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S4第2話【ケイジ・オブ・モータリティ】

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1

 冷たく自転するキンカク・テンプルの光の下、ノイズの風の吹きすさぶ荒野にセトは佇み、六つの特徴的な象徴の出現を待つ。彼の傍らに跪いていたブラックティアーズは、一礼ののち、この超自然空間から離脱した。畏れ多きがゆえである。

 やがて石板の表面に、蜃気楼じみて不定形の影がひとつ、ログインしてきた。捩れた角と荊棘を持つ影。すなわち、ヴァイン。カイデンの名はクロヤギ・ニンジャ。この世に帰還して日は浅いが、既にキエフの地を支配する暗黒メガコーポ、オクダスカヤを傀儡化し、現代文明の先端科学を恣にする。

「アハ! アハハハハ!」耳障りな笑い声が木霊し、邪悪なるアブストラクト女神が隣の石板にログインした。オモイ・ニンジャ。オヒガンに潜むこのニンジャは極めて観念的な存在であるが、哀れなハッカーの自我を用い、敢えて卑近な存在に堕ちてくる事でコミュニケート可能な存在となった。「元気ィ?」

「なにか、その……若干こう、イレギュラーな出来事が起こったようだな?」奥ゆかしくログインしたのは、ギャラルホルン。髪をいじり、思案するさまが、朧なシルエット越しに伝わってくる。そしてその不気味なほくそ笑みの表情も。「クキキィ……!」

「何が起ころうが関係ない。我がメイヘムの勝利だ」さらに隣の石板は映像を繋ぐ事なく、ノイズを発しながら形そのものを変じた。コブラ型の彫像が屹立し、他の石板との不調和を作り出す。アイアンコブラである。彼が喋るたび、コブラ型の彫像の目が点滅するのだった。「結末は自明である」

「……」次なるログイン者は無言である。宙にわだかまる腐肉の塊に、巨大なひとつ目が開く。この禍々しきコトダマイメージの持ち主は……ケイムショ。ロンドンを死の都に変えた帳本人。世界中の暗黒メガコーポにとって大いなる地政学リスクとなった恐るべきリアルニンジャである。

「そして……」セトは腕を組み、最後の石板を見た。荒ぶる多足の影が蠢き、憤怒の眼光を石板越しに投げかけた。ボロブドゥール帝国のシャン・ロア。即ちムカデ・ニンジャのコトダマ・イメージであった。ギャラルホルンが咳払いした。「そのう……何が、あったのかね?」

「グルグルグル……」シャン・ロアが唸った。セトがギャラルホルンを嗜めるように見やり、そして説明した。「シャン・ロア=サンの代理戦士、狩人コンヴァージが倒された。ニンジャスレイヤーにな」「アッハハハハハ!ゴッシュショー!」オモイ・ニンジャが自制せず嘲笑した。「カンワイソー!」

「貴様らの暖かい心配の念、まこと有り難し」シャン・ロアがカチカチと顎を鳴らし、低く答えた。「……その通りだ。我が狩人コンヴァージはニンジャスレイヤーに敗れた」ノイズの風が荒野を吹き抜けた。セトは頷き、言葉を発しようとしたが……「ゆえに我、ここに求むる」シャン・ロアが言った。

「……?」ケイムショの邪悪なるコトダマ・イメージが瞬きのエモートを行った。ギャラルホルンは目を細め、シャン・ロアの主張を予期した。「何、何ィ?」オモイ・ニンジャの輪郭は炎めいて絶えずその形を変え続ける。だが、常に笑っていた。

 シャン・ロアは……「儀式はまだ始まっていない」

「マ!?」オモイ・ニンジャは驚いてみせた。「……マァ~!? ノーカンって事? それ、無くない?」「マでござろうなァ」ギャラルホルンは爪楊枝状のもので歯をせせった。「チチチ……確かに、カリュドーンの儀において、最初の狩人は定められてはいなかった。シャン・ロア=サンとしては不本意よな」

「……然り。規範に則るからこそカリュドーンは儀式となる。規範を無にするならば、そもそも代理戦士の制度自体を余が尊重する必要も無くなろうな」シャン・ロアはギチギチと顎を鳴らした。ギャラルホルンはセトを見た。「最終的な決定はセト=サンの一存」「よく考える事だ」シャン・ロアが言った。

「どのような裁定がくだろうと結果は同じ、我がメイヘムの勝利だ」アイアンコブラが瞳を輝かせた。オモイ・ニンジャはグルグルと定まらない三つの瞳を内包する目でセトを睨んだ。「実際どうする気?」「最初の狩人が定まる以前に場が乱された例は過去にもある。無論……」「……」「……無効とする」

「当然だ……」シャン・ロアは顎を打ち鳴らした。「ハァ!?」オモイ・ニンジャは不服をあらわにした。ギャラルホルンは肩をすくめた。「前例があるならば尊重せねばな……」「無制限のマッタを承服するつもりはない」ヴァインが低く言った。ケイムショが瞬きした。視線がセトに集まった。

 セトは彼らを見渡し、言った。「シャン・ロア=サンは新たな狩人をネオサイタマに送り込む事を認める。但し、挑戦順は自動的に最後……七人目とする。繰り上げ挑戦も不可能だ」「当然だ」ヴァインが頷いた。シャン・ロアは多足を蠢かせた。「……よかろう」

「アッタマ来るからさァ……今すぐ一人目を決めてよ。こんなナメた真似が繰り返されたらアタシも黙っちゃいない」オモイ・ニンジャが気だるげに言った。「星辰の巡りは十分なんでしょ」「然り。今ここで最初の狩人を決定する」セトは杖を頭上に掲げた。超自然の大理石長筒が虚空より現れた。

 長筒はグルグルと回転し……やがて、その底に穿たれた超自然の穴から、一本の陶片が落ちてきた。邪悪なる古代リアルニンジャ達は、固唾を呑んで、そこに書かれた狩人の名を見定めた……!


【ケイジ・オブ・モータリティ】


「ダークカラテエンパイアのニンジャ達は、見定めようとしている……」シナリイは宇宙的な目をフィルギアに向けた。「彼らは平安時代の大いなる禍、ニンジャスレイヤーを知らぬ。ニンジャスレイヤーがアケチ・ニンジャを滅ぼした。それは真なる事」「ああ、そうだ」

「ニンジャスレイヤーを知らねど、知らぬを貫くも、また不粋。そのような思考で彼らは動いた。故にこそ、ストラグル・オブ・カリュドーンの形をとったのです」「遊びのダシにするッて?」フィルギアは息を吐いた。「やれやれ、これだから神代の連中はな……」「遊びなれど、勝者が得るものは絶対」

「ニンジャスレイヤー=サンの首で、何が得られる?」「摂政の座……」シナリイは言った。「ダークカラテエンパイアとは即ち、神祖カツ・ワンソーを帝王に戴く復古の帝国。この世を呑み尽くし、そののち、空なる玉座に神祖を再びお迎えする……それが彼らの望みであり、目的なのです」

「序列を決める内輪の争いッてワケか」フィルギアは眉根を寄せた。「勝手にやってろと言いたいところだな」「そう、貴方は関わらぬが最善」シナリイが頷いた。「何の利益もあるまい……獣が狩られる様を眺め、帝国の摂政が誰になるかを見定め、次の身の処し方を決めるのです、フィルギア=サン」

「そうもいかない」フィルギアは薄く笑った。「奴らも、お前も、ニンジャスレイヤーを、ニンジャスレイヤーが引き起こす事態を、軽く考えすぎてるンだろうな。ほうっておけば、俺は後悔する」「……後悔?」「それに俺、奴個人とも関わりが出来ちまったし」「愚かな」シナリイは表情を曇らせる。

「俺は愚かだよ、一番知ってるのはお前だろ……シナリイ=サン」フィルギアは微笑んだ。「あいにく、ずっと生きてきても、治らなかった」「不用意に人と混じった事が、貴方の酔狂を助長させてしまったのでしょう」「かもしれない」「私は悲しい」シナリイは無感情に言った。「警告は、しましたよ」

「で、お前、ニンジャスレイヤー=サンを助けたのか?」「ブザマと多勢無勢が目に余ったゆえ、猶予を与えました」シナリイは首を振った。「私にも憐憫の情はあります。獣に対しても」「ああ、そう。いまさら起きてきて、何が目的だ? 奴らに使われてるのか……?」「今の貴方に明かす必要はない」


◆◆◆


「……ッてなワケで」アグラするニンジャスレイヤーの目の前に、黒漆塗りの重箱を置いた。手振りで促す。ニンジャスレイヤーは重箱の蓋を開いた。スシがぎっしりと詰まっていた。フィルギアは続けた。「俺は俺で、昔の知った相手と出くわすは、そいつがなにかしら関わっているは、落ち着かない」

「そうか」ニンジャスレイヤーはスシを掴み取り、食べながら、フィルギアの話を聞く。破れ寺の天井はまだらに裂けており、外の明かりが帯になって、埃っぽい堂内に降り注いできていた。天井を衝くようなブッダデーモン像の顔面は削り取られ、オフダが無数に貼られている。

 フィルギアは説明を続けた。「お前を獲物にした今回の儀式に集まった狩人は七人だが……なんにせよ、最初にお前が返り討ちにしたコンヴァージの分は無効扱いになる。別のやつがまた来るさ」「構わない。要するに全員殺って、まだ未練がましい奴がいれば、それも殺る。諦めるまで続ける」

「まあ、そうなるよな。何にせよ、奴らは儀式の縛りがある。イクサのつもりでやってない。噛み付いてやれば……」フィルギアは対面に座り、ヒカリスギ・コーラのプルタブを開けて呷った。「……飲むか?」「もらう」ニンジャスレイヤーは受け取り、スシを流し込み、また次のスシを取った。

 風が吹き込み、破れショウジ戸をガタガタと鳴らした。この寺はすさまじい有様だ。コンヴァージを倒したニンジャスレイヤーは、ネオサイタマの外れの廃寺にこうして潜み、体勢の立て直しをはかっていた。敵の行動を掴みきれない状況でピザタキに戻るのはうまくないと考えたのだ。

「お前は何故おれの居場所がわかった」ニンジャスレイヤーはフィルギアを睨んだ。フィルギアは彼の熱にあたるように手をかざし、答えた。「真新しい傷がアトモスフィアを放ってる。俺ぐらいのニンジャならば、その唸りを感じ取る事ができる。それをシナリイのやつに前もって聞かされていたしな……」

 ブラックティアーズに受けたカンジ・キルの呪いだ。ニンジャスレイヤーはスシを咀嚼しながら唸り声をあげる。「狩人はオミクジで選ばれ、イクサは日没に開始だ」フィルギアはシナリイから確認したカリュドーンの規則を共有していった。「狩る側が全て勝手に決める。契約をカンジの呪いが強制してる」

「いつの日没に開始だ」「それも狩る側の勝手。イラつくだろうが」フィルギアはタタミに手をつき、後ろに反った。「だけど、イクサが始まれば、お前にも "わかる" 筈だよ」こめかみを指で押さえる。「順番が来た狩人と、獣、それぞれが、それぞれの居場所をはっきりと知る。それでイクサ開始だ」

「……気に入らない」「事前に俺がレクチャーできただけでも良しとしようぜ」フィルギアは言葉を切り、シナリイの警告に思いを馳せ、その真意を推測しようとしながら、説明を続けた。「日の出になれば狩人は挑戦権を喪失。イクサの真っ最中でも、儀式上そいつは負け」「長引かせるつもりはない」

「だろうよ」フィルギアは自分でもスシをつまんだ。「あと、奴らが引き下がるまでは、ネオサイタマからは出ないほうが身の為。多分、何かの縛りが課されてる」「それを心配するのは奴らだ。逃がしはしない」「……ま、その意気だよ」フィルギアは首を振った。「ピザタキの連中には伝えるのか?」

 無雑作な問いだった。ニンジャスレイヤーはタマゴ・スシを取り、眉間に皺寄せ、長く咀嚼した。フィルギアは答えを急かしはしなかった。やがてニンジャスレイヤーは顔を上げ……「そこまでです!」ターン! 入り口のショウジ戸が勢いよく開け放たれた。二人の視線の先、戸口には逆光となった人影。

 フィルギアは苦笑した。コトブキは砕けた足元に注意しながら、ひょいひょいと破れタタミの上に上がり、彼らのもとへ決断的に向かってきた。「途中から訊かせてもらいました……! そのう、そこの外で!」そしてコトブキは手にした紙パックを差し出した。「配達ピザ、食べますか!」「スシがある」

「俺がもらう」「ドーゾ」コトブキは憮然として、ピザ箱をフィルギアに押しつけた。『ザリザリザリ……オイ! いたのか、ニンジャスレイヤー=サンは!』コトブキは喚き声を発する携帯端末をブルゾンのポケットから取り出し、タタミに置いた。『依頼が詰まってンぞ!』

「タキ=サン、新規依頼は停止重点な」コトブキが屈み込み、ニンジャスレイヤーのかわりに答えた。「今から作戦会議が必要だと思います!」『話が見えねえ』「イヒヒヒ……」フィルギアは笑い、ピザを食べ始めた。ニンジャスレイヤーは空になった重箱に蓋をして、アグラ姿勢で腕を組み、目を閉じた。


2

 ネオサイタマのあちこちで不可解な事件が起こり始めていた。

 ひとつひとつは些細な出来事であり、注意して観察せねば、それぞれの関連性など決して見いだせぬ事件の連なりであった。

 カルト教団絡みの、令嬢連続行方不明事件。ニンジャ連続ツジギリ事件。白昼の市街で突如フリークアウトし、陰惨な殺人を行い、頓死する者達の事件。どれも、ネオサイタマにおいてはチャメシ・インシデントである。それゆえ、気づく者は居なかった。

 キモン、KATANA、マッポ・コーポレーション。治安を司る諸組織は市民や提携メガコーポによる通報に注意を払い、都度、調査を行った。闇カネモチは賞金稼ぎを雇い、或いはピザタキに依頼を持ち込む者もあった。

 ……数多くの未解決事件に紛れ、それらの事件を引き起こした者らの足跡は、ネオサイタマの闇に紛れてしまう。


◆◆◆


「……四つだ」「三つで充分ですよ!」「二つ、二つで、四つだ」「任してくださいよ!」ソバシェフが鍋に向き直り、ソバの湯を切る。白く退色した短い髪の男が割り箸を割ると、コンマ秒の時間差で、隣のヤクザも箸を割った。ヤクザスーツと細長い眼鏡、後ろに撫で付けた髪。それぞれ凶悪な風貌だ。

 ズルッ。ズルズルーッ。すすりの音が街頭広告音に掻き消される。「アカチャン」「ビックリシナイデネ」「ヤメテネー」……湯気につつまれた屋台街。ソバ屋台に並んで立つ二人は機械的な無感情で目の前のソバを食べ終え、それぞれの二つのドンブリを同時に重ねた。二分とかからぬ速度だった。

「「おやじ。勘定」」湿ったカウンターに同時に素子を置き、同時にノレンをかきわける。二人はハンコで捺したような渋面を並べたまま、ストリートを歩き出した。「安い、安い、実際安い」「タケミのキング、アーン!」「他店舗より高いって? それは、安心さです!」広告音声が鈍色の空を埋め尽くす。

「チーッチチチチ、チチチチ」眼鏡のヤクザが歯をせせった。白い髪の男の顔を、延髄側から迫り出してきたクロームの装甲がメンポを形成し、覆う。前方から、市民を威圧し、張り倒しながら、半身サイバネ置換タフガイ五人組が歩いてくる。五人は二人を認めるや、表情を凍らせ、脇に退いてオジギ硬直。

「ウッシ。ウッシ。ウッシ。ウッシ。ウッシ」歩きながら、眼鏡ヤクザはオジギ硬直後頭部をリズミカルに打楽器じみて殴りつけていった。五人組は硬直継続。二人が雑踏からヨコチョに入ってゆくと、たちまち顔をあげ、「ナニミテッゾコラー!」手当り次第に市民を威圧し、脅し始めた。


◆◆◆


 ヨコチョの明度彩度は表通りの四分の一。道端に座り込んだ編笠老人達が、彼らを目で追う。「……実際……」歩きながら、眼鏡ヤクザが横目で白髪の男を見た。「最近どうスか。稼いでンスか?」白髪の男は答えない。問いが重なる。「俺も忙しい身なンスよ。昔と違うんだよな」「……そうか」

「俺が言いたいのはね。俺は値千金ッて事で、それは実際、秒単位でウチの組織の運営に関わる……アー……問題ッてワケなんで」「……」白髪の男は足を止め、眼鏡ヤクザに顔を向けた。「貴様のジツが適役だ」「ジツ?」「カトン使いが要る」「シックス・ゲイツのカトン使いスか?」「そういう事だ」


◆◆◆


 ガーランドとインシネレイト。ソウカイ・シンジケートの最高威力部門「シックスゲイツ」の二人は、かくして、ボンボリ・ディストリクトに徒歩にて入り込んだ。その名にちなんで、大小多数のボンボリをくくりつけたストリート・ゲートには、「ボンボリ街一同」の赤錆びた看板がかかっている。

