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【試し読み】ダークゴシック・ヒロイックファンタジ小説「灰都ロヅメイグの夜」 1:霧と酩酊


1:霧と酩酊


 霧。隠匿。酩酊。霧。隠匿。酩酊。

 今宵はいささか、冷え込む。

 重たげな霧がセード式外套の袖口をこじ開け、忍び込もうと試みていた。疾く早く、今宵の酒場に逃げ込もう。君は懐から真鍮性の酒入れを取り出し、蓋をひねり、秋の香りのゾード果実酒を軽く口に含んだ。麗しき風味が鼻腔にまで広がり、心の臓がゆっくりと拍動を速める。当座のしのぎを存分に味わった。

 多層の蜘蛛の巣の如く張り巡らされた、幾千もの街路橋の一つを彷徨い歩く。ゾード酒が程良く回ってきた。石畳を踏みしめる革長靴の鉄踵が、心地よい響きを返す。最後に土を踏む心地を確かめたのは、いつの事だったろうか。灰都に土は無い。「横穴」を掘り進む炭坑夫どもか、哀れむべき、或いは忌むべき最下層の人間達か、自らの空中庭園を有せるほどに富裕な上層の人間達のみが、土を踏む心地のいかなるかを忘れない。君は忘れてしまった。或いは、もとより知らなかったのかも知れない。記憶はうすぼんやりと不確かに成り行く一方で、君のこの物思いを、うやむやのうちに掻き消していった。君はこの街の霧に魂を囚われた人間の一人なのだ。

 雑踏の群に紛れながら、君は気紛れに天を仰いだ。暗黒星瞬く空の下、灰都ロヅメイグの夜に、カンテラの群が天界の灯火の如く揺れていた。天突く尖塔の数々を仰ぎ見よ。街路橋から身を乗り出し、階下にも揺れる幻夢郷の輝きを見よ。そして霧が、それら全てを包み込むさまを見よ。

 ここは灰都ロヅメイグ。

 およそあらゆるものが、灰都六十八階層のいずこかに存在する。そしておよそあらゆるものが、等しい銀貨と引き替えに手に入る。

 ロヅメイグを人の文明と情熱の「最後の砦」と称するものも在れば、沈みゆくこの世界を体現した腐敗と汚濁の吹き溜まりと称する者も在るし、或いはそもそもにおいて、ロヅメイグはとうの昔に崩壊し、今なおその滅びを続けているだけの廃都なのだと言ってはばからぬ者も在る。そして時には、なにがしかの失われた魔術がこの都市を支えているのだとさえ囁かれる。いずれもが、ある意味に於いては至極的確にこの巨大な都市を言い表しているし、ある意味に於いてはまた、まるきりの見当違いであるとも言えるだろう。一つだけ確かなのは、この街を成すのは数多の人々の息づかいであるという事だ。それが高潔か、俗悪か、神聖か、邪悪かは知ったことではない。ロヅメイグは混沌としたその全てであり、時にはそれらのうちどれでも無く、ただ灰色の都ロヅメイグであるのだ。

 君は止めていた足を再び気の向く方向へと向け直し、歩み始めた。地下より休み無く吹き上げられる蒸気が夜になって現出し、この霧を形作っているのだろうかと、かつての良き酒飲み仲間であった架橋職人のフォロは言っていた。自身の重みで地中深くへと沈み続ける定めのこの都市において、地区と地区、階層と階層、そして巨大な縦穴に天突く槍の如くそびえるロヅメイグと外界とを繋ぐ役目を負った架橋職人は、恐らくは最も誇り高く、最も骨の折れる生業だ。あの夜、疲れた表情を見せた彼が北東区へ向かわねばならないと言っていたのは、何ヶ月前の事だったろうか。もはや彼とは二度と出会う事も無いのかも知れないし、霧がまた二人を導くのかも知れない。案ずべきは、その時にお互いを認識できるかという事だけだった。この都市はあまりにも厖大に過ぎるのだ。ある一つの国と云っても十分なほどの、広さと深さを有しているのだ。そして霧は、肥大し続ける都市を隠匿し、カンテラと蒸気の桃源郷を生み出し、人々は今宵も終わり得ぬ仮面劇の如くに、かりそめの生を演じる。

