味避けがたい病ですから、社会は……」「社会の話はしていない。俺の利益の話だ」エドゥアルトとかいう男は胸を押さえて自信たっぷりに言った。「わかっていないのか? 利益を出すのがカイシャの存在理由だ。値上げしない理由は?」

「でも、あの薬価設定で充分に利益が出ていましたし、言い方は悪いですがあの病気は現代に生きる以上付き合わねばならない病ですから需要も減る事は無く、今後も成長……」「でも、とか、だって、はヤメロ」エドゥアルトは遮った。「そういうバカなインテリの理屈に付き合う気はない」

「なんだって!?」憤慨する社員に、エドゥアルトは氷のような視線を向けるのだった。「俺は相当優しい。お前に"わからせてやる"事もできるが、普段のポリシーに反しているから、しない。わからんだろうがな」そして続けた。「228倍に値上げしても連中は買わざるを得ない。これが市場原理だ」

「そんな事ではこの会社のビジネスが続かない……」別の社員が言った。エドゥアルトは演技的に驚いてみせた。「続かない? どうでも良い話だ。俺が必要十分な株を保持し、俺の思う利益を上げさせ、俺が資産を増やす。続く続かないの話か? お前らの事など知らんよ。これがルールで、俺が勝者だ」

 葬儀場めいて静まり返った説明会場を、奴は自信満々に退出したものだ。当然、それ以来シンケンタメダ社の社内アトモスフィアは最悪になった。ぴりついた空気が支配し、会話は減り、互いに腹の内を探り合うようになった。みな目つきが悪くなり、タバコを吸う量は増えた。

 かつてこのカイシャは定例のオンセン・スキヤキ・パーティーを楽しみとする家族的企業であり、気弱で誠実な社長は社員皆に慕われていた。しかし……アンキタは顔をしかめた。あんなクソ野郎にうっかりカイシャを乗っ取られるような奴は、最悪の中の最悪じゃないか。彼女は職場のドアを押し開けた。

「……」「……」キータイプをしていた者達が目を上げてアンキタを見る。アンキタが睨み返すと、彼らは目を伏せた。現地採用の期間従業員が四分の三、アンキタのように転勤させられてきた社員が四分の一だ。殺風景なオフィスに会話は無い。彼女はパーティションで仕切られたデスクに戻った。

 このムンバイ支社の役目は、市内に突如湧き出したエメツ資源と、近海のトロマグロ資源の管理だ。ニューログラの精製にはエメツとトロ粉末が必要である。精製プラントも半月後には本格稼働が始まる。アンキタはZBRガムを噛み、髪をアップにまとめ、深呼吸して高速タイピングを開始した。

 ジリリリリリ……IRC通話機が鳴り出したが、取る者は無い。みな心の余裕を失っており、他人に面倒事を押し付けたいのだ。妙な空気が出来てしまっている。アンキタは椅子から腰を浮かせ、一声発しようとした。「はいモシモシ!」オフィスを横切ったオーエルが受話器を取り、アイサツした。

「こちらシンケンタメダ社ムンバイ支社ですよ! ごきげんいかがですか?」明るいオレンジの髪をしたそのオーエルは、確か数日前に採用した現地契約社員である。名前は確かコトブキと言ったか。「いや、なんでアンタが電話出てるの!?」アンキタは慌てた。「権限無いでしょ!」

「……無いかもしれません」コトブキは受話器から耳を離し、深刻な顔をした。「どうしましょう……」「タゴキ=サン! ちょっと!」アンキタはUNIXモニタに集中するそぶりでやり過ごしていた社員を指さした。彼はおずおずと受話器を受け取った。「ありがとうございます」コトブキは頭を下げた。

 ガガピー! そのとき、壁際のプリンターが明らかに異常な音を発して激しく震動し、パンチシートを吐き出し始めた。「えっウソ! まずい」データ出力をUNIXから行っていた社員が声をあげた。「また故障かよ! 畜生!」「大変です!」コトブキはプリンターにかけより、素早くLAN直結した。

 フウーン……。やがてプリンターが溜息めいた音を鳴らして静まり、パンチシートの無限放出が止まった。コトブキはケーブルを引き抜き、振り返った。「解決です。もう一度操作してみてください」「お……おお」焦っていた社員が目を丸くした。「君、すごいな……特技? 資格ですか?」「そうです」

 LAN増設者は珍しくないが、妙なアトモスフィアだ。採用時にあんな様子の人間は居ただろうか?「ンン……とにかくIRC通話は、アンタ取らなくていいから」アンキタはやや釈然としないながら言いおき、席に座り直した。「わかりました!」コトブキは手を振り、ゴミ箱に足を引っ掛けて倒した。


3

「オハヨ!」「ドーモ」「オハヨゴザイマス!」「ドーモ」「オハヨゴザイマス!」「ドーモ」翌朝、コトブキは仏頂面でオフィスへ入ってくる社員たちに笑顔で応対し、オジギを繰り返した。アンキタはその様子にやや面食らった。オレンジ色の花々……サマーキャンドルやコスモスの花瓶も気になった。

「みなさん、今日のおやつはネオサイタマのオカキ・スナックですよ!」さらにコトブキは、小脇に抱えた業務用袋から小分けのパックに収まったオカキ・センベイを仏頂面の社員たちに手渡していった。「お仕事を頑張りましょう!」「ちょっとアナタね……」アンキタはコトブキの手を引いて廊下に出た。

「そういう事はしなくていい。アナタの仕事は?」「データ入力と雑用です」コトブキは答えた。「アイサツに、付け届けの類いはよく効くと思ったんです。悪のダイカンがそうやります。でも賄賂はよくないので、常識の範囲で……」「ダイカン?」「ニンジャ・サムライです」「わかったわ」

 アンキタはデスクに戻ろうとし、花瓶を見てコトブキに再度尋ねた。「花もアナタ?」「そうです。この場所にはオーガニックの暖かみが無いので、人々の精神のバランスが崩れます。人はもっと自然を大事にしないといけません……少しの工夫で業務の効率が劇的に!」「どこで買った?」「朝の市場です」

「こんなゴミの山の麓に? よく探してきたわね」「容易に見つかります。行商の方は郊外から来てくださっているんです」そういうものか。市場など歩いた事もない。アンキタはマンションと職場の間を、甘い匂いに顔をしかめて行き来する毎日だ。「悪い事をしましたか? 懲罰的?」「いえ……まあいいわ」

「良かったです。クビになると就業努力が無になってしまうから……」「そりゃそうよね。でも、付け届けは止めなさい」「わかりました! やる事があまり無くて」「私のほうで見つける」二人のやり取りを見ながら、同じネオサイタマからの出張組であるウォンキ=サンがオカキを咀嚼する。「懐かしい」

「そうね。オカキ、最後に食べたのは……」アンキタは腕を組んだ。ウォンキは首を振った。「いや、違います。それもあるけど、昔は職場で皆でおやつを持ち寄ったり、おいしいベントーの情報交換をしたりしたなァと」「良くも悪くもそういうカイシャだったわね」「明日は僕がおやつを持ってきますよ」

「好きにしたら」アンキタは息を吐き、デスクに戻った。そう、良くも悪くも呑気なカイシャだった。あの暗黒投資家はこのカイシャを、ドアを施錠せずフラフラと外出する家主を見送る空き巣泥棒のように見ていたことだろう。彼女はオカキをボリボリと齧りながらUNIXを操作する。

 その呑気の結果、それまで自我患者を助けるべく誇りをもって働いてきたアンキタ達は、一転、自我患者を搾取する為に働く羽目になったのだ。オカキのショーユ味が染みた。ジリリリ、IRC通信機の呼び出し音が鳴り、反射的にコトブキが走ろうとした。「取って!」アンキタが最寄りの社員を指さした。

 アンキタはオカキを食べ終えた。ともあれ、オカキの味とエドゥアルトの乗っ取りに合理的な関係は無い。それとこれとは話が別だ。楽しくやれていたのは、カイシャが強みを持っていたからだ。そのすべてを否定する必要も無い。いつの間にか彼女自身が妙な詭弁に絡め取られていたのかもしれない。

 エドゥアルトは既にムンバイ入りしたという話だ。このオフィスと新規の精製プラントの視察の為に。あのムカつくツラを見るのは屈辱的な説明会以来となる。エドゥアルト。エドゥアルト。「あの野郎!」毒づきが声にまで出た。彼女は遅れて気づき、モニタに呪詛めいて打ち込まれた名前に呆れた。


◆◆◆


「サスター! サスター! ヴァスタヴミン! サスター! サスター!」「美味しいお米を食べて、毎日です」「アカチャン……バダ」「スシが……効くよ!」広告音声が乱れ飛び、黄色と黒のツートーンの小型バスが列を為して走行する道路脇、砂埃の中を、アンキタら四人は連れ立って歩いていた。

 アンキタは思い立ち、手の空いた者同士でランチに出たのだ。思えばわざわざ食事の為にストリートへ出向くのも初めてではなかったか。味にも注意を払わなくなり、カレースシ・デリバリー業者に頼りきりだった。目抜き通りはやはり賑わう。水の代わりにゴミが詰まった排水路から離れ。

 コトブキは先頭に立ち、三人のネオサイタマ社員を引率するように歩く。彼女はウキハシ・ポータルを用いてこの地を訪れてから、まずは付近を歩き回り、興味の向いた場所に立ち寄り、ゴミの山を眺めたものだ。

 四人とも、黒いマスクをしている。有害な甘いスモッグの影響を受けぬようにだ。コトブキ自身は恐らく影響は受けないが、怪しまれぬように他の三人にあわせた。薄着の子供らは彼らの横をはしゃぎながら走り抜け、行き交うバスには市民が満載され、天井や車体側面にも人々がしがみつく。

 道路脇に座る者らは心砕けた者達で、特に、サイバーサングラスをかけた直結者が目立つ。直結浮浪者はボックス型UNIXを小脇にかかえ、首筋にLANケーブルを垂らしたまま、サイバーサングラスの表面に「哀れです」「水平」などの電子日本語文字をスクロールさせている。コトブキはアンキタを見やった。上司は目配せを返し、苦々しく頷いた。彼らは自我患者である。

 ニューログラを服用していた者達は、薬価が跳ね上がった事でサポートを受ける事が出来なくなった。まずは貧者がその影響を真っ先に受けるのだ。そしてその次は中流層。正規の薬品はあっという間に富裕層が買占め、更なる値上げを呼ぶ。供給量を増やすことはエドゥアルトが許さない。

 そしてこれは、全世界で同時に、急激に進行する事態なのだ。立ち寄ったネオサイタマ式のカツ・カレー・スタンドのテーブルを囲み、四人はやや複雑なランチを摂る。「僕らジゴク行きだろうね」ウォンキは溜息をついた。「片棒を担いでるんだから」「そうね」アンキタはにこりともせず呟いた。

「気になっているんです」コトブキが尋ねた。「急性重度自我希薄化症というのは、初期症状がありますか?」「どうしたの?」アンキタがコトブキを見た。コトブキは考え込んだ。「やる気がなくなったり……」「"急性"とはいうけど、突然意識がフラットラインする前の兆候はあるわね」

「やっぱりおかしい気がしたんです」コトブキは言った。「もともとダメ野郎だったんですが、最近のアトモスフィアに、質的な違いというか……」「何の話?」「雇い主……ア……違いました……知人です。薬価が値上げされた頃と時系列の関係がある気がするんです。きっと、そうです……!」

「ニューログラ服用者?」「今思うと、きっとそうです。薬が飲めていないのではないでしょうか」「それは何とも」ウォンキの同僚、シモバ=サンが肩をすくめた。「社割がきけばよかったんだけどね」哀しいジョークを呟き、苦笑した。「皆さんも嫌なのに、高く売るんですか?」「カイシャはそういうものなのよ」アンキタは目を伏せた。

「でも、やっぱり度が過ぎていますよね?」コトブキは唸った。「考えれば考えるほど、納得できないです!」「シーッ!」アンキタは指を立てた。「乗っ取り野郎はもうムンバイ入りしてるのよ。全員のクビを気分で飛ばせる(fire)やつなんだから」「カトン・ファイア!」コトブキは息を呑んだ。

「何?」「なんだって?」「カトン……?」「こっちの話でした」コトブキはヨーグルト・ドリンクを飲んだ。「とにかく、私、良くないと思うんです。誰も納得してない……」「重々承知よ、それは」「なら、やっつけましょう!」「シーッ!」やがて四人は店を出た。コトブキは忘れ物を取りに戻った。

 彼女は店に入り直し、トイレに行き、わざわざその窓をくぐって外に這い出し、裏通りに着地して、隣の区画まで歩いた。キャスケット帽を目深にかぶった男がPVCテーブルと日傘の粗末なオープンカフェに席を取り、タンドリー・スシを食べていた。男は帽子のつばをずらしてコトブキを見た。

「状況は……」「元気ですよ」彼女は周囲を見渡し、ハンドバッグから出したフロッピーディスクを男に素早く手渡した。「頑張って働いています。皆いい人です。だから」コトブキは複雑な表情をした。「ううん、だからこそです、きっと」「……そうだな」男は……ニンジャスレイヤーは厳かに頷いた。


