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『帝都探偵奇譚 東京少年D団』試し読み


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舞台は、蒸気と狂気と暗雲に包まれた、1920年の帝都東京……。 


明智小五郎の帰還

巨人と怪人

 美術城の事件から半月ほどが経った、ある日の午後。東京駅のプラットホームの人ごみの中に、一人のかわいらしい美少年の姿が見えた。読者諸君にはおなじみの明智探偵の少年助手、小林芳雄である。

 小林少年は半ズボンにジャンパー姿で、よく似合う鳥打ち帽をかぶり、ピカピカに磨かれた靴をコツコツいわせながら、プラットホームを行き来していた。その手には棒のように丸めた一枚の新聞が握られている。

 新聞紙は素晴らしい。広げて読めば顔を隠したまま暇をつぶせるだけでなく、特高警察養成学校では通称ミルウォール・ブリックとも呼ばれる凶悪即席武器の扱い方を必ず実習する。彼のような非力そうな少年探偵が、市中でアナキストやコミュニストといったファック野郎に遭遇した場合、たった一枚の新聞紙ですらも実に頼もしき武器となるのだ。

 このように、小林少年は真面目でかわいらしく、また常に注意と油断をおこたらない。本日彼が東京駅にやってきたのも、彼がこの世で唯一尊敬する先生であるところの、明智小五郎を出迎えるためであった。

「先生が今度こそ、本当に、日本へ帰ってくる……!」

 明智は某国からの招きに応じ、ある重大な事件に関係し、見事に成功をおさめた。大日本帝国の威信拡大に寄与した英雄としての凱旋帰国である。

 本来ならば外務省や民間団体からの華々しき出迎えがあってもおかしくない程の功績だが、明智はその手の仰々しさを心底嫌っていたし、探偵という職業上、人目につく事は避けねばならない。

「まったく先生らしいな」

 ゆえに公の方面には何も知らせず、ただ自宅だけに東京駅着の時間を知らせておいた。しかも、明智夫人は出迎えを遠慮して、小林少年がこうして出かける決まりだった。

 小林少年は待ち遠しげに、何度も腕時計に視線を落とした。尊敬する師の三か月ぶりの帰国とあって、その美しい顔には隠し切れぬ輝きがあった。

「おや、君は明智さんのところの方ではありませんか?」

 小林少年は顔を上げ、声をかけてきた男を観察した。いつもの冷徹な表情で。

 鼠色の暖かそうなオーバー・コート、籐とうのステッキ、半白の頭髪、口髭、でっぷり太った顔に、べっこうぶちの眼鏡が光っている。立派な紳士であるが、小林少年にはおぼえがなかった。

「ええ、そうですが……あなたは」

 小林少年は後ろ手で新聞紙を巧みに折りたたみながら問い返した。

「わたしは外務省の辻野という者だが、この列車で明智先生が帰られる事がわかったものだから、非公式にお出迎えに来たのですよ。少し内密の用件もあるのでね」

「ああ、そうですか。ぼくは先生の助手で、小林と申します」

 彼は帽子を取ってお辞儀をし、怜悧な目で見据えた。辻野は一層にこやかな顔を作って言った。

「君の名はよく聞いていますよ。いつぞやの新聞で写真も出ていましたしね。トヤマ・フィールドでの二十面相との一騎打ちはおみごとでしたねえ。君の人気はたいしたものですよ。うちの子供たちも大の小林ファンです。ハハハ……」

「そうですか」

 そっけなく答えたが、美少年は面映ゆさに少し頬を赤らめ、新聞紙を元に戻した。

 辻野は優しい声で続けた。

「二十面相といえば、修善寺では明智さんの名前を騙かたったりして、ずいぶん思い切った真似をするね。そればかりじゃない。今朝の新聞を見たかね? いよいよ国立博物館を襲うんだと。公権力をバカに仕切っている。大胆不敵、あきれた態度だ。あんな奴をこれ以上放置すれば、国家社会の基盤が否定されてしまうと思わんかね。私は明智先生の帰国を今か今かと待ち続けていたのだよ」

「僕もです。力を尽くしましたが、僕の手では二十面相を捕らえることはできなかった……不本意ながら、先生に動いていただかねばならないと考えています」

「君が持っている新聞は、今朝のやつかね」

「そうです。博物館襲撃の予告状が載っている新聞です」

 小林少年は新聞をひろげてみせた。社会面の半分ほどが二十面相の記事でうまっている。その意味をかいつまんで記すと、昨日、二十面相から国立博物館長あての速達便が届いたが、そこには、博物館所蔵の美術品を一点も残らず頂戴するという、実に驚くべき宣告文がしたためてあった。またも大胆不敵な犯罪予告! さらに例によって、十二月十日という具体的な日時の明記までもが行われていた。

 十二月十日……あと九日間しか残されてはいないのだ。

「しかし、国立博物館を襲うなど、およそ正気の沙汰とは思えません」

 怪人の恐るべき野心は、ついに頂点に達したように思われた。彼はついに国家に対して宣戦布告を行ったのである。これまで彼が餌食にしてきたのは、資本家、富豪、名士……あくまで個人が貯め込んだ財宝の数々である。憎むべき仕業ではあるが、過去に例のないことではなかった。しかし、博物館を襲うというのは、すなわち国家の所有物を手にかけるという事だ。大胆とも無謀ともいいようのない、恐るべき行いである。

 当然、その行い難きは、個人邸宅に比べるべくもない。何十人という役人が常時勤務し、守衛、警官、武装機械の数々が哨戒にあたっている。しかも事前の予告ありとなれば、どれほど警戒が厳重になるだろうか。

 嗚呼、二十面相は気でも狂ったのだろうか? それとも、奴にはこのまるで不可能としか考えられぬ事をやってのける自信があるのだろうか? 人知を超えた、悪魔的な計略が……?

 だが、読者諸氏よ、今は二十面相に対する憶測はこの程度にとどめ、我らが小林少年と共に、明智名探偵を迎えねばならない。

「おお、列車が来たようだね」

 辻野氏が注意するまでもなく、小林少年はプラットホームの端へ駆けていった。

 出迎えの人垣の前列に立って左のほうを眺めると、明智探偵を乗せた急行列車は、刻一刻、その形を大きくしながら近づいてくる。空気が震え、黒い鋼鉄の箱が目の前をかすめた。チロチロと過ぎていく客車の窓の顔、ブレーキの軋りとともに、やがて列車が停止し、一等車の昇降口に、名探偵明智小五郎その人の姿が見えた。

 黒い背広、黒い外套、黒いソフト帽という黒ずくめのいで立ちの彼は、小林少年に気づくや、いきなりその帽子を投げ渡した。

「よう、元気だったか」

「先生!」

 赤帽にいくつかのトランクを渡したのち、あやうく帽子をキャッチした小林少年のもとに、明智小五郎はツカツカと歩み寄った。全身に活力が満ちており、彼の足取りは驚くほど軽い。