 雑踏に紛れ、君は進む。訪れては去り行く数多の彷徨い人と、霧の街に囚われた人々が行き交う。

 街路橋を渡り終えた君は、優美に細工された鉄柵のこの上なく特徴的なロルガ様式の、巨大な黒大理石の門を抜けて、「ゼクソン伯の名誉の」赤煉瓦広場に到達する。炭坑夫の槌音も、地下と坑道と中央街路を走り抜ける蒸気鉄車の汽笛も、ここまでは届かない。宿屋と酒場、そしていかがわしい店から漏れい出る歌、楽器の音、詩、罵声、歓声、ありとあらゆるものが入り交じり、ありとあらゆるものが霧の中に溶ける。ふと見やれば、街路の路地裏から顔を覗かせた中年の女性が、悩ましく踊りながら今の世の終わりを予言していた。君は笑う。例え世界が滅ぶとも、灰都ロヅメイグは生き残り、人々はまた集うだろう。さておき、今宵の酒は何処か。高潔と俗悪が手を繋ぐ街を君は彷徨う。三番街の劇場にでも遠出し、麗しのラ=ラオーネ嬢の歌声を聞こうか? だが漂ってくる香ばしいロトル鳥の焙り焼きの香りが君の決意をぐらつかせ、足を左手奥の「喋る豚の神託」亭へと引き寄せる。

 其処へと歩を進め始めた君の左腕に、背の低い何者かの肩がぶつかった。君はほのかに酩酊した歩みを止めず、ただ目線だけが振り返るように、物憂げにそちらを見やる。溶けるように柔らかな銀髪の、南方出の褐色の女が、頭巾の下で微笑みかけて去っていった。何処かで遭った顔だろうか? 君は踵を返し振り返るが、彼女はもはや遠く、霧の中に消えていった。

 君は何かしら興ざめを催したような気分だった。先程の女が何者であったかは知り得ない。恐らくは、ただ偶然に行き交ったのみの、さしたる意味も無い行きずりであろう。だが、そこにまだ在ると思ったはずの者が、居なかった。それが君に、やり場のない不愉快をもたらしたのだろう。いずれにせよ、「神託」亭に進もうという気は、どこかへ失せていた。その夜のねぐらというものを決める際には、なにがしかの必然たる流れが存在するものだ。その流れが、些細な出来事から繋がる物思いで乱されてしまった。今宵の宿へと至る流れは、どうやら此処には無かった。

 君は数日前に新調したばかりでまだ馴染まない革長靴の爪先の向きを、再び気の向くままに転じた。その足で尖塔の一つに進むと、カンテラの回廊を抜け、螺旋階段でもって階層を下った。そこから歓楽街の一つを抜けて、巨大な烏賊か蛸の如き異形がその異様な体躯を誇る、奇怪にして威風堂々たる装飾の真鍮のアーチを抜け、西の地区へと進む街路橋へと進んだ。

 一階層と一地区を越えたほどでは、この灰都の色はさほど代わり映えしない。或いは、何マイル歩き続けたとて、そうなのかも知れない。

 伏せ目がちに歩く君の耳に、雑踏の靴音と囁き声に混じって、奇妙な旋律を聴かせるリュートの音が届いた。次の地区までは、いま少し歩かねばならなかったのでは無かろうか? 行き交う人々の輪郭の隙間からそちらを覗き見やれば、街路橋の欄干、細身の槍を不規則に並べたようなファンディール調の鉄柵に背をもたれかかるようにして座す、放浪者じみた身なりのリュート弾きの影があった。男は暗く鬱屈とした、それでいて慟哭にも似た旋律と共に、俯き加減に弦楽器を爪弾いていた。汚げに波打つ赤髪がその顔を隠していた。不格好に大きな鼻が突き出して見えた。両の眼窩は薄汚い包帯で幾重にも巻かれ、隠されていた。模し、かの男が盲にあらず、包帯で目を覆っていなければ、さも人間不信めいた上目遣いのやぶにらみであっただろうと、その男のどこか卑屈で嫌世めいた調子で楽器を奏でるさまを見て、君は憶測を働かせた。行き交う人々によって、リュート弾きの足元に置かれた木箱に時折雀の涙程の銅貨が投げ込まれ、乾いた音を立てた。リュート弾きは愛想も振りまかず、ただ旋律を紡ぎ出していた。