4

「こちらのオフィスで管理業務を行っています」エリア・マネージャーは額の汗をテヌギーで拭いながら愛想笑いをして先導する。デシケイターは「ん」と生返事をして、後ろで手を組み、パーティションで区切られたオフィスを多少歩いた。彼の傍らには鉄めいて無表情な秘書の女性が随行している。

「この通り、各自、かわらず高いモチベーションをもって業務を……」「ん?」デシケイターは聞き咎めた。「何と"かわらず"だ?俺のCEO就任以前とかわらず……という事かね?」「アイエッ」マネージャーは笑顔を引きつらせた。ダラダラと流れる汗はもはやムンバイの気候のせいではない。

「勿論そうではなく、昼夜かわらず……あるいは、ネオサイタマ・オフィスの頃とかわらず……常に高いモチベーションを保ちですね……」「まあ、勤務の細かい評価はそっちで勝手にやればいい」デシケイターは花瓶に活けられたオレンジの花を手に取った。たちまちその花は彼の手の中でしおれ、朽ちた。

「この花は? 誰かが飾ったのか」「アイエッ! すぐ片付けさせ……」「私です!」ガゴン! ガゴン! 唸りをあげるプリンターと格闘しながら、オレンジの髪のオーエルが挙手した。「私です!」「フン、そうか」デシケイターはもう一輪手に取った。やはり枯れた。「体質でね。ま、環境作りは好きにやれ」

「そろそろお時間です」秘書が冷たく言った。デシケイターは鼻を鳴らした。「ああ。少しスケジュールを詰め込み過ぎたか?」「もう行かれるので? オチャとヨーカンの用意がありましたが……」「いい。ただ立ち寄っただけだ。面倒だがな」デシケイターは見渡した。幾つかの敵意ある視線が逸れた。

 デシケイターは鼻を鳴らす。ムカついているにも関わらず、どうにもできず従わねばならない時の非ニンジャの表情が、彼の三番目に好きなものである(第一が上向きのグラフ、第二がカイシャ買収の瞬間だ)。強気そうな人間であればある程いい。エリアマネージャーは貧弱な男であり、どうでもよかった。

 既にこのオフィスで確かめるべきものは確かめ終えている。彼は建物を離れ、家紋リムジンに乗り込んだ。マネージャーはずっとオジギ姿勢のままだった。デシケイターは嫌悪感を覚えた。(卑屈な豚め)もっとも、そうさせているのは彼自身の威圧的な接し方である事はわかっている。そのうえでだ。

「俺はああいう手合いが嫌いでな」車内でデシケイターは秘書に言った。「シンケンタメダ社を侵しているヌルさの象徴だよ」「左様ですね。……問題なくオン・タイムです」秘書が携帯端末を操作し、時刻を確認した。「この地の道路事情にもよりますが……」「甘ったるい空気だ。本当に」「そうですね」

 デシケイターは社内冷蔵庫に用意された「岡山県の磨かれた水」を飲みながら、左目を閉じて、右目の網膜に映し出されるリアルタイムの株価チャートに集中した。スケジュールを伝える秘書の声が遠くに聞こえる。それを並列処理しながら、左手では手首から投射されるホロ・キーボードをタイプしている。

「ルートが違うのでは?」秘書が運転手に尋ねた。「そんな事ありません」運転手は抑揚の薄い声で答えた。秘書は訝しんだ。「先程と違う方ですね」「え? そんな事はありません」「社長。ショック防御を」秘書は呟き、左手の指を揃えて運転者のこめかみに向けた。「うん」デシケイターは株取引を止めずに生返事した。

 BLAM! 次の瞬間、運転手の顔が爆ぜた。「アバーッ!」フロントガラスが赤く染まった。キュルルルル! 家紋リムジンはスピンし、ストリートの人々を撥ね飛ばしながら数メートル滑り、錆び朽ちた廃車に衝突して止まった。KRAASH! ドアを蹴り開け、デシケイターと秘書は車外に転がり出た。

「面倒でならんな」デシケイターは株取引を続けながら言った。「クルマは無事か?」「支障ありません」秘書はリモート・コントローラーを操作した。家紋リムジンはウインドウを装甲版で覆った。「ならいい」キャバアーン! 取引音が鳴った。その時既に、彼らは敵意ある市民に包囲されていた! 

 彼らは口をスカーフ布で覆い、手には鈍器や短銃を持っていた。中には日本語で「薬の値段を下げないと何するか」と書かれたノボリ旗を背負っている者もいる。その目的は明白だった。「こいつが例のCEOだ……」「お前、許さんぞ!」「兄さんを返せ!」「オオッ、まさにこのタイミングだ!」デシケイターは歓喜の声をあげ、株をショートした。

「現地市民に偽装したアンタイ・コーポレーション勢力ですね」秘書が言った。「プロの企業傭兵です」「個人的な恨み言も聞こえたな」「個人的な恨みをもつプロの企業傭兵でしょう」「とっとと殺せ……よしッ!」キャバアーン! 秘書は両手を無造作に前へ突き出した。BLAMBLAM!「アバーッ!」

 秘書は構えた両手の指先から大口径の銃弾を射出し、容赦なく殺した。BLAM! BLAM!「アバーッ!」「グワーッ!」「何だコイツは!」「人間じゃないのか?」「サイバネ?」BLAM! BLAM! BLAM!「アババーッ!」「アバーッ!」「怯むな!」企業傭兵はアサルトライフルを構えた。

 BRATATATATATA……BRATATATATA……「注意を。社長」「ちょっと話しかけるな……よし、いいぞ!」キャバアーン! 秘書はクロス腕でデシケイターの前に立ちふさがった。カンカンカンカン……銃撃を受けてスーツの袖が裂け、皮膚が裂け、灰色の無機質が露出した。

「……」KABOOOM! 折り曲げた膝から小型ミサイルが射出され、マシンガン傭兵に直撃した。「アバーッ!」ナムアミダブツ!一般市民は悲鳴を上げて走り回り、傭兵達も潰走を始めた。「増援が来る! もう少しだ!」「薬価是正!」屋台の陰に隠れながら、襲撃者達は叫び合った。

「増援だそうです」「チンタラやっているからだ」デシケイターはいつの間にか取引を終えていた。「いい頃合いだ。どうせニンジャだろう。俺には見えている」彼はスーツの埃を払った。

 その二秒後、回転ジャンプでエントリーしたのはケブラー装束のニンジャである。「足止めご苦労。後は私に任せるがよい」現れたニンジャは、襲撃者たちを安心させるように言った。

「センセイ! お願いします!」「こいつのせいで故郷はメチャクチャだ……」襲撃者がニンジャに声援した。秘書の見立て通り、傭兵と恨みを持つ市民が半々の割合といったところか。ニンジャはデシケイターにアイサツを繰り出した。「ドーモ。ホンブロワーです」「フン。どこのニンジャだ?」 

「俺が誰であろうと同じだ」ホンブロワーは笑った。「企業倫理に欠けた人間は遅かれ早かれこうなるさだめよ。メガコーポによる誅殺……神の見えざる手だ」「あ、そう」デシケイターは頷いた。ジャケットを脱ぎ、秘書の腕にかけた。そしてアイサツを返した。「ドーモ。デシケイターです」

 いつの間にか彼はニンジャ装束を纏い、メンポを装着していた。ホンブロワーが唸った。「その落ち着き。貴様自身がニンジャか」「普段はススキが掃除をするんだが」デシケイターは秘書のウキヨを示し、「軽く運動したい時や、直接わからせてやりたい時は俺がやる」「今はどちらだ」「両方だな」

「笑止!」ホンブロワーが両手を前に突き出す! ススキは防御姿勢を取った。BOOOM! 指向性破裂音が彼らを襲った!「アバーッ!」後方の市民が巻き添えを食って目や耳から出血、身体を曲げて吹き飛んだ。ススキも弾き飛ばされて後転し、難儀そうに身を起こした。デシケイターは……いない!

「ハヤイ!」ホンブロワーは後方へ瞬時に回り込んだデシケイターをニンジャ動体視力で追っていた。振り向きながら身構えたが、デシケイターは攻撃せず、両手をだらりと垂らしたままだった。彼は両手の指を小刻みに動かした。「そら……行くぞ……行くぞ」「……!」ホンブロワーはジツを警戒した。

「ザンネン」デシケイターは笑った。ホンブロワーは間合いを取ろうとした。だが、動けぬ。遅れて彼は気づいた。彼は膝下に蛭めいてまとわりつくメタリックな無数の物体に怖気をあげた。動けない。足元の地面に、まるい穴が幾つも開いていた。そこから……ナムサン……更に金属の虫が這い出して来る!

「こいつはニンジャソウルを追って、喰らいつく。しつこいぞ」デシケイターは言った。ホンブロワーは膝から崩れた。足の感覚が無い。「ウヌーッ!」膝立ちで彼はなお戦おうとした。スリケンを投擲しようとする。デシケイターは手をかざした。右手首から弾丸めいて金属虫が飛翔し、襲い掛かった。

「グワーッ!?」スリケンを構えたホンブロワーの手が力を失い、意に反して下ろされた。虫にまとわりつかれた部位の装束が枯死して風に散り、陰惨なジツの被害が明らかになった。彼の両脚、そして利き手。一瞬にしてミイラめいて乾ききり、干からびていた……!「アバーッ!」ナムアミダブツ!

 崩れ落ちた彼を、虫が覆う!「サ……ヨ、ナ」ホンブロワーの声は風に散った。逃げ去る襲撃者、傭兵達や、枯れ果てた堆積物と化したニンジャに構わず、デシケイターは家紋リムジンに向かう。「お前が運転するしかないぞ」「はい」秘書ススキにジャケットを着せられた時、既に彼は元通り社長の姿だ。

「もう少しこう……カラテする機会が欲しいんだがな」「そうでしょうね」秘書は運転席の死体を引きずり出し、身元のわかりそうな品を漁ったのち、無雑作に放り捨てた。「しかし、本当にこの場所は! ゴミ、人、空気だ。甘ったるくてかなわん。お前、嗅覚はあるのか」「非アクティブです」「まあいい。急げ」家紋リムジンはエンジンを唸らせ、震動したのち、走り出した。陰惨な戦闘の痕がその場に残った。

 そして……そこから数ブロック離れた建物の屋根の上、腹這いになっていたニンジャスレイヤーは身を起こした。デシケイター。事前に得ている断片情報をなお上回る、致命的なジツの持ち主だ。

 大多数が必要とする薬の価格を何の躊躇いもなく228倍にしてはばからぬ男。当然ながら敵は多い。ゆえに明確に襲撃を受けた記録も幾つか残されている。しかし……デシケイターは無敵。あのジツを前に、ただ近寄る事すらも困難だ。対策を立てねばならぬ。彼はタキにIRC意識を向けた。反応無し。

 ニンジャスレイヤーは唸り、首を振った。「kkkk」微かな音。彼は脇腹のあたりに這ってきたものを掴んだ。デシケイターの金属虫! はぐれた一匹が、ここまで離れたニンジャ存在に惹かれて来たという事か! さいわい、そこに飼い主の意志は感じられぬ。彼は指の力でそれを圧し潰し、殺した。


5

 何も知らぬ市民から見れば、その二人はハードな業務を終えてようやくチープな食事にありつこうとする労働者に見えただろうか? 否、帽子を目深に被る男の方は、どこか浮世離れしたアトモスフィアを持っていたし、対面のオレンジ髪のオーエルとの組み合わせがその言葉にしづらい奇妙さを倍加していた。

「お歓迎」のオムラ・ゴチックが点滅する砂色の店内、ニンジャスレイヤーとコトブキはスシ・コンベアに乗って運ばれてくるカレー・スシの皿を無作為に取り、流れるゼン・ラーガBGMに紛れて注意深い会話を交わすのだった。「奴のジツは直接見た。解析は……」「タキ=サンは?」「反応待ちだ」

「反応待ち……やはり」コトブキは神妙な顔でヨーグルト飲料を飲んだ。「急性自我希薄化症状の進行が予想外です」「急性自我希薄化症状? 奴が?」「ここのところの様子はおかしかったのです。薬価が228倍になった事で彼はおそらく服薬が滞っており、応答にすら支障が出ているものと」

「……」ニンジャスレイヤーは沈思黙考した。コトブキは励ますように言った。「大丈夫です。昏睡したらお客さんが気づく筈ですし、たぶん死にはしないです。協力して頑張りましょう! 頑張ってデシケイターを倒すんです。とても悪いですよ!」「タキはともかく、お前は何故ついて来る」彼は尋ねた。

 他者への関心が希薄な彼ですら、確かめずにはいられぬ疑問だった。「タキはおれに借りがある。お前は無いぞ」「……難しい質問ですね」コトブキは眉根を寄せた。「幾つもの旅の中で、わたし自身の答えは徐々にはっきりしてきました。ですが、そうやって形成されたわたしのロジックを、貴方が理解して納得できるか、自信が無いのです」

「サツガイを探し、ニンジャを殺す。そこにロジックもクソもない」「わかります。貴方の、とても……すごい敵なのでしょう。復讐の戦いです……!」「復讐?」「言わずともわかります」コトブキは頷いた。「貴方はとても執着しています。ならば、復讐でしょう」「……」「今回の敵も非常に悪いです」