 ゆるくウェーブのかかった髪を後ろで結わえ、顎髯を薄く生やし、自信溢れる笑みをたたえている。その瞳には謎めいた知性の光を潜ませ、からかうような眼差しの奥底には決して揺らぐことのない信念の重みも垣間見えた。恵まれた長身と鍛え上げられた肉体美は背広を着てなお明らかで、群衆の中にあってもその危険な魅力は迸るほどだった。

「新聞で逐一読んでいたぞ。お前、俺がいない間、だいぶ派手にやっていたようじゃないか。いたずら小僧め」

「よしてください、子供扱いは」

 気分を害した顔をしながら、やはり三カ月ぶりに敬愛する先生に会う喜びは隠し難かった。やがて二人はどちらからともなく手を伸ばし、かたい握手をかわした。

 そのとき、外務省の辻野氏が明智のほうへ歩み寄り、肩書付きの名刺を差し出しながら声をかけた。

「明智先生ですね。かけちがってお目にかかっていませんが、私はこういう者です。実は、この列車でお帰りの事を、ある筋から耳にしたものですから、急に内密でお話ししたいことがあって出向いて参ったのです」

「ンー……ああ……」

 明智は名刺を受け取り、眉根を寄せてしばらくそれを眺めていたが、やがて、ふいに顔を上げ、快活に答えた。

「ああ、辻野さん。辻野さんね。成る程。名前は知っている。俺のほうでも、いったん帰宅して着がえをしてから外務省へ向かうつもりだったんだが。わざわざ来る事ァなかったのに」

「もしよろしければ、そこの鉄道ホテルで、お茶を飲みながらお話ししたいのですが……決してお手間はとらせませんので」

「鉄道ホテルですか。ふうん。鉄道ホテルねえ」

 明智は辻野氏の顔をじっと見つめた。

「……よかろう。別に構わんよ。では、行くとするか」

 それから明智は少し離れたところで待っていた小林少年に近づいて、何か小声に囁いてから、「小林君。俺はちと、この方とホテルに寄る事にしたから。荷物をタクシーに乗せて、先に帰っていろ」と命じた。

「ええ。では、先に参ります」

 赤帽のあとを追って駆け出していく小林少年を見送ると、名探偵と辻野氏は肩を並べ、さも親しげに話し合いながら、地下道を抜けて、東京駅の二階にある鉄道ホテルへ上っていった。

 あらかじめ命じてあったものと見え、ホテルの最上等の一室に、客を迎える用意ができていて、恰幅のよいボーイ長がうやうやしく控えている。

 二人がりっぱな織物で覆われた丸テーブルを挟んで安楽椅子に腰を下ろすと、待ち構えていたように、別のボーイが茶菓子を運んできた。

「君、少し密談があるから、席を外してくれたまえ。ベルが鳴るまで、誰も入ってこないように」

 辻野氏が命じると、ボーイは一礼して立ち去った。

 締め切った部屋の中、二人きりの差し向いである。

「明智さん。ぼくはどんなにか君に会いたかったでしょう。一日千秋の思いで待ち構えていたのですよ」

 辻野氏は親しげに微笑みながら話しかけたが、その目は鋭く、明智から決して視線をそらそうとしなかった。

 長旅を終えたばかりの明智は、安楽椅子に深々と身を沈め、辻野氏におとらぬにこやかな笑顔で答えた。

「実のところ、俺のほうでも、あんたに会いたくて仕方がなかったんだ。汽車の中でも、あんたの事を考えていた。こんな風に、あんたが駅にわざわざ出迎えに来てくれるんじゃないかとな」

「それは、それは。ではぼくの本当の名前もご存じなんでしょうね」

 辻野氏の何気ない一言には恐ろしい力がこもっていた。興奮のために、椅子の肘に乗せた左手の先が微かにふるえていた。

「本当の名前? それは知らんよ」

 明智は肩をすくめた。

「なにしろ本当の名は公に名乗ってもおらんだろう? 二十面相君」

 明智は平然として凶賊の名を言い放った。嗚呼、読者諸君! 彼は何を言っているのか? 目の前にいるのはいかにも温厚そうな辻野氏ではないか! そもそも盗賊が探偵をこうして直接出迎えるなどと……しかも探偵のほうでもそれを知りながら実際にお茶に呼ばれるなどと……そんなバカバカしいことが実際に起ころうものか!?

「明智君……素晴らしい。本当に素晴らしい。きみはぼくが想像していた通り、望んでいた通りの方だ。ぼくの正体を知ったうえで敢えて誘いに乗るなど、シャーロック=ホームズですらできない芸当ではないか。ぼくが今どれほど高揚しているかわかるか? なんて素晴らしい……生きがいに満ちた人生なんだろう。嗚呼、この興奮のひと時だけが、このぼくを苦しみから解き放ってくれるんだ!」

 辻野氏に化けた二十面相は、高揚を隠しもせず、明智への一種の尊敬の念をあらわにした。その感情には偽りはなさそうだった。だが、明智は油断はしなかった。彼の目は、決して洋服のポケットから出そうとしない辻野氏の右手に注がれていた。

「嬉しいのはわかったが、少し落ち着いたらどうだ」

 明智は眉ひとつ動かさずに言った。

「俺もお前も文明の徒だ。戦国時代ならいざ知らず、こうして直接対面するのは別に大それた事でもなかろう。しかしまあ……二十面相君、お前、ちょっと気の毒だったな。俺が帰ってきた以上、例の大計画はおしまいだ。お前は博物館の美術品には指ひとつ触れられやせんよ」

「クククク……ますます素晴らしい」

「それからな、お前、あの可哀そうな爺さんの事を忘れてるかもしれんが、伊豆の日下部家の宝物も、そのままにしておくつもりはないぞ」

「これはこれは。日下部氏をご存じですか」

「そりゃお前、向こうでも新聞を読んでいたさ。俺の名前を勝手に使いやがって。これでも、そこそこ気分を害しているんだぜ」

 明智は微笑み、深く吸い込んだ煙草の煙を、二十面相の顔に向かって吹きつけた。

「それじゃ、ぼくも約束しましょう」

 二十面相も負けてはいない。

「博物館の所蔵品は、予告の日には必ず奪い取ってお目に掛けます。それから、日下部家の宝物……ハハハ、あれが返せるものですか。貴方も共犯者ですよ、明智小五郎殿?」

「そこだよ、そこ」

 明智は煙草を向けた。

「お前ごときが俺を騙って、お前の不細工が俺の風評になっちまったら、どうしてくれるって話だぜ」

「アッハハハハハハ!」

 互いに相手を滅ぼさんばかりの敵意に燃えながら、しかし、大盗賊と探偵はあくまで親しい友達のように談笑を続けた。この平和的・敵対的談笑の中で、明智の頭脳はみるみるうちに加速してゆく。二十面相の備えはポケットのピストルだけとは限らない。先ほどのボーイ長はどうか。ほかのホテル・スタッフは。明智は一秒間につき十通りの仮定を精査した。超人的知能指数がなせる技だ。

 まさにそれは白刃を構えた二人の侍が必殺の一撃を繰り出さんと互いにうかがうがごとし。ほんの微かな心の乱れ、油断が差せば、たちまちこの拮抗状態は崩れ、一方が一方を制する事だろう!

