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和風スチームパンク小説【ロータス戦記第2部 キンスレイヤー 上巻】より 1:全てのギルド者が恐れる少女


1:全てのギルド者が恐れる少女

 ロータス・ギルドの装甲戦闘艦三隻からなるウォーシップ艦隊が、血のように紅い空を航行していた。三隻はいずれも、アイアンクラッド級の主力艦。すなわちシマ本島の工廠で建造可能な最重量級の戦闘艦である。その巨体を支える大気球の色は火のように赤く、両舷側の姿勢制御用気球にはシュリケン投擲機の回転銃座がずらりと並んでいる。三隻は薬物中毒の空へとさらなる黒煙を垂れ流し続け、あたかも醜く肥太った酔いどれ兵士どもが我先に野戦便所へ駆けこもうとするかの如き勢いで、北へと航行していた。

 この艦隊を率いる旗艦〈レディ・イザナミの餓え〉号は、全長三十メートルの巨体。咲き誇る〈蓮〉が刺繍された三本の赤い旗を船尾にはためかせ、船首には力強く威圧的な漢字で船名が書かれている。彼女の行く手を阻まんとする愚か者たちは皆、それを仰ぎ見て恐怖に震え上がるのだ。

 同胞ジュウベイは、真鍮のアトモス鎧を身に纏い、〈餓え〉号の船尾部に立っていた。吹き付ける風は冷たいが、真鍮の殻の内部は暖かく、このような環境下でも極めて快適である。ジュウベイは〈暗黒の母〉の名を冠せられたこの不吉な戦艦に乗ることにいささか不安を覚えていたが、それを表に出そうとはしなかった。彼はここで精神統一を試みていた。先ほどから胃の中で蝶が飛び回っているかのように心落ち着かず、動悸も激しくなるばかりだったからだ。

「〈肌〉は強靭なり、肉体は脆弱なり、〈肌〉は強靭なり、肉体は脆弱なり……」

 ジュウベイはギルド真言(マントラ)を復唱する。だがどれほど平静を保とうと努めても、わだかまる不満と恐怖を完全に消し去ることはできなかった。

 〈餓え〉号の艦長も舷側の手すりの前に立ち、眼下のイイシ山脈を見下ろしていた。艦長のアトモス鎧は荘厳極まりない装飾品で覆われ、真鍮製の固定具や油圧式ピストンにまで鉄灰色のフィリグリー細工が施されている。その胸部では、無数の演算珠と排気チューブ類が合わさった自動演算装置メックアバカスが定期的なクリック音を鳴らし、あたかもネジ巻式の蟲の歌を思わせた。艦長の鎧の肩当ては十二本もの虎の尾の剥製で覆い隠されている。噂によるとこの装飾品は、カイゲン支部中央集積所の偉大なる艦隊長であったキオシ老その人からの贈り物であるという。

 艦長の名はモンタロ。しかしジュウベイをはじめとする乗組員らは皆、彼を〈ガイジンの滅び〉の二つ名で呼ぶ。〈滅び〉はモルチェバ侵攻で名をあげた古豪であり、丸い目の野蛮なガイジンを討伐すべく、東方海一帯におけるショーグン幕府地上軍の戦闘を支援するギルド・ウォーシップ艦隊を指揮していた。だがショーグン暗殺事件を受けてシマ帝国軍の戦争への勢いが弱まると、カイゲン支部中央集積所は〈滅び〉をモルチェバから呼び戻し、シマ本土における新たな任務に就かせざるを得なかった。

 そして〈滅び〉は現在、この艦隊を率いて、ある獲物を追跡しているのだ。帝都カイゲンで〈覚醒〉を終えたばかりの同胞ジュウベイにとって、他の全シャテイの中から自分が〈滅び〉の新たな補佐官として選抜されたことは、極めて大きな栄誉であった。しかもジュウベイを指名したのはギルドの〈弐の華〉ケンサイであり、まさに光栄の至りと呼ぶ他なかった。

「何か、私にご命令はございますか、艦長」

 ジュウベイは〈滅び〉の後ろに立ち、そう尋ねた。最大限の敬意を示すべく、十分な距離をおいて頭を下げ、視線は床に落としていた。

「獲物の足取りを嗅ぎつければ、我輩はそれで満足である」

 艦長の声が金属質のノイズ交じりに吐き出された。そこにはいささか鬱陶しげなニュアンスが含まれていた。〈滅び〉はスイッチを押し、手首の通信装置に向かって話しかけた。

「シャテイ・マサキよ、そちらからは何か見えたか?」

『動きなしです、艦長』

 十メートル上にいる見張り役の声が返された。マサキの声は消え入りそうなほど弱々しかった。

『森の樹々はまるで霧のように濃く地表を覆い、望遠鏡を使ってもなお、地表を見通すことは困難の極み』

「賢いウサギであることよ」

 〈滅び〉はシュッと吐き捨てるように言った。

「艦隊のエンジン音を聞きつけ、地面に潜りおったか」

 ジュウベイの視界、右舷の向こうには切り立った岩山が見えた。それはカエデとスギの海に浮かぶ黒い氷山のようで、山頂には雲がかかり、白い雪で覆われていた。秋の深まりとともに、イイシ山脈の高地では積雪が始まるが、裾野に目をやれば未だそこかしこに紅葉樹の錆の色が残されている。その岩山の下に広がる森の中に、この艦隊があげるエンジン音やプロペラ音が騒々しく響き渡っているのだ。