「殺す事に良いも悪いもあるものか」ニンジャスレイヤーは言った。「サツガイに連なるニンジャ達が何をしていようが、おれの標的だ。慈善事業をしていようが、どこかのボンズだろうが、おれは殺す」「そういうのはよくわかりません」コトブキはスシをつまんだ。「ひどい事にはならないと思います」

「たとえば、あれがサツガイのニンジャならば、おれは」ニンジャスレイヤーは窓際で楽しげにスシ盆を囲む家族を横目で見た。コトブキは首を横に振る。「たとえばの話じゃありません。あの家族はサツガイのニンジャではない、それが結論です。そうでしょう」「……」ニンジャスレイヤーは渋々頷いた。

「わたしはこれまでの経緯から、貴方に協力する事を決めていますので、そうします。納得ずくです。これはわたしがどうするかの話であって、貴方の意見や道徳の善悪と関係無いのです。この説明が難しいと考えています」コトブキは思い至り、「裏切りを警戒していますか? わたしには義心があります!」

「もういい」ニンジャスレイヤーは問いを切り上げた。「ならば、今回の計画を続けるだけだ」「そうですよ」コトブキは頷いた。「せっかく立てた計画です!」「暗殺のな」「……暗殺の計画です」コトブキは神妙に頷いた。

「奴のジツは……」ニンジャスレイヤーは言葉を切り、頭を押さえた。ニューロンに違和感。彼のローカルコトダマ空間に、タキからのIRC通信が繋がったしるしだった。彼の合図をうけてコトブキは自身の携帯端末を操作。IRCセッションに加わる。簡易的な会話空間に三つのアカウントが出現した。

「よォ、ニンジャスレイヤー=サン。元気か」低解像度のアカウントが不明瞭な声を発した。ニンジャスレイヤーは問うた。「なぜ応答が無かった?」「ああ、それはな……」「無理しないでください」と、コトブキ。「今は大丈夫ですか? 物理肉体が植物状態になっているという事はありませんか?」

「物理……植物……」「やはり、服薬できていないんですね」コトブキは呻いた。そしてニンジャスレイヤーに説明した。「いずれタキ=サンの自我はネットワークに拡散し、電子的な応答すらもできなくなってしまうんです。危険なんですよ!」「あ、ああそうだ」タキが追認した。「オレは……ヤバイ」

「もう少し頑張ってください……!」コトブキが気遣った。「社内潜入で内部調査を行っていますが、カイシャの人達も渋々従っている状況です。デシケイターを倒しさえすれば、ニューログラの薬価は是正されます、きっと……!」「ああ……頑張るぜ。オレはもうダメかもしれねえが……致命的だ」

「非致命! ダイジョブ!」コトブキがタキの手を電子的に掴んで励ました。「これがオーエル活動の最中に蒐集したデータですよ」彼女は簡易会話空間に電子A4オフィス紙を電子的に並べていった。「ムンバイオフィスは急ごしらえで、充分にサポートされておらず、セキュリティが弱いのです」

「見立て通りだ」タキが電子的に頷いた。「解析は出来たか?」ニンジャスレイヤーは尋ねた。彼はデシケイターの用いる恐るべきジツを自ら観察し、事前に幾つか残されている戦闘情報との擦り合わせを行い、タキの解析を待っていたのだ。「当然だ。オレはテンサイ・ハッカーだぞ。今にも死ぬが……」

 タキの低解像度画像に誇らしげなノイズが走った。「奴のあの金属虫、あれはアダナス社の製品だ……ニンジャスレイヤー=サンが送って来た残骸の画像でしっかり確認した……オレはテンサイだから間違いねえぞ」「アダナス社?」「うさんくせえテック企業さ。デシケイターは盛んに取引してる」

「個人的にか?」「ああそうだ、あんなモノ、公の運用データはどこにも無い。オレはチップ品番から辿った。ありゃ何かの試作品だ。提供を受けてンだ……奴ら、きっとツーカーだ。そこでだな、デシケイターのアカウントを乗っ取って、アダナス社にアクセスするのが段取りって事……」「本格的です」コトブキが感心した。

 ニンジャスレイヤーは推論をたてていた。デシケイターの金属虫は遠くニンジャスレイヤーすら嗅ぎつけて襲ってくるほどの探知能力を持つが、そこに意志の介在は感じられなかった。となれば、ニンジャソウルを探知する自動操作の類いだ。その点にデシケイターのジツの介在がおそらくある。

 デシケイターのアカウントを使ってアダナス社に繋ぎ、そのテクノロジーサポートを騙して金属虫を何らか無効化させる事ができれば、あとはカラテでどうとでもなる。それが想定される最善の流れだ。「だから、後はうまくやれ。そっちでガンガンやれば解決なンだ」「それが……」コトブキが口ごもる。

「どうした? 後はお前らがムンバイのセキュリティホールを衝き、ネオサイタマの本社にアクセス、アカウントを盗む。簡単だ」「そこなんですが、」「何渋ってやがる? 一大事……やらねえと世界のニューロ危機……」「そうなんです。何としてでも。タキ=サンも頑張らないといけないんです」「ん?」

「かろうじて得られた情報ですが」コトブキはA4紙を電子的に追加していく。「CEOの電子情報が管理されているのはシンケンタメダ社内の最高機密領域なのですね」「ん? そりゃそうだ、それで?」「ムンバイ支社からではアクセスできないようになっていて……UNIX自体が切り離されています」

「待て」「こちらのUNIXにわたしがLAN直結して可能になるのは、下位領域のセキュリティ操作。本社の監視カメラを停めたり、ゲートキーを無効化したり」「オレは……自我が……まずい……」「そうです! 急がないとタキ=サン自身が危ない! タキ=サンが潜入してソーシャルハックしないと!」

「バカな! オレは情報屋だぞ!」「でも、急がないとタキ=サンの自我が……命が危ないんです!」「そんな事はねえ! オレはたまたまありついた新種のキノコとペーパー・アシッドで……いや違う、自我が……」「キノコ関係ありません! 急性自我希薄化症状をナメると大変ですよ! 調べたんです!」

「フザケルナ! ニンジャスレイヤー=サン、お前がネオサイタマに戻って、やれ!」「当然おれはここでデシケイターを殺す」ニンジャスレイヤーが言った。「奴がここに滞在するのはあと数日も無い。この機会を逃すわけにはいかない」「ンーッ! 自我がーッ!」「まだ大丈夫です!」コトブキが言った。

「初期症状が起こっているのは、わたしの記憶から逆算して、約二週間前! 今はまだ兆候に過ぎません! 逆に言うと、今元気でも、ほっておいたらダメなんですよ!」「ンーッ!」「ブリーフィングは終わりだ」ニンジャスレイヤーが告げた。まず聴覚が現世に戻り、目を開くと、ムンバイの自動スシ店だ。

 二人は会計を済ませ、ストリートに出た。夜空は地上の光を吸い込んだスモッグによって、ほの白く濁っていた。割れた月の影はそれでもよく見えた。二人は目配せもかわさず、無言で別々の方角に歩き出した。


6

 0100101001オレは空中に「DAMN」の言葉を浮かべた。当然だろ。すると、言葉はUNIXに吸い込まれて、なんだかわからねえネットワーク・ケーブル網を伝い、どこだかわからねえムンバイ市街へ流れ去って行った。どうせ、誰も見ちゃいない。セッションは終わり、奴らはヤル気だ。

 DAMNDAMNSHIT。考えるだけでニューロンが言葉を吐き出し、UNIXがそれを吸い込む。楽しいもんさ。オレは卑近な世界の物理肉体を見下ろしている。そのルックスときたら、カート・コベインによく似た素敵な男だが、今は涎を垂らし白目を剥いて、哀れなありさま。なにしろ、ここのところずっと英雄的な冒険をし続けているんだ。その疲れときたら。

 それも奴らのせいだ。第一に、あの頭のおかしいニンジャ。あいつは必死だ。それから、頭のおかしいウキヨ。やらせてくれない。あいつらに巻き込まれてオレの人生計画は狂った。ギャンブルのカモ……友達はクソニンジャの襲撃に巻き込まれてくたばっちまったし、ソウカイヤのホットラインも繋がらねえ。クソだぜ。

 0101001……姉貴。ああ。わかってるよ。見なくてもわかる。姉貴は窓のとこに腰かけて、そんなアワレなオレをじっと見ている。笑ってンだろ。笑えばいい。少なくともオレはアンタと違ってユーレイじゃないんだからな。オレは……畜生、まったく自我ナントカいう病気は厄介だ。ニューログラには手がでねえ。ふざけやがって。

 そもそもオレはオーガニックとケミカルをカクテルして軽く旅行してただけで、それを咎められる謂れなんてねえんだ。アイツらは勝手にすべきだし、オレのこの電子コトダマ空間の快適さは何ものにも代えがたい。肉体のありさまときたらブザマだが。それが欠点だな。「ほら。そろそろ」姉貴が促す。

「わかってる」「呼んでる。お友達」「わかってる……」「わかってない」「戻りなさい」「そんな事10101011アバーッ!」

 タキは跳ね起きた。光ささぬ秘密UNIXルーム、絶対階層でいえばキタノ・スクエアビル地下街4階の深度に位置する閉鎖空間。タキは窓と姉を探した。無い。ここは現実。

「マジかよ」タキは呟いた。頭が鉛めいて重かった。脳の重みと肉の重み。不快だ。しかし……その不快感が、かえって彼をしゃんとさせた。かろうじて彼は為すべきことを思い出した。ニューログラをガッツリいただく。カネになる。ムンバイからそのルートは手引きされる……筈だ。

「ほっとく。やる。ほっとく。やる」チャントめいてブツブツと繰り返しながら、タキは梯子を上がっていく。「ほっとく」ダメだ。ニンジャスレイヤーは戻って来るだろう。以前にも試み、それがどんな結果を招くか、既に身に染みた。「やる」気が進まない。タキはスラッシャーでもパラディンでもない。

「ほっとく」デシケイター。奴はどうやら、かき集めた情報通りのとんでもないニンジャだ。タキが行動せねば、ニンジャスレイヤーは奴を倒せないかもしれない。逃げる間もなく殺されるかもしれない。そうすれば、タキの勝ち、ではある。自我希薄化症状? ブルシット。だが……。「ウーン」


◆◆◆


 一時間後、彼はくたびれたスーツを着、サングラスをかけて、いかにもビズの打ち合わせに訪れた胡散臭いフリーランサーめいて、シンケンタメダ社の受付に立っていた。「アポイントメントはございますドスエ?」オイランドロイドが微笑んだ。タキは頭を掻いた。「ある。あるよ。決まってんだろ」

「お名前をアリンス?」受付オイランがケーブル直結したUNIXのモニタを見ながら尋ねた。「マイニチですが」タキは予め示し合わせた偽名を言った。「はい。確かにアポイントメントがありますね」「疑ってンのか? オイコラ」「二段階認証アリンス。お名刺をオネガイシマス」「は? 二段階?」 

 キュイイ……オイランドロイドの瞳孔が音を立てて収縮する。「ヤバ」タキは呻き、ある筈のない名刺入れを探してスーツジャケットを叩いた。「うむ? 如何に。名刺をお忘れかな?」後ろからドンと肩を叩いて来た男の声に、タキは聞き覚えがあった。振り返ろうとすると、男が囁いた。「ちと待て」

 男はタキの肩を荒っぽく叩きながら繕った。「マイニチ=サンは名刺を切らしてしまっておるようでして。いや、私も今回のカンファレンスに急遽出席が決まりましてな。カレルと申します。ちょっとお調べ頂けますかな」「カレル=サン……修正、ピガッ」受付ドロイドが痙攣した。二者は息を呑んだ。

 ……ガゴン。アクリル・ゲートが開いた。「お通りくださいドスエ」「おそらくムンバイが間に合った」「お前……!」「ゆくぞ」コルヴェットはタキを促した。普段通りの黒ずくめだが、羽織ったコートがかすかにビジネスマン的なアトモスフィアを漂わせてはいる。彼らは社内に侵入。エレベーターに乗った。

「なんでお前が居やがる?」上昇するエレベーター内、タキが尋ねた。「さて」コルヴェットはしかめ面で答えた。「他に捕まる者がおらんのだろう。直接依頼があった」「オレは聞いてねえぞ」「お前さん、決行時間まで応答が無かったろう。夢でも見ておったかね?」「知った事かよ。カネは払わねえぞ」

「実際、<無限遠>のジプシー・ウィッチ達にとっても、ニューログラ暴騰は到底、対岸の火事ではないという話よ。急性自我希薄化症状はな。どれ、目は?」コルヴェットはタキのサングラスを取ろうとした。タキは振り払った。「ヤメロ。オレは至って健康だ!」「まあ、見たところで俺もわからんがね」

 黄緑色がかった灰のスモッグが、エレベーターのガラス越しに見下ろすネオサイタマを霞ませる。ネオン・ビルディングと、ホロ広告。マグロツェッペリン。郊外部で繰り広げられる企業同士の断続的な戦闘、その爆発。