 街路は狭く、「チューインガム」「海の風」「ぽまち」等のミンチョ文字が書かれた看板が迫り出して、なお通行を難儀にしている。ヤクザリムジンで乗り付けられない事が、インシネレイトは不満だ。しかしガーランドに言わせれば、目的地以前、この街区に踏み入った時点で警戒モードに入る必要あり。

 ボンボリ・ディストリクト。「サイアク・ウェンズデー」と呼ばれる株価暴落の余波で連鎖的に粉飾決算が明るみとなり倒産、グループ解体となったポンポン・エンタープライズ社のかつての支配地だ。ネオサイタマの一角を治める暗黒メガコーポの突如の消滅は過去に例がなく、後の支配権は揉めた。

 他企業が牽制しあい、手をこまねいている間に、ボンボリの市民は取締役会一斉セプクによって機能喪失したポンポン社敷地を襲撃し、重火器やDJ機材を略奪。殺しが殺しを呼ぶ治安凶悪ディストリクトと化した。やがてコップの嵐が収まるが如く、いびつな秩序が街区内に形成されるに至る。

 ボンボリ・ディストリクトはネオサイタマの外れに位置し、地区面積も狭く、ネットワーク・インフラも貧弱で、パワーゲームの舞台とするにはいかにも魅力が薄い。各社が深入りしなかったのにはそういう理由もある。街区は経済ニュースからは忘れ去られ、治安維持費を支払う主体もない。小さな混沌。

「ヨソモノヤッチマンゾー!」KRASH! 錆びた装甲板を内側から蹴り壊し、ガトリング砲を装備したサイバネ者が飛び出した。既にガトリング・バレルは充分に高速で回転している。問答無用殺戮の構えだ。BRRRTTTT!  ガトリング砲が火を吹き……「イヤーッ!」「アバーッ!?」その者は火柱に変わった。

「いきなり何だコラ……」インシネレイトは握った拳を開き、焦げカスとなった弾丸を撒いて捨てた。「アバババッ!アババーッ!」燃えながら倒れたサイバネ者に、壁の下の穴から這い出してきた他市民が消火器を噴きつけ、ののしった。「ウチに燃え移るだろうが! 死ね!」「もう死んでるぜキャハア!」

 二人の消火市民は、消し炭と化したサイバネ者の身体から、使えるジャンクパーツを剥がしにかかる。「アチッ! 火傷すんだろが」「なんか楽しい事ねえかなあ!」道を塞ぐ彼らに、インシネレイトは容赦のないケリ・キックを喰らわせた。「イヤーッ!」「グワーッ!」「アイエエエ!」

 身悶えしながら、彼らは血走った目を見開き、振り返ってインシネレイトに電磁銃を向けた。「イヤーッ!」「アバババーッ!」インシネレイトが腕を無雑作に振ると、新たに二つの火柱が生じ、新たな消火市民が飛び出してきた。「マジでクソな街だぜ」インシネレイトは吐き捨て、ガーランドの後を追う。

「アレか」追う途中でインシネレイトは足を止め、バラック建築物の隙間、やや離れたブロックの建築物の霞む影を眺めた。スモッグの中に屹立する巨大な柱……ポンポン・ビルディング。かつてのポンポン・エンタープライズ社屋ビルの成れの果てであり、この街区の全て。市街の他の部分は残滓である。

「この場所全体、カビの生えたフートンのニオイだぜ。それから焦げたゴムのニオイがすんだよな」「お前が焦がしたのか?」「なんか面白い事言ったスか」「何がだ」二人のニンジャは足早にバラック建築のあわいを歩き進んだ。(アカチャン……)(オッキクネ……)滲むような広告音声が届く。

 曲がりくねった道を進むこと、しばし。やがて彼らは遠くの印象よりもずっと高い高層ビルディングを前にしていた。周りのバラックとのあまりの落差、高低差。「……このクソビルに、クロスカタナをナメ腐った奴が居るって話ッスよね」インシネレイトの声に凄みが生じる。眼鏡を指で押し上げる。

 ポンポン・ビルディングは真上から見下ろせば八角形をしている。暗黒メガコーポ他社からのロケット弾攻撃に完全耐久する重装甲の建築物は、そのまま朽ちて、内に正体不明の混沌の煮こごりをはらむ檻と化したのである。「ビルの中は一個の街だ」ガーランドが言った。「支配者は "ザンキ・ギャング"」

「そりゃ抗争ッスね。ザンキ? 聞いた事ねえッス。身の程知らずどもめ。だけどよォ。そんなくだらねえ事に、俺を動員したンスか? 俺、値千金のシックスゲイツですぜ」「ギャングは実際……」ガーランドは答えながら少し考えを巡らせる。「……さほど問題ではない。無論、俺達を攻撃してくるだろうが」

「なら何スか」「それを、これから調べる」ガーランドは淡々と答えた。「下手人はこのビルにいる。捕捉し、尋問する。判っているのは貴様に共有した、殺しの手口だ」「アレね」インシネレイトはビルを見上げ、タバコに超自然の火を灯して、紫煙を吐いた。「胸糞悪いもん見せますよね」「苦手か?」

 ニンジャは爆発四散すれば儚く消え、死体はたいてい残らない。だが、爆発四散に至るまでに散らばった四肢や食いちぎられた部位はその場に残る。ズタズタに喰い荒らされ、穴だらけになった残骸を幾つか、ガーランドは確保し、画像データにも残した。それからニンジャの一人のサイバネアイからサルベージした断末魔動画データ。

 映像の殆どが死のノイズに潰され、下手人の詳細まではわからない。ただ、その用いる武器はよくわかった。蝿だ。「蝿をやるンスか? シックスゲイツのカトンで?」「……侮るな。インシネレイト=サン」ガーランドはインシネレイトの目を見て言った。「ソウカイヤのニンジャが何人も殺られている」

 然り。今月に入って、ソウカイ・シンジケートのニンジャが立て続けに死亡している。死因不明のものも幾つかあるが、幾つかは手がかりを残していた。それが蝿だ。蝿を使うニンジャ。ガーランドは痕跡を執念深く追い続け、最終的に、このボンボリ区のポンポン・ビルディングに的を絞り込んだ。

 当然、まず彼は抗争の火種を疑った。だがすぐにそれは怪しくなった。蝿に殺されたニンジャはソウカイ・シンジケートの所属に留まらず、そのニンジャの所属組織もバラバラで、ソウカイヤとの関係値もまちまちだ。目的が、あるのか、無いのか。異常に力をもった発狂サイコパスの類か。今はまだ判らぬ。

 詳細は下手人を尋問・拷問し、明らかにする。どちらにせよ、ソウカイニンジャ複数名が死亡している以上、ただで終わらせる選択はありえない。真実を掴み、必要に応じて血で贖わせる。そういう事だ。「蝿のニンジャを見つけ出して、殺る……」インシネレイトは言った。「そりゃまあ確かに俺のカトンで上等ッスけど」

「不服そうだな」「だって蝿ッスからね。楽勝過ぎる。俺のカトンは多分、四千兆度はあッからよ。くッだらねえジツは全部焼きますわ。アンタや他の奴らじゃ手も足も出ねえのかも知れませんがね……」「お前が片付けるなら何の問題もない。値千金の話なら、俺が後で幾らでも聞いてやる」「勘弁スね」

 彼らはポンポン・ビルディング正面に接近した。地面にはボール紙やブルーシート、毛布の切れ端が折り重なっている。「ジゴクが待つ!」襤褸をかぶった老女がいきなり身を起こし、杖で二人を指し示した。「ジゴクが待つのじゃぞ!」「何だァ? ゴミかと思ったじゃねえかババア。殺すぞ、どけ!」

「ジゴクなのじゃ!」「チ……」インシネレイトは老女を足で軽く蹴り転がすと、ズカズカと先に進んだ。「アイエエエエ! 骨が折れた! 一千万支払え! 呪われよ! ジゴクじゃ!」老女の罵りを背中に受けながら、二人は正面隔壁に辿り着く。「面倒くせェ」インシネレイトが呟く。ガーランドは腕組みして一歩下がった。「やれるか」「平気スよ」

 インシネレイトは隔壁のロック部に手を当てた。「……イヤーッ!」力が集まり、ロック部が赤橙色に変わり始めた。液晶パネル「来客拒否時間」が乱れ、「熱い温度です」に変わったあと、「01001001」に変わり、消失し、それから、溶け始めた。ガーランドが屈み込み、隔壁と床の間に手を挿し入れた。

「ヌウ……ウウウウ……!」ガーランドの背に縄めいた筋肉が盛り上がった。力を込め、押し上げる……隔壁が……ゆっくりと……持ち上がる。インシネレイトはそのさまを見つめ、言葉を探したが、見つからず、やがてガーランドの横にやってきて、隔壁の持ち上げに力を貸した。

「ジゴクじゃあ! そんな事をしてはバチなのじゃあ!」老女が杖を振り回し、後ろで喚き立てた。「絶対に凶運が待つ! ジゴクじゃぞ! 一千万円支払うのじゃ!」虚しい脅しだった。「「……イヤーッ!」」隔壁が上へ跳ね上がった。二人のニンジャは埃っぽい空気と闇の中へ、ズカズカとエントリーした。


3

「アイエエエエ!」天井のダクトカバーが脱落し、その後、そこから人間が床に落下した。「ハアーッ……ハアーッ……ハアーッ、ゲホッ、ハアーッ!」彼、サイダ3は、咳混じりの荒い息を吐き、這いずりながら、周囲の気配を探った。アドレナリンが改造ニューロンを刺激。網膜に「安心」の漢字。

「ハアーッ……クッソ……ハアーッ、チクショ……」サイダ3は罵りながらガスマスクを外し、深呼吸した。「スーハースーハー。い、生きてる空気ジャン……!」だが彼は用心深く再びガスマスクを装着。「もう少しだ……エット」彼は廊下を四つん這いで進み、壁の階数表記を確認した。七階。「フー」

 中腰姿勢になった彼は、そのまま廊下を吹き抜けに向かって進んだ。このポンポン・ビルディングは真上から見れば正八角形で、中央がやはり正八角形型の吹き抜けになっている。彼はまずその吹き抜けに向かっていった。壁には「アソビ」「喧嘩」「性器」などの激しい文字落書きがスプレーされている。

 呼吸を整えながら、壁に手を付き、進む。壁のペイントは極彩色。「星野」。「団結心」。「スラムダンク」……。やがて彼はバルコニー風に一応の落下防止が施された吹き抜け部に到達した。やや危険だ。彼はまず上を見上げてヤバイ奴に見られていないか確かめ、それから再度後ろを見、下を見た。

 ビルは88階建て。空は随分遠い。そして下。7階の高さから落ちれば命が無い。サイダ3の目的は当然、この狂った檻からの脱出だ。だがこのビルは現在、隔壁が降ろされ、出入りは困難。彼はモヒカンヘアを立て直した。「チックショ……こっから……」カゴーン! その時、隔壁に異変。跳ね上がったのだ。

「何……?」サイダ3は目を瞬き、光と、床に伸びた長い影と、跳ね上がった時とさほど変わらぬ速度で無慈悲に再び落下する隔壁に注目した。ブガー! ブガー! ブガー! 警報音が鳴った。何かマズイ! 侵入者!?「ヤバ……!」サイダ3はキョロキョロと見回し、落下防止柵越しに覗った。侵入者は二人入ってきた。

 警報音はすぐに止んだ。罵りとガチャガチャいう物音が下から聞こえた。低層階のザンキ・ギャング達が走り回っているのだ。このフロアは大丈夫か? サイダ3は唾を飲む。この辺の奴らが、上で起きた事など知る筈もないから、サイダ3の腕のバーコードや鬼のエンブレムを見せれば、身内と思ってくれるだろう。堂々としていればいい。

「ザッケンナッテンダヨ」「コマッテンゾ!」「オラッショ!」ギャング・スラングを口々にかわし、2階・3階の吹き抜け沿いにサイバネ者達が並んで、銃を構えた。入ってきた二人は立ち止まり、見渡した。サイダ3はサイバネアイを調節した。「何だ……誰……アイエッ!?」クロスカタナ紋、確認。

 網膜ディスプレイに「総会屋」の漢字が灯った。即ち、ソウカイヤ。ソウカイ・シンジケート構成員。更には「ニンジャです」のアラートが灯る。「マ!?」サイダ3は反射的に一度深くしゃがみこんだ。「ソウカイヤのニンジャ?」……「ナニヤッテンノ?」サイダ3の後ろからキッズがいきなり声をかけてきた。

 このビルにはキッズも住んでいる。ポンポン・ビルディングの下階はもともと、ショッピングモール。ボンボリ市街から流れ込んできた市民家族が、ザンキ・ギャングに税金を支払って、保護してもらい、部屋を充てがわれて暮らしているのだ。サイダ3はキッズにキツネサインを向け、下がらせた。面倒だ。

「出迎えご苦労! 手厚いじゃねえか」侵入者の一人、インテリヤクザ風の男が挑発的に叫んだ。一階ホールを進み出てきたのは……ナムサン……サイダ3も当然知る男。ザンキの皆が恐れるゴッドフレア・タツヤ。両腕に火炎放射サイバネを仕込んだ悪逆非道のタフ・スモトリだ。そしてその取り巻き。

「フレッシュミートども。この俺のゴッドフレアでステーキにされる為に、インタフォンも鳴らさずに来やがったワケだなァ?」ゴウウウ! 威嚇火炎放射! 手首に放射装置増設済!「俺の名はゴッドフレア・タツヤだ」「ドーモ。ガーランドです」「インシネレイトです。こちとらソウカイヤだコラァ!」

「ソウカイヤだってよ!」「ギャハハ!」取り巻き達が笑った。彼らも火炎放射器装備。「ここにはクロスカタナはねえよ。ザンキ・ギャングのオニ印だぜ」「その通りよ!」ゴウウウ! 威嚇火炎放射! 2・3階からは銃火ギャングが地上階に威嚇射撃! BRATATATA!「何だ」「カチコミ?」吹き抜けに集まる市民達!

「コロセー!」「コロセー!」この7階に住む連中も次々吹き抜け周りにやってきた。サイダ3は困惑した。この騒ぎでは、脱出どころではない。「ソウカイヤ野郎、邪魔くさいジャン……とっとと死んでくれよ」彼はどうしたらいいかわからぬまま見守った。ゴウウウ! タツヤは更に威嚇火炎放射。「オラッショ! ソウカイヤ、ビビッテンノ?」

「……少し待っててくださいや」インシネレイトと名乗ったインテリヤクザが白髪の男、ガーランドを見て言った。ゴウウウ! ゴウウウ! タツヤはゴッドフレア威嚇火炎放射を継続!「ビビッテンノ? ビビッテンノ?」凄まじい炎がインシネレイトの顔をかすめる。平然としている。あのソウカイヤ、どうする気だ? サイダ3は戦慄した。銃火器の包囲もある。ニンジャでも死ぬ。

「貢物を持ってきたなら、今すぐ地面に置いてドゲザするがいいぜ!」タツヤは火炎放射しながら笑った。「それとも、」「イヤーッ!」インシネレイトが燃えた。火炎放射に触れたのか。違う。内なる炎が溢れ、迸り、サイバネ火炎放射を押し戻し、塗り潰し、そのままタツヤを飲み込んだ。「アバーッ!?」

「イヤーッ!」「アバババーッ!」インシネレイトがジツにさらなる力を込めると、遡った炎はもはやタツヤを火柱に変えた。「アババババッ!」タツヤはのたうち、隣の取り巻き一人を巻き込んで火柱を二つにした。「アババババババーッ!」「アイエエエエエ!」逃げ惑う上階見物市民たち!

「イヤーッ!」インシネレイトは腕を捻った。二人を焼いた炎がねじ曲がり、横で唖然とするもう一人の火炎放射取り巻きを飲み込んだ。「アバババババーッ!」ナムアミダブツ!「ナメンナヨ……ゴッドつったらよォ、俺インシネレイトがゴッド・オブ・カトン・ファイア・オブ・ソウカイヤなんだよ!」

 インシネレイトは罵りながら、消し炭と化した無惨な焼死体を蹴散らした。彼をめがけ、2・3階の銃火ギャングが十字砲火を開始!「ザッケンナッテンダヨー!」「スッゾー!」BRATATATATATAT!「イヤーッ!」迎撃しようとするインシネレイトを押しのけ、ガーランドが得物の鋼鉄鞭状武器を打ち振る!