 

トランクとエレベーター

 なぜ名探偵はプラットホームで賊を捕らえなかったのだろう? そうすればわけなく天下の大盗賊に引導を渡すことができたであろうに。読者諸氏の中には、あるいはそのように思料される方もいらっしゃるかもしれない。

 しかし、それこそが、我々と次元をわかつ、名探偵明智小五郎の絶対の探偵精神、探偵超感覚というもののなせるわざである。彼は博物館の宝物に賊の一指をもそめさせない自信があった。例の美術城の宝物も、その他の数え切れぬ盗難品も、この機にすべて奪い返す気でいた。

 だからこそ、彼はプラットホームの時点では二十面相を捕らえなかった。二十面相には多くの手下がいる。もし首領が捕らえられたとすれば、部下の者たちはあらかじめ決められたルーティーンに従い、盗み貯めた宝物を処分しつくし、証拠の完全隠滅と完全現金化を遂行するであろう。逮捕はそれら宝物の在処をおさえた後に行う必要があったのだ。

 そうと決まれば、せっかく出迎えてくれた賊を失望させるよりは、いっそその誘いに乗ったと見せかけ、敢えて真っ向勝負をかけて、二十面相の知性のほどを試してみるのも一興であろうと考えたのである。

「考えてもみてくれないか。この状況を」

 二十面相はほとんど表情を動かさず、口の端を動かし、アルカイックな笑みを浮かべてみせた。一方で、ひくひくと微かに動いている目尻は随意のものではあるまい。明智小五郎はまず、そこに気を惹かれた。表層的な微笑に意味はない。ではこの目尻の動きは何か。

 (嗜虐心か? それとも、ナルシスティックな狂気か……?)

 アドレナリンが湧き出し、明智の心理学的洞察力が加速する。彼の天才的頭脳は、いまや知能指数120から300にまで急上昇していた。探偵の訓練を積んだ者にのみ許される、急激かつ危険な知能指数ブーストである。短時間での3倍近い知能指数急上昇はすなわち、彼に5倍の時間の鈍化、すなわち空間そのものが数秒間連続写真のように静止したかのような錯覚をもたらす。

 時計文字盤。秒針。床。優位に立てるテーブル。武器となりそうな調度品。二十面相の目。その焦点は壁のベルに。ガラス窓に。何か策があるのか。勝利を確信しているのか。逃げ出す手段を講じているのか。微かな指先の動き。そして表情筋の観察を続ける。何重にも重ねられたその狂気の奥にあるのは何だ。

 (……恐怖……? こいつも、恐怖を感じるのか……?)

 明智は直ちには言葉を返さず、敵の出方を見た。

「そこのベルを押してみるか、明智小五郎? そしてボーイに、おまわりさんを呼んでこいと命じさえすればいい。それで君の勝ちだ」

 二十面相は不敵に笑い出した。

「クク……ハハハハ……それでぼくは即逮捕……ぼくは今、蓋のあいた地獄の釜の上で綱渡りをしているようなものだよ。今この時、破滅のはらわたを間近に見ながら、ぼくの皮膚感覚が研ぎ澄まされ、とても美しい時間を感じている。とても美しい時間が流れている!」

「はははははは!」

 明智小五郎は二十面相を睨み据えたまま、哄笑を放った。

「そうビクつくんじゃねえよ……俺はお前の正体を知った上で、こうしてノコノコ顔出してやってるンだ。今ここでそんな事をしちゃあ、台無しだろうが」

 明智は身を乗り出し、言葉に力を込めた。その知能指数はいまや310に達さんとしている。危険だ。

「お前を捕らえる事は、いつでもできる」

「ハハハ! 大きく出たな明智君。君には君なりの目的があって、誘いに敢えて乗ったと?」

 怪人の知能指数もまた危険な高まりを見せる。二十面相と明智のぶつかり合う凝視は周囲の空気を歪めるほどに強く反撥した。明智は答えた。

「ああ、そうだ。俺はお前に興味がある。値踏みしてやろうって寸法さ。お前の予告した博物館襲撃までまだ九日残ってる……俺はお前の無駄な骨折りがどれ程のものか、じっくり見届けてやる。どうか、がっかりさせてくれるなよ」

「成る程、これが明智小五郎か! 噂以上に大胆不敵な男だ!」

 二十面相の双眸が爛々と燃え上がった。怪人の悪魔的頭脳もまた、明智小五郎に対抗すべく、いまや知能指数320にまで急上昇していた。

 ポタリ。ポタリ。両者の顎先から床のカーペットへと、ゆっくりと鼻血が滴り落ちていった。それは知能指数を急激上昇させたことによる不可避の副作用である。だが両者ともに、この危険な頭脳酷使をいささかも緩める気はない。緩めれば即座に出し抜かれ、敗北するであろう。両者の精神はいわば、必殺の剣を繰り出し会う直前の、激しい鍔迫り合い状態にあるのだ。

「もっと折り目正しい正義漢の類いが、毅然とした挑戦を浴びせてくるものと踏んでいたのだが。素晴らしいじゃないか。しかし、果たしてその大胆不敵は真実のものだろうか? うわべではないかね? 明智君、君が見せる大胆さは、さながら逃れられぬ恐怖に直行するシベリヤ特急列車かもしれないのだよ。ぼくがただ挨拶するためだけに君を誘い出したと考えているのならば、君はぼくの邪悪の質を……憎悪の深さを見誤っているといえよう。ぼくが君をこの部屋から黙って送り出すと思うのかね?」

「ンなこたァ、どっちでも構わん。お前の意思なんてのはな」

 明智はニヤリと笑った。

「俺のほうの用事はこれで済んだ。お前は暇なんだろうが、あいにく俺はこのあと外務省に行かなきゃならんのでな」

 そしてゆっくりと立ち上がり、言葉と裏腹に、ドアとは反対の方へ歩いていった。彼は極めて悠然とした身のこなしで、ガラス越しに窓の外を見やり、あくびまじりにハンカチで顔をぬぐっている。

「それは出来ぬ相談だ!」

 二十面相は芝居がかった仕草で、パンパンと2度、手を打った。応えてズカズカと入室してきたのは、最前の頑強なボーイ長と、同じくらい屈強なボーイ。二人は懐から黒帯を取り出し、ボーイ服の上からそれを巻いてカラテを構えた。猟奇! カラテ有段者! 二十面相はこの二人のカラテ・オーガーの前に立ち、笑いながら言った。