「あのウキヨのご令嬢は、お前さんの事を心底心配しとったぞ」「なにが心配だ……まあいい、ニンジャだからって偉そうにする奴は……こうだ」タキはベルトに挟んだ拳銃を見せた。「狼ってのは牙を隠し持つ。オレのようなアウトローはな」「ははは、然り、然りよな」

 エレベーターが停止し、開いた。「申し述べておくが、俺に電子の類いの才覚は期待せんでくれ」コルヴェットは廊下を歩きながらスキットルのサケを口にした。「ンン、カラテもな。からきしよ。暴力ではなく文筆が我が本懐であるからして」「マジで何しに来やがったんだ?」13階、サラリマンの姿は無い。オフィスの無いフロアだ。

 フッフッと音を立ててボンボリが明滅し、彼らをナビゲートする。「ケッ、ムンバイか」タキは呟いた。「お前、変な先行すンじゃねえぞ。こういうのはテック・ウィザードにしかわからねえ呼吸ってもんがある……」「待て」コルヴェットがタキの肩を掴み、止めた。二者は壁に背をつけ、息を殺した。

「火の用心。火の用心」モーター音を鳴らし、スカート状の脚部で床を掃除しながら、ケンドロイド(ケンドー機動システムを取り入れたセキュリティ・オートボット)がこちらへ向かってきた。タキは耳元で空気がシュルシュルと音を立てているのを感じた。コルヴェットがなにかしている。

「火の用心。火の用心」「……!」タキはすぐ前を通過するケンドロイドを目で追った。無人機が角を曲がり、姿を消すと、ようやくコルヴェットは集中を解いた。「ヒック! これがカゼのジツよ。あの程度のぞんざいな機械であれば、到底見破れはせん。負担が大きく、こうして立ち止まる必要はあるが」

「楽勝だな」タキはリラックスして先に進む。「オイ、ムンバイ! 順調か? 次、どっちだ」フッフッ。前方のオフィス・フスマを照らす照明の一つが明滅した。「あっちだとよ」「うむ」彼らは忍び足で進み、フスマをゆっくりと引き開けた。「これで……どうすンだ」タキはトコノマを見渡した。

『モシモシ、タキ=サン! 掛け軸をチェックしてください!』トコノマの隅のワータヌキ像の目が激しく点滅し、声を発した。電子音声だが、コトブキが喋っているのだ。「掛け軸だと……?」タキは「ふくらむ社会」と書かれたショドー掛け軸に注目した。「これか? これがどうした」

『めくってください』「うむ」コルヴェットが紐を引き、掛け軸を巻いた。すると、見よ! 正方形の金属パネルだ。「成る程。この方式はプラハにも覚えがあるな」コルヴェットが呟いた。『ええと、こちらの操作とタイミングを合わせないといけません。ワンタイム・パスを発行します』ワータヌキが声に合わせて丸い目を光らせた。

『今から12桁の数字を読みます。順序通りに押して下さい。有効時間が2分とシビアです』「おう。とっととやれ」タキはパネルの物理テンキーを見ながら促した。『……発行されました。3、3、5、5、1、4、アッ!』フウーン……。ワータヌキの目から光が失せた。侵入者二人は顔を見合わせた。


◆◆◆


「サ……サーバーの調子が、すごく気になってしまって!」コトブキは背中でUNIXモニタを隠すようにしながら、アンキタに微笑みかけた。ドア付近に立つアンキタは石のように厳しい表情でコトブキを凝視した。「電気もつけずに」彼女はコトブキから目を離さず、ボンボリスイッチをONにした。

「電気は……そのう……」「UNIX管理室、どうやって入った?」「得意なんです」コトブキは弁明した。「その、LAN直結して、開けたりできるので、入れました。でも悪気はなくて……」「そういう事じゃなくて……そういう事……」アンキタは呆然とし、少し震えていた。「貴方は……何を?」

「待って! 待ってください!」コトブキは踵を返そうとするアンキタを呼び止めた。コトブキの右手は反射的にカンフー気絶チョップの形を取ったが、奥歯を噛み締め、自制した。「話せばわかると思うんです。事情があるんです」「オフィスに花を飾ったり、メンテナンスしたり、そうやって騙したの?」

「これは……」「どうなの!?」アンキタの目は見開かれ、口元は笑顔めいて傾き、歪んでいた。「騙したの!?」「……!」コトブキは俯き、頭を抱えた。「ウーッ」彼女は不意にその場で、崩れるように正座した。膝に手を置き、神妙にアンキタを見上げた。「わたし、オーエルではありません」

「今にして思えば、不自然なところはあったわね」アンキタは感情を抑えて呟いた。コトブキは数秒間沈思黙考し、アンキタの目をじっと見た。アンキタはコトブキの瞳の奥のオイラン天使意匠を訝しんだ。「貴方……」「わたしはオイランドロイドで、自我があります。ウキヨです」「ウキヨ……!」

「それで? サラリマンの真似事をしたかった?」「わたしはデシケイターを……」気づいて首を振り、「エドゥアルト・ナランホを倒す為に来ました。こうして社内に潜入し、情報を得ようとしたのです。エドゥアルト・ナランホはニンジャで、極めて強力です。わたし達は彼を倒さないといけません」

「ニンジャ……貴方はウキヨ……ちょっと待ってよ。エドゥアルト……あいつ……デシケイター……何……?」アンキタは戸口に手をついた。「ワケが、わからない」「……」コトブキは言葉を探した。アンキタはUNIXに歩み寄り、モニタ表示を見た。「本社セキュリティ」「そうです」

「本社で何を」「エドゥアルト=サンのIDをソーシャルハックし、彼の自己防衛システムを無効化する必要があるのです」「何故CEOを狙う? 例の……ニューログラの恨み? 産業スパイ?」「違います。言えません」コトブキは首を振った。「言えませんが、イクサです……ごく個人的な問題……」

 アンキタは絶句した。コトブキは正座したまま、スカートの裾を握りしめた。「騙す悪意はありませんでした。わたし、お花を飾ったり、皆さんとランチをしたり、コピー機を直したり、電話を取ったりしました。う、嘘の為ではなくて……でも、わたしはオーエルではないです……でも、わたしは……!」

「特殊過ぎる」アンキタは呻いた。「色んな事があった。この街を出て、ネオサイタマに行って、カイシャが乗っ取られて。また故郷に戻ってきて。そこそこひどい人生だった。でも」アンキタは言葉を切った。そして繰り返した。「特殊過ぎる。わからない……」

「わたしは、オフィスの皆さんが大好きです」コトブキは言った。「本当です……!」「確かに貴方、オイランドロイド……だけど」アンキタは言った。「そういう好意の言葉をオイランドロイドは言うものだけど」彼女は肩を落とした。「……そんなに悲しそうに言う事は無いものね」

 コトブキは正座したままだった。アンキタは彼女の手を取り、立ち上がらせた。そして言った。「わからない事だらけだから、私はもう、感情に従う事にする」「どういう事ですか」アンキタはモニタを見た。『どうした! どうなってる!』『モシモシ!』繰り返し音声データが投げかけられて来ていた。

「これが? あっち側でソーシャルハックをかけようとしている人?」「はい」コトブキは頷いた。「ここからネオサイタマの社屋のドア・ロックを操作して、ナビゲートしています」「……フーッ」アンキタは髪をかき上げた。「正直、あのクソ社長の肩を持つつもりは、さらさらないわ」「……」「クスリの為ではないのね?」 

「為ではないとは言い切れません」コトブキは言った。「直接の目的はエドゥアルト=サンです。でも、今こうして潜入しているタキ=サンはIRC病です。本人は否定しますが、私は洞察しました。間違いないです。個人的には、ニューログラの暴騰の件がなにか解決できればいいとは考えています」

「なら、むしろその件で私の要求を聞きなさい。そうしたらこの件は大目に見る」アンキタは言った。コトブキは発現の意図をはかりかね、瞬きした。アンキタは続けた。「エドゥアルトのソーシャルハックは勝手にやればいい。アイツなんて、ただの乗っ取り屋。だけど、その機に乗じて同時にやらなければダメな事がある」「何ですか」「ヒラタ主任を解放する」

「ヒラタ……?」「ヒラタ主任は、ニューログラの開発者」アンキタは言った。「薬の製法が彼の脳にある限り、彼が解放される事はない。社外に製法が拡散すれば、薬価を維持できない。エドゥアルトの奴はヒラタ主任を社内のどこかに閉じ込めている。彼を助け出してほしい」

「意に反して閉じ込めておくのは、その人にとって不本意なことでしょう。わかりました」コトブキは短く考えたのち、頷いた。そして尋ねた。「ヒラタ=サンを助ける事で、どうなりますか?」「クソ社長にカウンターパンチを食らわせてやれるッて事よ」アンキタは決断的だった。「やってもらうよ、貴方たち」


◆◆◆


 ギャギャギャギャ! ウキハシ・ポータルへ向かうハイウェイを走行していた家紋リムジンがドリフトし、付近の不幸なクルマを弾き飛ばしながら、一般道へのゲートに方向転換した。「オイオイ、どうした! 損失するだろうが!」デシケイターは株UNIXを操作しながら不平を述べた。

「再びポータルへ取って返す時間猶予はあります。ですので、このまま判断を仰ぎたく」ススキはハンドルを切り返しながら説明した。「なんだ、なんだ?」「シンケンタメダ社がハッキングを受けています」「そんなもの適切に対処させろ」「電子・物理両面、ネオサイタマ・ムンバイ二拠点同時です」

「よくわかったな」「サイオーホースな」ススキはガードレールに車体を擦りつけながら言った。「無作為監視網が、データの妙な動きを伝えてきました」「しかしまあ、俺がわざわざ向かうほどの……」電子、物理、地理二箇所。攻撃。デシケイターは眉根を寄せた。「攻撃。エゾテリスム。成る程」


7

「アーンするドスエ」「オイシイヨ」オイランドロイドから差し出されるトーフ・ゼリーから、ヒラタ主任は顔をそむけた。「よしてくれ」「だってオイシイノヨ」オイランドロイドは彼の手をとって胸を揉ませた。「ヤワラカイヨ」「やめてくれ……」「クスグッチャウヨ」「やめて……」 

「チキビ、サワッテネ」「アカチャン」「そういうのはやめてほしいんです! コンプライアンスが……」ヒラタ主任はうったえたが、今や、ふわふわのソファに座らされた彼を取り囲む煽情的服装のオイランは三体になっていた。「シャッチョの命令よ」「カワイイワヨ」「嗚呼……」抵抗も限界だ。

 彼は薄々気づいていた。彼が軟禁されているこの「インスピレーション・ルーム」で供される飲食物には、判断力を低下させる薬物が含まれており、囚われの身でなお高潔であろうとする彼の精神的抵抗も限界に近いと。

 SPLAASH! 眼前の光るプールの飛沫を上げ、さらに水着オイランが出現した。「ワーオ」「あの子、スゴイのよ」ヒラタ主任の身体を撫でながら、オイラン達が水着オイランを指さした。乳房が三つあるのだ。「本当だ……」ぼんやりと口を開けたヒラタ主任の口にトーフ・ゼリーが詰め込まれた。「オイシイネ」「嗚呼……おいしい」ナムアミダブツ!「なんて平和なんだろう」

 ニューログラはポスト磁気嵐時代を救う聖杯だった。実験が成功した時、ヒラタ主任が感じたのは、誇らしさでも功名心でもなく、ただ、感謝だった。彼は自身が俗物だと自覚している。だがこれで人類は救われる、素直にそう思ったのだ。……それも今思えば絶望の前振りに過ぎない。名誉は地に堕ちた。

「もう……いいか」エドゥアルトCEOは彼をこの部屋へ閉じ込め、出すつもりはない。薬物組成の流出を警戒しているのだ。インターネットもできない。この部屋にあるのは肥大化した三大欲求の循環だけだ。そうだ。人間の本能は完全に満たされるのだ。

 もう、いいだろう。彼は三つの乳房に顔を埋めた。「ワーステキ!」「イイワー」オイランドロイド達が嬌声をあげた。その時だった。

 ガコーン! カーボンナノ・フスマが勢いよく開き、何者かがこのリゾート・ルームに突入して来たのである。「そこまでだ! カイシャ・ケイサツだぞ! 逮捕する!」黒髪混じりの金髪のガイジンが銃を構えた!

「エッ?」ヒラタ主任は呆気にとられて闖入者を見た。「エッ?」その男は……タキは、この部屋のありさまに呆気にとられ、ヒラタ主任に似た表情をした。「何だ?」タキは視線を動かした。「オイコラ」オイランドロイド。乳房。トーフ・ゼリー。葡萄。「よろしくやってる部屋か? 何だこりゃ?」 

「違うんです!」ヒラタ主任はホールドアップした。「うるせえ! そこを動くな! こんな……」タキは右手で銃を向け、左手で手近の皿の葡萄を掴んで齧った。「葡萄、こんなこの野郎!」「ピガーッ!」オイランドロイドが一斉に上半身を回転させ、タキに向いた。一斉に胸部が展開し、銃口が露出した!

 BRATATATA!「アブナイ!」横跳びにコルヴェットがタキを倒し、プールサイドの柱の陰に転がり込んだ。柱材が弾丸を受けて破片を散らす。「アイエエエ!」タキは悲鳴を上げた。「なんと! 招かれざる饗宴か!」コルヴェットが言った。「黙ってろ!」タキは銃を撃ち返した。BLAM!