〈滅び〉は、冷たい金属質の溜息をついて言った。

「これは、我輩の脆弱なる肉体がもたらした一時の感傷にすぎぬが……実のところ、我輩はこの空が懐かしくてな」

 ジュウベイは驚き、目を瞬いた。艦隊の最高司令官と雑談に興じてもよいのかどうか……判断しかねた若きギルド者は、しばし無言の時を過ごした。そしてやはり何も言葉を返さぬのは無作法であると決心し、ためらいがちに〈滅び〉に問うた。

「……艦長殿は、モルチェバにはどれほど駐留しておられたのですか?」

「八年だ。我輩は八年間、あの野蛮な血呑みや皮剝ぎどもを、ひたすらに狩り続けた」

「ガイジンどもの国の空は青いというのは、本当ですか?」

「いいや」〈滅び〉は首を横に振った。「もう青くはない。今は藤色に近い」

「いつの日か私も、この目で見てみたいものであります」

「うむ、我らが追っているあのウサギを始末し終えたならば、すぐにでも外洋にとって返すつもりだ」〈滅び〉は重厚なガントレットの指先で、木製の手すりを打ち鳴らし始めた。「イイシに到達する前に狩りは終わる予定であったが、なんとも賢い獲物よ。この通り、我らはまだ追跡の最中にある」

 ジュウベイは周囲を飛ぶ二隻のウォーシップを見下ろした。いずれも銃器と傭兵を満載にしているが、獲物を見つけられなければ宝の持ち腐れだ。ジュウベイの腹の中で先刻からくすぶり続けていた不満が、喉のあたりまで出かかった。

「……不遜な言葉をお許しください、艦長」ジュウベイはついに意を決して言った。「我らの追う獲物が、あのキオシ老の息子であることは存じております。確かにあの裏切者は、〈雷虎〉の翼を作り、その逃亡を助けた罪により、然るべき制裁を受けるべきでしょう。しかし、私の目から見てこの艦隊の戦力は……あのような少年一人を抹殺するためだけに差し向けられるには……あまりにも……」

「過剰であると?」

「そうです」ジュウベイはゆっくりと頷いた。「噂によれば、かのキオシ老と〈弐の華〉ケンサイは、かつて兄弟のように親密な間柄であったと聞きます。そしてケンサイ=サマが、あの裏切者の少年を、かつては自らの息子のように育てていたのだとも。しかし、だとしても……またしても不遜な言葉をお許しください……我々にはそれよりも優先して狩るべき、より重要な獲物がいるのではないでしょうか?」

「ヨリトモを殺した女暗殺者の話か」

「そして彼女を匿っていると目される組織、カゲについてです」

「匿っておるだと? 何を言っている」〈滅び〉は彼を一瞥した。その声には残忍な笑みの表情があった。「あの小娘は逃げも隠れもしておらんぞ、若き同胞よ。この二週の間にも、四大クランの首都全てに姿を現しているではないか。そして肌無しどもの反乱を焚き付けようとしておる。油断ならぬ娘よ。何しろあの娘は、ただ睨むだけで、この国のショーグンを殺してみせたのだからな」

「まさにその通りです、それだけの理由があるのに、なぜギルドは即座に彼女を狩らぬのです?」ジュウベイの声は、正義の怒りに燃えていた。「臣民らは、我らについてこう囁いていますぞ……ロータス・ギルドは彼女を恐れているに違いない、と。まったく、何たる屈辱でしょうか! 我らロータス・ギルドが、たかが一人の小娘を恐れるなどと! ……艦長、臣民らが彼女のことを何と呼んでいるか、ご存じですか? 薄汚い賭場や〈蓮〉煙窟に集う肌無しどもが、彼女を何と呼んでいるか?」

「〈嵐の踊子〉(ストームダンサー)であろう」〈滅び〉は返した。

「それどころではありません」ジュウベイは怒りを吐き捨てるように言った。「肌無しどもは、あの小娘を〈全てのギルド者が恐れる少女〉と呼んでいるのですぞ」

 〈滅び〉のヘルメットの奥で、空虚な笑い声が響いた。

「それは、ここにいるギルド者にも当てはまると思うか?」

「申し訳ありません」

 ジュウベイは口をつぐみ、視線を足元に落とした。無礼な口をきいてしまったのではないかと恐れながら。〈滅び〉は、〈飢え〉号の後方数百メートルの位置に浮かぶ護衛艦の一隻、〈蓮の風〉号に目をやった。アイアンクラッド級ウォーシップの機関部からは、二本の青黒い排煙が吐き出され続けていた。艦長は再び胸元のスイッチを押し、手首の通信装置に対し金属質の声で言った。