「さきの余裕は、ここが鉄道ホテルだからと安心しての物言いかね? だとすれば残念だったな。ご覧の通り彼らは……クククク……ぼくの手下さ。挨拶するんだ、金閣! 銀閣!」

「ハーッ……」「GRRRRR……」

 二人のボーイは鼻下を覆う無骨なガスマスクから白い息を蒸気めいて吐いた。暴力の高揚を歪んだ瞳に滾らせ、鉄のグローブを嵌めた両拳をガシガシと打ち合わせて見せた。その打撃を顔に受ければ、皮膚はたちまち裂け、頬骨や歯はこなごなに砕け散るだろう。

 彼らは明智に向かって突き進んだ。

「そう逸はやるな。俺と喧嘩がやりたいのか?」

 明智は窓を背にしてカラテを構えた。二十面相は肩をふるわせて笑った。

「ちょうど君の足元にトランクがあるだろ? 中には何も入っていない……これから入れるんだからね、君の身体を。そのトランクは君の棺桶だ。このふたりのボーイ君が、君をこれから叩きのめし、トランクの中へ埋葬しようってわけさ。……さて、どうだね? 先ほどまでの威勢を引き続き発揮できるだろうか?」

 明智は二十面相を睨んだ。二十面相は満足げに、ヒステリックな含み笑いを高ぶらせた。

「ククク、ハハハハハ……さすがの名探偵も、僕がこれ程までに周到な準備をもって臨んだ事までは予期しなかったか? 一応忠告しておくが、声を上げたところで誰も助けになど来やしない。左右の部屋はぼくの借り切りで、廊下にも見張りが控えている」

「そりゃないぜ。最初から命綱を張ってやがったのか? 破滅のはらわただの、美しい時間だの、ありゃどうした」

 明智はおどけた調子で抗議したが、二十面相はますます面白そうに言い放つのだった。

「ククク……常人にとって、言葉は麻薬だ……己の吐いた言葉がその者を縛り、隷属させる。だがあいにく、ぼくは真に自由な存在であり、真実を弄ぶ資格を持つアーティストなのだよ」

「コー、シュコーッ」「GRRRRR」

 カラテ・ボーイがじりじりと間合いを詰める。不覚! 名探偵明智小五郎、敵の罠に堕つ! だから言わん事ではないのだ。二十面相の変装をあらかじめ見抜いておきながら、敢えて会談の場に自ら出向くとは! あの時点で踵を返し、警察の手に委ねておれば、あるいは……!

 二十面相には何らかのトラウマがあり、直接の流血を忌み嫌っている事は、これまでの彼の狼藉の内容からも明らかである。しかし、明智小五郎は目下二十面相最大の敵と目される帝都の最終兵器。トランクの中へこのまま閉じ込め、人知れぬ場所へ運び去り、博物館の襲撃が終わるまでとりこにしておくぐらいの事を二十面相は躊躇いなくやってのけるだろう。そうなれば何もかもがおしまいだ!

「どうした! 金閣! 銀閣!」

 二十面相が叱責した。

「今すぐ明智を無力化し、トランクの中に詰め込むがいい!」

「シュコー……」「GRRRR……」

 二人のカラテ怪物は身構えたまま、やや躊躇いがちに隙をうかがうばかりだ。名探偵の眼力、そしてその構えからにじみ出す確かなカラテと知能指数は、踏み入れぬ不可視の威力領域を生ぜしめていたのである。

「お仕置きが欲しいか?」

 しびれを切らした二十面相がゾッとするほど冷たい声で呟いた。途端に二人は、電気ショックでも浴びたかのようにビクリと体を震わせ、躊躇を捨てて明智に掴みかかった!

「コーッ! シュコーッ!」「GRRRRRRR!」

「イヤーッ!」「グワーッ!」

 明智の右腕が霞んだ! 次の瞬間、銀閣の体は数センチ空中に浮き上がり、後ろへ吹き飛ばされていた。

「イヤーッ!」「グワーッ!」

 さらに明智の左腕が霞かすんだ! 次の瞬間、金閣の体は半回転しながら弾き飛ばされていた。壮絶! あまりに速き名探偵の護身拳撃!

 このとき明智の頭脳は迫り来る危機を前に極度ブーストされており、知能指数は瞬間的に400弱をマークしていた。今の彼は、床に針が落ちる音すら聞き分けたであろうし、空気の流れすらも目視することができた。迫り来るカラテ・オーガーたちの無骨な鉄拳が己の顔面を狙い来る軌道を、明智はこの極度の知能指数によって事前に見て取り、最小限の体の動きで躱し、最適かつ最小限の打撃を素早く一度ずつ返したのである。

「シュココーッ!」「GRRRRRR!」

 金閣と銀閣は顔から血を流し、困惑しながらも、今度こそ命令を遂行せんと再びカラテの構えを取った。明智は眉根を寄せた。

 (痛みを感じぬ、ときたか……?)

 何らかの興奮薬物によるものか、あるいは怪人二十面相の悪名高き催眠術がなせる技か。この二人を打ち倒すのは、いかな名探偵であろうと至難。まして、その先にいる二十面相を捕らえるなど。

 だが、奇妙! 我らが明智小五郎は、この危急に際しても決してその表情から余裕を失わず、いまだ笑みすら浮かべているではないか。そして、その笑顔が、おかしくてたまらぬという様子で、さらにくずれてくるではないか!

「はははは……ははははは!」

 笑い飛ばされて、二人のボーイは思わず掴みかかる手を止めた。明智の笑いは強がりや虚栄の類いではない。心からの笑いだった。彼らが予想していた明智の反応は、捨てばちの攻撃意志、恐怖、不安、そうしたネガティヴなものだった。彼らはキツネにでもつままれたように立ちすくみ、お互いを見た。

「明智君。その笑いは、かえって滑稽だぞ」

 二十面相は咎とがめ立てた。明智小五郎はこらえきれぬとばかり笑い続け、涙を拭って、ようやく言葉を返した。

「いや、失敬、失敬。お前らの大真面目なお芝居があんまりツボに入ったんでね。なあお前、そこからでいい。ちと窓の外に目を向けてみろ」

「何……?」

 二十面相は目を眇めた。

「何が見えるものか。駅のプラットホームとツェッペリン、呪わしき黒煙……忌々しい帝都の空と、乱杭場じみて並ぶしみったれた屋根ばかりだ」

「ははは……勿論、勿論そうだ。弱肉強食の帝国主義国家の姿、内なる軋きしみに悲鳴を上げる哀れなバビロンさ。だが、その屋根の向こうに妙なものが見えはせんか。ほら、あれだ。わかるだろうが」

 明智は指差して見せた。

「屋根と屋根の間から、ちょっと見えているプラットホームに、黒いものがうずくまっているだろ。子供に見えんかね。小さな望遠鏡で、しきりにこの窓を眺めているようだぜ。なあ、二十面相よ、お前、あの子供に見覚えがないか?」

「あれは……!」

 二十面相は目を剥いた! 知能指数320によってもたらされた超人的視力と判断能力は、ほんのわずかな外見的特徴で、それが誰かを識別することが可能である!