 いっとき足を止めさせはしたものの、男の演奏は銅貨を投げ込んでやるほどの気紛れも想起せしめず、故に君はまた、雑踏の流れに乗った。

 やや歩み、街路橋を渡り終えようとしたその時、後方でどよめきが上がった。そして直後に張りつめた一瞬の静寂が訪れた。その中で、街路橋の石畳に叩き付けられたと思しき、リュートの低音弦が鳴った。君は何事かと振り返り、人だかりを分け入って進んだ。

 苦しげなうめき声を上げていたのは、先刻のリュート弾きだった。北方出と思しき長髪の巨漢が、リュート弾きの首の根をひと掴みにすると、絞首刑の如く高々と掲げていた。しこたま酒をくらって間も無いのだろうか、巨漢の顔も腕もはだけた胸も、柔肌の火傷した如くに、ひどく紅潮していた。 「歌え」地響きのような唸り声をあげて、巨漢は哄笑した。「炭坑夫の歌を歌え」酷い訛の中で、そのような言葉だけが君には聴き取れた。巨漢は砂じみた労働者を思わせる粗雑な麻衣の上から、殆ど色の薄れかけた革製のサンメグ式外套を羽織り、腰には酒瓶と雑嚢と大剣を提げていた。筋骨隆々。だが、腕の筋肉は剣士のそれではない、と君は知り得た。

 雑踏の動きが止まる。暴漢のいわれなきとばっちりが飛んで来ぬようにと十分の距離を取り、固唾を呑んで事態の成り行きを見守る。どうやら人々は傍観を選んだようだ。今宵の雑踏は一つの傍観者となるを望んだのだ。

 一方、巨漢の腰に剣を認めた途端、君は神を祈る信徒がごく自然に、無意識のうちに印を組むように、その左手を腰に下げられた長剣の鞘へと進めていた。あの大男を斬り捨てるのに、いささか骨が折れるだろうか? 例えこの酩酊が切れ味を鈍らせたとて、余程のへまをやらかさぬ限り、かような剣士成らざる者に後れなど取る事は在るまい。では、勇ましく躍り出て、拍手喝采の剣劇を始めるか? 見ず知らずの物乞い弦はじきのために? それは筋が違う。では、剣術によってその精神までも高めようと志す自分が、矮小な顕示欲の充足と万雷の拍手、そして恐らくは、幾らかのおひねりのために? 否、望むものでは無い。

 暫くの時を置いて、だが、もう片方の手が柄を求める事は無かった。それは胸元の真鍮瓶に向かった。そして、もう片手もそれに追従した。

 しかし、予想だにせぬ事が起こり始めた。君の剣士の目がそれを見逃す事は無かったが、此処にいる他のいずれも、それに気づいたとは思えなかった。

 リュート弾きは咳き込みながら、両の手で必死に拘束を振りほどこうとしていた。ぼろ衣から革長靴の爪先だけが見えるその足を、じたばたと闇雲に藻掻くようにし、力無き蹴りを厚すぎる巨漢の胸板にぶつけて暴れていた。さながら、年端行かぬ子が父親に駄々をこねる様が、常人にならば想起され、そのようにのみ見えた事であろう。しかし、やがてリュート弾きは明らかな意図を持って、左右の踵同士を叩き付けて鳴らせた。右足の靴底に巧妙な仕掛けと共に隠されていた小振りの、恐らくは僅か紙数枚ほどの薄さにも満たぬと思しき仕込み刃が、円弧を描きながら、爪先に現れて止まった。男は藻掻くようにして、しかし、明らかに熟練の刃裁きでもって、仕込み刃を巨漢の胸に蹴り込んだ。

 全てが余りの早業。ここにいる如何なるものの目にも留まらなかったであろうし、やおもすれば、信じがたいことではあるが、かの巨漢ですら気づいていないのやも知れぬ。巨漢は一向に変わらぬ顔つきで笑いながら、絞首台の役目を続けていたのだから。