「ヒキタ船長、報告せよ」

『……として手がかりなし』途切れ途切れの通信音声が返る。『……すが、我々はほぼ上……におります、昨年の夏に……〈輝かしき栄光〉号が、あの……ツネの少女……ピックアップした地点……おそらく、らのも……この近……』

「獲物はまだ近くにおるぞ」〈滅び〉は唸り声で返した。「彼奴が川を離れたのは昨夜のことだ。まして、獲物は徒歩で行動しておる。〈兵務師〉らに爆撃の準備を行わせよ。水辺から百五十メートルの範囲を目安にな。ウサギを巣穴から燻り出せ」

『……了解……』ノイズ交じりの声が通信装置から届き、微かに金属質の反響を残した。

〈蓮の風〉号は重々しいエンジン音の唸りとともに船首をめぐらせ、南へと引き返し始める。プロペラ音が徐々に遠ざかってゆく。ジュウベイの目から、〈蓮の風〉号の甲板にひしめく乗組員たちは、武装した蟻の群れのように小さく見えた。彼らは爆撃のために火薬樽の装填を進めていた。ジュウベイが視線を森に落とすと、〈蓮の風〉号の船長から爆撃準備完了の合図が送られてきた。〈滅び〉の声が、全ての通信周波数に対して送信された。

「見張りども、獲物の動きを見逃すでないぞ。ヒキタ船長、爆撃を開始せよ」

 ジュウベイは眼下を見た。クラスター状になった黒い爆弾が〈蓮の風〉号の腹から次々に投下され、眼下に広がる紅葉樹の覆いの中へと吸い込まれてゆくのが見えた。直後、森の静謐は木っ端微塵に破壊された。連鎖爆発音が鳴り響き、木々の間で炎の花がいくつも咲き誇った。三十メートル近い高度まで爆炎が噴き上がり、爆風は〈餓え〉号を玩具のように揺らした。〈蓮の風〉号は森を炎で包みながら、川の土手の上空を悠々とクルーズし、爆弾を投下し続ける。爆音と風はジュウベイの〈肌〉すらも微かに振動させた。

 火の手は瞬く間に広がった。紅葉に染まる森を炎の舌が舐め尽くし、息を詰まらせる黒い煙が立ちこめ、木々はたちまち焼き払われて、焦げた幹だけになった。右舷側ではもう一隻の護衛艦、〈虚空の真実〉号による第二波の爆撃が始まっていた。古い木々に向けて次々と爆弾が投下され、谷間の川には爆音が響き渡った。鳥たちは慌てふためき、翼を広げて森から一斉に飛び立った。大小様々の動物たちが、迫る火の手から遠ざかるべく、森の茂みの中を駆け抜け、北へと逃げてゆく。ジュウベイは、ロータス・ギルドが持つ強大なる科学技術の力が、何百年、あるいは何千年以上もかけて育まれた雄大な大自然を一瞬のうちに破壊し滅ぼしてゆく光景を、恍惚とした表情で見下ろしていた。

「獲物の影は見えたか?」〈滅び〉は全ての通信チャネルに対して問うた。

『いいえ』〈蓮の風〉号の偵察が応答する。

『何も発見できません』〈餓え〉号の偵察の声が、頭上から返る。

 いくらかの沈黙ののち、不意に〈真実〉号から反応があった。

『何か見えます。距離三百。方位北北東。確認求む』

『こちらも発見した』〈餓え〉号の偵察が応えた。『右舷七十度』

 無慈悲な追跡が開始された。〈餓え〉号の士はエンジン出力を最大に、ウォーシップはけたたましいプロペラ音を鳴り響かせる。ジュウベイも望遠鏡を握り、森の天蓋の裂け目から裂け目へと、血眼で獲物の痕跡を追った。汗粒が額に湧き出し、目に微かな痛みをもたらした。炎が森の天蓋を包む。

「違う、ここも違う、ここにもいない……! どこだ……! どこへ逃げ込んだ……!」

 苔むした巨人の如き岩の間で、硝煙が渦巻いている。大量の落ち葉、逃げ惑う鳥たち。凄まじい混乱。そしてついに、ジュウベイは眼下に広がる大混乱の中から、獲物を発見した。裏切者を見つけたのだ。薄汚い灰色の布に身を包んだ人影が、二本のねじれたカエデの木の間を、矢のように素早く走り抜けた。

「発見しました!」ジュウベイは叫んだ。「あそこに、獲物が!」

 短い黒髪の少年。青白い肌。獲物は一瞬でジュウベイの視界から消えた。

「地上部隊、追跡の準備を開始せよ」〈滅び〉の声は、水車池の水面のように穏やかであった。「機銃班、射撃体勢に入れ。〈弐の華〉の命令を覚えておろうな。この獲物は必ず、目視確認の上で抹殺せねばならん」

 〈真実〉号のシュリケン投擲機銃列が斉射を開始し、〈餓え〉号が続いた。両舷側に並んだ機銃の列から、カミソリのように切れ味鋭い星型の銃弾が射出され、眼下に広がる森の枝葉を切り裂いてゆく。伐採された枝がバサバサと地面に落ち、ガス圧によるシュリケンの連続発射音が、森を焼く激しい炎の音と交じり合った。