 驚愕! 読者諸氏よ、諸兄は当然それが誰かご存じの筈だ。

 然り。明智探偵の名助手、小林少年である! これほど距離が離れ、ほんの小さな豆粒程度の影であっても、その繊細かつ背徳的な美少年性は明らかであった。小林少年は特高警察七つ道具のひとつ、万年筆型望遠鏡でホテルの窓を覗きながら、何かの合図を待ち構えていたのだ!

「小林君だと!? バカな……彼は帰宅したのでは? この場所に留まっていたのか?」

「その通りだ。俺がどの部屋へ入るか、ホテルの玄関で問い合わせて、その部屋の窓を注意して見張っているように命じていたのさ」

 しかし、それが何を意味するのか、二十面相にはまだ呑み込めていなかった。謎と小林少年の妖しい美しさが喚起する欲望が彼の脳内でせめぎ合い、ひどく胸を騒がせた。

「勿体つけるな! 明智!」

「勿体つけるなとは、これはこれは。お前がそれを言うのか」

 明智は挑発し、己の手を示した。

「ならばこれを見るがいい。お前やお前の愚鈍なボーイどもが俺に手出しをすれば、このハンカチが、ひらひらと窓の外へ落ちていくんだぜ」

 見ると、明智の右の手首が、少し開かれた窓の下部から外へ出ていて、その指先に真っ白なハンカチーフがつままれているではないか!

「これが合図だ。すると、あの美少年はプラットホームをサッと飛び降り、駅の事務所に駆け込む。それから電話のベルが鳴る。そして警官隊が駆けつけて、ホテルの出入り口を固めるまで、そうさな……五分もあれば充分だと思わんか?」

 名推理! いまや明智の勝利は誰の目からも明白である!

「俺のカラテを試すか? 五分や十分、お前ら三人を相手に立ち回るのはわけない話だぜ」

「ヌウウーッ……!」

 二十面相はこめかみに血管を浮き上がらせ、その眼力で明智の腹の中を見透かそうとした。この探偵の言葉に嘘はない。確かに凄まじいカラテを自家薬籠中のものとしていることがわかった。明智は続けた。

「どうだ、この指を開いてみるか。あるいは俺が不注意で思わずクシャミの一つ二つして、ハンカチを落としてしまうかもしれんな。そうすれば、二十面相逮捕の素晴らしい大場面が見物できるッて寸法だ……」

 二十面相は窓の外に突き出された明智のハンカチーフと、プラットホームの小林少年の姿を見比べながら高速思考を巡らせていた。やがて己の不利を悟り、やや顔色を和らげて言うのだった。

「そして、仮にこのぼくがここで踏みとどまり、君を無事に帰す場合には、そのハンカチを落とさず済ますという事か。つまり、君の自由とぼくの自由の交換という事」

「だァから、俺はさっきからそれしか言っちゃいないんだぜ」

 明智は顔をしかめた。

「俺はお前をいつでも捕まえられる。そう言った筈だ。もし捕らえるならば、なにもこんな回りくどいハンカチの合図なんか要りやしねえ。小林君がすぐに警察を呼ぶさ。ただでさえアイツは今すぐにでもそうしたくてたまらないんだろうがな……そうすりゃ、お前はたちまち警察の檻の中だ。ははははは!」

「おかしな男だ……そうまでして、ぼくを逃がそうというのか」

「そうとも」

 明智は二十面相を睨んだ。

「今ここでお前を捕らえれば、お前のアジトも、これまでせしめた財宝の在処もわからずじまいだ。はっきり言っておくが、俺はお前に完全勝利する事しか考えちゃいない。お前を叩きのめした暁には、お前がこれまで奪ってきたすべてのものをすっかり返して貰う。一網打尽だ」

「……!」

 二十面相は長い間、さも悔しげに、唇を噛んで黙り込んでいた。しかしやがて、気を変えたように、にわかに笑い出したのだ。

「さすがは明智小五郎だ。君には他の愚鈍な連中とは違った精神のあり方を感じる事ができる。そうでなくては……! まあ、気を悪くしないでもらいたい。ぼくは君がこの極限状態でどんな反応をするか、試してみたかった。ほんの戯れなんだよ。では、今日はこれでお別れとして、君を玄関までお送りしよう」

「お別れするのはいいんだが、このボーイ諸君と廊下のお友達を、台所の方へ遠ざけてくれんかね」

 明智は顔をしかめて言った。二十面相は肩をすくめてみせた。

「用心深い事だ。はなからそんな真似はしないよ」

 二十面相はボーイたちを下がらせ、入り口のドアを大きく開いて、廊下が見通せるようにした。

「さあ、ご退出なされませ。奴らが階段を降りていく音が聞こえるだろう?」

 明智はやっと窓際を離れ、ハンカチをポケットにおさめた。少し離れた部屋からは他の客の気配がする。おそらくこのホテルが完全に二十面相の手に落ちたという事はないのだろう。しかし油断は禁物である。

 二人はまるで親しい友人同士のように、肩を並べて、エレベーターの前まで歩いた。 

 入り口は開いたままで、二十歳ぐらいの制服のエレベーター・ボーイが人待ち顔に佇たたずんでいる。

 明智は何気なく、一足先にその中へ入ったが、

「ああ、ステッキを忘れてしまったな! 先に降りてくれたまえ、ハハハハ!」

 白々しい二十面相の笑いとともに鉄の扉がガラガラと閉まり、エレベーターは下降を始めた。明智は特に慌てる様子もなく、よりかかってエレベーター・ボーイの手元を眺めていた。彼は何かを予期していた。

 すると案の定、エレベーターは二階と一階の中間、四方を壁で取り囲まれた箇所まで下ると、突然パッタリと運転が止まってしまった。

「ああ、どうした?」

「すみません。機械に故障が……少しお待ちいただけませんか? すぐに直りますので」

 ボーイはしきりと運転機のハンドルをいじっている。明智はその背後に音もなく忍び寄ると、豹のような鋭さで、その首筋に手刀を叩き込んだ! 

「イヤーッ!」「グワーッ!?」

 鮮烈! 決断的かつ容赦無い探偵の一撃! ボーイは床に叩き伏せられ、泡を吹いて転がった。

「俺がエレベーターの運転方法を知らんとでも? 茶番も大概にしろ……その様子じゃ聞こえんか、はははは」

 明智は笑い、ハンドルをカチッと回すと、驚愕! エレベーターは苦もなく下降を始めたではないか。彼は倒れたエレベーター・ボーイのもとに屈み込むと、ボーイの懐から一枚の紙幣を抜き取った。万札だ。賄賂! 帝都の人心の乱れここに極まれり! 二十面相に二束三文で買収されたる堕落従業員!