「何するンスか、ガーランド=サン!」「ビルは燃やすな」ガーランドは憤慨するインシネレイトを咎め、鋼鉄ワイヤー鞭で銃弾を弾き、切り裂く。BRATATATA! BRATATATA! 十字砲火継続! やがて彼らは吹き抜けから死角となる場所に向かって走り出し、サイダ3の位置から見えなくなった。

「コロスゾ!」「チャメスゾ!」2階ギャングが続々、下へ飛び降り、彼らを追っていった。恐れ知らずだ。ザンキ・ギャングは電子ドラッグ「ザ・トム」を常習する。恐怖を消す薬なのだ。

 BRATATATA! BRATATATA! やがて銃声、破壊音、そして「イヤーッ!」「グワーッ!」「アバーッ!」カラテシャウト、悲鳴、断末魔が、見えない位置を移動してゆく。「アッチダゾ!」「チャメセ!」3階ギャングが罵りながら走り回る。

「アイエエエ!」「アイエエエ!」市民達はザ・トムをやっていないから、突然の焼殺光景と抗争を一瞬で引き起こした侵入者の行いに対してNRS(ニンジャ・リアリティ・ショック)症状を引き起こし、それぞれがピンボールの球のようにぶつかり合いながら走り回った。

「クソ……!」サイダ3は唸った。彼はお抱えハッカーの立場で上層に暮らしていた。だから、ザンキ所属のニンジャも何人か知っており、NRSは免れる。ニンジャは銃弾を指先で掴み取ってしまうし、走って避けたり、今のガーランドのように、異様な武器で防いでしまう事もある。しかしあれ程の包囲攻撃を……やはりニンジャは恐ろしい。

「「アイエエエエ!」」走り回るNRS市民の悲鳴をすかして、BRATATATA! BRATATATA! 断続的な銃声がいまだ下から聞こえてくる。これでは下階から脱出をはかるセンは無しになった。BLAMN! 下の何処かからの跳弾がサイダ3のガスマスクを掠めた。「アイエエエ!」危険過ぎる。彼は廊下に後退した。

「ク……クソッ……上か? 下か?」サイダ3は非常階段の前で逡巡した。ブガー! ブガー! パウー! パウー!「カチコミ! カチコミ!」警報音が再び鳴り響き、赤い照明が点滅し、遅ればせのスプリンクラー噴射音が吹き抜け方向から聞こえた。彼が逡巡している間に、非常階段入口に隔壁が降りた!

「ア……ヤバ!」サイダ3は慌てた。しかし入るのもダメだ。非常階段に隔壁が降りる場合、踊り場一つ一つが封鎖されてしまい、完全な閉所放置状態となる。サイダ3は後ずさった。……「イヤーッ!」そのとき、締まりかけの隔壁の隙間から、何かが廊下へ転がり出てきた。”何か”? 誰か、だ。人だった。目が合った。

 その女はベリーショートの緑髪で、猫のような、縦長の黒目と青白い虹彩の瞳をインプラントしていた。印象的な目に、サイダ3は吸い込まれそうになった。しかし女の反応はロマンティックなものではなかった。「イヤーッ!」「グワーッ!」肘で体当たりされ、首を押さえられて、壁に押しつけられた。

「カハッ、シュコーッ……」「イヤーッ!」「グワーッ!」女はサイダ3のガスマスクをむしり取り、顔を掴み、後頭部を壁にヒットさせた。「グワーッ!」「……!」「やめ……助けて」「……!」「あ、あんた……誰……ザンキ・ギャングじゃないですよね……?」「……!」「殺さないで……!」

「……殺されそうになった奴は大体そう言う」「助け……」「ニンジャや、薬をキメたここのギャングは反撃してくる」「俺、反撃しません……!」「……」女はサイダ3を床に叩きつけた。サイダ3は嗚咽し、身体を丸めた。女はサイダ3を踏み締めた。「名前、立場、所属を言うといい、お前」

 それはこっちの台詞だ。なんて図々しい奴。サイダ3のニューロンを瞬間的に憤慨の感情が駆け抜け、その後、アドレナリンの震えが生じた。「お、俺は……サイダ3……元……元!(彼は強調した)元、ザンキ・ギャングの……ハッカーです」「サイダ3? 確かにハッカー気取りな名前だな」「ハッカーなんです」

「ハッカー」女は呟いた。サイダ3の網膜サイバネが彼女の目に反応し、「ヨロシサン:バイオインプラント:不明:シャガイ級な?」の表示を返した。「お、俺……上から逃げてきて……いや……逃げようとしたら……ヤバくて……ちょっと、頭が一杯一杯になっちゃって……」「上から」女の目が動いた。

「ふうん……上から来た……」女はしゃがみ込み、サイダ3の襟首を掴んで引き上げ、壁に座らせた。そして顔を近づけた。「役に立つかもしれないな、君」「役?」「案内役だよ」「エ、待ってください。俺、このビルから逃げたい……」「何故?」「それは……色々あって」「ド屑が。ちゃんと喋るんだ」

 サイダ3は失禁をこらえた。「だって、マジで信じてくれるかわからないし……」BRATATATA……「逃げようとしたら、下は下で、カチコミで……」女は不意にサイダ3の頬を張った。そして頬を掴み、揺すった。「落ち着くんだ。呼吸して」「スウー……」「そうだ。さあ、喋るといい。しっかり」

 女の首のあたりからジュニパーベリーのような匂いがした。こいつはニンジャで、いつでも自分を殺せる。彼はそれを理解している。だから、つとめて淀みなく喋った。「す……少し前、ザンキ・ギャングの首領が他所者に殺られて、残った奴らはそのままソイツに従ったんですけど」「ふむ……」

「エット……待遇が露骨にまずくなって。それで、逃げたいなと思った時には……もう大分ヤバくなっちまってたッていうか。すげ変わった奴、まともな人間じゃなかったんですよね。それで上全体がもう、ジゴクになっちゃって」「どんな」「蝿なんです」「……」「発狂マニアックみたいですか? 俺」「全然。蝿。そうか」女は頷いた。「君、いいね」

 瞬間的な照れと、その直後に不審と恐怖が彼のニューロンを満たした。「いいッて?」「案内役だ。上から来たハッカー。最高だよ、サイダ3=サン」「え……案内役……エ……」「私を上に連れて行くんだよ、サイダ3=サン。実際、それが君の唯一の明るい未来だ」「待って……俺、逃げたいんですよ?」

 パパン! 女はサイダ3の頬を往復で張った。「深呼吸」「スウー……」「よく考えるといい。下で銃撃戦……私は詳細を知らないが……君はそこに飛び込んで外に突破する実力もカラテも持たない屑だ。降りれば、死ぬ。犬死にする。そうだね?」「……そうです」「ならば、私と来るしかないだろ」

「でも」「でも、とか、だって、じゃないんだ、世の中は。君の未来は私と共に上に行ったその先にこそ在るんだ」女は一度も瞬きせずに至近でサイダ3を見ている。「ここで君を置いて行くメリットが私に何もない。それもわかるか?」「……ハイ」「決まりだ」「……ハイ……」サイダ3は嗚咽した。

「よし」女は微笑した。そして一歩下がり、懐に手を入れた。「君と信頼関係を築こう、サイダ3=サン」彼女は特徴的な緑の名刺を取り出し、サイダ3に渡した。会社名、ヨロシサン・インターナショナル。この緑は即ち、ヨロシグリーンだ。そこに名前がある。クレッセント。

「クレッセント=サン……」「それが私の名前だ、ニンジャとしての」彼女は頷いた。「今から私に協力してもらう。契約は……」ブレスレット型の端末を操作し、「扱いとしては現地スポット雇用のフリーランスでいいね」「スポット雇用?」「要するに、私の決裁権限の範囲で、カネは払ってやる」

「カネ……俺」「君の仕事は、私を上層に案内し、バイオ蝿の源まで連れていくことだ。やるか? 犬死にか?」「や……」サイダ3は乾いた唇を舐めた。「やります」キャバアーン!端末が契約成立音を鳴らした。「グッド。その他の確認事項は、道すがら」クレッセントは立ち上がり、彼に手を差し伸べた。

 BRATATATATA……TATATATATATATA……下では銃撃音が徐々にまばらになっている。遅かれ早かれ、恐ろしいソウカイヤのヤクザニンジャが場を掌握し、さらなるジゴクが始まる。サイダ3は覚悟を決め、クレッセントの手を取り、立ち上がった。上のジゴクに戻る為に。


4

「イヤーッ!」インシネレイトのカトン・ジツが炸裂し、金網越しに銃撃を行っていた銃火ギャングが丸焦げのバーベキューと化した。「アババーッ!」網の目の赤熱越しに死がひろがる!「イヤーッ!」ガーランドがクナイ・ウィップを打ち振り、姿勢を低めて向かってきたククリ・ギャングを迎撃!

「グワーッ!」ククリ・ギャングは走りながらバラバラになって床に転がった。ガーランドはクナイ・ウィップを振り回し続けた。BRRRTTTT! 三階へ上がる階段踊り場から銃撃してくるガトリング・スモトリの攻撃を、この鋼鉄鞭ひとつで防ぎきってしまう!「いけますぜ」インシネレイトがすぐ後ろ!

 ガーランドは一瞬で鋼鉄鞭を巻き取り、インシネレイトに隙を与えた。インシネレイトは横から腕を突き出した。「イヤーッ!」「アバーッ!?」ガトリング・スモトリの胸が火を噴いた。「楽勝ォァ!」叫ぶインシネレイトに構わず、ガーランドは滑るように走り出し、階段を跳び、踊り場の壁を蹴る。

 稲妻めいたトライアングル・リープの先は4階踊り場、そこで待ち構えていたスタンジュッテ・ギャング達にガーランドはエリアル・カラテで攻撃する。「イヤーッ!」「グワーッ!」「アバーッ!」跳び回し蹴り、回し肘打ち、鋼鉄鞭の旋回。四肢が吹き飛び、首が飛び、死が階段を転げ落ちる。

「オラッ!」インシネレイトは足元に転がってきた生首を蹴飛ばし、後に続く。ポンポン・ビルディングの下層はショッピングモール。生活必需品やドラッグ、ギャングT「残機」を取り扱うギャング直営コンビニやギャング丼レストランがテナントだが、彼らの用事は買い物ではない。スルーだ。

「コイツら完全にアホだな」インシネレイトは吐き捨てる。「死にてえだけか? ニンジャでもねえくせによォ、クロスカタナをナメ過ぎだろ」「ザンキ・ギャングは戦闘ドラッグの常習者だ。恐れを知らない」ガーランドが説明した。インシネレイトは隅に唾を吐いた。「キマッてる奴は勇気とは言わねえッスよね」「そうだ」

「勇気ッてのは、理性をキッチリしてよォ、そのうえで、それを上等した先にあるンスよ。それが真のヤクザブレイブッショ?」「そうだな」ガーランドは淡々と肯定するが、インシネレイトは気に食わない。「俺の話つまんねッスか? ガーランド=サン」「お前は俺と同格だ。俺の機嫌を伺う必要はない」

「別にご機嫌覗っちゃいねえッスよ! センパイに上等するにはそれなりの理由が要るじゃないスか。わかンねえかなあ? アンタには」「成る程……」「つまり、いつでも理由さえあれば、アンタより上に行きますけどね。自分、そこは遠慮しねえンで」「そうなれば、俺の審美眼もなかなかという事だ」

「そこなンスよ。引っかかってンのは」「アバーッ!」インシネレイトはさらに襲いかかってきたジャンプ・ギャングを対空カトンで焼き殺し、下階へ捨てて、なお問うた(彼らは階段を上がりながら淡々と殺し続けていた)。「アンタはなんで俺をシックスゲイツに引っ張り上げたンスか。落ち着かねンスよ」「使えるからだ」

「なンスか、それ。ヤクザってのは、ソンケイが……」「イヤーッ!」「グワーッ!」「アババーッ!」鋼鉄鞭に切り裂かれ、スモトリが転げ落ちていった。「シックスゲイツはソウカイヤを背負い、ラオモト=オヤブンの手足となる威力部門だ。必要なのは、使える奴だ」「……」「オヤブンが不服か?」

「ンなワケ無いッスよ! オヤブンは……まあ……そッスけど」インシネレイトはタバコを超自然点火し、階段を上りながら吸った。「まあいいや。この話は充分ス」「お前が無駄口を叩くのはこのミッションをナメているからで、ヤク中のモータル相手ならばそれもやむなし。……喜べ。来るぞ、お前にやる気を出させる奴が」「ア?」

 階段は8階で止まった。ガーランドが廊下を指差し、インシネレイトが先に進んだ。その目線の先に、ニンジャが二人。吹き抜けの柵には痩せたニンジャが腰掛けている。ソウカイヤの二人を目で追いながら、腕に燐光放つ薬液を注射した。「……アー、キク……」もう一人はその横、床にソンキョで待つ。

 インシネレイトはタバコを指で弾いた。タバコは火花を放って燃え消えた。ガーランドがまずオジギした。「ドーモ。ソウカイ・シンジケート、ガーランドです」「インシネレイトです」ザンキ・ギャングのニンジャ二人がアイサツを返す。「ワープリングです」薬物恍惚者。「バッカーニアです」床。

「なんでソウカイヤがポンポンに来てンの?」バッカーニアがソンキョしたまま二人を見上げ、首を傾げてみせた。「カチコミ?」「今のところは正当防衛だ」ガーランドが答えた。「キクーッ」ワープリングが薬液をポンピングし、痙攣し、笑った。「ウケル! 正当防衛はこっちだろ、不法侵入……しといて!」

「そういう法律ッぽい話の世界じゃねえンだよ。屁理屈言ってんじゃねえ」インシネレイトが一歩前に出ると、バッカーニアがかすかに重心を移し、反撃準備。ワープリングは首をぶらぶらと揺する。「蝿のニンジャの名前を教えろ」ガーランドが尋ねた。バッカーニアとワープリングは顔を見合わせる。

「ヒーヒヒヒヒ!」「いちいち把握してらンねえよ、上の事なんてよォ!」ザンキの二人は嘲笑った。「そうか。充分だ」ガーランドは頷いた。横目でインシネレイトを見る。「まだまだ、上だ」「上ッスかァ……タリィイなあ……」「……ヒヒヒ……」ワープリングの姿が溶け、笑いが残った。

「イヤーッ!」ガーランドがインシネレイトの背後に回り込み、鋼鉄鞭でアンブッシュ攻撃を受けた。ワープリングのバックスタブは防がれた。「イヤーッ!」ガーランドが蹴りを繰り出すと、再びワープリングは溶けて消えた。インシネレイトは前へ飛び出し、バッカーニアに殴りかかった。「イヤーッ!」

「イヤーッ!」バッカーニアはカエルめいて手をつき、背中のサイバネティクスを展開させた。肩甲骨が開き、中から砲塔が出現、インシネレイトを超近距離砲撃した! KA-DOOOOM!「グワーッ!」インシネレイトは不意をつかれ、この砲撃を防ぎきれぬ! 一方ガーランドはワープリングの姿を探す!

「こっちはどうだァ!」上方、11階吹き抜け! ガーランドの視線の先、ザンキ銃火ギャング達が一斉にチャカ・ガンを構え、ガーランドを撃った! BLAM! BLAMBLAMBLAM!「イヤーッ!」鋼鉄鞭で防御! その死角から襲い来るスナイパースリケン! BOOOM!「ヌウッ!」ガーランドは身を捻り、危うく回避!

「ホホーゥ、キクーッ!」同じ階層、吹き抜け対岸、ワープリングは腕から射出したスナイパースリケンをリロードし、再び笑いを残して消えた。「チ……」ガーランドは煙を噴いて転がってきた煤まみれのインシネレイトの襟を掴み、引きずるように持ち上げ、投げた。「イヤーッ!」

 インシネレイトを投げ上げたガーランドに、バッカーニアが頭突き突進してくる! 眉間からサイバネ衝角展開! ガーランドは地面スレスレに身を沈める!「トラヒトアシ!」衝角突進が頭上すれすれを通過! バッカーニアが驚愕に目を見開くと、ガーランドは縮めた全身のバネを解き放った!「イヤーッ!」

「グワーッ!?」バッカーニアは竜巻じみた鋼鉄鞭回転連続攻撃によって全身をズタズタに切り裂かれながら弾きあげられた。一方インシネレイトは空中で身体を捻り、上階から銃撃してくる銃火ギャングをカトンで薙ぎ払った。「イヤーッ!」KA-DOOOM! 後ろの赤いドラム缶に引火!「「アババーッ!」」

 後ろで生じた爆発に吹き飛ばされ、銃火ギャング達は焼け焦げながら、吹き抜けを落下していった。この階数で既に致命的高度だ! ナムアミダブツ!「イヤーッ!」インシネレイトの攻撃は終わらない! 彼は更に狙いの向きを変え、苦悶するバッカーニアにカトンを叩きつけた。「イヤーッ!」

 KA-DOOM!「アバーッ!」カトンがバッカーニアのサイバネ亀裂の中へ入り込み、火薬に引火爆発!「サヨナラ!」爆発四散!「死んじゃッたァー!」薬物ハイのワープリングは涎を垂らして笑い、吹き抜け空中で無防備状態のインシネレイトにスナイパースリケンを向けた。「イ……」「イヤーッ!」

「グワーッ!?」ワープリングは延髄に鋼鉄鞭の柄を逆さに叩き込まれ、血泡を噴いた。インシネレイトの空中カトンの最中、凄まじいダッシュで吹き抜け沿いに回り込んだガーランドによる直接攻撃であった。「キク!」ワープリングは笑いながら姿を消そうとするが、クナイ・ウィップが絡みついている!