 ジュウベイは、獲物がどこかの茂みに身を隠しているはずだと考えながら、一斉射撃の様子を見守っていた。〈餓え〉号に乗り込んだ傭兵たちが装備の最終点検を終え、降下を開始しようとしている。もはや逃げ場はあるまい。南には火の手。上空からは傭兵部隊と機銃掃射が降り注ぎ、アイアンクラッド級戦艦が一部始終を監視している。

 ジュウベイは〈肌〉に炎の照り返しを浴びながら、金属鎧の中で笑った。確かにあのウサギには手こずらされ、長い追跡劇となった。だがそれも終わりだ。奴の命運はここで尽きるのだ、と。

 手すりの前に立つ〈滅び〉は、ジュウベイのほうを振り向き、威厳に満ちた満足げな声でこう言った。

「このぶんならば、予定よりも早くモルチェバの空を見られ……」

 激しい閃光が、それを遮った。

 焼けつくような熱! マグネシウム性の白炎! その爆発の正体はすぐには解らなかった。ジュウベイの周囲の大気が眩しく輝き、彼の真鍮鎧を照らした。

 直後、雷がやって来た。骨の髄までをも震わせるような報告の声が響き渡り、〈餓え〉号の巨大な船体は横滑り気味に空を流れた。エンジン部が凄まじい悲鳴をあげた。ジュウベイは体勢を崩し、不名誉にも、転倒を避けるために〈滅び〉の腕を掴まねばならなかった。

 凄まじい熱風。鋼鉄の軋む音。虚ろな音を船体内に轟かせながら、次なる連鎖爆発が始まった。ジュウベイは右舷側、爆発の方向を振り向き、その光景に思わず息を呑んだ。眼の前で起こっていることを、即座には理解できなかった。

 右舷側を航行していたアイアンクラッド級ウォーシップ、〈虚空の真実〉。そこに乗り込む二十人のギルド海兵、十二人のロータスマン、四人の〈技巧師〉、六人の上級船員、三十人の一般乗組員。その全てが、空から投げ出され、墜落していった。

〈虚空の真実〉の大気球は破裂し、黒く変色した金属骨組の中で、ぼろぼろの長い火球となって燃えていた。火の手は甲板上にいる者全てを焼き殺そうとしていた。索具は千切れ、エンジンやモーターは狂ったように唸り、制御不能の推進力を生み出して、〈真実〉号の船首を垂直気味に仰け反らせた。浮力を失った船体が地面に向かって垂直落下して行く中、船首だけが必死に上を向いていた。通信網には悲鳴と絶叫が響いた。燃え盛る人形のような人影がいくつも、手すりを飛び越え、数百メートル下の鋭い岩場へと落下していった。

 ジュウベイの目には、恐慌状態に陥りながらもなんとか生き残った乗組員たちが、救命艇へと殺到するのが見えた。だがその時、さらなる爆発が発生し、〈真実〉号の備蓄〈血〉燃料に引火。爆発。船尾部分は木っ端微塵に吹き飛び、真っ赤に燃える破片をシャワーのように撒き散らした。〈真実〉号は地上に向かって凄まじい速度で落下していった。

「〈壱の華〉の名において命ずる! 報告せよ!」

 〈滅び〉は通信機に向かってがなり立てた。

「我々を襲っている敵は何者だ!? 直ちに報告せよ!」

 〈餓え〉号の乗組員たちは混乱のさなかにあった。何が起こっているのかも解らぬまま、傭兵たちはシュリケン投擲機銃へと殺到。響き渡る怒声と命令。射撃班は攻撃目標の位置を求めて叫び、見張りたちは望遠鏡を覗いて目を凝らした。辺りには硝煙がたちこめ、灰が雨のように降り注いでいる。

 ジュウベイは、右舷側の霧の中を走る何本もの青白いロケット噴射の光の筋を見た。爆発炎上死を免れた何名かのギルド者が、背負式ジェットパックで〈真実〉号から脱出していたのだ。ジュウベイはそれを指さし叫んだ。

「あそこに生存者がいます! 生存者が!」

 生き残りたちは〈餓え〉号の舷側の手すりを目指して飛んだ。その先頭にいたシャテイが、〈餓え〉号まであと十数メートルの位置にまで迫った時、何かが彼を捉えた。凄まじい硝煙の中で白い閃光が走り、金属の引き裂かれる甲高い音が鳴ったかと思うと、シャテイの絶叫が響き渡った。何が起こっているのか解らなかった。ジュウベイに見えたのは、爆発炎上するジェットパックの残骸。そして胴体を真っ二つに切断されたシャテイが空中でもがき、赤い爆煙を撒き散らしながら、自分の足とともに落下してゆく光景だけだった。

「何だこれは!? 〈壱の華〉よ、我らを護りたまえ!」ジュウベイは祈った。

 〈餓え〉号の船体が、再び大きく揺れた。鮮血の如く紅い空に、めきめきという重い破砕音が響き渡った。その轟音は〈肌〉の中に守られたジュウベイの体を恐怖に震わせた。船体を繋ぎ止めるリベット類が軋み始め、ジュウベイの足元の甲板は、真夜中の恐怖に怯えて毛布に包まる子供のようにガタガタと揺れ始めた。再び雷鳴が響いた。それは雷鳴以外の何ものでもなかった。だがそれにもかかわらず、硝煙の間に覗く空には雲ひとつなく、磨き上げられたガラスめいて晴れ渡っていたのだ。

「総員、戦闘配置!」〈滅び〉は吼えた。「戦闘配置につけ!」

 CHUG! CHUG! CHUG! CHUG!