 赤髪の男の口元には、明らかに笑みが浮かんでいた。巨漢の様子から察するに、どうやら刃は心臓を貫いては居ない。先程ちらりと見えた刃の長さから察するに、切っ先が臓に達さなかったとは思えない。恐らくは、わずかに外れたのだ。やおもすれば、あの男の残忍な笑みから察するに、わざと外したのやも知れぬ。さあらば、このまま刃をゆっくりとねじりあげて行く腹づもりに相違ない。心臓に触れた薄い刃越しに拍動が伝わり、陰鬱な笑みを口元に浮かべる赤髪のリュート弾きを、この上なく昂揚させているに相違ないのだ。

 君は掌を握り直した。じっとりと汗ばんでいた。おおよそ、この灰都で見るものが、見たままの正体を有しているなどと考えぬべきだという教訓は、これまでの生の中で重々承知していたが、今目の前で繰り広げられている殺し合いは、いかな灰都の夜であっても、そうそうはお目にかかれぬ程のものだった。もはや、君の興味はリュート弾きがどれだけ長く藻掻き続けられるかではなく、巨漢が何時地に伏すかへと完全に移っていた。

 だが、今宵はよくよくままならぬそれのようで、突如何者かが、この戦いに水を差したのだ。

「止まれ、警告する、止まれ」説教を行うような、尊厳に満ちた口調で、何者かの低く通る声が観衆の中から上がった。「以上、最後の警告を終えた」

 間髪入れず、次々に放たれた四挺のボウガンの矢が、巨漢の背に突き立てられた。アルコホールの力だけでは押さえ切れぬほどの激痛と熱が走り、巨漢から鈍い呻きが漏れた。堪らず、リュート弾きを放り投げると、腰の大剣を抜き放ちながら、鬼の形相で身を翻した。全員の目は一斉にその先に流れた。遠巻きに取り囲み、事態の推移を見守っていた観衆は、巨漢の鬼気迫る怒号に押され、 さらに三歩後ずさった。 それと代わって、純白の法衣を着込んだ四人の男達が進み出た。七十二を越える神々の信徒が表舞台に裏舞台にしのぎを削りあう灰都で、最も力あり、最も独善的にして、最も非寛容なる組織の一つ、「白き環」の僧兵達。誰しもが、最も関わり合いに成りたくないと考える集団の一つだった。

 君の目は、先刻何者かの威嚇の言葉が雑踏より上がったや否や、リュート弾きが急ぎ仕込み刃を引き抜きにかかっていた事をしかと見届けていた。君にとって、かの男が盲だという事は、もはやひどく信じがたいそれに変わっていた。男が身を翻すようにして着地し、素早く血塗られたその仕込み刃を靴底へと収めたことが、それを君に証立てた。

 四人の僧兵は手に手に太陽を象ったくろがねのモールを抜き、巨漢へと雪崩れ込む。殴りつける。打ち据える。

 巨漢ははじめ、その身に似合わぬ身軽さでこれをかわしていが、一撃をよけ損ねてからは続けざまに打ちのめされた。四発目は最も重い一撃だった。鈍い音がし、左脚の形があからさまに変わった。巨漢はしかしものともせず、怒号を発し、闇雲に大剣を振り回しての大立ち回りを始めた。突き立てられた矢の傷跡から血がほとばしった。巨漢の目は血走り、全身はなおも紅潮し、さながら奈落の無敵の悪鬼の如く在ったが、その形勢は明らかに一方的だった。巨漢は完全に四方を陣取られていた。それは一方的な虐殺だった。