「いかんなあ、こういうのは」

 探偵は万札を没収した。二十面相はこのエレベーターに明智を五分か十分そこら閉じ込めておき、その隙に階段を走り降りて逃走しようという腹だったのだろう。いかな大胆不敵の二十面相といえど、探偵と肩を並べて、ホテルの非買収従業員や泊まり客が群がる正面ホールを通り抜ける勇気はなかったのだ。

「信用がないな、どうも。ははは……ま、奴の立場になればもっともな警戒だが」

 明智はエレベーターを飛び出し、廊下を一飛びに、正面ホールへ駆け出した。すると、ちょうど間に合って、二十面相の辻野氏が、表の石段を悠然と降りてゆくところだった。

「おお、これはこれは、辻野さん。エレベーターが故障したとか何とかで、参っちまったよ」

 明智は辻野氏の肩を後ろからポンと叩いた。

 ハッと振り向き、明智の姿を認めた辻野の驚愕の顔よ! 彼はエレベーターの計略がてっきり成功するものと信じきっていたのだ。顔色を変えるほど驚いたのも、無理はない。彼は素早く周囲を見渡し、ドアマンやフロントがこちらに注意を払っていないかどうか様子をうかがった。

「はははは。どうなさったのかな、辻野さん。少しお顔色がよろしくないようですな。ああ、それからこれを。エレベーター・ボーイから言付かったんでね。ボーイが言ってたぜ、相手があまりに完璧な名探偵だったもんで、足止めをやり損ねちまったってな……」

 明智はさも愉快そうに、歯を見せて笑いながら、例の万札を二十面相の面前でヒラヒラと振ってみせ、それから相手の手に握らせ、耳元で囁いた。

「では、さようなら。いずれ近いうちにな。二十面相君」

 そのまま振り返りもせずに、風めいて颯爽と去っていった。

 辻野氏は万札を握りつぶし、逆の手で己の胸を押さえた。彼は屈辱で顔面を蒼白にし、汗を流して呻いた。

「ああ……嗚呼! 嗚呼! 嗚呼!」

 待たせてあった自動車がドアを開くと、彼は倒れ込むように搭乗し、顔を覆って嗚咽した。

 このようにして、名探偵と大盗賊の初対面の小手しらべは、みごとに探偵の勝利に帰したのである。いつでも捕らえようと思えば捕らえられるものを、敢えて見逃された……! 薄暗い車内、心乱れ、今や変装も解けかかった二十面相は長い黒髪を振り乱し、身を焦がすような激烈なる屈辱に耐え忍ぶのだった。

「この借りは必ず返す……必ず返してみせるぞ! 明智小五郎……明智……!」


二十面相の逮捕

「明智さん! 今、貴方をお訪ねするところでした。奴はどこに!」

「ああ?」

 鉄道ホテルを出て50メートルも歩かぬうちに、明智は駆け寄ってきた別の人間に呼び止められた。睨みつけると、見た顔である。

「お前……あれか……確か今西だったか。警視庁の」

「はい!」

 然り、明智に敬礼してみせたのは、警視庁捜査課勤務の今西刑事であった。彼は律儀に敬礼した姿勢のまま、早口でまくしたてた。

「ご挨拶は後にしまして! 辻野と自称する男は、いかがなされました。まさか逃がしておしまいになったのでは?」

「ああ。逃がしたぜ」

 明智は耳をほじりながら続けた。

「詳しいじゃねえか。なぜ知ってる」

「小林君がプラットホームでおかしなことをしていましたから。あの子は実際強情ですねえ。いくら尋ねてもなかなか言わないんです」

「必要がないからな」

「……まあしかし、手を変え品を変えて、渋々ながら、なんとか訊き出しましたよ」

「あの馬鹿め」

「私とて、いたずらに国家権力を預かる身ではありませんから。貴方が外務省の辻野という男と一緒に鉄道ホテルへ入られたこと。その辻野がどうやら二十面相の変装らしいことなどを確認し、さっそく外務省へ電話をかけました。すると、辻野さんはちゃんと省にいるんです。つまりあなたをれた人間は、偽物に違いありません。私はあなたをお助けすべく……」

「ファーア」

 明智小五郎はわざとらしい欠伸で今西の言葉を遮った。

「そりゃご苦労さん。あいつはもう帰ったぞ」

「帰っ……では、そいつは二十面相ではなかったと?」

「いや、二十面相だ」

「あ、明智さん! お戯たわむれはよしてくださいよ!」

 今西は食って掛かった。

「という事は貴方は、二十面相とわかっていながら、警察へ知らせもせず、独断で面会し、しかも逃がしてやったと……?」

「うるせえなあ! だいたいお前、たったいま帰国したての俺に、どこまで不躾だ?」

 明智が今西を睨みつけると、彼の背筋は凍り、怯んで一歩下がった。

 しかし二秒後に刑事は咳払いして克己し、再びまくしたてた。

「い、いくらあなたが世をにぎわす名探偵といえど、あくまで一個人・一市民であるという事をお忘れにならぬよう。勝手な判断と行動が過ぎれば、貴方に対して二十面相の協力者としての嫌疑すらかかりかねませんぞ」

「そりゃ面白いね。お前がこの俺と事を構える覚悟があるんなら、やってみろ」

「……いずれにせよ、賊だとわかったならば、我々とて見過ごすわけにはいきません。公権力の職務として、私がこれから奴を追跡致します。奴は自動車ですね」

「まあ好きにやれ」

 明智は面倒そうに答え、歩き出した。

「忠告しとくが、無駄足だろうよ」

「貴方のお指図は受けません。ホテルへ行って自動車番号を調……」

「奴の車の番号は確認済だ。一三八八七番だ。頑張りな」

 明智は振り返らずに伝えた。

「ンンーッ!」

 刑事は怒りに歯を食いしばりながら車の番号のメモを取り、最寄りの交番の方向へ走り去った。

「一三八八七番! 一三八八七番である!」

「一三八八七番車両に二十面相あり!」

「二十面相は外務省の辻野氏に化けて乗っているとの情報!」

 警察電話が車両番号情報を都内の各警察署・交番へと拡散してゆく! 飛び交う連絡網! アナキスト、コミュニスト、およびテロリストを取り締まる特高警察もまた、独自に暴力的包囲網を敷き始めた!

 警官隊は警棒を振り上げて雄たけびを上げ、手近の浮浪者を殴りつけた。いよいよ二十面相逮捕の機運! 我こそは自動車を探し出して凶賊逮捕の名誉を担わんものと、交番という交番の警官が目を皿のようにし、手ぐすね引いて待ち構えたのである!