 ガーランドの鞭に仕込まれた無数のクナイは獲物に深々と喰らいつき、使い手の許しなく離す事はない。離脱されるよりも早く、ガーランドは鞭をしならせ、吹き抜けから8階の高さを今まさに落下しようとするインシネレイトに向かって、ワープリングの身体を投げ放った。「イヤーッ!」

「キク……」もがきながら投げつけられるワープリングをインシネレイトは空中で受け止め、その身体にカトンを注ぎ込んだ。「イヤーッ!」「アバーッ!?」KA-DOOM! 熱を注がれ、爆ぜるワープリング!「サヨナラ!」爆発四散! インシネレイトはその勢いを利用して、吹き抜けの淵に跳ね戻った!

「クッソ危ねえ!」インシネレイトは罵りながらスーツの煤を払い、吹き抜けの向こう岸でザンシンするガーランドを指差した。「こういうの勘弁してくださいや。俺ァ……」一階の床を見下ろし、瞬きして呟く。「この高さは勘弁だな……」インシネレイトのもとに、やがてガーランドが戻ってくる。

「高さがどうした」「……思ったンスけどね、ガーランド=サン」インシネレイトは眼鏡を直し、吹き抜けの上階を指差した。「このバルコニーみてぇなとこを、アンタが蹴りながら登っていきゃあ、上まで行けるンじゃねえスか?」「インスタントだな。考えなかったわけでもないが、見ろ」

 インシネレイトはガーランドに促されるまま、手をひさしに、吹き抜けの上を凝視した。赤いレーザーがやみくもに煌めく。赤外線の防備。何らかの拒絶反応を示すだろう。「上に行くほど厳重だ。既に俺達は上の連中に警戒されている」「面倒ッスねえ。エレベーター使いませんか」「状況次第だ」

 ……ソウカイヤの二人が会話しながら奥の闇へ消えていくその背中を、サイダ3は血走った目で見つめた。後ろからクレッセントが腕を回し、彼の口を手で塞いでいる。「……」「……」やがて彼を自由にする。「行ったようだ」激しく落書きされた缶マッチャ・ベンダーの陰から、二人は進み出た。

「強行突入とは畏れ入る。あれがソウカイ・シンジケートのシックスゲイツというわけだな」クレッセントは呟いた。「吉と出るか凶と出るか。それに聞いたか、サイダ3=サン?」「何をですか?」「蝿のニンジャについてインタビューしていただろう?」「あ……そう……だったかも」

「そうだとも」クレッセントは美しい猫目を細めた。「彼らの目的が同じだとしたら、最終的に面倒が増える可能性はある」「あの……蝿のニンジャって、貴方とどういう関係なんですか?」「知りたいのか?」「し……信頼関係欲しいですよ。俺、生きる為に、貴方に雇用されたじゃないですか」

 クレッセントは無雑作にサイダ3の頬を張った。「アイエエエ!」倒れ込むサイダ3の襟首を掴んで引き寄せ、覗き込む。「それはな、その蝿がウチの……ヨロシサンのプロダクトだからだよ、無論」「プロダクト? え、それってヨロシサンがバイオハザードを引き起こしたッて事……?」

 クレッセントは返す手の甲でサイダ3の逆の頬を張った。「アイエエエ!」倒れ込むサイダ3の襟首を掴んで引き寄せ、覗き込む。「非現実的な憶測はシツレイだぞ、ビジネスパートナー。我が社はそのような非ESG的行為から最も遠い企業だ。むしろ我が社は被害者だ。蝿を悪用されているのだからな」

「悪用……じゃあ、盗まれた的な事ですか?」「詳細な経緯はこれから調べるのだ、腰抜けのド屑が」クレッセントはサイダ3を壁に押しつけた。「さっきの君の話を総合するに、事態はなかなか、のっぴきならないところまで来ている」「そうですよ!」サイダ3は震えた。「本当は上に行くなんて狂気だ」

 クレッセントはもう一度サイダ3の頬を張ろうとした。サイダ3は緊張したが、彼女は手を下ろした。「行くぞ」「ハイ」サイダ3はソウカイヤとは違うルートに廊下を進んだ。閉鎖されたシャッターの前で端末を操作すると、容易に液晶がグリーンに点灯し、二人を近道に迎え入れた。

「ヨロシサンは貴方一人を派遣したワケですけど、もっとデカいチームで対応したほうがいいんじゃ……」「私をナメているか? それに、やはり何もわかっていないな、君は」クレッセントはサイダ3と共に歩きながら、彼を見ずに答えた。「解決チームなどナンセンス。いいか、問題は何も起こっていない」

「え、でも、問題が起こったから貴方が来たワケで……」食い下がりつつ、サイダ3はループ思考でクラクラしてきた。クレッセントは息を吐いた。「私の役目は調査、その結果の報告、必要に応じてニンジャ的に対応だ。これのどこが事案だね?」「わ……わかりましたよ。頑張ります」

 油くさい廊下を進んだ先、貨物用エレベーターが二人を出迎えた。「ええと……これで一応、一発で77階までは上がれる筈ですけど……」サイダ3は首からLANケーブルを引き出し、操作盤に直結した。やや怯えた目でクレッセントを見る。クレッセントは無慈悲に頷いた。サイダ3は77階をタイプした。

 ギュグン。二人を乗せた貨物エレベーターが震動しながら上昇を開始。クレッセントは腕組みし、姿勢を超然とリラックスさせる。サイダ3はクレッセントから視線を逸らし、液晶パネルの増加してゆく階数字を見る。56……57…58、ガゴッ。なにかに引っかかったような震動。59でエレベーターは止まった。

「……」サイダ3はLANケーブルをパネルから引き抜き、ゆっくりとクレッセントを振り返った。クレッセントはサイダ3の頬を張るかわりに、肩を掴み、後ろに庇った。一瞬後、SMAAASH! エレベーター扉が外側から破城槌じみた衝撃を受け、引き歪んだ。そして唸り声が轟いた!「AAAARGH!」


5

 吠え声の主はすぐにわかった。KRAAAASH! その者は歪んだエレベーター扉を強引に引き裂き、醜い胞子状に膨れ上がった体躯をあらわしたのである。肩のあたりに「大銀杏」の漢字タトゥーがある事からも、もともとはスモトリギャングであった筈だが……「AAAARGH!」正気ではない!

「イヤーッ!」クレッセントは躊躇ゼロ秒で胞子スモトリの顔面にジャンプ・セイケン・ツキを叩き込んだ。「アバーッ!」膨れ上がったスモトリが破砕し、緑色の血飛沫が散った。いつの間にかクレッセントの顔面はフルフェイス状に変形したメンポで覆われている。サイダ3も慌ててガスマスクをした。

 顔を失い肉塊と化した胞子スモトリは垂れ下がるようにしてエレベーター扉を押し分け、うつ伏せに倒れ込んだ。もうこのエレベーターは使えない。クレッセントは振り返った。「出るぞ」「こんなの嘘だ!」サイダ3は叫んだ。クレッセントはサイダ3の頬を殴った。「グワーッ!」「出るぞ」「ハイ……」

 薄暗い廊下に二人が降り立ってほんの数秒。メキメキと音を立てて、エレベーターがシャフトを落下していった。クレッセントは肩をすくめて見せた。サイダ3は腰を抜かしそうになったが、再度の殴打に晒されるのは嫌だった。「い……今は……」壁の表示を見る。「じ、実際59階です」「まあいい」

 バチバチと音を立て、廊下を狭めるほどに無秩序に設置されたネオン看板が明滅する。擬人化された歯がにこやかに笑う「歯くん」と書かれた絵看板や、擬人化された七面鳥が丸焼きを持って笑う「ターキーくん」の絵看板が不気味に光って、出迎える。「あんなのないですよ……人間じゃなくなってる」

「そうだな。チッ」クレッセントはもう一度エレベーターシャフトを振り返る。「ボディを持っていかれたな。エレベーターに」「え……?」「調べる必要があると言ったろ」フルメンポの奥でクレッセントの冷徹な目が光った。「まあいい。次の奴を見つけた時に……」「次……?」その時だ。「AAAARGH!」

 叫び声がシャッターの向こうから聞こえた。そして、KRAAASH! シャッターを破壊し、中から胞子スモトリが飛び出した! 待ちかねたようにクレッセントは躍りかかった!「イヤーッ!」「アバーッ!」鮮やかなムーンサルト跳躍が描いた斬撃が、胞子スモトリの首を斜めに切り裂く!

 着地したクレッセントのチョップの指先、プラズマめいて発光する爪の光!「ドッソイ! ドッソイドッソイ!」さらに廊下の奥! 張り手を繰り返しながら電車じみて直進してくる胞子スモトリあり!「イヤーッ!」クレッセントがその場で横薙ぎのチョップを繰り出すと、実際三日月じみた斬光が飛翔!

「アバーッ!」斜めに切り裂かれた胞子スモトリが床に落ちると、その場は驚くほどに静かになった。クレッセントはザンシンを終え、腕部UNIXを確認した。「このフロアの生体反応は他に無い」「全滅させましたか……?」「そうだ。来い」彼女はサイダ3を随行させ、両断スモトリ遺体に近づいた。

 クレッセントが何らかの生体スキャナーを用いて遺体を確認する間、サイダ3は廊下の前後を何度も確認する。生きた心地がしない。上層手前の60・70階は閉鎖テナント群。かつてはポンポン社のサラリマンが利用するバーバーや食堂、セントー等が入っていた。退社せず生活できるようにだ。

「こんな酷い事になってるなんて」サイダ3は言った。「上層のギャングの奴ら、そりゃ様子はおかしくなりましたよ。でも、こんな膨れ上がったバケモノになるなんて聞いてないよ。蝿のせいなんですか? いや、蝿のせいッて事ですよね? コワイ! 嫌だ……!」クレッセントは無視してスキャンを継続。

「人間に蝿がタマゴを生むんでしょ!? それでおかしくなって……光とかが見えるんだよ! そ、そのあと、こうやって膨れ上がっちゃうのかよォ! 俺の中にも入ってるかも! そんなの嫌ァ!」『スキャン完了な』UNIX音声が聞こえると、クレッセントは満足して立ち上がり、サイダ3を張り倒した。「グワーッ!」

「いちいち取り乱すな」クレッセントは倒れたサイダ3を踏みにじり、逃げられぬようにしながら腕部UNIXを確認した。『ヨロシ遺伝子不正。不一致な』「やはり……そうだろうな」彼女は無感情に呟いた。「どういう事ォ……」サイダ3は涙目で見上げる。「我が社のプロダクトの遺伝子が破壊されている」

「は、破壊ッて……」「人体に卵を産みつけ、孵化すれば寄生虫じみて体内に潜り込み、タンパク質を変異させ、こんな気色の悪い出来損ないに変える、そんな非合理的なモノを我が社が作るわけがないだろう。盗まれたバイオ蝿が何らかの手段で歪められている。アンタイ・ヨロシ・パルスも効くまいな」

「めちゃくちゃマズイんじゃ」「そうだ。ASAPの対処を要する。最悪の場合、このビルディングはニューク攻撃する必要がある」「ニューク!?」「最悪の場合だ。何にせよ、周辺被害を必要最小限に留めた最適な対処方法を決めるには、核心にたどり着かねばならない。私と、キミがだぞ」

「なんて……こった」サイダ3が落ち着いたのを確認し、クレッセントは足をどけた。「事前の調査から、蝿がビルの外に拡散した形跡は一切ない。それが不幸中の幸いといったところだな。おそらく蝿の使用者の……フン……ニンジャの何らかのジツの特性が関係しているのだ」「コントロールしてる……」

 クレッセントはサイダ3の手を取り、立たせてやった。「行くぞ」「ハイ。エット……エレベーターがダメになったんで……」サイダ3はこめかみをリズミカルに叩き、網膜にガイドを表示した。「とりあえず階段使いましょう。それで77階まで行ければ良いんだけど。そこから先はまた別の手段で」「よし」

「そこの突き当りを右に……アイエッ」開きかけたシャッターが糸をひき、寝転がった死体が隙間に挟まって、凄まじい形相で彼らを見ていた。コチ、コチ、コチ。クレッセントのUNIXが平常音を鳴らす。「ひとまず、死んでしまえば無害だな」「増えないんでしょうか、蝿」サイダ3は耳を澄ませた。

「少なくともこの辺りの層ではな。おそらく限られた活動範囲と関係している」歩きながらクレッセントは考察する。「"飼い主" が近くなれば、また状況も違ってくるだろう」「上に……上に戻る」サイダ3は首を振る。「ギャングの偉い奴ら、マジ、おかしくなっちまったんですよ。そいつが来てから」

 階段を発見。塞ぐように積み上げられているのは、トウモロコシの擬人化「トウモロコシくん」の絵看板、ハサミの擬人化「バーバーくん」の絵看板。笑顔でレーザーメスを入れる「ネオンタトゥーくん」の絵看板。クレッセントは無雑作にそれらを掴み、放り捨てていく。

「……だろうな」「最初は、アレですよ、ムカつくボスを追い出して、機を見るに敏、とか、スカッとしたぜ、とか、これからよろしく、とか言ってた連中が……『何もかも光ってる』とか言い出したんです」「光ってる?」「そうです。話合わせてたんですけど、俺も。何もかも光って見えてサイケだって」

「寄生の兆候か」「そうなんです。カルトみたいになって。涎垂らして従ってました。あいつに。ズンビーみたいになっていったンです」「キミはどうして正気だった?」「……」サイダ3はガスマスクを叩いた。「多分、これのおかげですね。俺、ガスマスクのファッション好き系のパンクスだったんで……」

「フフッ」クレッセントは笑った。「サイオー・ホースというわけか」「わ、笑う事もあるンですね?」「私を何だと思ってる。まっとうな企業の社員だぞ」「エ、エヘヘ……そういえば、そうでしたね……」「チッ」クレッセントは舌打ちし、爪を光らせた。「スミマセン!」「違う」彼女は跳んだ!「イヤーッ!」

 クレッセントは踊り場を折り返した階段上に蠢く者らに対し、先手を打って仕掛ける!「アバーッ!?」ギャング達は銃火器を振り回しクレッセントを狙い直そうとする。「イヤーッ!」爪が閃き、ギャングの腕と首が刎ね飛ばされた。「アバーッ!」殺し残った数名のギャングが発砲する! BRATATATATA!

「アイエエエエ!」サイダ3は跳弾を恐れてしゃがみ込んだ。「イヤーッ!」「アバーッ!」「イヤーッ!」「アババーッ!」ギャングの四肢が吹き飛び、転がってきた。サイダ3は呻いた。最後の一人をクレッセントは追い詰め、蹴りで壁に押しつけた。「アバーッ! アバーッ!」もがくギャング!

「おい、脳は残っているか?」胸を足で押さえつけながら、クレッセントはインタビューを試みる。ギャングはガチガチと歯を鳴らし、手足をバタつかせる。「コッ! コッ!」白目を剥き、喉を鳴らす。そして、言葉を発した!「コッチに! 来ルなら! チャンと入れロ!」「入れる? 何をだ」「御神体を!」

「御神体? そう呼んでいるのか」クレッセントはフルメンポの奥で目を細める。「あまりナメるなよ。ウチから盗んだプロダクトのパテント侵害の分際で……!」「プロダクト? ぶ、ブ、無礼な!」ギャングは痙攣した。濁った言葉が徐々に明瞭になる。ラジオのチューニングを合わせるように。「ゴッ、御神体を拝領せよ! 神聖なるミコーが我らモータルにもたらす許し也……!」

「そのミコーとやらにアイサツさせてもらおう。どこにいる」「行かせナい! ここより上は! 御神体を拝領しない奴、まかりならん!」「話にならんな」「アバーッ! アバーッ!」「イヤーッ!」「アバーッ!」クレッセントはギャングの胸を押し潰した。サイダ3は叫んだ。「アブナイ!」

 60階の廊下を走り来た新手の者達に対し、クレッセントは既に動いていた。「イヤーッ!」クレッセントは振り向きざま、横薙ぎのチョップから光の刃を飛ばした。「アバーッ!」「アバーッ!」列になったギャング達がまとめて胴体両断!「来い!」クレッセントがサイダを呼ぶ!

 何かがおかしい! サイダ3は名状しがたい恐怖に駆られながら階段を駆け上がった。クレッセントが彼の手を掴み、引っ張り上げた。サイダ3は見た。切断されたギャング達の胴体断面が膨れ上がり、燐光を放つものたちが舞い上がったのだ。蝿だ! ギャングの体内より飛び出した蝿が群れを為し、光る霧めいて二人を追う!

 わあんわあんわあんわあん、音と光の群れが追い上がる。「アイエエエエエ!」サイダ3は悲鳴をあげ、必死にクレッセントに続いた。踊り場でつんのめった彼を、再びクレッセントが掴んだ。そして山賊めいて抱え上げた。「アイエエエエ!」61、62、63! クレッセントはそのまま階段を駆け上がる!

 わあんわあんわあんわあん……「チィ……」クレッセントはたたらを踏んだ。67階に続く踊り場から先、もはや壁めいて積み上げられた廃机や看板類。いまだ内部電源で光り続けるソーセージの絵看板「ソーセージくん」、自分を削って笑うケバブの絵看板「ケバブくん」……。わあんわあんわあん!