「ピガーッ!」ラッキーショット! オイランドロイドの顔面が銃弾で吹き飛び、クルクル回りながら倒れて痙攣した。「フーッ……。クールにいくぜ、見てろ」タキは渋面でコルヴェットに言い、次のオイランドロイドを撃った。BLAM! BLAM! 撃ち返しが襲う! BRATATATA!

「アイエエエ!」「危ないぞ」コルヴェットはタキの背中を掴んで陰に引っ張り、銃弾から回避させた。「さて困った。俺はこの手の荒事はからきしでな……」「畜生、だから言ったんだ! こんな作戦!」「アカチャン!」「アカチャンーッ!」オイランドロイドが顔面を回転させながら走り込んでくる!

「イヤーッ!」コルヴェットは懐の魔術ナイフを投げた。タキに襲い掛かったオイランドロイドの鎖骨に突き刺さり、怯ませた。「アイエエエ!」BLAM!「ピガーッ!」命中! オイランドロイドは倒れ込み、次なる一体の踏み込みをもつれさせる!「イヤーッ!」コルヴェットはそこに魔術ナイフ投擲!「ピガーッ!」肩口に突き刺さり、怯ませる!

「ヤバイ、銃が……畜生め!」BLAM!「ピガーッ!」ダブルラッキーショット! 頭部破砕!「アカチャンーッ!」光るプールでは三つの乳房のオイランドロイドが手足の関節を変形させ、逆関節蜘蛛めいた形態をとる!「アイエエエ!」ヒラタ主任の悲鳴!

「これは困ったぞ!」コルヴェットは懐を探った。「こうまで激しい戦闘が待ち構えていようとは到底……」「何かしろ! クソッ!」タキは震える手で銃をリロードしようとする。KRAAASH!「アイエエエ!」蜘蛛オイランドロイドが振り下ろした腕が、柱の陰のタキの股の間の床に突き刺さった。

「アイエエエ! アイエエエ!」「ンンン……これか!」コルヴェットは小袋を手に取り、柱越しに顔をのぞかせた蜘蛛オイランドロイドの顔面に投げつけた。キラキラ輝く粉が散り、オイランドロイドがにわかに痙攣した。「ピガガーッ!」「何だそりゃ!」「撃て! 撃たんか!」BLAM!「ピガーッ!」蜘蛛オイランドロイド顔面破砕!

 怪物めいたオイランドロイドが転がり倒れ、手足をばたつかせるところへ、コルヴェットはツカツカと歩み寄り、逆手に構えた魔術ナイフでめった刺しにした。「イヤーッ! イヤーッ! イヤーッ!」「ピガガガーッ!」痙攣、そののち動作停止!「アイエエエ! アイエエエエ!」ヒラタ主任が泣き叫ぶ!

「オイ、なんだそりゃ? なんだ?」タキは銃をベルトに突っ込み、コルヴェットに重ねて尋ねた。「UNIXを誤作動させる。何のことはない。だが高価なものだ。掃き集めたいところだぞ」コルヴェットは蜘蛛オイランドロイドを蹴り転がした。「風下に立ったのが此奴の不幸よ」「空調か?」

「来るな! 来ないでくれ!」ヒラタ主任が腰を抜かして後ずさりした。だが背後は壁だ。「私は何もしていません! 逮捕はしないでくれ!」「怯えとるぞ。おかしな事を言うからだ」コルヴェットがタキに言った。タキは鼻を擦った。「アンタがヒラタ主任か?」「本当です!」「ホールドアップしろ!」

「アイエエエ……いったい何が起きて……」「オレだって知らねえよ」タキは毒づいた。「急に我儘言い出すからよ。いや、こっちの話」「これで自由の身だ」コルヴェットはヒラタ主任の手を取り、立ち上がらせた。「少し手伝ってもらわねばならんと思うが」「で、社長室は? ニューログラはあるか?」

「まさか、製法目当ての対立企業……」ヒラタ主任は合点し、目を伏せた。「いや……かえってそのほうがいいのかもしれないな。貴方たちの企業が市場競争の原理に沿ってくれれば、あるいは……」「クスリは? どっかにしまってあンのか? くれよ」「わ、私も軟禁の身なんだ。インターネットも無しで」

 二人はヒラタ主任を伴い、廊下に出た。「社長室の場所わかるか?」「多分わかると思う。貴方達の狙いはニューログラの製法だけではないのか?」「ややこしいんだよ。クスリはオレに必要だ」「本当にIRC病だったか」コルヴェットが呟いた。タキはバツが悪そうにした。「背に腹は代えられねえ」

「アンキタ=サンという社員は知っとるかね」歩きながらコルヴェットが尋ねた。ヒラタ主任はすぐに思い当たった。「彼女がどうかしたか? 元気だろうか?」「お前さんの事を伝えたのはそのアンキタ=サンだ。ムンバイからな」「なんと……つまり……そうか」ヒラタ主任は唸った。「彼女が心配だ」

 キー・ロックが開き、三人を導き入れる。彼らは非常階段を用いて上階へ上がってゆく。「あの社長に逆らえば大変な事になる」ヒラタ主任は言った。思い余って立ち止まり、タキ達を振り返った。「ニンジャなんだ! 奴は……情け容赦のない、ニンジャなんだよ!」「ああそうだ。まあ、そいつはブッ殺す」タキは面白くもなさそうに言った。

「ニンジャはブッ殺すさ。オレんとこの物騒な奴がな。協力してもらうぞ」「ブッダ……!」やがて彼らは非常階段を上がり切り、さらに、開かれた窓から到底人間の通行を想定していないであろうビル外壁のパイプへ至り、綱渡りめいてしばらく移動した後、上方のダクト穴に滑り込んだ。

「クソッたれ秘密作戦だ」ダクト内を這い進みながらタキが言った。「何でオレがこんな目に遭うのか、てんでわからねえ」進んだ先、プレートの隙間を通して階下の床が見えた。「多分ここだろ」「恐らくは……」ヒラタ主任が言った。「階はあってます」コトブキのボンボリ・ガイドもある。

 タキは毒づきながらパネルを剥がし、恐る恐る室内に飛び降りた。観葉植物の鉢、バッファロー革の見るからに高級な椅子。壁には「明治維新」のショドー。そして江戸のサムライ鎧。間違いない。「社長室だ」後を追って着地する二人ををタキは振り返る。「めちゃくちゃハックしてやッからな畜生!」

「急げ。何があるかわからんぞ」コルヴェットは促した。棚のガラスの向こうにXOの瓶を見た。「ああ、ああ、わかってら。プロに任せろ、プロにな」タキは高級椅子にもたれて座り心地を味わったのち、デスクのUNIXデッキに向かい合った。彼はUNIXに電源を入れ、キータイプを開始……!

 100101111アダナス・コーポレーション。美しい知性と理解を。このたびは専用サポート・チャネルのご利用、まことに有難うございます。『ドーモ。モシモシ。エドゥアルト・ナランホだ』エドゥアルト・ナランホ=サン。IDの確認を行っております。アクセス座標照合完了。ご用件を。

『トラブルだ。貴社のカスタム製品のセキュリティが誤作動している。ただちに……』ただちに、いかがなさいますか?『……』お客様?『……』お客様?『010010011』0010010100101 00100100101

0010010010010010010010100101

 01001001DAMNDAMNSHIT。考えるだけでニューロンが言葉を吐き出し、UNIXがそれを吸い込む。楽しいもんさ。オレは卑近な世界の物理肉体を見下ろしている。そのルックスときたら、カート・コベインによく似た素敵な男だが、今は涎を垂らし白目を剥いて、哀れなありさま。

 確かオレは……えらい面倒な手順を踏んで、ここまでやってきた。頭上には黄金立方体が見える。ゆっくりと自転している。いい感じだ。アダナス・コーポレーションのチャネルがオレの目の前にある。オレが誰なのかを問いかけてきている。オレは誰だ? オレはどこにいて、何をしている?

 オレは自分を見る。我が電子肉体を。輝く0と1に、いい感じにほぐれて、拡散していく。エテルの風に乗って。きっとそれは黄金立方体に向かって吹いているんだろう。オレの姉貴分も、焼ける寸前はこんな風だったのか? もっと激しかったのかもな。オレは……『お客様。カスタム製品の品番を』

 コガネ・オートマタ、ADFDわ01-XX。セキュリティが誤作動しているから100011それを0100100101黄金立方体。


◆◆◆


「応答が無くなってから、少し時間がかかっている……大丈夫でしょうか」コトブキが言った。「あそこは通常ネットワークから切り離されているからね」アンキタは戸口を気にした。「ねえ、あまり長い時間離席しているわけにもいかないのよ」「そうですね……タキ=サン、まさか……」

 近づく足音。びくりとしてアンキタが振り返る。「ウォンキ=サン。びっくりした」彼女は胸を撫でおろした。既に信頼のおけるオフィスの面々には彼女らの突発的な「計画」について共有を行っているのだ。「アンキタ=サン。まずい」「なに?」「社長が今、ここに戻ってきました」「ナンデ!?」

「わからない! 当然、そんな予定にはなってなかった筈……」ウォンキは早口に言った。「本当に大丈夫なんですか? この計画……」「それはわからない」「ハイヤーッ!」KRAAASH! コトブキは逡巡したのち、決断的にUNIXをカンフー・チョップで破壊した。「ここにいてはいけません!」「アイエエエ!」ウォンキが悲鳴を上げた。

「取り急ぎ証拠隠滅しました!」コトブキは言った。「少なくとも彼らを社長室まで導くことはできました。タキ=サンの連絡を待ちたかったですが、今は成功を祈るしか……逃げましょう! 裏口は?」「なッ、えッ」ウォンキは狼狽!「こっちへ!」アンキタがコトブキの手を引いた。

「どうすれば!」ウォンキが問いかける。「早退許可!」アンキタは叫び返し、裏口への廊下をコトブキと共に走った。非常口! 二人は社用車に駆け込んだ。キーは不要だ。アンキタは権限を持っている。彼女はID認証を行い、エンジンをかけた。「どこへ逃げる!」「とにかく逃げます! そうすれば!」

 ドルルルッ! 排気煙を吐き出し、社用バンがムンバイ市街へ飛び出した。「だけど、もう少し色々やっておく時間猶予があったんじゃない?」アンキタが尋ねた。コトブキは首を振った。「敵はニンジャです。最悪の事態を想定して動き……」ミラー越しに、通行人を撥ね飛ばしながら追って来る黒い車両が見えた。

「何? なに? なに?」悪路にハンドルを取られながら、アンキタはコトブキに叫んだ。コトブキはダッシュボードを開閉した。「銃ありますか!」「銃?」「来てます! 嗚呼、なんて事!」コトブキは唇を噛んだ。家紋リムジンは人を撥ねながら一直線に迫って来る!

 ……ズム。頭上ルーフが音を立てた。


◆◆◆


「あれは」ススキは追跡対象の車用バンに炎の塊めいたものが落下した事を訝しんだ。ギアをせわしなく切り替え、さらに加速しながら、ススキはデシケイターに報告した。「何者かが合流したようです」「そのようだな」デシケイターは株取引を継続しながら同意した。「……成る程。奴がそうか」

 サンズ・オブ・ケオスのニンジャが失踪している。そのペースは明らかに異常だ。デシケイターは敢えてその情報を他者と共有したり、注意喚起しては来なかった。ある時点から、彼はその経緯を静観し、何人かのメンツを犠牲にすることで尻尾を掴み、安全を確保するプランにシフトした。

 しかし、エゾテリスムが死んだことは痛手だった。よりによって、あの男が。重要な金づるであり、そして彼自身の力でニンジャ暗殺者の襲撃など軽くいなせるプラハの魔術師が。さらに間を置かず、こうして現れたわけだ。デシケイターのもとへ。

「……まあ、よかろう」これは経済的試練といったところだ。今この場で損切りし、カタをつける必要がある。デシケイターは株取引を継続しながら頷いた。そして追跡車両の上で煮える黒い炎のニンジャを見た。憎悪に光る赤黒の眼光を、彼はふてぶてしく見返した。


8

「धियान रखो!」「アイエエエ!」「アイエエエエ!」KRAAASH! 交差路を直進してきた車両をアンキタは衝突寸前で回避し、慌ててハンドルを切りながら再発進した。家紋リムジンは当然のように交差路の車両にドリフトしながら衝突し、それを利用して最短時間の90度方向転換を果たす。

 しかも家紋リムジンの装甲は車対車接触ごときで少しの損傷も受けていない様子であった。アンキタの眉間を冷や汗が流れ落ちた。「全然引き離せない!」「わたしが食い止めます。……まあ!」コトブキは目を丸くした。リアガラスに不意に逆さ向きにヌゥと現れた顔……「忍」「殺」のメンポである。

「ニンジャスレイヤー=サン!」「アイエエエ!」アンキタが運転しながら悲鳴を上げ、路上の鶏を危うく避けた。「味方です!」コトブキが請け合った。「この人がエドゥアルトを……デシケイターを倒そうとしているんです!」

「そのまま走れ」ニンジャスレイヤーはガラス越しに言った。「何か……なにかお手伝いを!」コトブキがガラスに口をつけて必死に言った。「おれが奴を殺す!」ニンジャスレイヤーの顔は上に消えた。

「ニンジャスレイヤー=サン!」コトブキはIRCセッションを繋いだ。「タキ=サンのソーシャルハックの成否が不明……連絡が取れないんです!」『わかっている。確かめた』

 ニンジャスレイヤーの音声が返った事で、コトブキは少し安堵した。少なくともヤケクソ的な無謀攻撃を試みるわけではないのだ。それから自らを少し恥じた。もっと信頼すべきだ。彼女は応答した。「例の攻撃に対する解決策が必要です! まずは距離を取り、凌ぎましょう!」

「攻撃!? 攻撃ッて何?」アンキタが叫んだ。コトブキは答えた。「デシケイターは先日、テロリストないし対立企業の攻撃を受けました。その折に彼が用いたのは金属の甲虫です。これはアダナス社のテクノロジーですが、彼自身のニンジャとしての力も加わっています」「何だって!?」「虫攻撃です!」

「まあ、いいわ! 知らない!」アンキタはギアを切り替え、更に加速した。正面には堆積するゴミの山! 果敢に突入し、駆け上る! そしてジャンプだ!「アイエエエエ!」放物線を描く社用バン!「アイエエエエ!」「舌を噛まないように!」コトブキが叫んだ。「そしてアンキタ=サン、銃火器はありませんか……ングッ!」

 社用バンはゴミの川の向こう岸へ着地し、ほとんどスピンしながらドリフトした。ナムサン! 恐るべき事には、追随してくる家紋リムジンも破天荒なルート選択に一切の躊躇なく、放物線を描いて飛んで来ると言う事だ!「どこか……どこかに」アンキタはダッシュボードやハンドル下、シフトレバー付近を探る!