 車両を発見したのは、その二十分後、新宿区戸塚町の交番に勤務している一警官であった。交番前を規定以上の速度で走り抜けた一台の不審なワーゲンを見やると、そこには確かに、一三八八七番の記載があった。

「あの車だ! あの車を追え! 公務である!」

 若い警官は通りかかったタクシーへ飛び乗り、

「あの車に二十面相が乗っている。走れ! スピードはどれだけ出しても構わん。エンジンが破裂するまで走るのだ!」

「了解しましたぜェ!」

 若いタクシー運転手は欠けた歯を見せて笑い、日頃の労働の鬱憤を晴らすかのように、アクセルを底まで踏み込んだ。ギャルルルル! 後輪が道路との摩擦で激しい煙を噴き、弾丸めいた速度で車両が発進した。

 悪魔めいて疾走する二台のワーゲンは道行く人々の目を見張らせ、道路わきで作業していた人夫は風めいた勢いによってコマの如く回転し倒れた。人々は追跡する車両の後部座席の開いた窓から身を乗り出し、拳を振り上げて運転者を急かす警官の姿をみとめた。

「捕り物だ! 捕り物だ!」

 野次馬が叫びながら車を追って駆け出す。つられて犬が吠え、赤子が泣き出す。やがてアナキストたちが拡声器を持って駆けつけ、群衆を扇動し、火炎瓶が投とう擲て きされて、その場を起点に激しい暴動が始まった。

 自動車は爆発の火柱や悲鳴を後にして、ただ、先へ先へと飛んでいった。何台の車を追い抜き、何度ほかの自動車にあやうくぶつかりそうになったろう。

 スピードが出せぬ細い道を飛び出し、大環状線に出て、王子方向へ疾走する。やがて池袋を通過したころ、逃走車両からパーンという激しい音が聞こえた。すわ、ピストル発砲音か!? 否! それはタイヤのパンク音である。賊の運、尽きたり!

 ギャルルルルル! タクシーはドリフト走行で逃走車両の前を塞いで停止した。たちまち周囲の市民が野次馬に現れ、黒山の人だかりを作った。嗚呼、読者諸君! これが辻野氏の逮捕である!

「二十面相だ! 二十面相だ!」

 誰となく、群衆の間からそんな声が起こった。

 賊は戸塚交番の若い警官と、付近から駆けつけた増援警官によって押さえつけられ、もはや抵抗の意志も枯れ果てたと見えた。

「二十面相が捕まった!」

「なんて、ふてぶてしいツラだ」

「ッたく、もっと度外れた迫力の持ち主かと思ったら、たいした奴じゃなさそうじゃねえか」

「公権力万歳!」

「おまわりさん、ばんざーい!」

 群衆の異様な興奮をかきわけるように、警官と二十面相はタクシーに同乗し、警視庁へ直行した。管轄の警察署に留置するには、二十面相は大物に過ぎるからだ。

 警視庁に到着し、事の次第が判明すると、庁内にはドッと歓声が沸き上がった。手を焼いていた稀代の凶賊が、なんと思いがけず捕まった事であろうか。今回の逮捕劇の中心となった今西刑事と戸塚署の若い警察官は大殊勲者として取りざたされ、警視総監直々の表彰が行われる事となった。

 特にこの報せを喜んだのは中村捜査係長であった。係長は羽柴家の事件の際にまんまと出し抜かれ辛酸を舐めた恨みを忘れられずにいたからだ。

 取り調べは一筋縄ではいかなかった。相手は変装の名人である為、その素顔を知る者がそもそもいない。人違いであるかどうかを確かめるために、証人を呼ばねばならないのだ。

 明智小五郎の自宅に電話がかけられたが、彼は外務省に出向いて留守であったため、代わりに小林少年が出頭する事となった。

 ほどなく、いかめしい取り調べ室に、光を彫刻して生み出されたかのような美しい少年が現れた。彼は賊の姿を一目見るや否や力強く頷いた。

「この者が辻野氏を名乗った男です。間違いありません」

 きっぱりと言い切った。中村係長は恐怖に震える男の頭髪を掴み、机に叩きつけた。

「観念せよ、賊め!」

「本当に、私は私なんですよ!」

 男は泣き叫んだ。中村係長は男の頭髪を掴んで持ち上げ、再度机に叩きつけた。

「悪あがきをしたところで、苦痛と刑期が上積みされるだけだと何故わからん。国家の敵め……どう言い逃れをしようと、この小林少年の推理能力を欺あざむくことはできんぞ! 貴様が二十面相なのだ!」

 中村係長は身悶えする男の頭髪を掴んで持ち上げ、睨みつけて、低く宣告する。

「……羽柴家の事件の恨みを存分にはらさせてもらうぞ」

「ち……違う……」

 男は呻いた。

「わ、わしは知らなかった……あいつが二十面相だなどと……そんな事は……」

「貴様ーッ!」

 中村係長は再び男を机に叩きつけようとした。小林少年がそれを制止した。

「少し冷静になってください、中村係長。これ以上は私刑になります」

「ちッ……」

「わ、わしにも、わけがわからんのだ。本当だ。どうか信じてほしい」

 紳士に化けた賊は、震え声で言い募った。

「わしの憶測だが……奴はわしに化けて、わしを替え玉に使ったのではないか」

「その手には乗らんぞ」

「どうか。どうか聞いてください。わしは、こういうものです。決して二十面相なんかでは、ありません」

 ここに至り、ようやく紳士は懐から名刺入れを取り出すことが許された。差し出した名刺には『実業家 松下庄兵衛』と書かれていた。そこには杉並区のアパートの住所も印刷されている。

「わしは松下と言います。この名刺の通りです。商売に失敗し、その……今は失業していましてね……自宅兼事務所アパートに住む独り者ですよ……。きのう、日比谷公園をブラブラしていましてね……仕事が無きゃ、する事も無いじゃないですか……そうしたら、一人の会社員風の男と知り合いになりまして。その男が、おかしな金儲けを持ち込んだんですよ」

「金儲け?」

「つまり、今日一日、自動車に乗って、その男の言うままに東京中を乗り回してくれれば、自動車はそのままもらえるし、三百万の手当まで出してくれるッてンで……こんなうまい話に乗らない手はないでしょう。明日をも知れない身なんだ、こちとら!」

 挑戦的に中村係長を見返し、話を続ける。

「奴は、事情がどうとか言っていたが、理由なんてどうでもいいんですよ。当座の三百万円といえば大金じゃないですか。エエッ? アンタ養ってくれるんですか私を? 一も二もなく仕事を請けますよそりゃあ。で、今朝から自動車でほうぼう乗り回して。昼は鉄道ホテルで食事をしろッてんです。好きに食べろってね。わしはブッダに感謝しましたよ。で、ホテルの前に自動車を停めて、中で座って待っておりましたが、三十分もすると、一人の男がホテルから出てきましてね、わしの車を開けて、中へ入ってきました。それが……わかりますか……わしとそっくり同じ背格好で、顔も同じ、ステッキ、外套、何もかも同じなんだ! わしは一瞬気が狂ったかと思った。このおいしい仕事も、発狂したわし自身が作り上げた幻かとね」