「ルートを変えないと!」サイダ3がクレッセントに担がれた状態で必死にこめかみをタップし、網膜にUNIX画面を表示させた。「66階を移動しましょう! そうしないと……」「クソッ!」クレッセントは振り向いた。わあんわあんわあんわあん! 彼女はサイダ3を乱暴に床へ放ると、押し寄せる羽虫の群れに身構えた。

 彼女が両拳をかち合わせるや、パシ、と音が鳴って、サイダ3にも視認できる奇怪な光の輪が放射状に拡散した。羽虫の動きに明らかな乱れが生じた。「アイエエエエ!」悲鳴をあげるサイダの首をクレッセントは掴み上げ、階段を跳んで、てんでばらばらに飛び散る虫たちの中へ突入した。

 わあん……わあんわあんわあん。「アイエエエエ!」サイダ3はもがいた。だが二人は光る羽虫の霧を突破し、66階の廊下に走り込んだ。「エ……今のって!?」「アンタイ・ヨロシ・パルスだ」クレッセントは答えた。「ヨロシ遺伝子に働きかける。多少の効果はあったが、やはりダメだ。歪んでいる」

 然り、二人が後にした後方の階段付近、撹乱された光る蝿たちが徐々に再び互いに集まって……わあんわあんわあん!「イヤーッ!」KRAAASH! クレッセントはかつてのオフィス資料室とおぼしきドアを蹴り開け、サイダ3を引きずり込んで、素早く閉め直した。彼女は閉じたドアに耳をつけた。「……」

「ど……どうですか」「……」クレッセントは外の音を捉えながら、座り込んだサイダ3の肩越し、機器類を陳列したラック連なる狭い資料室に敵がいない事を確認し終えると、頷いて、フルメンポを開いた。そして一息ついた。「一休みだ。状況は、完全なクソというわけだな」

「ハ……ハアーッ……」かなぐり捨てるようにガスマスクを脱ぐと、サイダ3は深呼吸した。「マジでヤバイ……」「よく頑張ったぞ」クレッセントは彼をねぎらうと、懐からショートブレッド状の食糧を取り出し、二つに折った。「携帯バッテラだ。腹は減ってるか」「い……イタダキマス」

 サイダ3は携帯バッテラを齧り、ニューロンに魚由来DHAが流れ込むのを感じた。頭が冴えてきて、落ち着きが戻ってくる。彼は資料室の隅に鎮座するUNIXデッキを見つけた。LEDに光がある。「LAN直結できそうです。よかった。メインフレームに直結できれば、色々できるかも」「……助かる。頼めるか」

「その為について来ましたしね。いちおう臨時雇用ッてワケですよ」サイダ3は首後ろのソケットとUNIXデッキをケーブルで直結し、キーボードをタイプする。「外、もう平気ですか」「散ったか、別の場所に行ったか。監視カメラに接続でもして、確かめてみろ」「そうしますよ」

「フウーッ……」クレッセントは扉にもたれ、俯いた。サイダ3は横目で彼女を見た。「ダイジョブですか」「ああ」「貴方がダメだと、こんな場所で俺、完全に詰んじゃうんで、お願いします」「それはそうだろうな」クレッセントは携帯バッテラをしがんだ。「予想よりハードなのは確かだ」

「御神体を入れるッて……マジでイカレてますよね。連中、俺が逃げた時より、ますますヤバくなってるな」「ナメくさった話だ」クレッセントは携帯バッテラを飲み込み、マッチャのチューブ・ストローを咥えた。「ヨロシサンのプロダクトにタダ乗りするだけのテロリストどもめ」「そう……ですね」

 タイピングを速めると、緑色の格子のコトダマ地平が現実の視界に重なり合う。黄金立方体の光をかすかに感じる。ヨロシサンにタダ乗り……。内部の人間は、そう考えるだろう。だが、なにか不気味だった。ギャングを乗っ取った奴がミコー(巫女)ならば、その上には神がいるという仕組みだろう。

 その者がヨロシサンの力を拝借している、違う、きっと違う。黄金立方体の冷たい光の下で、サイダ3は畏れを直感する。その者はヨロシサンの創造物を自由にデザインし直したのだ。何故なら、きっとそれが、真のニンジャの力というものだからだ。発狂する前に、彼はひとまず己の考えを逸らした。

 監視カメラ群の視界が、徐々に彼のコトダマ・イメージにつながってくる。サイダ3はまずこの資料室のカメラで己を見下ろし、それからクレッセントを見る。彼女は呼吸を整えながら、次に取るべき動きを幾つも検討している。先程彼女が見せたアンタイ・ヨロシ・パルスは、本来は蝿の大本に対する切り札になった筈だろう。……蝿が歪められていなかったならば。それがかなわぬ今、彼女はどこまでやれるだろう。

「クレッセント=サン。ヨロシサンのエージェントになってから、どれくらいになるんですか」「タスクに集中しろ」「ダイジョブです。今、メインフレームに入っていってます。話しながらだと、落ち着くんで」「一人で喋っていろ」「じゃあ、えっと、ヨロシサンのニンジャって、皆バイオなんですか?」「……ニンジャによる」

「クレッセント=サンのその爪、すごい切り裂きも、バイオの何かで……?」「……さあな」「俺もカネがあったら、ニューロンを強化したりしようかなッて思う事もあるんですよね。ヨロシのはクソ高いけど」「そうか」「指増やしてる奴もいますね。俺はあれはちょっとな……」

「……」クレッセントはもう答えない。サイダ3もコトダマ空間への没入を深めていく。監視カメラ映像の断片。ファイアウォールで守られた上層の光景に切り込むにはもう少し時間がかかる。低層。暮らす者達。呑気なものだ。彼らは上のこのジゴクを知らず、いつもどおりクスリをやったり殺し合ったり。

 ソウカイヤのあの二人はミコーを殺しに来たのだろう。ソウカイヤとやり合うほどの無謀な信仰か。無謀……いや、真のニンジャの加護を信じるならば、それは……。「あ」「どうした」「早過ぎですよ」「何が」ハックした監視カメラは60階の踊り場を映す。横切るのは……「ソウカイヤのアイツら……!」


6

 ……69階。

 トミ・タクはコインランドリー室に身を潜め、毒づきながら銃をリロードする。「チックショ……ナンダッテンダヨ」タンクトップが白く、肩には「御利用」の漢字が荒々しい。ザンキ・ギャングの古参として、ポンポンの上層階で暮らすことを許されたカチグミといえる。だが、今は。

「マジ、こんなんありえねえから……チャメされてッから!」リボルバーに込める事ができた弾丸は四発のみ。残弾はそれで最後だ。念の為、ランドリー室に武器がないか探したが、当然そんなものはない。「絶対ブッチャメしてやんよ……最後まで諦めねえぞ……!」乾いた唇を舐め、通路に身を乗り出す。

「アー……」左横! 息遣い! トミは素早く銃を向け、見る前に撃った。BLAMN!「アバーッ!」顔面を撃ち抜かれ、痙攣しながら倒れ込んだのは……「ドンジ=サン?」兄弟分! トミは慌てて助け起こした。「す、すまねえ! お前だったなんて」「ひでえ……なんでこんな事するんだよ……!」

「かすり傷だ」介抱しながら、トミはドンジの懐に財布を探り、ハンドガンが無いか確かめた。「クソッ、お前丸腰なのかよ」「い、痛くねえ、たしかに大丈夫だ」「え?」「キラキラしてんだよ。お前もキラキラしてるぜ」「何を……」「アバーッ!」背後! 元スモトリのコドヤマが走ってくる!「アバーッ!」

「アイエエエエ!」BLAM! BLAM! BLAM! トミは撃ちまくった。弾切れだ。コドヤマはくずおれる。だが、「アバーッ!」銃撃で弾け飛んだ部位から羽虫が溢れ、トミとドンジに襲いかかる!「アイエエエエ!」羽虫が食らいつく!「イイーッ!」ドンジは恍惚!「……イイーッ……」トミもやがて恍惚とした。

 ……73階。

 プッピピーブ。ピーブピブブー。ゲーミングUNIXデッキが1677万色発光しながらBEEP音を鳴らす。電子ドラッグのシノギで暮らすカカキは暗い室内、電光にまみれ、ゲーミングに没頭していた。商品には出さない一番の取っておきが首のソケットに挿さり、ゲーミングの色彩を千倍鮮やかに見せる。

「エー。カカキ=サン、もしかして昨日からやりっぱなし?」「ア?」戸口に現れたガールフレンドのミミコをカカキは見る。「昨日? なワケないじゃん。128時間ブッ続けだぜ! ギャハハ!」「もォー。じゃあ、変な噂とか、騒ぎとか、知らないでしょォー」 「ア? 何が?」「上と連絡つかないんだよォ」

「連絡つかねえ? そんなのよォ」カカキはミミコを抱き寄せ、膝に座らせた。「下ともついてねえぜ! ギャハハ!」「笑い事じゃないよォー。ピザとってよォ」「ア? だから言ってんだろ、72階のザンキ・ピザと連絡つかねえッて。ころすぞ?」「ころすゥー」ミミコは白目を剥き、口を開いた。「え?」

「アバー……」「ちょ……積極的すぎンよ」「アバー……」「ヤメ……ロって! ころすぞ!」「アバー」「アイエエエエ!」「アバー」……「……イイ……」ボン、と音を立てて、タコ足配線の電源が火を吹き、部屋が闇に包まれた。数十秒後、外に蝿の群れが飛び出した。

 ……78階。

「オイ! キリキリやれよ! 時間そんなにねえぞ!」電子詐欺チームのキャンダは手下のスモトリ崩れ二人に廃看板を運ばせ、踊り場の封鎖を急がせていた。「「ラッセーラ!」」KRAASH! 看板の柄、バナナが自分を剥く「バナナくん」、ショットガンがリロードする「ショットガンくん」の笑顔。

「キャンダ=サン……だけどさあ」スモトリの一方が頭を掻いた。「必要あんのかなあ、こんな事……」「必要? ア? 死にてェのか?」「だって、ミコー様は僕たちの為を思ってるんでしょう?」「僕もそう思うなァ」もう一方のスモトリが頷いた。「こんな風にしたら、お告げがもらえないよ」

「アホが!」キャンダは苛々と携帯端末を操作する。ボンボリ区の外に高級車を盗みに行っている兄弟分に連絡を試みるが、なかなか折り返して来ない。「だいたいなァ、俺は納得いってねえんだよ。どうもニオうんだよ。ボスが死んだとこ、ボイコット=サンしか見てねえんだぞ?」ボイコットはナンバー2の男だ。

 ボイコットはボスのブラッドサッカー同様、ニンジャであり、ボスとの付き合いも一番長かったが、日頃からボスの気まぐれな暴力に晒されていた。積年の恨みがあったであろう事が察せられる。密室で葬儀が行われ、後継者が決まり……ミコーが現れたのだ。「俺は認めてねえぞ。王なんてのは」

 王。ミコーが神託を授かる上位存在。ミコーは御神体をザンキ・ギャングに分け与える。キャンダはあれこれ理由をつけて御神体授与の順番を先送りにして凌いできた。今となっては正しい判断だ。誰も彼もおかしくなった。この階以外は全て危険だ。籠城し、外の助けを待つ。「よくないよォ、そういうの」

「ア?」キャンダはスモトリを見た。「今、口答えしたか? テメェ」「だって、僕たちモータルは、カカッ、カカ……役ッ、役に立つんだよ? 来たるべき闘争で、僕たちが、バイ、バイ、バ……」痙攣。「培地」もう一方のスモトリが言葉を継いだ。「培地ってなんだろう? キャンダ=サン、わかる?」

「わ……わからねえな……」キャンダは後退りして、壁に立て掛けたショットガンを掴み取った。スモトリ二人がよろめきながらキャンダに近づこうとした。キャンダは躊躇せず撃った!「お前らが終わっちまった事以外はな!」BLAMN!「アバーッ!」BLAMN!「アバーッ!」ダブルヘッドショット! だが!

 わあんわあんわあんわあんわあん! 撃たれて破裂したスモトリの体内から蝿が噴き出し、キャンダに襲いかかったのだ!「アイエエエエ! アイエエエエー!」BLAMN! BLAMN! 数度の抵抗銃撃! だが、彼もやがて光る霧の中で動きを緩め……「……イイ……」ナムアミダブツ!

 ……86階。

 赤色LEDの明滅が、両手をだらりと垂らしたザンキ・ギャング達を照らす。等間隔に並び立ち、声を発する事はない。ガラス壁の向こう、オフィス・スペースであったとおぼしき場所で、ニンジャ頭巾をかぶったギャングが緩慢なUNIX操作を継続している。

「……アー……」彼、ボイコットは、UNIXモニタに表示されたアラート表示に身を震わせ、ゆっくりと椅子から立ち上がった。オフィス・スペースを出た彼はおぼつかない足取りで廊下を進む。直立不動のギャング達が反応する事はない。ボイコットは階段方向に進む。侵入者を出迎えねばならない……。

 ……60階。

「ハァー畜生……クソが!」罵りながら階段を駆け上がるインシネレイトと、その横を黙々と並走するガーランド、二人のこの状況の受用態度は真逆といえた。「おかしいだろうがよ! こンなのはよォ! そう思わねえンスか、ガーランド=サン!」「ああ、面倒だ。だが……」

「オマエタチッ! オマエタチ!」61階に続く踊り場で、発光するギャングがぎこちない発声で警告した。「御神体入レロ!」「アバーッ!」61階に並ぶ銃火ギャング! インシネレイトは顔をしかめ、無雑作なカトン・ジツで応じた。「イヤーッ!」「アバーッ!?」

 右手で薙ぎ払った炎が銃火ギャングを焼き払い、「イヤーッ!」「アババーッ!?」左手から放った炎が発光ギャングを火だるまにした!「アバーッ!」燃え萎びながら口を開いた発光ギャングの体内から、その光の源、バイオ蝿が噴出する! インシネレイトは三度目のカトン!「イヤーッ!」「アバーッ!」

 ギャングもろとも、発光バイオ蝿は焼き尽くされた。SPLAAAASH! たちまちスプリンクラーが反応し、凄まじい水蒸気を作り出した。「タバコも吸えやしえねェ!」「やはりお前でなくてはな」ガーランドは頷いた。インシネレイトは毒づきながら頭を掻く。「疲れッちまいますよ。タバコ止めッかな?」

「息が上がるのか?」「上がらねェッスよ、そんなもん! だけど、プラセボってのがあるんだよ。知らねえッスか? プラセボってのがあってよォー、わかんねえかなあ……精神的に作用してイマイチになるンスわ」「ならば、やめろ」「やっぱそうスかねえ」62階。「なにが蝿だよ。ナメやがってよォ」

「ここまで相手にしてきた何体かを見る限りでは、バイオ蝿は人間の体内を巣にして留まり、エネルギーを得ているようだ」「人間をマンション代わりかよ。自力で飛んでろッてンですよ。虫の分際で……」「お前のジツが極めて有効だ。宿主ごと、まとめて焼き払っていけ。俺達が炎にまかれない程度にな」

「ガーランド=サンよォ。俺のカトンが無敵ッて認めてリスペクトするのはいいンスよ。だけど、言っとくけど俺は、火炎放射器でも殺虫剤でもねえんだからな。メチャクチャ繊細な、考えるヤクザなんだよ」「上だ!」「ゴミカス共が! イヤーッ!」カトンで新たな銃火ギャングを焼き払う!「アバーッ!」

 ギャングは松明めいて次々に燃え上がり、階段を転げ落ち、脂と血が沸騰し、爆裂し、蒸発してゆく。中にはぼんやりと内側から発光する者が混じっている。ガーランドは特に念入りにそいつらを焼かせた。刺激を与えると爆発し、光る蝿が噴き出す。それを念入りに焼く。燃えれば死ぬが……しぶとかった。

「ハァー……ッたくよォ」萎びた焦げカスを蹴散らしながら、インシネレイトは拳で口を拭った。「まだやれるか」ガーランドはインシネレイトに問う。答えようとするインシネレイトに、ガーランドは被せる。「キアイの話をするな。実際、お前がジツをどのくらい使い続けられるか、限界の話をしている」

「アア? 全然いけますよ。誰にクチきいてンスか? きっちりコントロールしてンだよ。俺はシックスゲイツだ」インシネレイトは答えた。ガーランドはじっと睨んだ。「その言葉、信じるぞ。……目指すのは86階だ」「ああ」

 彼らは途中、ギャングを何人かインタビューしている。このポンポン・ビルディングに入り込み、御神体を与える「ミコー」。それがこの異常な環境を作り出した。ミコーは現在のボスである「ボイコット」と共に、カチグミ・ギャングにしか立ち入れぬ86階に棲むという。「この様子じゃ上はもっと面白えだろうな」「ニンジャも居る筈だ。警戒しろ」

 忌々しい事に、このまま階段を使ってゆくことはできなかった。廃材や「ソーセージくん」「ケバブくん」の看板で埋め尽くされ、塞がっていた。インシネレイトは焼き払おうとしたが、ガーランドは無駄を止めさせた。彼らは66階の通路にエントリーした。「どうするンスか。吹き抜け使いますか」

「それも手段の一つだ」ガーランドは答えた。「赤外線警戒が面倒だが」「ブチ焼いちまえばいいンスよ」インシネレイトが言った。「俺と来た事、何度でも感謝してくださいよ……」「待て」ガーランドがインシネレイトの肩を掴んだ。喫煙所とおぼしき交差スペースで、彼らは立ち止まる。四方に気配。

 ガーランドは近づく気配の周到な足運びを嗅ぎ取った。包囲されている。そして……「ニンジャか」前方の闇に灯る眼光。彼は先んじてアイサツした。「ドーモ。ガーランドです」「インシネレイトです」……闇の中からニンジャが染み出す。「ドーモ。ボイコットです」

「出迎えか!? 手ッ取り早えェなァーッ!」インシネレイトが凄んだ。ボイコットは痙攣しながら頷いた。「そう、とも。歓迎する、ぞ」震える手を持ち上げる。「この夢は、長く続く。ならば、潔く、積極的に、受け入れるのが、よい」左、右、後方。「アバー……」「アバーッ……!」肥大スモトリ!