 ジュウベイはシュリケン投擲機銃の射撃音を聞いた。重々しい射出音。ガス圧のポンプ音。けたたましく鳴る給弾ベルトの音。立ち込める硝煙の中へと、彼らは闇雲な一斉射撃を続けた。〈餓え〉号の周囲の空は、撒き散らされた無数の鋭利なシュリケンで煌めいていた。ジュウベイの胸元では、自動演算装置メックアバカスがひっきりなしにカチカチと鳴り、カイゲン中央集積所からの現状報告リクエストを溢れさせた。だが返信など行える状況ではなく、ジュウベイはガタガタと手を震わせるだけだった。

 再び、叫び声が上がった。

「敵が接近! 接近! 接近!」

 刹那、新たな火の手。ジュウベイが後方を振り返った時には、もう遅かった。先ほどと同じ白いシルエットが〈蓮の風〉号の大気球の周囲を飛び回り、その鋭い鉤爪で強化カンバス布地を切り裂いたのだ。

 一瞬、時が止まったかのように、ジュウベイはその光景を目に焼きつけた。心臓が一度鳴り、もう一度鳴り終わるまでの間に、彼は自分と白い残影の間にあるもの全てを凝視した。硝煙と金属片に満たされた空の中に、黒い人影をみとめた。

 それは少女だった。少女の長い黒髪が、残り火をはらんだ風の中ではためいていた。彼女は絶滅したはずの怪物の背に跨り、機械仕掛けの翼の間に座っていた。その怪物の恐るべき鉤爪が、〈蓮の風〉の大気球を次々に切り裂いていった。ジュウベイは、少女の手にオレンジ色の光の瞬きを見た。それは小型発煙筒の先端で瞬く炎であった。炎は彼女の手からこぼれ落ち、大気球から漏れ出す酸素に向かって飛び込んでいった。

 そして光があった。耳を劈くほどの、猛烈な光爆だった。

 爆風が〈餓え〉号の船体を揺らし、右舷側に大きく傾かせた。衝撃波によって左舷側から弾き飛ばされてきた四人の海兵が、手すりを越えて奈落の底へと真っ逆さまに落下していった。空に炎の花が咲き、〈蓮の風〉の大気球は内側から破裂するように爆ぜた。材木が木っ端微塵に砕け、息を詰まらせるほどの煙が溢れ出した。シュリケン機銃掃射の金属音と、傷ついたエンジンの唸りの中、〈滅び〉は攻撃命令を叫び続けた。大気球を失ったアイアンクラッド級ウォーシップが子供の玩具じみて空中回転し、沈みゆく中、白いシルエットは〈餓え〉号左舷からの機銃掃射を巧みに回避しながら飛行し、〈蓮の風〉号のエンジンを船体から捥ぎ取った。

 何だこれは。速すぎる。あまりにも速すぎる。

「火力を集中せよ! 全機銃掃射! 撃てーッ!」

〈滅び〉の命令が響き渡る。白いシルエットは空中旋回しながら飛び、〈蓮の風〉の沈みゆく船体を盾代わりに使って、〈餓え〉号からの機銃掃射を防いでから、聳え立つ黒い岩山の背後へと急降下で消えていった。

 ジュウベイの耳には、〈蓮の風〉が地表に墜落する轟音が届いた。〈血〉燃料タンクが爆発し、太陽のような光が生み出され、紅葉に染まるイイシの谷を凄まじい炎が包み込んだ。爆風をしのぐために操舵士が舵を切り、〈餓え〉号の船首は激しく揺さぶられた。ジュウベイはまた、何人かの生存者がジェットパック噴射を行いながら空に逃れるのを見た。しかし先ほどと同じく、翼と雷の音が響き、無様な叫び声がいくつも続いた。そこを狙ってシュリケン機銃掃射が行われたが、金属弾は白い怪物にかすりもしなかった。

 〈滅び〉はレディオ通信技師に対してがなり立て、総員に対して交戦状況の報告を続けさせること、そして火力支援要請を行わせることを命じ続けた。だがいまや、全ての周波数で混乱が蔓延していた。