 三十五発目の一撃を脳天に食らって奥歯が砕けると、遂に巨漢はその場に崩れ落ちて絶命した。僧兵の一人が血の跡を覆い隠すよう辺り一面に純白の灰を撒き、もうひとかたが観衆に対して演説めいた正当性の説明を行いながら、かの巨漢の魂がこれよりいかなる悔恨の道を辿らねばならぬかについて説きながら、懐の手提げ香炉で煙を撒き、死臭その他の広がるを抑えた。残るもう二人が死体の身ぐるみを剥ぎ、敵対宗派や禁教の使徒である痕跡を念入りに探し求めるが、そのしるしは見いだせなかったようだ。東方の砂漠から流入し、この都市で信奉される七十三番目の神となったらしき聞き慣れぬ響きの邪神の徒の動きも、このところ灰都の暗部で目立ち始めたがため、幾らかの対抗すべき使命に燃えた組織が動いているのだと、酒場の誰ぞが声高に云っていたのを、君が冗談交じりに冷やかした夜を思い起こした。

 そこから僧兵達は手慣れた様子で、巨漢の死体を第二十八層の街路橋から担ぎ落とした。無論、百数十フィート下の階層に、警告のための花火を投げ落としてからだ。巨漢の死体は第二十二層の街路に落下し、残された身ぐるみを剥がされ、十二層目の網に落ち、歯と臓物を抜かれ、六階層か、或いはさらにその先ののろわるるべき階層に落とされ、最後は骨にこびりついた肉片のひとかけらまで残さず喰われ、最後には何一つ、彼の存在したあかしは残り得まい。ただ剣だけが、恐らくは今までそうであったように、次の持ち主の元へと渡るのだろう。

 リュート弾きは地に這い、自らのもとを放れた弦楽器を探し求めて、両の手を蜘蛛の如く街路橋の石畳を這い回らせていた。僧兵達はこれを見やるに、下層の民をいたわるにこやかな顔つきに転じると、尊厳に満ちた足取りで彼に歩み寄った。

「なんと、盲なりしや」僧の一人が男から数歩離れた所で寂しげに転がるリュートを拾い上げて、その手に取って握らせた。

「盲なる汝を助けたるは、これぞゴーハルズ神の采配なり」今一人が、地に伏していたリュート弾きに手を貸しながら座らせると、抱擁し、観衆に十分聞き届けられるほどの演説じみた声色で云った。

「さらば清算せよ」僧兵の一人が、散らばらった銅貨を銭箱に収め直して、リュート弾きの前に差し出した。「汝の救いを」

「汝に与えられた救いを」

「汝の救いを」

 リュート弾きは僧兵に向けて何事か呟きかけ、口元に笑みを浮かべながら相槌を打ったようだった。僧兵達は互いに顔を見合わせてから静かに頷くと、銭箱からきっちりと半分の銅貨を掴み取った。取るに足らぬ金ではあるが、時に教徒ならざる者には理解しがたい教義のもと、彼らはかくなる務めを実行せねばならぬのだ。そして救いを受けた者は、富めるものも、貧しきものも、その所有する半分を白き環の名の下に分け与えねばならない。すなわち、かの巨漢の雑嚢から導き出された数枚の銀貨と数十枚の銅貨も例外では無かった。

「白き環、ゴーハルズの光輪の救いあれ」

「救いあれ」

 僧兵達は受け取った銅貨を四等分にすると、今宵の務めを成し遂げた事から来る充実感で満ち足りた顔を作り、リュート弾きを優しく懐抱して、巻かれた包帯の上から両の眼に口づけをした。そしてフードを再び目深に被り直し、連れだって去って行った。

 リュート弾きも首をこきりと鳴らしながら立ち上がって布を払った。何事か呪うような言葉を吐き捨てると、床に唾を吐き捨てながらリュートと銭箱を掴みあげ、それらをひとまとめ、気怠げに背負い袋に詰め込んで、ふらふらと歩み始めた。最後にけちがついたようではあるが、とりあえずの所、かの男は満足を得たのだろう。手に入れた当座の稼ぎを持って酒場へとしけ込むのだろう。

 雑踏はリュート弾きを飲み込んで、また動き出した。先刻までの騒ぎは嘘のように、男はたちまちのうちに人の流れに溶け込んでしまった。人々も今宵の酒の肴にこの話を持って帰ろうと、素早い足取りで各の道を行く。

 君もまた歩み始めた。霧に包まれ、揺れるカンテラの群を見やりながら薄緑色の果実酒を飲み干した。右手上方の宿の窓から、バグパイプの混じった一団の、軽妙な演奏の音が聞こえ始めた。君の心は高鳴っても、沈んでも居なかった。ただ、浅い酩酊を続けていた。