「イヤーッ!」次の瞬間、ガーランドは床に顎がつくほどに身を沈めた。トラヒトアシの構え! ガーランドが己のジツの範囲を深く潜る為のほんの一瞬の猶予を与えた後、インシネレイトは全方向にカトン・ウェイブを飛ばした!「イヤーッ!」「「「アバーッ!」」」肥大スモトリが爆発した!

 わあんわあんわあんわあん! 全てのスモトリの体内から蝿が噴出し、全方向から押し寄せる。インシネレイトのカトンがそれらをまとめて焼き払う!「イヤーッ!」ガーランドは旋回しながらクナイ・ウィップを繰り出す。ボイコットは突進を阻まれる!「ヌウーッ!」

「イヤッ! イヤーッ!」ガーランドは鞭と短打、蹴りを織り交ぜた連続攻撃でボイコットに着実なダメージを与え、厄介な攻撃の余地を事前に封じていく。インシネレイトはガーランドにニンジャ戦闘を任せ、蝿に対するカトン攻撃に集中した。「イヤーッ!」炎の波が走るたび、光る羽虫が燃えて爆ぜた。

「一匹たりとも近寄せねェよ!」インシネレイトの双眸は燃え上がり、髪の先が白熱した。だが肥大スモトリの第二波が闇の中から現れる……「アバー」「アバーッ!」「イヤーッ!」インシネレイトは燃える壁を作り出し、叩きつける! KA-DOOOOM!「アバーッ!」噴出する蝿! わあんわあんわあんわあん!

「イヤーッ!」ガーランドがボイコットの腹にカラテを叩き込んだ。「オゴーッ!」ボイコットが光る蝿を吐き出す! わあんわあんわあんわあんわあん!「イヤーッ!」ガーランドは鞭を風車めいて旋回させ、刃の盾とする! そしてブリッジ回避した瞬間、「イヤーッ!」インシネレイトがカトンを飛ばす!

 わあんわあんわあんわあんわあんわあん! わあんわあんわあんわあんわあんわあん!「イヤーッ!」わあんわあんわあんわあんわあんわあんわあん!「イヤーッ!」わあんわあんわあんわあんわあん!「オアアアーッ!」インシネレイトが怒声をあげる!「ワドルナッケングラー!」KA-DOOOOM!

「うおおおッ!?」

 サイダ3は真っ白に染まった監視カメラ映像に驚き、没入状態から飛び戻った。ファイアウォールがフィードバックを受けて煙を噴いていた。ナムサン、ソウカイヤはまさにこの同フロアでひどい戦闘を繰り広げているのだ。「ど……どうですか!」サイダ3は隣のクレッセントに問う。

「まだだ」クレッセントもサイダ3同様、LANケーブルをデッキに直結していた。サブモニタにはウサギとカエルが荷箱をリレーする進捗アニメーション映像が展開している。「アップロード98%な」の表示。ここからが長い。

 クレッセントはサイダ3が一部ハックしたメインフレームを経由してヨロシサンのサーバーへアクセス要求を送っていた。彼女は変異したバイオ蝿の細胞サンプルをスキャンし、そのデータをアップロードしようとしている。ヨロシサンのデーモンは応答した。あとは時間との戦いだ。

「キアイ入れろ!」クレッセントは低く言った。「仕事を片付ければ、お前の人生は薔薇色だ。負け犬の暮らしを終わらせろ。胸を張れ」「ハイ!」サイダ3はヤケクソで叫び返し、タイピング速度を加速した。メインフレームは異物排除プログラムを自動で走らせている。サイダ3はそれを撥ねつけ、クレッセントの外部通信維持を援護しているのだ。

 98……99%! アップロードが完了すれば、変異細胞のデータをヨロシサン本社で急ぎ解析し、クレッセントの体内サイバネティクスにインストールされているアンタイ・ヨロシ・パルスのドライバーを臨時でアップデートする。変異細胞に有効な周波数を発する事ができれば、状況は打開可能だ。

 サイダ3の鼻から血が流れ、加速したタイピング速度の余波で右手中指の爪が弾け飛んだ。痛みを感じる暇もなかった。99……100%! パワリオワー! ヨロシサン側から『大変お世話になっております』のミンチョ文字が返ってきた。「あ……後は?」「待つ」クレッセントは呻くように答える。

 DOOOOM……くぐもった音がこの資料室まで届く。「奴ら……暴れてンな」サイダ3はもう一度、監視カメラ映像に意識を飛ばした。「インシネレイト」の炎が荒れ狂い、取り囲むスモトリが焼け焦げ、モニタに焼き付く発光蝿が乱舞し、燃え散り、「ボイコット」は「ガーランド」のチョップを肩に受けた。

 ボイコットが膝をつき、くずおれた。ガーランドがカイシャクのチョップを構えた。「……!」ガーランドが異常を察知し、一歩下がった。その判断が遅かったか、早かったか、モータルのハッカーであるサイダ3には判然としかねた。ボイコットの腹が水死体めいて異常肥大し、内側から、裂けた。

 ボイコットの身体を裂き開き、その者は内より生まれるように出現した。その者は、ほとんど優雅に、丸めていた身体をゆっくりと反らせ、ボイコットの肉を脱ぎ捨て、立ち上がった……そして血と脂に濡れたマントを翻し、四本の腕で、伸びをした。「ドーモ。ベルゼブブです」光る蝿が、溢れ出た。


7

「イヤーッ!」インシネレイトは容赦なくカトンで攻撃した。光る蝿が燃え散る!「中に隠れてやがったのかテメッコラー! ソマシャッテコラー!」インシネレイトは右手に再びカトンのエネルギーを集めながら、白熱する目でベルゼブブを睨んだ。ベルゼブブは濡れ輝く肢体を反らした。「ンーンンン……」

 ギャリリイイン! 金属音と火の粉が散った。稲妻めいて切り込んだガーランドのクナイ・ウィップとベルゼブブの攻撃がぶつかりあったのだ。読者の皆さんが並のニンジャ動体視力の持ち主であれば、ベルゼブブが繰り出した四本の腕の鋭利なチョップは残像すら見えず、切り裂かれていただろう。ガーランドはワザマエであった。

「モータル……我が寝所を騒がしておるようだが、なにゆえだ?」ガスマスク越しのくぐもった発声には不気味なエコーがかかっていた。インシネレイトのこめかみの血管が怒りで浮き上がった。「ソウカイ・シンジケートに上等こいたのはテメッコラー!?」「ソウカイ……シンジケート……くくく」

「ア? 何がおかしいンだテメェ。ウチのニンジャ殺ッたのはテメェだろうが、蝿女……! クロスカタナに上等した奴の運命は過酷だぞテメェ!」「ニンジャ憑きのモータルが夢を見ておる……」ベルゼブブは言った。「そしてその獣臭き言葉を理解するのに、我がニューロンは時間を要しているぞ」「アア!?」

 インシネレイトとベルゼブブのやり取りを聞きながら、ガーランドはカラテを研ぎ澄ませる。無論、彼はたった今のクナイ・ウィップ攻撃でベルゼブブの心臓を八つ裂きにして殺すつもりだった。蝿の群れを操る正体不明の能力に加え、近接カラテにも長けるか。二対一の状況を活かさねばならぬが……。

「王は遠大な計画に心を砕いておられる。そして我は王の戦士。神聖なるカリュドーンの儀を前に、培地の分際が我を煩わすでないぞ」「言ッてることがひとつもわかンねェ。要するにテメェがウチの連中を殺ったッて事だろうがァ!」「フー……」ベルゼブブは溜息をついた。「はよ参れ」「イヤーッ!」カトン・ジツ!

 炎の波がベルゼブブに襲いかかった瞬間、ガーランドは身を沈めた突進から、カトンに乗じた攻撃を仕掛けた。研ぎ澄まされた彼のニューロンは時間感覚を泥めいて鈍化させた。先行する炎が……かき消える。バイオ蝿が炎を含み、爆ぜながら散って、カトンを相殺したのだ。だがそこに攻撃の機!「イヤーッ!」

 ガーランドは鉄鞭をヤリめいて繰り出した。ベルゼブブは上体を反らして刺突を躱す。ガーランドは手首を動かし、鉄鞭をしならせた。生き物めいてうねる鞭はベルゼブブを横から切り裂きにかかる。だが……弾かれる。彼女の襤褸の下の裸の脇腹から光る蝿が群れを為して噴出、押し戻したのだ。

「イヤーッ!」「グワーッ!」一瞬後、ガーランドは顎を蹴られ、回転しながら後ろに吹き飛ばされていた。三点で着地し、後ろに滑りながら、ガーランドは舌を巻く。自ら後ろに飛ぶのがコンマ数秒遅ければ、今の蹴りで頭を吹き飛ばされていただろう。「クソがーッ!」インシネレイトはカトンを繰り出す! だが、蝿の壁! わあんわあんわあんわあんわあん!

「イヤーッ!」インシネレイトは迫る蝿を焼き尽くした。だが! ベルゼブブの脇腹のエラめいた穴からは無限めいて新たな蝿が吐き出されるのだ! わあんわあんわあんわあんわあん!「イヤーッ!」インシネレイトはカトンを撃ち、反動で後退した。炎が蝿を焼く! だが!

 わあああん、わああああん! 通路を埋め尽くす光の群れ!「イヤッ! イヤーッ!」インシネレイトは左手、右手からカトンを放ちながら、ガーランドの横にまで押し戻される。光とともに燃えて散る無数の蝿は不気味で不快な美しさを湛え、その奥から悠然と進み来るベルゼブブの裸身は濡れて光っていた。

「キリがなくてもなァ」インシネレイトが吠えた。「無限に我慢比べやってやンよォ! イヤーッ!」KA-DOOOM! 爆炎を浴びせかける! 蝿の群れが燃えて散る!「イヤーッ!」ガーランドが仕掛ける!「イヤーッ!」ベルゼブブは攻撃を躱し、再び蝿を吐き出す!「そう長く耐える必要はない、モータル……」

 ギャリイイイン! ガーランドは攻撃を受けながら斜めに飛び、天井近くの壁を蹴って再び攻撃をしかけた。「イヤーッ!」ベルゼブブは恐るべき柔軟性で身体を反らせ、蹴りによってガーランドの攻撃を弾いた。ガーランドはさらなる連続攻撃をしかける!「イヤーッ!」「イヤーッ!」一方、四本の腕!

「イヤーッ!」「イヤーッ!」「イヤーッ!」「イヤーッ!」切り結びながら、ガーランドは後方で橙色に光るシルエットに注意を払う。インシネレイトだ。「ク、ッッッソがコラァァァ……!」全身を駆け巡らせるカトンのエネルギーが、彼を白色松明めかせて輝かす! ガーランドは機を見計らう!

「これが俺の!」インシネレイトのジャケットとシャツが融解するように炎と一体化し、背中の不動明王が後光めいて燃え上がった。「イヤーッ!」ガーランドはベルゼブブの腕にクナイ・ウィップを巻きつけ、二本を封じ、胴体に蹴りを入れて、反動を利用して後ろに転がった。「ヒサツ・ワザ!」

 ZGGG-TOOOOOM! 次の瞬間、溢れる炎がフロアの通路全体を駆け巡った! ガーランドはうつ伏せに這い、恐るべき炎を頭上にやり過ごした。ガーランドは眉間に皺寄せ、炎の先、インシネレイトの背中の先に、敵の影を見ようとした。だがインシネレイトが先に知らせた。「やッて、ねえ」彼の背中が揺れた。

「モータル。そなたのジツは実際強い」蠢く光の粒が人型に寄り集まった物体が近づいてくる。一歩ごとに光の粒は命を止めてボロボロとこぼれ落ち、リアクティブ・アーマーじみて蝿に覆われた姿を再び徐々にあらわにする。「だが、王の力を授かりし我を、小賢しきエテルの遊びで破る事はできぬ。我が子らの時間は速い。産まれ、育ち、番う。我の体内に全ての輪廻あり」

 インシネレイトの眼前にベルゼブブの裸身。殺せる!「イヤーッ!」インシネレイトはカトン・パンチで応戦した。燃える拳はベルゼブブの裸身に届かない。彼女は四本の腕のうち二つを用いて彼のカラテを防いだ。ガーランドがかかってゆく。その時、わああん! フロアの排気口から蝿が溢れ出した。

「イヤーッ!」ガーランドの拳をベルゼブブの残る二つの腕が受け止めた。わあんわあんわあんわあんわあんわあん!「王の威、ドゥルジ・ニンジャの力を知れ。モータル」わあんわあんわあんわあんわあんわあん!「ここは王の領土也」わあんわあんわあんわあんわあんわあん! 空間を満たすバイオ蝿!

 蝿がガーランドを抑え込み、押し戻す! わあんわあんわあんわあんわあん!「イヤーッ!」インシネレイトは掴まれた手を振り払う。ベルゼブブは手を離す。そして彼の顔面に掌を当てた。掌には脇腹同様の裂け目がある……「力を与えん」わあんわあんわあんわあんわあんわあんわあんわあんわあん

 インシネレイトが痙攣し……爆発した。「アンコール、ダ、コラーッ!」KA-DOOM……! インシネレイトの全身から放たれた炎と衝撃が、ガーランドを後ろに吹き飛ばした。彼は壁の凹凸を掴み、抗うようにクナイ・ウィップを繰り出し、一本釣りじみて、インシネレイトの身体を引っ張った。「イヤーッ!」

「アバーッ!」焼け焦げたヤクザがガーランドの腕の中に飛び込んできた。そのままガーランドは踵を返し、走り出した。「オゴゴーッ!」肩の上でインシネレイトが嘔吐し、焦げた吐瀉物と共に蝿の死骸を散らした。ガーランドの網膜は、かすかに、カトンを至近で受けたベルゼブブを捉えていた。

 一矢は報いたが、殺せていない。彼女もまた、体勢の立て直しを企図したか。「ド畜生がァ……降ろせ! 降ろしてくだせェや!まだ殺ッてねェーッ!」「まだだ!」ガーランドは叫び返した。「まだ降りるな」「クソがァーッ!」「黙って整えろ。カラテを!」ガーランドは通路を駆ける!

 わあんわあんわあんわあん! 蝿たちが通路の方々から湧き出し、彼らに襲いかかる。ガーランドは吹き抜けに到達した。下か。否。上。「アイエエエ!」上階対岸、モヒカンの男と目が合う。一も二もなく、ガーランドは吹き抜けの手すりを蹴って、斜めに跳躍した。彼は赤外線センサーを突き抜けた。

 BRRRRTTTTTT! BRATATATATATATAT! 設置された無数の無人ガトリングガンが反応し、さらには複数のC4爆薬が反応した。KABOOOOM!「イヤーッ!」ガーランドはクナイウィップをかろうじて対岸二階上の手すりに巻きつけ、身体を跳ね上げ、転げ込んだ。「アバーッ!」インシネレイトが床に投げ出された。

「アイエエエ!」ガスマスク装備のモヒカンが目の前で腰を抜かす。インシネレイトは焦点の定まらぬ目を向け、カトンを繰り出した。「イヤーッ!」「イヤーッ!」割って入ったニンジャがクロス腕でカトンを受け、庇った。ガーランドの心臓が強く打つ。この者達にどう出るか、判断せねばならない。

 ガーランドと対手の殺気が膨れ上がり、臨界点に到達する寸前、不意に強烈な耳鳴りが襲ってきた。現世に正体不明の視界が重なり合い、頭上に黄金の立方体が光り輝いた。「ヌウッ!」ガーランドは頭を押さえた。「アイエエエエ! バカな!」モヒカンが頭を押さえた。「今、俺、直結してない!」

 ガーランドは反射的に逃走経路を振り返った。強烈な光が、遮蔽物を透過して視界を蠢く。状況判断から、その光がベルゼブブを示している事は明確だった。狩狩狩。ニューロンを正体不明の漢字イメージが乱舞し、なにか力ある存在が隣り合っているような異様な感覚が背筋を駆け抜けた……。

「オゴーッ!」床でインシネレイトが身を捩り、嘔吐した。困惑した視線が交錯した。ガーランドはインシネレイトに肩を貸した。一方、緑髪猫目のニンジャはモヒカン男の首を掴み、引きずって立たせた。「行くぞ。休むな!」「……」ガーランドと彼女は再度視線をかわし、共に移動を開始した。

 耳鳴りが去ると、黄金立方体の幻視は消え失せ、ベルゼブブを知覚したとおぼしきイメージも失せた。ほんの一時の恩恵に過ぎなかった。「ソウカイヤのニンジャ」歩きながら、猫目のニンジャが話しかけた。ガーランドは尋ねた。「何者だ」「私は敵ではない」「そのようだが」「クレッセント。ヨロシサンだ」

「ヨロシサンだと? 何故だ」「貴殿らが戦闘する蝿のニンジャ。あれに関し、我が社のマターがある」弱々しいモヒカンの首をぐいと引き、「彼はサイダ3、現地登用のハッカーで、非戦闘員」「何処を目指す」「最上階の中枢データセンターだ。貴殿らの戦闘で我々が使っていたUNIXがダメになってね」

「フン、監視カメラでもハックしていたか」「そうだ。……敵の敵は味方という言葉はミヤモト・マサシだったかな? 貴殿らはアレを殺しに来たようだが、目的はそう離れていない」「あのベルゼブブについて、どこまで知っている」「それは……」「オゴゴゴーッ!」スモトリがシャッターを壊して出現!