『おい、見えたか!? おい!?』

『位置を報告せよ!』

『あれは何だったんだ!?』

『弾が足りません! 四番機銃、残弾二十パーセントを切りました!』

『七番機銃、残弾十五パーセント!」

『上に目をやれ! 上から来るぞ!』

『何が見えた!?』

『アラシトラだ!』

「艦長モンタロが命ずる!」

 〈滅び〉の唸りは、チェーンカタナを思わせる斬れ味で、乗組員や海兵たちの混乱の声を切り裂いた。

「静まれ! くだらぬ動揺でレディオ通信網を満たすでない! 次に通信網を乱した愚かなる同胞は、真っ先にイノチ・ピットへと向かうことになるであろう!」

 通信網は静まり返った。艦長への恐怖が口をつぐませた。

「……整備班、直ちに全機銃に対する給弾。また、艦の主気球および補助気球に対する攻撃への警戒のため、監視の目を増やすべし。最大級の警戒である。操舵士、この忌々しい煙幕から艦を抜け出させよ。取り舵いっぱい。機関部、最大出力。艦を三十メートル上昇させよ」

 〈滅び〉は操舵座の横に立ち、乗組員に自らの存在感を示した。甲板へと響いてくるエンジン音は音量を増し、プロペラ翼の回転音が鳴り響いた。船体が上昇し、視界が晴れてゆく。硝煙を突き破って上空へ出た〈餓え〉号の甲板は、雪が降り積もったかのように、灰まみれになっていた。

「諸君らの胸の内は、解っておるぞ。我らは皆、この艦に、長年にわたって仕え続けてきたではないか。ガイジンどもは皆、〈イザナミの餓え〉の名を恐怖とともに囁く。天空を支配する恐怖の船。我らは無敵。戦闘で敗北を喫したことなど、一度たりとてない。ゆえに、我輩は諸君らに伝える。この程度の敵襲で、我らは決して……」

『敵を発見! 左舷側、上空!』

『太陽の方向からです! 敵は太陽を背負いながら……!』

「撃てい!」〈滅び〉は命じた。

 ジュウベイは再び、あの恐ろしい雷鳴を聞いた。直後、怒れる神々から平手打ちを食らったかのように、〈餓え〉号の船体は揺れ、一瞬にして十メートル以上も下降した。ジュウベイの足はゼリーじみて萎え、口の中が灰のように渇いた。ガントレットに覆われた彼の手は強張り、掴んだ舷側の手すりがメキメキと軋んで、深い指跡が刻まれた。ジュウベイはヘルメットを脱ぎ捨てたくてたまらなかった。額からとめどなく流れ落ちる汗が、彼の目を痛めつけていた。その後、彼の頭に一瞬の静寂が訪れた。

 ジュウベイは己の〈覚醒〉について思い出した。あの日、眩暈と幻影の視界の中で見た、己の〈来るべき光景〉について。己にそれを掴み取るだけの力があるならば、己のものにできるであろう運命について。あの日、〈煙の広間〉は、ジュウベイの輝かしき未来のごく一部について示してくれた。そこには決して、アイアンクラッド級ウォーシップの艦上で焼け死ぬ運命も、故郷から何百キロも離れた場所で岩山に叩きつけられて無残な屍を晒す運命も、含まれてはいなかった。

 再びシュリケン機銃掃射の音が聞こえ始めた。見張りたちはパニックに陥っていた。目も眩むような太陽を背負いながら、敵は〈餓え〉へと急降下攻撃を繰り出してきていた。ジュウベイはそれを見て、自分の中で何かが壊れたのを悟った。腹の底から原始的な恐怖が湧き上がり、理性的な思考は乱れに乱れ、ギルドで叩き込まれたありとあらゆるマントラと教条集が頭から抜け落ちていった。残されたのは、真っ赤に充血した目に映る、真っ赤な炎の光景だけであった。今のジュウベイにとっては、それだけが真実であった。

 こんな所で死ぬはずではなかったのに。

 いまや完全に恐怖に呑まれたジュウベイは、〈滅び〉の命令すらも無視して、一目散に船首部へと走った。焦るあまり、手首にあるジェットパック点火スイッチの作動に何度も失敗した。彼は走り、重いブーツで手すりを乗り越え、その先へと跳躍した。重力が彼を地表へ引きずり落とそうとしたが、彼は青白い炎の噴射で抗った。ジェットパックから伝わる振動が彼の肉体を揺らした。後方で〈餓え〉号の大気球が破裂する凄まじい音と光の爆発が起こった。通信装置から聞こえる音は、死にゆく海兵たちの悲鳴と、大火災の騒音と、生きながらにして肉を焼かれる者たちの絶叫によって満たされた。ジュウベイは通信装置をオフにした。残ったのは、胸のメックアバカスから聞こえる高周波数のデータストリームだけだった。それは彼に、状況を報告せよ、報告せよ、報告せよ、報告せよと要求し続けていた。

 ジュウベイは背中のジェットパックを最大出力にして、死に物狂いで飛んだ。間もなく起こるであろう〈餓え〉号の大爆発から逃れるために。後方から凄まじい衝突音が響いてきた。〈餓え〉号が山肌に激突したのだ。ジュウベイの脳裏には、恐怖とアドレナリンによって刻まれた石版リトグラフめいて、あの白い怪物の残影が克明に焼きつけられていた。玉虫色の機械に覆われたその翼は、全幅七メートル強。頭には優美な羽毛、両目は白熱した琥珀の色、四肢は鉄灰色。肩から下は雪のように白い獣の毛。漆黒の模様を持ち、その後ろには鞭のように長い尾が伸びている。強靭なる筋肉と嘴と鉤爪。虚構の物語の中から抜け出してきたかの如きその怪物の体は、ジュウベイの同胞たちの返り血で真っ赤に染まっていた。