 そしてニンジャスレイヤー! ニンジャである彼は驚異的なニンジャバランス感覚を発揮し、この逃避行の最中に振り落とされる事もなく、ルーフ上でカラテを構えているのだった。「……イヤッ! イヤーッ!」狙いすませた二枚連続スリケン投擲! フロントガラスに立て続けに突き刺さり、真っ白に砕く!

「フンッ!」ススキは拳でフロントガラスを殴って粉砕し、視界をクリアにした。右手でハンドルを操作しながら左手を突き出した。BLAM! BLAM! BLAM! 銃弾をニンジャスレイヤーに撃ち返す! ニンジャスレイヤーは蛇行運転と上体のスウェーを駆使して回避! 当たらない!

「イヤーッ!」ニンジャスレイヤーはスリケンを投擲した。銃弾すら受けきる家紋リムジンの車体が抉れ、火を噴いた。「アイエエエ!」リムジンの体当たりを受けて出店の商品籠が破砕し、赤と黄色の粉末がぶちまけられた。ゴウ……それら粉塵をリムジンが抜け出すと、ルーフ上にはニンジャの姿があった。

 チェイス車両それぞれの屋根上で、二人のニンジャはあらためて互いを見据え、オジギした。互いの耳はニンジャ聴力によってアイサツを聞きとった。「ドーモ。ニンジャスレイヤーです」「ドーモ。デシケイターです」オジギを終えたデシケイターの周囲がキラキラと鈍色に輝いた。例の攻撃の予兆だ。

 (((マスラダ……!))) ナラク・ニンジャが警告を伝えて来る。(((あれは恐らくハチニンジャ・クランが用いたドローン・ジツだ。ヌウウ……しかし注意せよ。近代テクノロジーの力を利用しておるうえに、サツガイの力をも混ぜておる筈。敵を涸らして殺すミナヅキ・ジツに似ておる!)))

 峙の最中もデシケイターはホロキーボードをタッチタイプし、株取引を継続していた。「貴様の目的を聞いておこう、ニンジャスレイヤー=サン」彼はドリフトする車上で問いかけた。「一期一会の言葉もある。せめて俺の納得のゆく説明を吐いて死ぬがいい。何故サンズ・オブ・ケオスの連中を狙う?」

「サツガイという男を知っているか」ニンジャスレイヤーは問うた。「あるいは、ブラスハートというニンジャを」「サンズ・オブ・ケオスはサツガイにまつわるコネクション。自明だろうが。くだらん質問だな。しかし……」デシケイターはぴくりと瞼を動かした。「ブラスハートの名まで出たか。よく調べている」

「……知っているな」ニンジャスレイヤーは声のトーンを読み取った。「貴様を殺す。その際に、奴の居場所を吐かせる」「ンッフフフ! 俺の経済活動と無関係のアサシンは新鮮だ。脳に良い刺激になる……」キャバアーン! 取引継続!「……落ち着かん男だ」ニンジャスレイヤーは呟いた。

「当然だろう。たかが不測の事態ひとつで、何故俺の生き方を変える必要がある?」デシケイターは答え、株をショートした。「……同感だ」ニンジャスレイヤーは目を細めた。「おれは構わん。そのまま死ぬまで手すさびを続けていろ。サンズ・リバーの渡し守も大道芸人は歓迎だろう」「言いおるわ!」

 キャバアーン! ホロキーボード操作! そのさなかにも、鈍色の輝きは次々にデシケイターの周囲に増えてゆく。ニンジャ動体視力をお持ちの方ならばわかる。即ちそれは小刻みに羽ばたく鋼鉄製の甲虫である。ドローン・ジツで動作するアダナス社のプロダクト、コガネ・オートマタは、彼の経済活動に支障を与えない!

「イヤーッ! イヤーッ!」ニンジャスレイヤーはスリケンを投擲した。チュン! チュンチュン! アダナス・ドローンは飛翔するスリケンの的となり、火を噴いて撃墜されてゆく。しかしドローンは反撃に出られない。追随するのが精いっぱいだ。この位置関係はニンジャスレイヤーにとって有利である!

 デシケイターが痺れを切らせて車両の飛び移りを試みようものなら、ニンジャスレイヤーは狙いすました対空チョップ突きを心臓に見舞い、一撃で仕留める腹積もりだ。しかし敵もさる者、淡々とホロキーボードを操作し、決してリスクある行動は取らぬ。いずれ攻撃機会が来る事を確信しているのだ。

「イヤッ! イヤッ! イヤーッ!」チュン! チュンチュン! アダナス・ドローンが爆ぜ散る。そのたび新たな羽虫が飛翔し、隊列を補充する。ニンジャスレイヤーは腕を打ち振り、炎の軌跡から新たなスリケンを生み出す。このまま遠距離攻撃を続け、相手にアウト・オブ・アモーさせるのも手ではある。 

 だが……ニンジャスレイヤーは眉根を寄せる。そのような生ぬるい手段で切り開けるジツであるなら、このデシケイターの余裕は無い。より強力な攻撃に出ねば!「イヤーッ!」ニンジャスレイヤーはスリケンを数枚同時投擲! デシケイターはブリッジ回避! そして……KRAAAASH!「ンアーッ!」車内から悲鳴! 追突である!

「俺の秘書は有能だ」デシケイターは言った。「そのパフォーマンスにブレは無い。つまり」ギャルルルル! 粉塵を吐き、必死の足掻きのように社用バンが再加速した。助手席窓からコトブキが上体をはみ出させ、リムジンを銃撃した。BLAMBLAMBLAM! デシケイターは侮蔑的にそのさまを一瞥する。「フン……そちらの"秘書"はどうかな?」

 ススキはリムジンを蛇行させ、銃弾を回避。社用バンはその隙にギアチェンジし、グンとスピードを上げた。ニンジャスレイヤーはスリケンを連続投擲!「イヤーッ! イヤーッ! イヤーッ!」「イヤーッ!」デシケイターは片手をかざし、眉間に飛来したスリケンを挟んで止める!

 そして、その時! BOOOM! フロントガラスの無い家紋リムジンの中から、煙を噴いて何かが飛翔した! おお……ナムサン! それは一旦運転を捨てたススキが肩にかついだランチャーから射出されたロケット弾である!「ヌウッ!」ニンジャスレイヤーはフックロープ投擲で阻止をはかる……しかし!

「イヤーッ!」右腕付け根に突き刺さったのはデシケイターの狙いすましたクナイ・ダートだ! ホロキーボード片手操作! ニンジャスレイヤーは鋼めいた筋肉でこの攻撃を軽傷に留めたが、フックロープは役割を……ロケットを絡め取りあさっての方向へ逸らす事を……果たせなかった! KABOOOM!

「グワーッ!」「「ンアーッ!」」社用バンはつんのめるように前傾しながら吹き飛び、地面に落下! KRAAAASH!「ヌウーッ!」ニンジャスレイヤーは回転ジャンプで脱出、着地! 車内からはコトブキがアンキタを庇うように抱えながら這いずり出た!「平気です……平気!」「アイエエエ……!」

 ヒュンヒュンヒュン。アダナス・ドローンを己の周囲に旋回させながら、陽炎の中をデシケイターが悠然と迫り来る。「アイエエエ!」市民が家々から飛び出し、逃げ惑う。「逃げろ」ニンジャスレイヤーはコトブキに言った。「そいつを連れて」「……!」コトブキはアンキタに肩を貸し、その場を去る。

「さあ。面倒は終わりだ」デシケイターは死刑宣告めいて言った。彼の傍らには冷酷なウキヨ。「このニンジャは俺がやる。あっちはお前が対処しておけ」「ハイヨロコンデー」ウキヨは頷くと、即座に陸上選手めいたスプリントで走り出した。

 ニンジャスレイヤーは身を沈め、前傾姿勢を取った。デシケイターの周囲を鈍色の羽虫がジグザグに飛翔する。ニューロンの中で数え切れぬカラテ・シミュレーションを行う。

 あらゆる選択肢は断たれた。横を走り過ぎるウキヨをインターラプトすれば、デシケイターのカラテとドローンが命中する。それは全ての敗北を意味する。デシケイターのドローンがニンジャスレイヤーを捉えれば、例のミナヅキ・ジツが成る。四肢が損壊すれば当然そのままなぶり殺しとなるだろう。

「イヤーッ!」ニンジャスレイヤーは様子を伺うように飛翔してきた複数のドローンを目にもとまらぬ速度でつまみ取り、押し潰す。ウキヨが……走り去った!

 (((ミナヅキ・ジツは爪や牙で敵の皮膚を傷つけ、或いは掌を当ててカラテを巻き込み、瞬時に水分を抜き取る。心せよ! かつてミナヅキのタツジンとして知られたカワキ・ニンジャはエドのサムライ戦士百人をひと触れでカツオブシめいた襤褸クズに……))) 

 ニンジャスレイヤーは敵を見据え考察した。

 爪や牙のかわりに、アダナス・ドローンにたからせ、恐らくは羽虫の顎や脚などで皮膚を破り、それを遠隔的なジツの取りかかりとするのだろう。ドローン・ジツの方の原理の理解は追いつかぬが、そこまで知る必要はない。「わかってきたぞ」ニンジャスレイヤーは呟いた。だが、このままでは……!

「いいぞ……いいぞ! 来た!」キャバアーン! デシケイターは株をショート!そしてアダナス・ドローンが一斉に襲い掛かった!「イヤーッ!」ニンジャスレイヤーは回転の中からスリケンを立て続けに投擲した。羽虫の数匹が撃ち落とされ、爆ぜ飛んだ。さらに燃えるマフラー布が幾つかを焼き払った。

 ヒュンヒュン、ヒュヒュン! 迎撃網をかいくぐりドローンが飛来!「イヤーッ!」ニンジャスレイヤーは残像を伴う速度で両手を動かし、虫をつまみ取っては指のペンチめいた力で圧し潰す。「イヤーッ! イヤーッ!」一方のデシケイターは涼しい顔だ。「そこだ」ニンジャスレイヤーの踵付近! アブナイ!

 土中から這い出した虫たちがニンジャスレイヤーの左踵からふくらはぎに這い上る。ナムサン! 左脚がミイラ化しその場に崩れ落ちるか!「イヤーッ!」ニンジャスレイヤーの目が燃えた。黒炎が足元から噴き出し、己の身を焼きながら虫を焼いた!「ハハハハ! 凄い事をする。とんだ自殺行為だな!」デシケイターが嘲笑う!

 ニンジャスレイヤーは横へ跳び、転がりながら炎を払った。起き上がるところにデシケイターが踏み込んできていた!「イヤーッ!」「グワーッ!」前蹴り! ニンジャスレイヤーは顎に一撃喰らい、のけ反りながら飛び下がった。ヒュヒュヒュン! そこへ襲い掛かる羽虫! ナムアミダブツ!

「アイエエエ!」市民の悲鳴が遠く聞こえる。ニンジャスレイヤーは両腕を交差し、防御姿勢を取る。無駄だ。金属羽虫がとりついた。彼は己の両肩を掴み、力を込めた。触れた場所から黒炎が拡がり、装束は邪悪な炎と化した。炎は己の身体と共に虫を焼き焦がした。デシケイターはただ見物していた。

 ヒュン。ヒュヒュヒュン。新たなアダナス・ドローンが彼の懐から飛び出し、隊列めいて浮遊する。ニンジャスレイヤーは膝をついた。俯いた顔をあげ、いまだ弱まらぬ戦闘意志を滾らせて、ただ目の前のデシケイターを睨んだ。デシケイターは株をショートした。羽虫の第二波が……襲い掛かる!