「イヤーッ!」「アバーッ!」「イヤーッ!」「アバババーッ!」二人のニンジャは目にも留まらぬカラテで片手間にスモトリを切って捨て、死体を踏み越えて階段を駆け上がった。わああん! わあああん! スモトリが吐き出した蝿の群れから逃れる。「そのカトン使いは動けんか」「……今はな」 

「オゴーッ!」再びインシネレイトは嘔吐した。「少し待て」クレッセントは踊り場に止まり、インシネレイトを壁に寄り掛かるように座らせた。「ド畜生コラァ……チャルワレッ……チャレケ……」「ンンー」クレッセントはインシネレイトの眼鏡をずらし、瞼を押し上げた。顎を掴み、口中を見る。

「経緯は?」「ベルゼブブの攻撃を受けた」「だろうな」「ゲウッ!」インシネレイトが白い吐瀉物を吐いた。「アイエエエ!?」サイダ3が怯んだ。クレッセントは装備品から小型注射器を取り出し、許可を取らずにインシネレイトの数箇所に注射した。目で問うガーランドに「気休めではある」と答えた。

「ベルゼブブがヨロシサンの……」「無関係だ」クレッセントは真顔で否定した。「我が社のバイオ蝿はESGコンプライアンスに配慮したプロダクトだ。人間に寄生して野放図に繁殖するなど悪夢じみて風評被害。何らかの手段で蝿が我が社の企図したものからかけ離れたものに変質している。これは明らかな商標権侵害行為……まあ、ジツには色々ある。如何なる可能性もあろう」

「滑らかに出てきたな、説明が。株価を下げられたくなければ協力しろ」「そのつもりだよ」「それで? コイツは助からんか。ならばカイシャクも考えねばならんが」「まだ望みはある」クレッセントは首を振った。「私はヨロシサンによる遺伝子組み換えプロダクトを制御する手段を有している」

「そ……その為に、強いデッキと太い回線が要ります」サイダ3が説明を加えた。「ビルのメインフレームに繋いで、ヨロシサンのサーバーから修正データを落とさないと」「制御周波数をアップデートし、このクソッタレのバイオ蝿に私の装置が通じるようにするわけだ」「よかろう」ガーランドはインシネレイトを抱え上げた。

「私の装置を通せば、恐らく虫も下せる」クレッセントが言った。「カトン使いは私よりも役に立つ筈。そういう意味で、私としても助けてやりたい……蝿の影響を止めた後、どこまで回復するかによるが」「先の事を考える必要も時間もない」ガーランドは淡々と言った。「目先の問題を片付ける。最終的にあのベルゼブブは殺る」

 彼らは階段を駆け上がった。全力で走れば色付きの風ともなるが、要のハッカーを置き去りにはできない。「このまま88階まで真っ直ぐ行けない場合は、サイダ3=サンが経路を設定し直す」「ああ」「オゴーッ」「オゴゴーッ」「イイ……!」上階から膨れ上がったスモトリ達がよろよろと現れ、行く手を塞いだ。

「どうやら、成れの果てはアレという事だな」「ああそうだ。道中、嫌というほど確認したとは思うが」クレッセントは認め、「経路の変更は……」「要らん」ガーランドは首を振った。鉄鞭を手繰り、カラテを構えると、クレッセントも並び立った。「押し通る」「貴殿、なかなかいいぞ」「フン……」


8

「「イヤーッ!」」クレッセントとガーランドは同時に跳躍し、上階で待ち構えるスモトリ状の培地人間に蹴りを食らわせた。「アバーッ!」「アババーッ!」精密な蹴りがスモトリの首の骨を砕き、あらぬ方向へへし曲げる。すると彼らの目鼻口から蝿が噴出する! わあんわあんわあんわあんわあん!

「イヤーッ!」ガーランドは後方にクナイ・ウィップを打ち振り、蝿をまとめてはたき殺しながら、さらに上階へ駆け上がる。「イイ……」「トテモイイ、ヒカッテル」スモトリ達がよたよたと降りてくる。まともに殺し合ったところで、蝿を無駄に増やすだけだ。「どけ! イヤーッ!」「アババーッ!」

「アッ!」つんのめるサイダ3の手を、クレッセントが掴んだ。「気をつけろ。お前が生命線だ」「スミマセン」「イヤーッ!」「アバーッ!」前方でスモトリを倒すガーランドは、ぐったりと動かぬインシネレイトを肩に担いでいる。クレッセントはそれを睨む。「ああされたいか」「自力で頑張ります!」

 既にクレッセントはアンタイ・ヨロシ・パルスの放射をアクティブにしている。それが功を奏してか、蝿は彼らにまとわりつくものの、躊躇うように飛び狂い、体内に侵入しようとしてくる事はまだない。だが、押し包まれればそうもいくまい。83階。84。85……。「アイエエエ!」サイダ3が悲鳴をあげた。

 彼が悲鳴を上げたのも無理はない。ガーランドは舌打ちし、クレッセントも身構えた。86階に上がる踊り場は土気色のぶよぶよしたものに塞がれている。「アバー」その一部が蠢き、顔らしき部分と手らしき部分を動かした。膨張した人体複数が煮こごりめいて押し固められたものが……!「「アバーッ!」」

 SPLAAASH! 肉壁が蠢き、蝿が飛び出す! 反射的にクレッセントはサイダ3を抱え、ガーランドとともに方向転換した。85階に突入する! わあんわあんわあんわあん! 蝿密度の濃さ! ニンジャ二人はともかく、サイダ3はガスマスクをしていなければ何度破滅していたかわからない。ファッションに救われた!

 わああん! わああああん!「別の階段は」「エレベータは……チッ」確かめるまでもなく、彼らの逃走経路に現れたエレベータは、繊維質の嫌ったらしいなにかで覆われ、塞がれていた。エレベータ扉にもたれかかるように動かない人間の蛋白質でできているようだった。「前へ!」サイダ3が叫んだ。

 わあんわあんわあん!「そこを右……」わあんわあんわあんわあん!「そこ左です!」わあんわあんわあんわあんわあん!「イヤーッ!」KRAAASH! ガーランドは通路を塞ぐ肉膜をクナイ・ウィップで切り裂いた。新鮮な空気が流れ込んだ。彼らは再びビルの中央、吹き抜け部を前にしていた。「先がないぞ!」

「30秒ください!」サイダ3は消化器と並んで設置されている壁の非常用UNIX端末にLAN直結した。ガーランドとクレッセントは彼を挟むように立った。クレッセントはアンタイ・ヨロシ・パルスの抑止力に賭けた。キュウイイイイイイ……。出力が上がり、たかってくる蝿が乱れる。

「奴……!」ガーランドは吹き抜けの対岸に視線を向けた。薄ぼんやりと、まとわりつく蝿によって霧めいて霞む四つ腕の輪郭は、ベルゼブブに他ならない。インシネレイトのカトンは、どれほどのダメージを与えられたのだろうか。彼女は宣告するように彼らを指し示した。

 キャバアーン! UNIXデッキが音を立てた。「い……行けました! 赤外線解除!」サイダ3がケーブルを引き剥がし、叫んだ。「出来ると思ったんだ。最上階データセンターに一時的に無線接続しました。このまま……行くしか無いですよ!」「上だな」クレッセントがサイダ3を掴んだ。彼らは跳んだ!

「「イヤーッ!」」仲間をそれぞれに抱え、斜め上に跳躍したガーランドとクレッセントは、87階の吹き抜け手摺を蹴り、トライアングル・リープして、強引に最上階88階へエントリーした。「アイエエエエ!」悲鳴をあげるサイダ3。二人は立ち上がって走り出す!「叫ぶ暇があるなら目的地を示せ!」

 わあんわあんわあんわあんわあんわあん! わあんわあんわあんわあんわあんわあん! わあんわあんわあんわあんわあんわあん! 彼らは光る霧の中を走り抜ける! そして……「イヤーッ!」サイダ3が示すシャッターフスマをこじ開け、転がり込むと、厳重に閉め直し、ロックした。UNIXライトの緑光! データセンターである!

 ガーランドはインシネレイトを横たえると、「イヤーッ!」室内に入り込んできた数十の蝿をクナイ・ウィップで切り裂き、なお残った数匹を指先ではさみ捕らえて押し潰した。「まだか!」「ここです!」サイダ3は黒円筒型UNIXデッキに駆け寄り、LAN直結した。「い、行きます!」

 ダッダー、ダダッ、ダダズー、ダダダ……デッキが激しい駆動音を響かせ、UNIXモニタを01ノイズと文字列が滝めいて流れ落ちる。このビルのメインフレームと再び接続し、ヨロシサンのサーバーにアクセスする。既にヨロシサン側ではエンジニアがクレッセントの先程のアクセス時の要求に応え解析を完了。クレッセントもサイダ3の横にならび、LAN直結。

 モニタではウサギとカエルが箱を投げ渡す。その速度は極めて速かった。このビルの基幹システムを直接動かせている恩恵である!「ゲウッ!」インシネレイトが床で咳き込み、意識を取り戻す。「ここ、何処ッスか! あのクソ蝿……! クソが……!」

「寝ていろ」ガーランドは言いかけ、そして天井を見て眉根を寄せる。「いや違う、無理出来るか、貴様」ナムサン……天井付近の排気口から、光る霧が染み出してきていた。わあん……わあんわあん……わあんわあんわあん。「違うな。無理をしろ」肩を支え、インシネレイトをそちらに向ける。

「無理でもなんでも……ねェんだよ……!」インシネレイトは震える手をかざし、カトンを放つ!「イヤーッ!」KBAM! 白熱する炎が、排気口から溢れてきた光る蝿を焼き焦がした! 燃えながら乱れ狂う蝿たち! キャバアーン! UNIXファンファーレ! アップデート完了!「オゴーッ!」インシネレイト苦悶! 倒れ込む!

 わあんわあんわあんわあん! 染み出す蝿の群れ! ガーランドはクナイ・ウィップを構え、頭上を切り裂きながら叫ぶ。「そいつを治せ、クレッセント=サン! 今すぐにだ!」わあんわあんわあんわあん! わあんわあんわあんわあんわあん!

「イイイイヤアアアーッ!」ガーランドは凄まじい攻撃で蝿を殲滅してゆく! クナイ・ウィップは殺戮風車めいて乱舞し、光る蝿をズタズタに切り裂く……ギュルギュルと巻き付く。蝿の中に出現した艶めかしい手首に。ガーランドが反応した時、既に彼の目の前には、ベルゼブブが、立っている。蝿の霧の中から生み出された四本腕の女の姿が。

 ガーランドの心臓は強く打ち、ニューロンは異常加速。ソーマト・リコール現象の中で時間が圧縮されて、電撃めいた瞬間的思考が乱れ舞う。この数秒で起こった出来事が現実を追うように彼の認識に流れ込んでくる。蝿を飼い、操るニンジャであると……彼はそう認識していた。それでは不足だったというのか。

 隙間なく集まった蝿が、腕を、脚を、トルソーを形作り、ベルゼブブを形作った。生まれたままの姿から、さらに襤褸めいたマントが生成され、ハーフガスマスクを思わせる奇怪なメンポが生成された。ベルゼブブは二本の腕を使ってガーランドの脇腹と心臓にショートフックを打ち込んだ。「イヤーッ!」 

「グワーッ!」ガーランドは螺旋回転しながら壁まで吹き飛ばされ、叩きつけられた。ベルゼブブは彼に見せつけるようにして、その手に掴んだクナイ・ウィップを掲げ……引きちぎり、破壊した。わあんわあんわあんわあんわあん。データセンター内を光る蝿が乱舞する。クレッセントは……「イヤーッ!」ベルゼブブはクレッセントの首を蹴り刎ねに行った。

 サイダ3がクレッセントを突き飛ばした。クレッセントはベルゼブブの蹴りを受けた。首は飛ばなかった。KBAM! 炎が閃いた。インシネレイトが苦し紛れに撃ったカトンのようだった。ベルゼブブは炎を嫌い、一歩下がった。わあんわあんわあんわあん。蝿が乱れ舞う。インシネレイトは気を失う。 

 クレッセントは床で身じろぎする。鎖骨が折れ、腕があらぬ方向を向いている。ベルゼブブはサイダ3を見る。「モータル」彼女は何か言おうとする……KRAASH! ベルゼブブの後方、データセンターのシャッターフスマが歪んだ。ベルゼブブは振り向いた。「イヤーッ!」KRAAASH! フスマが吹き飛んだ。

「イヤーッ!」飛んできたフスマの鉄板を、ベルゼブブはチョップ突きで貫き、受け止めた。そして邪魔な鉄板を左右に引き裂くと……戸口に立っているのは、赤黒のニンジャだった。「ドーモ。ベルゼブブ=サン」ニンジャはベルゼブブを見据え、アイサツした。「ニンジャスレイヤーです」

「来たか、獣よ。よい頃合いだ」ベルゼブブはニンジャスレイヤーを迎えるように手をひろげた。「戯れておったが、さいわい、こちらも片付いたところ」オオオオオオ。蝿たちがうなりをあげて奔流となり、彼女の中に吸い込まれてゆく。「ドーモ。ニンジャスレイヤー=サン。ベルゼブブです」

 ゴーン……。彼らがアイサツした瞬間、鐘めいた超自然音がオヒガンと現世に等しく鳴り響き、その場の者たちに等しく極めて不快な耳鳴りを残し、頭上にはふたたび、黄金立方体が冷たく輝いた。「アイエエエエ! アババーッ!」サイダ3が頭を抱え、倒れ込んで痙攣する。非ニンジャの彼のニューロンには発狂寸前の幻視であった。

「ゴボッ」ガーランドの顎下から、吐いた血が溢れた。至近のカラテの傷は深い。彼は壁の亀裂の中でかすかに身体を動かし、赤黒の陽炎をまとう存在を視認する。ニンジャスレイヤーも彼の視線に反応し、一瞥を返した。ニンジャスレイヤーは床に倒れた者らを見た。彼が手を握り開くと、黒い火が爆ぜた。

「……どうでもいい」ニンジャスレイヤーはベルゼブブに視線を戻し、低く言った。「このくだらないビルが貴様のケチな隠れ家か。ふざけた狩りの呪いだが、おかげで面倒は省けた」「それは我も同じ事よ。獣の分際で、コンヴァージ=サンを葬りし折の増上慢……聞いておったぞ。イノシシじみてやってくると思うておったわ」

「逃げ隠れておれを待っていた分際で、まだ狩人のつもりか?」ニンジャスレイヤーはかすかに首を傾けた。そして声を張り上げた。「見物している奴ら! せいぜい見ていろ。いずれ全員おれが殺す!」彼の叫びはオヒガンに響き渡り、現世に反響を残した。ベルゼブブが目を細めた。イクサが、始まった!


9

「イヤーッ!」ニンジャスレイヤーは身を沈め、ベルゼブブに突進した。ベルゼブブは蝿の群れを前方に集中展開! わあああんわあああん!「イヤーッ!」ニンジャスレイヤーは指を鈎状に曲げて蝿の壁を切り裂いた。群れを裂いた箇所から黒い火が広がり、虫のカーテンに穴を穿つ!「イヤーッ!」

 穿たれた穴の先、ベルゼブブの姿が再び見える。ニンジャスレイヤーの第二撃はヤリめいたサイドキック! ベルゼブブは下腕で蹴り足を挟み、捻じりあげた。「ぬるいぞ、モータル……」「イヤーッ!」捻られる力を利用し、ニンジャスレイヤーはキリモミ回転。逆の足でベルゼブブの側頭部を狙う!「イヤーッ!」

 ベルゼブブは上腕を用いてニンジャスレイヤーの蹴りをガードした。一瞬遅れて、渦を巻いた黒炎が蝿の群れを巻き込み、焼き殺していった。燃える渦の正体はマフラーめいた首布である。燃える腕で殴りつけるような、燃焼性のカラテである!「アイエエエ!」サイダ3が悲鳴をあげる!