 中村係長と小林少年は緊迫した視線をかわした。

「続けろ」

「男は乗ってきたかと思ったら、すぐに出ていった。去り際、わしに一言言い残してね。『さあ、すぐに出発してください。どこなりと。全速力で走ってください』と。その男はそのまま、あの鉄道ホテルの前にある地下室の理髪店の入り口へ、スッと身を隠してしまいました。わしの車はその前につけてあったんだ」

「……」

「先方の言うままにするというのがわしの仕事です。三百万円ですよ? わしはすぐ、運転手にフル・スピードで走るよう言いつけました。追いかけてきた官憲の車に気づいたのは、早稲田大学のあたりだったかね。こりゃ、ただ事じゃないと思い、運転手に走れ走れと怒鳴りました」

「何故そこで停止し、公権力に協力しなかった!」

「あ……当たり前でしょう! 猛スピードで追いかけてこられたら、逃げるにきまってる。もし捕まったら……じ、実際、捕まったせいで、今、わしはこうして謂いわれのない暴力を振るわれて! 公権力に! 机に叩きつけられてッ!」

 中村係長はばつが悪そうに小林少年を一瞥した。ほとんど激昂しながら松下庄兵衛はつづけた。

「そっからはご承知の通りだ! バカバカしいカーチェイス捕り物劇だ! 三百万円で騙されて、二十面相の替え玉に使われた哀れな失業者、それがこのわしだ! いや、替え玉じゃない。わしが本物だ。あいつが偽物だ! わしはなァ、生まれた時からこの顔だわい! 畜生ッ! ファック!」

 松下氏は怒りに唾を飛ばしながら、己の頬をつねったり、力任せに髪を引っ張ったりしてみせた。

嗚呼、徒労! 中村係長、またも賊のためにまんまと一杯食わされる! 

 のちに松下氏のアパートの大家を呼び出して確認すると、やはり松下氏は少しも怪しい人物でない事が裏付けられた。

 警視庁をあげての凶賊逮捕の喜びもぬか喜びに終わった。当然、警視総監直々の表彰もなしになった。

 恐るべきは二十面相の用心深さである。部下を鉄道ホテルのボーイとして潜り込ませ、エレベーター係を味方につけ、この松下という替え玉紳士を雇い入れ、盤石の布陣を敷いたうえで動いたのだ。明智小五郎に面会するためだけに、これほどに周到な準備を整えていたのだ! 何たる二十面相の狂気にも似た執念であろうか!

二十面相の新弟子

 明智小五郎の住宅は、港区竜土町の閑静な屋敷街にあった。可憐で美しい文代夫人と、助手の小林少年、それからお手伝いさんが一人という、名探偵の名声と収入からすれば実際質素な暮らしをしていた。

 明智が外務省からある友人宅へ立ち寄って帰宅した時には、既に日は傾きかけていた。そこへちょうど警視庁へ呼ばれていた小林少年も帰ってきて、洋館の二階にある書斎で、二十面相の替え玉事件を報告した。

「だから言ったろ」

 明智は驚きもせずに言った。

「中村と今西の奴にはいいクスリだ。お前もなあ、あんな野郎にいちいち俺の行動をバラすんじゃねえよ」

「まあお許しください。暑苦しく食い下がられて、面倒だったんです」

 小林少年は肩をすくめてみせた。そして言った。

「先生。訊いておきたい事があります。ぼくにあの車を尾行させなかったのは何故ですか? 奴の隠れ家を押さえておくことができれば、博物館の盗難を防ぐのも容易くなるのでは」

「それはな……」

 明智はにやりと笑った。立ち上がり、窓のところへ行って、小林少年を手招きした。

「二十面相の奴がおのずと知らせてくれるからだ。俺はホテルであいつを十分に辱しめてやった。奴は歪んだ誇りと美学の塊だ。俺は誘いに正面から乗り、そのうえで奴を出し抜き、捕まえもせず、敢えて逃がしてやった。それがどれほどの侮辱か、お前には実感としてはわかるまい。……見ろ」

 明智は窓の外、明智邸の門前の細い道路を指差した。所在なげに立っているのは一人の紙芝居屋だ。

「こんな寂しい場所で紙芝居だとよ。笑わせるぜ。どこに客がいるんだ。あいつの視線……」

「先生の様子を探りに来た二十面相の部下という事ですね」

 小林少年は素早く理解し、明智の言葉を待たずに回答した。明智は頷いた。

「こっちで手間をかけずとも、奴の方からノコノコやって来るというわけだ」

「では、僕がいつものように美少女に変装して尾行します」

 意気揚々と退出しようとする小林の手を掴み、

「まあ待て。俺にひとつ考えがある。二十面相はなかなか頭が切れる。思いつきで動くんじゃなく、狙いすました一撃を食らわせてやる必要があるぞ」

「つまり?」

「明日あたり、俺の身辺にちょっとした事が起こるかもしれん」

 明智は言った。

「だが、もし何かあっても、いちいち驚いたり、取り乱したりするな。俺が明らかにヤバい目に遭っていてもだ」

「……わかりました」

 小林少年はしばしの沈思黙考のあと、了解した。明智は少年の肩に手を当て、優しく言った。

「心配するな、心配するな」

「しませんよ。先生がそうと決めた事ならば」

「ハッハハハハハ!」

 翌日の夕方。明智邸の門前、ちょうど紙芝居が立っていたあたりに、その日は別の者がうずくまっていた。路上にゴザを敷き、頭に手拭いを被った乞食が、通行人に対して陰気に頭を下げているのだ。

「お恵みを……お恵みを……」

 二、三年ほど前までは、戦争好景気の影響で帝都東京は完全雇用に近く、繁華街でもこのような乞食を見ることは稀だった。だがその勢いが陰ると、貧民がまたワッと溢れ出し、新宿や東京では乞食同士のテリトリー争いが発生して、港区の閑静レジデンス地域でも乞食やストリートチルドレンは決して珍しくない光景となっていたのである。

「お恵みを……」

 マントラめいて同じ言葉を呟き、顔を俯かせながら、その男は通りがかる者の一人一人に、じっとりとした視線を投げかけていた。いつから乞食はそうしているのか。一時間、二時間ではきかなかった。やがて……。

「明智ィーッ!」

 唸り声と共に、乞食の目の前を、チンピラ風の男が決然とした足取りで通り過ぎた。乞食はカッと目を見開き、その男を注視した。

 男は伸び放題の髪、顔をうずめる無精髯、汚い背広姿。ただものではない。暴力の世界に生きる人間であろう。男は明智邸の低い石門の中へ入っていった。やがて、激しい罵り声が聞こえてきた。

「明智! 出てきやがれ! 俺の顔を忘れたとは言わせねえぞ! お礼参りに参上したぜ、探偵野郎! 開けろ! 戸を開けろ! ナメるんじゃねえぞ明智ィ! 死ぬ気で来てるんだ、こちとらァ!」

To be continued……



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