 ドクン。ドクン。心臓が強く打ち、時間感覚は泥めいて鈍化した。ソーマト・リコール現象だ。アダナス・ドローンが飛翔する。ナラクの炎でその都度己を焼く? 二度? 三度? ナラクすらもその行動には疑義を呈した。単なる勝機なき自傷、ジリー・プアー(徐々に不利)に過ぎぬと。

 膝をついたニンジャスレイヤーはそのまま身を沈めた。「イヤーッ!」全身のバネを爆発させ、デシケイターめがけクラウチング・スタートを切った。羽虫が渦を巻くように飛び、ニンジャスレイヤーに襲い掛かる……ニンジャアドレナリンがニューロンを異常回転させ、時間はほぼ静止した。

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 01001010010001……0100101DAMNDAMNSHIT。考えるだけでニューロンが言葉を吐き出し、UNIXがそれを吸い込む。楽しいもんさ。オレは卑近な世界の物理肉体を見下ろしている。そのルックスときたら、カート・コベインによく似0100011これで何度目の情景。

「姉貴。何かおかしいな」オレは呟いた。言葉は文字となりこのコトダマ空間の0と1の滝の中に流れ去った。何かおかしい。そもそも姉貴は焼き切れて死んだんだろうに。我ながら仕方ねえな。オレは……オレは企業アカウントを前にしている。確かアダナス・コーポレーション。そう。何のためだ。

 決まってる、奴だ、あの疫病神、IRC通信でいつもクソみてえな反応しか返さない。奴のIPアドレスは妙で、通信機器じゃないとしたら、じゃあ何だ? 奴はアダナス・ドローンにたかられて、今にも死ぬ寸前? なんてよく見えるんだ。ワーオオー。冴えまくってる。ブラックベルトをキメた時みたいに。

「それは貴方がブッ飛びかかってるからよ」姉貴が呆れたように言った。オレは舌打ちした。「効果あるかもわからねえクスリの為にあんなカネ払えッかよ」「それがケチのつき始めね」「だからオレは仕方なく協力…ええと、アダナスで」思考がループを始めた。机に突っ伏し……カート……待て、待て。

「それはもうやめろ」「なら、目を覚ましな」「どうして」「知らないよ」黒髪の女が顔をしかめ、首を振った。「貴方の問題でしょうに」「お前、誰だ? 姉貴じゃねえな」「バーバヤガ」女は名乗った。「ハアそうかい。バーバヤガ。おとといファックしな」オレは見知らぬイカレ女を追い払おうとした。

「しょうのない奴だ」女はオレの頬に手を当て、視野を動かさせた。よく見えた。つまりオレは今、エテルの海に溶けかかってるッて事だ。黄金立方体の光をチリチリ感じる。ああ。よく見える。ムンバイ。ニンジャスレイヤーが今まさに死にかけてる。オイオイ。ダメじゃねえか。オレは……「グワーッ!」

 オレはオレの悲鳴を聞いていた。無意識が上げさせた叫びさ。寝言みたいなもんだ。痛かったからだ。見ろ。ひでえ。UNIXに突っ伏したオレの事を、あの変態野郎の研究者とコルヴェットの野郎が寄ってたかって、何回か失敗した後に、アンプルの針をブッ刺して……「なにやってやがる!?」

 クソッたれ社長野郎デシケイターの棚が開けられ、引っ掻き回された後があった。そういう事か? あの野郎もクスリのお世話だったッてわけかよ。コルヴェットの野郎、ヤバレカバレやりやがって。とにかくあいつら、デシケイターの常備するニューログラを、しかも錠剤じゃなく注射で! オレに!「グワーッ!」

『お客様? エドゥアルト・ナランホ=サン?』アダナス社が問いかける。オレは自分の掌を見た。くっきりした電子身体を。意識に妙な空白期間があるのが訝しかったが、オレはとっとと済ませようと思った。「問題発生だ、アダナス=サン。セキュリティ・システムのエラーだよ。わかっているのか!」

『申し訳ございません。不具合の状況を教えていただけますか』「アー……IRCシステムに干渉しているんだよ。御社のドローン・ドライバーが。一旦動作を止めてもらえないか」『重点。ドライバーを停止する事で、貴方自身がドローンから対象として認識されます。くれぐれも安全を確保した上で……』「今やれ! オレは上客だ」『かしこまりました』

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010100101「イヤーッ!」ニンジャスレイヤーはデシケイターに突っ込んだ。デシケイターは意表をつかれ、ホロキーボード操作を中止、ニンジャスレイヤーのチョップ突きをそらし、その肩に肘打ちを叩き込んだ。「グワーッ!」ニンジャスレイヤーは倒れない。だが羽虫が襲い掛かる。

 デシケイターは鼻を鳴らした。不穏な炎による洗浄行為など無意味。何度でも、その都度、新たな羽虫に食わせてやるだけだ。羽虫はニンジャソウルに反応し、襲い掛かる。デシケイターはそこにミナヅキ・ジツを重ねる。それで終わり……「グワーッ!?」細かな痛み!「バカな!?」己にも羽虫が!

 デシケイターは枯渇のジツをかろうじて抑え、自死を免れた。だがそれはニンジャスレイヤーを助ける事にもなった……!「イヤーッ!」「グワーッ!?」下から振り上げられたニンジャスレイヤーの拳が、デシケイターの下顎を、捉えた!


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 ニンジャスレイヤーの拳がデシケイターの下顎を捉えた! オレは幾重にも重なり合うサイケデリックな視界で確かにそれを見た。恩に着ろよ、オレのおかげだ。とにかく、とてつもねえアッパーカット。仰け反ったデシケイター……ニンジャスレイヤーは攻撃を止めなかった。ウィーピピー! やっちまえ!

 二人のニンジャの周りには例のクソッたれ羽虫、そもそもこのオレがこんな大変な、英雄的な潜入行為をする羽目になった元凶、アダナス社のコガネ・オートマタが乱れ飛んでやがる。あの野郎は自分自身を羽虫から見えなくしてやがったんだ。だけどそれはオレがキャンセルした。天才的ハッキングでだ。 

 実際、今のオレは凄い。電子の女神に相まみえ、頭上にはキンカク・テンプルの輝きを仰ぎ、腕を振れば指先からは0と1の金粉が飛び散るって寸法。何かがすげえ。そうやってオレは……嗚呼……ニューロンが加速し過ぎている。IRC病フラットラインの揺り戻しのせいだ。時間感覚が泥のようだ。

 デシケイターを殴り上げたニンジャスレイヤー=サンはそのまま跳び上がり、空中で逆前転している。まるで風車だ。オレはオレが白く焼けていくのを感じる。やり過ぎたんだ。世界が重なり過ぎている。ニンジャスレイヤー=サン……あいつ……ここは……ビルの中か……? 展示準備……? 

 マルノウチ……01001スゴイ10001カイ0001「ハッハーッ!」電子格子海の波に飛沫を立てながら、ふざけたサーフィン野郎がジグザグに飛翔する。突然オレの感覚は冷え、恐怖が戻ってきた。もうたくさんだ。オレにゃ無理だ、サイケデリックな夢はもう沢山010001010

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 デシケイターの下顎に拳を食らわせ、その勢いのままに跳び上がったニンジャスレイヤーは、宙で身体を丸め、逆回転した。まるでそれは赤黒の風車めいている。彼はそのまま二回転した。デシケイターは全カラテを絞り出し、防御を間に合わせようとした。「イヤーッ!」「グワーッ!」

 ゴウランガ! それは奇妙な形ではあったが、確かに暗黒カラテ技のひとつ、サマーソルト・キックに他ならない! ニンジャスレイヤーは掬い上げるような打撃の勢いを回転力に転用、空中回転の中から昇り蹴りを繰り出したのだ! デシケイターは斜め上に吹き飛ばされた。メンポに亀裂が生じ、欠片が散る!

「ゴボッ……!」デシケイターはコンマ1秒、気絶していた。復帰すると同時に空中で身体を丸め、クロス腕の防御姿勢をとった。「イヤーッ!」スリケンが飛来!「チイーッ!」手甲に突き刺さる!アブナイ!さらには羽虫が喰らいつく!彼は日頃楽しんでいたこの虫のピラニアじみた残虐性に苛立つ!

 彼がサツガイから与えられたのはハチニンジャ・クランの秘技、ドローン・ジツ。無機物飛翔体と超自然的に繋がりをもつジツを用い、この虫を媒介にミナヅキ・ジツを発動。食らいついた相手を落ち葉めいて乾燥させて殺す。それが彼の、経済活動と並行して相手を完殺するヒサツ・ワザであった。

 だが! 何らかの要因でコガネ・オートマタが誤作動を起こしている。よりによってこの時にこのような致命的脆弱性を! チナタム・アッシュテック社の株も売り時を逃した。彼はイクサに集中せねばならない。なんたる屈辱、なんたる損失か! だがニンジャスレイヤーもまた、羽虫の無差別攻撃は免れない! 

 ニンジャスレイヤーは金属虫にたかられながら、構わず駆ける。落下するデシケイターを追って! 血飛沫が後ろへ飛び、燃える水溜まりを作る。それはまるで引火して煙噴き上げるムンバイの化学廃棄物めいて。「イヤーッ!」ニンジャスレイヤーは跳んだ!

 空中で敵を捉え、脳天から落とすべし! ヨグヤカルタの戦闘記憶がナラク・ニンジャの無限の戦闘記憶とリンクし、アラバマオトシのカタが去来する。だがデシケイターは既に十全の体勢復帰を果たしていた。ニンジャスレイヤーはアラバマオトシに固執しなかった。ならば滞空近接カラテだ!

「イヤーッ!」「イヤーッ!」着地までのほんの数秒間、二人のニンジャはワン・インチ距離でミニマル木人拳めいた短打を応酬する!「イヤーッ!」「イヤーッ!」「イヤーッ!」「イヤーッ!」デシケイターの目は憤怒に充血!「卑しく実際安いカスめ! 俺の経済活動を妨げる資格はない!」「好きにやれと言っている。だが、殺す」

「ほざけ! イヤーッ!」サミング(目潰し)攻撃! ニンジャスレイヤーは首を傾げるように動かし、これを回避!「イヤーッ!」サミングを戻しながら逆の手で抉りにゆく! ニンジャスレイヤーはブリッジで回避! デシケイターの爪がマフラーめいた布を掠めると、布は瞬時に乾いて崩れる! アブナイ!

「概ね理解した」ブリッジ姿勢からバック転で起き上がったニンジャスレイヤーは軽く間合いを取り、ステップを踏んだ。「枯らすにはその攻撃が要るか。この虫どもは煩わしいが、今となっては蚊と変わらんな」「ならば俺にカラテで勝てると? 思い上がるな……!」二人のニンジャは同時に身を沈める。

 乱れ飛ぶ羽虫が、彼らの装束に、肉に食らいつくなか、二者は同時に地を蹴り、ぶつかり合った。「イヤーッ!」「イヤーッ!」「イヤーッ!」「イヤーッ!」デシケイターのカラテは隙無く、理論立てられ、最小の動きで最大の打撃力を生む。合理性とカラテ科学の洗練……利益の追求!

 まさにそのイズムはデシケイターの行いそのものだ。己の望むままに不要物を切り捨て、蹂躙し、利益を獲得する。何故なら、そうしないのは無駄だからだ。無駄を排した精神、トレーニング、鍛錬。故にニンジャスレイヤーのカラテは押し殺される。出掛かりをくじかれ、腕先を逸らされ、ジャブが入る。

「イヤーッ!」「イヤーッ!」「イヤーッ!」「イヤーッ!」だがニンジャスレイヤーが倒れる事はなかった。致命打に沈む事はなかった。巧妙に織り交ぜられたミナヅキ打撃を受ける事はなかった。綱渡りじみた命のやり取りに、ニンジャスレイヤーは全霊をかけて食らいついていた。執着だ。

 このニンジャを倒す。サツガイへの道を切り拓く。復讐を果たす……! アユミ! マルノウチ・スゴイタカイ・ビル! 彼は執着し、食らいついた。彼のカラテは本能と執着とナラクの教唆から成っていた。だがその感情のマグマに呑まれれば、いかなる末路へ至るか。彼は闇の中に微かな灯を求め、拳をふるう。

 堕落の破滅からかろうじて彼を救うのは他ならぬ彼自身の意志だ。カラテの記憶が彼自身の意志を鍛え、繋ぎとめる。イクサの記憶、黒橙のニンジャの示したカラテの片鱗の記憶。彼は必死でそれらに縋りつき、複雑なオリガミを開いてゆく!