 ジュウベイは祈った。覚えている限り、これが生まれて初めてのことだった。彼は神々に祈ったのだ。彼は神々などいないと解っていた。神々が自分の声を聞き遂げることなどないと解っていた。神々など想像の産物。脆弱な肌無しや無知なる者どもの想像力が生み出した虚構の存在。神々など迷信であり、神々を心から信じているようなギルド者など見たことがない。だがそれでも、ジュウベイは祈った。その姿を見れば本業の聖職者たちですらも恥じ入るほどの熱心さで、必死に祈った。血管という血管が恐怖で脈打っていた。背中のジェットパックに、もっと速く、もっと速くと念じた。もし己の心臓がエンジンだったならば、彼は今すぐそれを焼け付くまでフル稼動させただろう。もし己の体に流れる血液が〈血〉だったならば、彼はそのバルブを全開にして、最後の一滴までを燃料タンクに注ぎ込み、可能な限り飛行速度を上げようとしただろう。彼は死に物狂いで逃げた。

 だがそれでも、彼女らはジュウベイを捉えたのだ。

 太鼓の乱打じみた雷鳴を伴って、後方から突風が吹き付けた。ジュウベイが肩越しに後ろを見た瞬間、彼は怪物の鉤爪によって両腕ごと鷲掴みにされ、身動き不能となった。金属の〈肌〉はミシミシと軋み、ネズミの金切り声めいた音をあげていた。鎧の喉元を荒々しく切り裂かれ、口から唾を吐き出しながら、ジュウベイは無様に叫び続けた。そして気付いた。今や己の運命は、イノチ・ピットの前に運ばれたガイジンたちと同じなのだと。己が生きるか死ぬかは、全てこの怪物たちの慈悲にかかっているのだと。だが、とどめの一撃は、未だもたらされていなかった。

 彼女らはジュウベイを殺しはしなかった。

 その代わりに、ジュウベイを掴んだまま、天衝く南の山並みを越えて、さらにその先へと飛び続けた。ジュウベイには、この飛行が永遠に続くのではないかとすら思われた。海のように広大な眼下の森は、次第に炎の如き紅葉のカーペットへと代わり、冠雪した岩山が所々で牙のように聳え立っていた。そのような光景が、どこまでも、果てしなく続くと思われた。やがて、雪の中に突き出した大きな平たい岩が見えた。その上空で旋回してから、怪物はようやく地上へと舞い降りた。目の前には崖。途方もなく大きな死の断崖絶壁。その遙か下には、灰色の丘陵地帯が広がっていた。ここはまさにイイシの境界線であった。

 岩の上から、獣はジュウベイを無造作に投げ落とした。ジュウベイは金属音と岩の砕ける音と火花を撒き散らしながら、六メートルほど転げ落ちていった。ヘルメットの中で頭が激しく揺れ、何度も叩きつけられ、強く舌を噛んだ。〈肌〉は斜面をガリガリと横滑りし、断崖絶壁から奈落の底へ落ちる直前、崖の数十センチ手前で停止した。

 ジュウベイはうつぶせに倒れたまま、恐怖のあまり身じろぎひとつしなかった。

 後ろで音が鳴った。怪物が着地したのだ。鉤爪が霜を掴む音と、翼の起こす風の音が聞こえた。ジュウベイは仰向けに転がり、近づいてくる獣の姿を見上げた。のしかかるように大きな嘴と鉤爪が、彼の目の前にあった。雪のように白い毛は、そこかしこが真っ赤な返り血に染まっていた。艦隊の追っていた〝ウサギ〟が、怪物の肩の上に乗り、項垂れているのが見えた。キオシの息子は傷ついた腕を手で押さえ、顔色は蒼ざめ、ひどい汗をかいていたが、致命傷には程遠いと見えた。少年は薄汚い灰色の服を着ており、黒い頭髪は短く、目はナイフのように鋭い輝きを放っていた。この少年にそれほどの価値があるとは、ジュウベイには到底思えなかった。この少年一人のために、ウォーシップ一個艦隊が全滅せねばならぬとは、到底思えなかった。

 次にジュウベイの視線は、少女のもとへ引き寄せられた。少女は、獣の肩から羽のように軽やかに飛び降りた。彼女はゆったりとした黒い服を着ており、肩口では長い黒髪が風に揺れていた。彼女の白い肌は煤に覆われ、その上から返り血に染まっていた。目元は磨き上げられた偏光ゴーグルで隠され、背中には古めかしいカタナが一本吊られていた。腰元のオビには、気球爆発を引き起こしたあの小さな閃光弾が何本も挿されていた。彼女の体つきは細くしなやかで、美しいというよりは可愛らしく、また信じ難いほど若かった。