 君は夢の中に迷い込んだような錯覚に囚われた。先程の光景もまた、夢だったのかも知れないと思え始めた。いや、あれほど夢におあつらえ向きの出来事も、そうそうはあるまい。忘れたか、この街で起こる全ては、霧の中に起こる仮面劇ではなかったか。手を取り合う近さに無ければ、その素顔など知り得ないのだ。そして互いが望まねば、二度と再びこの街で出会う事は無い。

 君はまた歩み始める。灰色の都市を彷徨う。

 やがて心に一抹の、云いようのない不安が広がって行った。いつぞやもやってきた何かが、漠然とした何かが再び君の心に忍び寄って来た。こんな夜は好きではない。忌々しい夜に成りかねない。急ぎ、今宵の隠れ家を探し出さねばならない。夢を忘れて眠る昏睡へと繋がる階を上るために、安くて良い宿と酒が必要なのだ。

 食い扶持の稼ぎ方は幾通りも在る。炭坑夫は御免だが、まだこの身体の在るうちは如何様にも生きて行けると信じている。体格は整った方だ。多少の算術も心得ている。そして何より……剣がある。そう、剣があるではないか。あとは機だけだ……君は口元に小さく笑みを作りかけたが、霧とともに君をすっぽりと包み込んだ奇妙な孤独感と、先見えぬ不安感がそれをさせなかった。何時だろう、俺がこの剣で名声を手にするときは? それはやって来るのだろうか? それはロヅメイグで成されるのだろうか? 

 今宵は冷え込む。

 そこから一刻、ひたすらに彷徨い続けた君はやがて、先刻から堂々巡りを繰り返しているような錯覚に襲われ始めた。思考が、意志とは無関係に、厖大な記憶を遡り始めた。視界が回転する。世界が回転する。記憶が何処かへ戻りたがっている。何時からか、終わり得ぬ夢の中に生きているような感覚。記憶が何者かに喰われているような錯覚。君は恐れた。それは時折心に訪れる、不確かな恐怖だった。

 君は徐々に足早に、やがて、灰都の夜を駆け出していた。時折ぶつかり、掻き分けながら雑踏をすり抜け、くぐり抜け、鉄踵を打ち付けるように石畳に響かせた。駆けた。カンテラの都は走馬燈の如く見えた。様々の顔が現れ、後方に消えて行った。胸が苦しい。息切れがする。霧が喉を焼く。アルコホールが、一歩踏み入れる毎にずきりとした頭痛をもたらす。鋼鉄のヴェールの如く、霧は明らかな意志を持って、君の疾走を遮るように、厚く、重かった。

 どれほど走ったのだろう。やがてほとほと疲れ果て、君は速度を落とし始めた。君は上体をやや傾け気味に、肩で息をし、十分に呼吸を整えると、小さく笑い、最後に霧を気管に吸い込まぬよう注意を払いながら、大きな深呼吸を二度行った。外套の奥で、じっとりと汗が浮かんで来ていた。髪を掻き上げた。

 君はもうひとたび深呼吸をすると、腰に吊った剣の重みを確かめ、何事か納得したような面持ちで、わざとらしい千鳥足を作りながら笑い、再び雑踏の一員となった。夜がなおいっそう更け始めた。街路橋の人の流れは、なお次第にその数を増し始めた。街路に、塔に、家々に、そして街行く人々の手にあるカンテラが、黒真珠の如き町並みを、灰色の霧と共に彩っていた。

 やがて伏せ目がちに歩み続ける君の腕に、何者かの肩が擦れるようにぶつかった。君は顔を上げる。

 ああ、また擦れ違った。南方出の銀髪の女。

 先刻と同様、お互に歩みは止めなかった。お互いの視線だけが振り返った。上目遣いであどけない笑みを見せた彼女は、また霧の向こうへと消えて行きかけた。君は振り返り、手を伸ばした。

 触れたのだろうか? 灰色の外套に覆われた、彼女の肩に。

 2へ続く


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