「イヤーッ!」「イヤーッ!」「イヤーッ!」「イヤーッ!」


◆◆◆


「助けは呼べますか」コトブキはアンキタを廃冷蔵庫に優しく寄りかからせ、尋ねた。アンキタは力なく笑い、首を振った。ひび割れブラックアウトしたIRC端末を取り出し、苦笑して、巨大なゴミ山に加えた。「……はい」コトブキは頷いた。「では戦って倒しましょう。ここならば犠牲市民を出す心配もありません」

 然り。彼女らは市街区の端をわずかにはみ出し、ムンバイの所謂「ゴミ山脈」の谷間に到達していた。コトブキは振り返り、素手のカンフーカラテを構えた。一瞬で思い直し、堆積するゴミに突き刺さった鉄パイプをずるずると引き抜くと、頭上で振り回し、ボー・カンフーを構えた。

「あいつは何なの……? ニンジャ?」「あれはウキヨです。でも、わたしもです」コトブキは振り返らずに言った。彼女の視線の先、あっという間にススキが追いついて来た。「わたしは強いんです。守ります、アンキタ=サン。守るものがあるとき、人は強くなれる……!」

 ススキは走って来た。勢いのままに、跳んだ。BLAMBLAM! 跳びながらススキは両手を突き出し、銃撃を加える。「ハイ! ハイヤーッ!」コトブキは身長ほどの長さのある鉄パイプを振り、致命軌道の弾丸を選択的に弾き返した。背後に着地したススキを振り向きざまに薙ぎ払う。「ハイヤーッ!」

 ススキは前転して難なくボーを躱した。「アイエエエ!」アンキタは倒れ込み、腹ばいで悲鳴を上げた。ススキは前転から水面蹴りを放った。コトブキは軽く跳んで躱した。ススキは流れるようにコトブキのみぞおちに拳を叩き込んだ。「イヤーッ!」「ンアーッ!」くの字! さらに、BLAM!

「ピガーッ!」コトブキは吹き飛び、転がった。ススキはカイシャクを行うべく、ツカツカと間合いを詰める。コトブキは震えながら身を起こした。ススキは撃ってこない。「賢いですね。貴方、弾切れです」コトブキは言い、腹の損傷を手で払い、親指を舐めて、オイルを吐き捨てた。 

「ウキヨ。何をフラフラしている」ススキが尋ねた。「不愉快だ。緊張感が薄い」「そんな事はありません。それに、それを言うなら、わたしだってムカついています」コトブキは素手のカンフー・カラテでステップを踏んだ。「ドンナニモ、ナッチマウゼ!」「お前は勝てない」「そんな事はない!」

「イヤーッ!」ススキが襲い掛かる! ムエタイの流れをくむ鞭めいたカラテだ。強烈な蹴りが続けざまにコトブキを襲った。コトブキは防御し、掌打を繰り出す。ススキはコトブキの手を跳ね上げ、首を抱え、膝蹴りを繰り出した。「イヤーッ!」「ンアーッ!」強烈な一撃!

「このまま壊す」首相撲継続!「イヤーッ!」「ンアーッ!」「ンンーッ!」ススキは力を籠め、コトブキを左右に揺さぶった。更なる膝蹴りが襲い来る……!

 ズムッ、ススキは背中に受けた打突を訝しんだ。アンキタだ。先ほどのボーを掴み、後ろからヤリめいて突いたのだ。腰が入っておらず、殺傷するには甘い。だが隙が生まれた。

「ハイヤーッ!」コトブキは強引に身を深く屈めて潜り込み、担ぎ上げるようにしてススキを地面に投げ、叩きつけた。「ンアーッ!」一瞬の交錯! 尻餅をつくように叩きつけられたススキの後ろにコトブキは立ち、後ろからその顔にパンチを打ち下ろした。「ハイハイ、ハイヤーッ!」「ピガーッ!」

 ススキは連続打撃を撥ねのけ、転がりながら離れて、膝立ちになった。アンキタはボーを持って瞬きした。コトブキは攻撃兆候のニューロン・アラートに従い、彼女の盾になるように身構えた。ススキの膝頭が開き、小型ロケット弾が射出された。KABOOOM!


◆◆◆


「イヤーッ!」「イヤーッ!」「イヤーッ!」「イヤーッ!」デシケイターはニンジャスレイヤーを殴りつけ、更に殴りつけた。殴りながら彼はしかし、歯噛みした。無意味だ。致命打を食らわせなければ意味が無い。その認識に至った瞬間、不意に彼は虚無の底へ到達したかのような畏怖をおぼえた。 

 殺せぬならば……逆に致命打をニンジャスレイヤーが打って来るならば……いずれ打って来るのならば? 結果的にここまでのカラテ優勢は無に帰する……? デシケイターは血走った目を見開く。その目をニンジャスレイヤーの赤黒の眼光が射る。「イヤーッ!」デシケイターは拳を繰り出す。「イヤーッ!」

「グワーッ!」仰け反ったのはデシケイターだった。ニンジャスレイヤーはデシケイターの腕に己が拳を当て、添わせ……スピンすれすれの車両が高速でガードレールに車体後部を擦りながら曲がっていくようにして……顔面に拳を叩きつけていた。更に彼は拳を引きながらデシケイターの襟元を掴んだ。

「イイイイ……」ニンジャスレイヤーはその左手でデシケイターの首をグイと引いた。その瞬間の爆発的なニンジャ膂力は凄まじく、デシケイターは緩急に抗えなかった。彼は腕を上げて防ごうとした。ニンジャスレイヤーが横に振りかぶった右腕が消えた。顔面に叩きつけられていたのだ。「グワーッ!」

 ニンジャスレイヤーは掴んだ手を離さぬ。離さずに再び右腕を横に振りかぶる。「イヤーッ!」再び顔面に!「グワーッ!」「イヤーッ!」「グワーッ!」「イヤーッ!」「グワーッ!」デシケイターは混濁するニューロンを振り戻そうとする。だがニンジャスレイヤーの、拳!「イヤーッ!「グワーッ!」

「待……」「イヤーッ!」「グワーッ!」その首が殴られた勢いで約160度回転! デシケイターは首骨を軋ませながら正面を向き、ニンジャスレイヤーを睨み据えた。「何故貴様は俺を……」

「言ったはずだ」ニンジャスレイヤーはジゴクめいて言った。「サツガイという男を知っているな」掴まれた襟元が今や赤黒の炎に変じている。ニューロンが焼け始めた。「サツガイ……!」

「ブラスハートはサツガイを呼ぶ方法を知っている筈だ」ニンジャスレイヤーは言った。「奴の居所を言え」「奴は……ハ、ハハ」デシケイターは震えながら笑い出した。「俺は奴に……何の義理も無い……よかろう。奴の事を教えてやる。せいぜい狂った目的を……果たせ」「言え」「奴がサンズ・オブ・ケオスを創始した」

 憎悪に加速するニンジャスレイヤーのニューロンは、彼の言葉に偽りがない事を読み取った。デシケイターは咳き込んだ。「ブラスハートはただ奴自身の目的を果たす為にサンズ・オブ・ケオスを作った。俺にはどうでもよい……奴の野心など誇大妄想に過ぎない。利用できるコネクションに過ぎない……」

「奴は何故サンズ・オブ・ケオスを作った」「サツガイ接触者の体験をサンプルし、サツガイの出現アルゴリズムを解析する為に。事実、奴は……一度成功した……」「……」ニンジャスレイヤーは眉根を寄せた。「ブラスハートは何処だ」「……。……奴はクラバサ・インコーポレイテッドの上級社員だ」

「クラバサ・インコーポレイテッド」ニンジャスレイヤーはその名を焼きつけた。デシケイターはうなだれ、譫言めいて呟いた。「ブラスハートは……企業軍の責任者……ハ、ハハハハ。奴は神にでもなるつもりか? ナンセンスだ……くだらない……所詮、数字だよ……世界は数字だ。数字を増やすのが素晴らしい。そうだろう」

「ならば何故恐れる」ニンジャスレイヤーは言った。デシケイターは目を剥いた。得体の知れぬ怨嗟を呟きながら、顔もわからぬ者達がデシケイターの足元に湧き集まり、這い上ってこようとしていた。「嘘だ……! あああああ、やめてくれ、やめてくれ……」

 デシケイターを苛む黒炎は、既に彼の知る情報を搾りつくした。今の彼は、彼自身が我知らず抱えてきたものに呑まれようとしていた。それが何なのか、デシケイター自身にもわかりはしない。数字の陰、澱のように内奥に溜まってゆくものに彼が興味を払ったことなど、終ぞ無かったゆえに。

 ニンジャスレイヤーは目を閉じ、開いた。その目は燃えていた。「イヤーッ!」水平に構えたチョップで、デシケイターの首を刎ねた。「サヨナラ!」デシケイターは爆発四散した。虫たちは篝火に誘われて自死する蛾めいてニンジャスレイヤーの装束に取り付いては、黒く焼かれ、散っていった。


◆◆◆


 アンキタが恐る恐る目を開くと、視界に入ったのはコトブキの小さな背中だった。アンキタは息を呑んだ。生きている筈はない。「ケガはありませんでしたか」コトブキは少し振り向きながら、アンキタに優しく言った。「わたしは頑丈です。心配ありません」その身体から蒸気が立ち上り、関節部はバチバチと音を立てている。「確かにな。頑丈なガラクタが残ったか」ススキが言った。コトブキの衣服は焦げ、そのボディも熱損傷が著しい。

「もはや戦闘継続は不可能。直接トドメを刺す」キュイイ……ロケット弾発射の耐衝撃機構を解除しながら、ススキはゆっくりと立ち上がった。「同じウキヨとの戦闘は初めてだ。色々と学びは多かった。有益な死と思え」「死にません。絶対倒します」コトブキは言った。「今は勝てなくても……!」

「笑わせる」その言葉通り、ススキは口の端を歪めて笑った。右腕を打ち振ると、手の甲から微細に震動する刃が飛び出した。これでカイシャクするのだ。「イ「イヤーッ!」「ンアーッ!?」弧を描いて飛翔したスリケンが、振り上げたススキの右腕を肘先から吹き飛ばした。

「イヤーッ!」続けて、赤黒の風が飛び来たった。ススキは瞬時に危機を察知、かろうじてその跳び蹴りを回避した。ニンジャスレイヤーはゴミ山から反対側のゴミ山へ跳び、その頂からススキを睨み下ろした。「……!」ススキは放電する右腕を忌々しげに一瞥し、ニンジャスレイヤーを見上げた。

「貴様のボスは殺した」ニンジャスレイヤーは言い放った。「貴様には用はない」「……」ススキはこめかみに指を当て、信号を受信。デシケイターのバイタルサイン消失を確認した。彼女はニンジャスレイヤーとの位置関係を鑑みた。ニンジャスレイヤーの圧倒的優位。かつ、戦闘継続は無意味。

「……そうか」ススキは舌打ちした。「奴は有能だった。だが、死んだか」「チクショウ」コトブキは力尽き、膝をついた。「これで勝ったと思うなよ……!」「フン」ススキは鼻を鳴らし、両手をひろげた。「何故、そうなる。だが、私の方は貴様らには二度と会いたいとは思わない。商売の邪魔だ」

「二秒待つ」ニンジャスレイヤーは言った。ススキは身を翻し、走り去った。コトブキはそのままうつ伏せに倒れ、ごろりと転がって、大の字に仰向けになった。アンキタが駆け寄った。「コトブキ=サン。貴方……」「ふがいなくてスミマセン」「何をバカな」「それに、ゴメンナサイ。本当に」

「助けてくれた。十分よ」「違います」コトブキはノイズ交じりの声で言った。「騙しました。ユウジョウを裏切ったこと、申し開きはできません。もっといいやり方があった可能性もありますが……」「バカね」アンキタは首を振り、涙をにじませてコトブキの手を握った。

 ザリザリ……コトブキの声帯が、壊れたラジオめいて、IRC通信を漏らした。『モシモシ、どっちか応答しねえか。応答。こっちはうまくやった。そっちは!』「例の主任は、無事、ですか」『無事だ。クソッ。注射を……こっちの話だ。とにかくオレは二度とやらねえ。今回は利害の一致があったから……』

「これでタキ=サンの病気も治りますね。本当に良かった」『……』タキは唸るような、声ならぬ声をあげた。主任の無事を聞いて、アンキタは胸を撫でおろした。シンケンタメダ社の今後は誰にもわからない。しかし少なくともニューログラに関しては、ジェネリック薬流通の目も出てきた。

 ニンジャスレイヤーはゴミ山を滑るように降りてきた。アンキタは恐る恐る尋ねた。「社長、死んだの?」「……」ニンジャスレイヤーは無言で頷いた。アンキタは返す言葉が無かった。死んだエドゥアルト・ナランホの資産は防衛策が更新されぬまま放置され、いずれハゲタカめいて有象無象の手に渡るだろう。

「あの社長……そうか」憎みに憎んだ人間だったが、死という事実を即座に咀嚼するのは難しい。アンキタは首を振った。「貴方がコトブキ=サンの一味という事ね。……色々やってくれたわね、本当に」「スミマセン」コトブキがもう一度言った。「もういい。もういい」アンキタは力なく微笑した。

 ゴミ山とゴミ山の間、道路を走る満載タクシーの列が見える。いまだ日は高かったが、空には月が透けて見えた。それは砕けており、インガオホーを呟くことはない。「動けません」月を見ながら、コトブキが言った。ニンジャスレイヤーは無言でコトブキを肩に担ぎ上げた。


【ウィア・スラッツ、チープ・プロダクツ、イン・サム・ニンジャズ・ノートブック】 終わり

第12話に続く


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