「それを脱げ」少女はジュウベイのヘルメットを指さして言った。冷たい声だった。「顔を見たい」

 ジュウベイは頷き、何度もしくじりながら、喉元の留め具を外した。ヘルメットを脱いだ彼の肌に、冷たい風が吹き付けた。ジュウベイは唇を舐め、足の間の雪の上に、口に溜まった血を吐き捨てた。周囲の世界はあまりにも眩しく、恐ろしいほどにぎらついていた。火傷しそうなほど暑い太陽光が、ジュウベイの目を焼き焦がした。

 少女はカタナを抜き放った。鞘から滑り出た刃は、歌を歌うように高らかに鳴った。少女は仰向けのジュウベイに向かって歩き、その胸の上に座り込んだ。後方ではアラシトラが警告の唸り声をあげていた。その音はジュウベイの〈肌〉を振動させ、キイキイと軋ませた。少女はゴーグルを外し、目元を露わにした。深い黒の瞳は、怒りに充血していた。

 少女はカタナの刃をジュウベイの喉に押し当てながら言った。

「私が誰か、知ってるな」

「……ハイ」

「私に何ができるか、その目で見たな」

「ハ、ハイ」

「お前の主人の元へと逃げ帰れ。そしてここで見たことを全て、伝えろ。もしお前たちがまたイイシ山脈の近くへとスカイシップを送ってくるなら、次はその船長の胸に私の父様の名前を刻みつけてから、その船長のハラワタで空を染めてやる。そう伝えろ。解ったか?」

「わ、解りました……!」ジュウベイは頷いた。

 だが少女は、刃をさらに深く押し込んだ。ジュウベイは恐怖に喘いだ。動くこともできず、傷口から流れ出した血が、喉から下へと垂れ落ちていった。ほんの一瞬だけ、ジュウベイは彼女の目を覗き込み、血も凍るような恐怖を味わった。彼女の目には、このまま一思いにジュウベイの喉をかっさばき、気管から血の泡を吹かせ、動脈から溢れ出る熱い血潮を浴びたいという、獣じみた単純明快な欲望だけがあったからだ。彼女の唇はめくれ上がり、歯が剥き出しになっていた。握られたカタナが、ジュウベイの肉の上で痙攣するように震えた。子供の夜伽話から滲み出てきたかのような、この世のものではない、名状しがたい悪夢の如き何かが、ジュウベイを覆わんとしていた。

 これが、全てのギルド者が恐れる少女か。

「おッ、お願いです」ジュウベイは懇願した。「たす、助けてください……!」

 答えは返らず、牙のように立ち並ぶ岩の間を、獣の吠え声のような虚ろな風が吹き抜けた。それは飢えた狼たちが歌う、擦り切れた死の歌を思わせた。その風の音に交じり、キョウダイたちの絶叫が聞こえた。ジュウベイは少女の瞳の奥に、全ての終焉を見た。

 そのとき、〈雷虎〉の背に横たえられていた少年が、彼女に呼びかけた。

「……ユキコ?」

 弱々しく、しかし明瞭な声で、彼はそう呼びかけた。

 少女は目を細めた。だが、まだジュウベイから視線を逸らそうとはしなかった。食いしばった歯の間から、彼女は鋭く息を吐いた。

「……マサルだ」

 少女は手の甲で頰の血を拭いながら、ジュウベイにそう言い捨てた。

「私の父様の名は、マサルだ」

 彼女は立ち尽くし、息を吸い、胸を上下させた。そして拳が真っ白になるほど強くカタナの柄を握り、その切先を、ジュウベイの頭のすぐ横の、雪で覆われた地面に突き立てた。それ以上何も言わず、ユキコは獣の横へと歩き、背に飛び乗った。彼女の長い髪が風になびき、黒い三角旗を思わせた。憔悴した〝ウサギ〟は彼女の腰に腕を回し、もたれかかった。

 ヒュン、という鞭の一撃のような風音、そして恐ろしい雷鳴を残し、アラシトラは飛び立った。そして断崖の底に向かって降下していったかと思うと、上昇気流を翼で捉えて鮮やかに舞い上がり、螺旋状の飛行軌跡を描きながら遠ざかっていった。

 崖の上に取り残されたジュウベイは、汚染された地平線の果てに彼らが消えゆくのを、呆然と見つめていた。やがて、白い獣はジュウベイの視界から完全に消え、赤い空と灰色の雲だけしか見えなくなった。ようやく彼は、頭のすぐ横に突き立てられたカタナを見ることができた。その鋼の刀身はジュウベイの血でわずかに染まり、ねばつく赤い液体が、刀身をゆっくりと下へと滑っていた。

 ジュウベイは目を閉じた。

 そして両手で頭を抱え、赤子のように丸まって、無様なすすり泣きを始めた。

【1:全てのギルド者が恐れる少女】 了


〈識〉の力が強まり、憎悪に呑まれゆくユキコ。

ショーグン亡き後も苛烈な内戦が続くシマ帝国。

暴かれた土壌賦活剤イノチの秘密。

ユキコと帝都の運命やいかに。


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