「イヤーッ! イヤーッ! イヤーッ! イヤーッ!」ワン・インチ距離における短打戦が開始された。ニンジャスレイヤーはベルゼブブの四本腕のカラテに少しも怖じる事がない。本来ベルゼブブは攻防にニ倍の腕を用いる圧倒的優位を持つ筈である。この時点で彼女はガスメンポの下、忌々しげに眉根を寄せた。

「イヤーッ!」「イヤーッ!」ガガッ! 衝撃波がサーバールームを吹き抜け、サイダ3は壁に押し付けられて悲鳴をあげた。ニンジャスレイヤーの連打はベルゼブブの腕を外側へ弾き開いてゆく。わああああん! 脇腹から新たな繁殖蝿が噴出! ニンジャスレイヤーは押し戻され、タタミ3枚強制後退!

「モータル。身の程を知れ。王の力を前に足掻いたところで、知れたものよ」「モータル(死すべき定めの者)? 聞き慣れない言葉を使うやつだ」ニンジャスレイヤーは前傾姿勢をとった。「貴様らは自分が死なない側と決めつけ、狩人だ何だとほざくが」赤黒の装束に黒炎が走る。「……くだらないぞ」

「ウフハハハハハハ! その無知こそが増上慢よ!」ベルゼブブは哄笑した。「王の力、ドゥルジ・ニンジャの力をその身に刻んでくれよう! ブザマな "狩" の漢字の次にな!」わあああああああん! サーバールームに光る蝿が充満する!「アイエエエ!」サイダ3が泣き叫んだ。霞む視界に彼は神話闘争を見る。

 彼は必死に、生死不明のクレッセントに覆いかぶさった。蝿、そして黒炎。やり過ごすしかなかった。狂気のふちに立たされた彼のニューロンに、ザンキ・ギャングのハッカーとしてのシケた日々がソーマト・リコールした。緑の格子とタイピング、黄金立方体。テックの冒険の日々が突如、呪いの世界に。

 突如? 否……黄金立方体はいつからある? ネットワークはいつからある? コトダマ空間とはなんなのか? 深淵に覗き込まれたかのようなおぼつかぬ感覚が、極限状態のサイダ3を襲った。(((……ラダ……マスラダ!))) 耳慣れぬ声が混線した。極めて恐ろしい怨霊じみた思念だった。(((ヘルタツマキせよ!)))

 頭上遥か高くに黄金立方体の光が輝き、さらに、この異常な光景を見下ろす大いなる者達の影が重なった。カリュドーンの儀式の特殊な領域が、彼の感覚を侵犯していた。必死で彼は発狂をこらえた。わかるわかるワカル、幻だ! (((全て殺せ!))) 全方向に拡散するスリケンが、自身やクレッセントを殺す光景!

「イイイイイ……!」乱舞する蝿の中、ニンジャスレイヤーは身体を捻じりながら沈め、そして……解き放った!「イイイイヤアアーッ!」上にだ! KRAAAAASH! DOOOOM! 天井を突き破り、空の下、赤黒の影は燃えながらポンポン・ビルディングの屋上部に飛び上がった。燃える蝿を周囲に舞わせながら!

 わああああんわああああん! サーバールームを満たした蝿が間欠泉じみて上へ抜けてゆく。ベルゼブブもそれに続いた。「イヤーッ!」彼女はサイダ3達を捨て置いた。神話的闘争に突入した彼女にとって、ゴミクズほどの価値もないというのか……! しかし蝿はサイダ3たちを見逃しはしない!

 わあああんわあああんわああああんわああああん「アイエエエ!」わああああんわああああんわああああんBOOOOM! 微かな音を伴った強烈な振動が室内をかけぬけ、貪欲な蝿は追い散らされるように上へ抜けていった。怪訝とするサイダを床に押し付けたのは、意識を取り戻したクレッセントだった。

「クソッタレが」クレッセントは室内を洗浄するかのようにパルスを放射した。「ク、クレッセント=サン……」「ガッツを見せたな、たいしたものだ。礼を言うぞ」「あの……俺……!」「ああそうだな、ひとまずビジネス契約の遵守だ」彼女は床でのたうち回るインシネレイトに掌をあてた。


◆◆◆


 ノイズの風ふきすさぶオヒガンの荒野に在って、セトは腕組み姿勢のまま、眼前にホログラムめいて再現される現世の映像を見つめていた。微細な01ノイズで形成される、ミニチュアじみたポンポン・ビルディングだ。屋上を破り飛び出した赤黒の影、それを追って噴出した蝿、そしてベルゼブブ。

 立ち並ぶ石版にはそれぞれのアトモスフィアが満ちる。リアルニンジャ達にとって、このカリュドーンのイクサは真摯な遊戯である。あるいは……ニンジャスレイヤーの悪名を知る何人かにとっては、その真価をはかる油断ならぬ場でもある。

 巨大な目玉のヴィジョンの眼力が強まる。狩人ベルゼブブの主。即ちドゥルジ・ニンジャ。ロンドンを私する腐敗の王、ケイムショとしても知られる超越的な存在だ。ドゥルジ・ニンジャはベルゼブブに王の眷属の印を与え、彼女の存在を経由して、呪いの力を注ぐ事ができる。ここにドゥルジはベルゼブブであり、ベルゼブブはモータルの創造物を容易く作り変える。

 いわばベルゼブブはケイムショの愛しき娘、おぼえ目出度き弟子である。ケイムショはその奥義の一端を渡し、ベルゼブブは見事な才覚とカラテによって呪いを己のものとして、その期待に応えた。カリュドーンの狩人としてケイムショが彼女を選んだのも当然であろう。

『クキキキ……実際、眼を見張るような力ではある。げに恐るべしドゥルジ・ニンジャ=サンといったところかな』ギャラルホルンが関心して見せた。『しかしロンドンも昨今なにかと騒がしい。特にあの……例の国際探偵には気をつけ給えよ……』『無駄口を叩くでないわ』アイアンコブラが苛立った。

『クキキキ……貴公はだいぶこのゲームに入れ込んでおいでだからな、アイアンコブラ=サン。もしや先を越されるのではと心配しておいでか? よいではないか、勝者を素直に寿げばよい。それが自身の狩人でなくとも、儀式の完遂は目出度き事ゆえ……』『黙りおれ。イクサが決するのは、じきだ!』

 雲上人たちのオヒガン会合からレイヤーをひとつ下げれば、それはマルノウチ・スゴイタカイビルの屋上、四つのシャチホコ・ガーゴイルに囲まれて、ベルゼブブ以外の狩人たちが、ブラックティアーズの水晶が投射するイクサの光景を、主たちと同様に眺めているのだった。

「なるほど、上に逃れたか」「獣にとって、その足掻きは吉と出るか凶と出るか……」「ニンジャスレイヤー、思いのほか荒っぽい戦い方ではある」「確かにカラテに見るべきものはあります。しかし、いまだに信じられませんね、あのタイクーンを倒したとは……」

 彼らはくだけた調子で獣と狩人ベルゼブブのイクサぶりを論評しながら、しかし決してホロ映像に焼きつく二人の動きから一瞬たりとも目を離しはしなかった。そればかりか、その場の他の者達の息遣い、仕草ひとつひとつにすら注意を配り、出し抜くための要素を探り続けている。彼らは……対戦者なのだ。

「エ、エヘヘ……」サロウは落ち着かない笑みを浮かべた。彼は一番遠くから、遠慮がちに水晶ホロを覗き込む。「タイクーンって、アレですよね……腕が四つあったから……それとやりあったニンジャスレイヤーは、実際慣れてンじゃないかなって。そういう……」狩人達はとくに相槌を打たなかったので、彼の言葉は尻すぼみに消えた。

「そ……それにしてもこの屋上ッてさ……」彼は四方のシャチホコ・ガーゴイルを見、呟いた。「つくづく、嫌な感じがするよなッて。ニューロン、チリチリするんだよね。地下のアレのせいだけなのかな? ……まあ……わかんないけど……」


◆◆◆


 わあんわあんわあんわあんわあんわあんわあんわあんわあんわあん! 渦を巻いた蝿の群れはニンジャスレイヤーの死角へ回り込み、攻撃を仕掛ける!「イヤーッ!」ニンジャスレイヤーはカラテを漲らせ、裏拳で応じた。KBAM! 注ぎ込まれた黒炎が伝播し、蝿が焦げ落ちる。そして彼は爆発の反動で跳ぶ!「イヤーッ!」跳んだ先にはベルゼブブ!

 ベルゼブブはクロス腕でガードする。ニンジャスレイヤーは空中で回転し、二度、三度と蹴りを繰り出す!「イヤーッ! イヤーッ! イヤーッ!」重い蹴りがベルゼブブの反撃を潰し、防御を徐々に剥がしていった。「イヤーッ!」

 KBAM! 蹴りの衝突地点で黒炎が噴いた。蝿が燃え散る。ベルゼブブの姿がない! ニンジャスレイヤーは真後ろを向いた。そこにチョップが襲ってきた!「イヤーッ!」「ヌウーッ!」かろうじて身を守る! 背後からの出現……!(((注意せよマスラダ! これがハエ・ブンシン・ジツ也!)))ナラクが告げる!

 (((古来より、群れ為す鳥獣にジツを媒介せしめ肉体すらも伝導するニンジャのクランは大小様々にあり。コシャクなるブンシン、シニフリ、カワリミの類いよ)))「イヤーッ!」「イヤーッ!」「イヤーッ!」「イヤーッ!」四本腕のカラテがニンジャスレイヤーを追い込みにかかる!

 イクサとは即ち呼吸ひとつ。打ち合いのさなかにアンブッシュの機会を捉えれば、容易にイニシアチブはひっくり返り、そのまま押し返せずに敗れる者もしばしばある。そしてベルゼブブのカラテは……「イヤーッ!」「イヤーッ!」打ち合いの中、不意にまたベルゼブブは消失! 真横に実体化!

「イヤーッ!」「グワーッ!」肩に打撃を受け、ニンジャスレイヤーの身体が沈み込んだ。ニンジャスレイヤーはサマーソルトキックで反撃する!「イヤーッ!」KBAM! 蹴り足が蝿を燃やしながら月弧を描く。ベルゼブブは散り、ニンジャスレイヤーの背中に蹴りを突き刺す!「イヤーッ!」「グワーッ!」

 前へよろめいたニンジャスレイヤーの眼前にベルゼブブが染み出す。「イヤーッ!」「グワーッ!」チョップが両肩に突き刺さる! ニンジャスレイヤーは膝をついた。「その姿勢こそ、王の威光を前にモータルがとるべき姿」ベルゼブブは左右の上下腕それぞれでニンジャスレイヤーの腕を掴む!

「イヤーッ!」ベルゼブブはニンジャスレイヤーの両腕を引きちぎりにかかる!「グワーッ!」ナムサン! ナムアミダブツ……否! ベルゼブブはガスメンポの奥で目を見開いた。彼女のニンジャ第六感は異変を察知した。研ぎ澄ませたニンジャスレイヤーの殺気。彼は知っている。体験済なのだ。この危機を。

 然り、ニンジャスレイヤーのニューロンに駆け巡ったのは、タイクーン、アケチ・ニンジャの四本腕によって四肢を引き裂かれんとした絶体絶命の瞬間と、それを打開した閃きであった。あの時も、今も、同じだ。敵が戦士から処刑官に変わった瞬間、最大の好機は来たる。「イヤーッ!」

 あの時、打開したのは頭突きだった。動かせるのが頭だけだったからだ。今はどうだ。彼は強制的にドゲザじみて額を床に押し付けられていた。しかし脚が動く!「イヤーッ!」ボギン! 両肩の関節が音を立てた。ニンジャスレイヤーは止まらなかった! サソリの尾めいて右脚を振り上げ、踵をベルゼブブの顔に突き刺す!「グワーッ!?」

 ベルゼブブは怯んだ。ガスメンポが割れ、四つの複眼と鋭利な牙を備えた顔があらわとなった。怯みながらベルゼブブの姿は崩れてゆく。蝿だ。ニンジャスレイヤーは勢いよく体勢を戻して両腕を鞭のようにしならせ、無理矢理に関節を嵌め直した。燃える目が蝿の群れを見据える!

 ニンジャスレイヤーの両掌から血が噴き出し、スリケンを作り出す! わあんわあんわあんわあんわあんわあん! 乱れ舞う蝿……「イヤーッ!」ニンジャスレイヤーは、投げた! ニ枚のスリケンを! KBAM! 黒く炸裂するスリケン!「グワーッ!」ベルゼブブが具体化し、苦悶する!

「そのジツは」ニンジャスレイヤーは襲いかかる蝿を燃える手で掻き分けながら、ベルゼブブに近づいた。ベルゼブブはニンジャスレイヤーを睨んだ。その身体が再び蝿に変わり、散る……!「……だいたいわかった」ニンジャスレイヤーは地を蹴り……群れの一点を貫く!「イヤーッ!」「グワーッ!」

 踏み込み突きを受けた蝿の群れは苦しむベルゼブブを形成する。瞬時にその身体は再び蝿と散るが……「イヤーッ!」「グワーッ!」ミドルキックが蝿を打ち据え、ベルゼブブの身体に凝固させる! 何故だ! そのような問いを発するほど、ベルゼブブも呑気な戦士ではない。彼女も理解した。ジツが破られた。

 ニンジャスレイヤーは霧めいて屋上を満たす蝿の群れの密度を注意深く見据えていた。ベルゼブブがブンシンに逃れれば、そこに蝿の僅かな密集が生まれる。蝿の密集は移動し、再びベルゼブブを形成する。このジツはテレポーテーションではない。移動だ。ニンジャスレイヤーはそれを看破していた。

「だが……」「イヤーッ!」ニンジャスレイヤーは大ぶりのチョップで仕掛けた。黒く燃えるマフラー布が蝿を散らし、カラテがベルゼブブに衝突した。ベルゼブブは打撃を受け、タタミ1枚距離を後ろに滑った。ベルゼブブはコンマ数秒蝿化して後退距離を4枚に伸ばし、着地した。「……だが」 

 KRAAASH……KRAAASH。遠く、ガラスが割れる音が立て続いた。それはポンポン・ビルディングの音ではなかった。「……だが、ニンジャスレイヤー=サン……ここは……」わあんわあんわあんわあん……羽音が増してゆく。わあんわあんわあんわあん。このビルは。羽音に包まれている。「……ここは我が領域だ」

(アイエエエエ!?)(アイエエエエエ!?)眼下、ボンボリ・ディストリクトの街路のあちこちで、住民が悲鳴をあげる声が木霊した。KRAAASH。KRAAAASH。ボンボリ・ディストリクトの建物という建物が内より光る霧を噴き出した。この街区すべての建物内で繁殖した蝿たちが、今、母に応えた。

 まるでそれは輝きながら立ち昇る、邪悪な糸杉めいた狼煙だった。ボンボリ・ディストリクトは滅びた。滅びていた。そして滅びの狼煙一つ一つが、否、狼煙を形成する羽虫の一匹一匹が、ベルゼブブの力によって操られ、動き始めた。ベルゼブブの背中が割れて、透明な羽根がゆっくりと拡がった。


10

 強烈なAEDショックを受けたように、インシネレイトの身体がえびぞりになった。「オゴーッ!」ひときわ激しい嘔吐。クレッセントは彼の背中に掌を当て、周波振動を継続しながら、それを冷徹な観察者の目で確認する。「オゴゴーッ!」さらなる嘔吐! ……クレッセントは小さく頷いた。

 彼女は痙攣ヤクザの背中からゆっくりと手を離した。「これッて……」サイダ3が確認しようとした瞬間、「ショラアーッ!」インシネレイトは寝返りを打ちながらクレッセントの顔を蹴った。「ナメチャレッゾコラー!」「イヤーッ!」「グワーッ!」クレッセントは反撃殴打! インシネレイトは倒れ込む!

「スッゾ……! スッゾコラー……!」インシネレイトは口を拭い、震えながら身を起こした。床の生々しい吐瀉物、そして冷たく睨みつけるクレッセントを見、徐々に状況を把握する。「随分だな」クレッセントは呟いた。インシネレイトは舌打ちし、やや大人しくなる。「礼は言わねえ……ヨロシサン落とし前つけろや……!」

 壁際で座り込むガーランドが身じろぎする。インシネレイトは火のように走り、ガーランドを揺さぶった。「ガーランド=サン! 何なさけねェ真似さらしてンスか! ドシタンス!」「お前ほどではない」ガーランドはインシネレイトの手を振り払い、血を咳き込んだ。「少し、やられた」「あ、あの虫女……」

 インシネレイトはさらに状況を把握し、ハッと目を見開いた。「ニ、ニンジャスレイヤーって聞こえた気がすンスけど……」クレッセントを振り返り、「オイ、テメェ! 何があった、さっきまでよォ! ニンジャスレイヤーつったかァ!」「そうだ」答えたのはガーランドだった。「あの蝿と何らか関係がある」

「何だとコラァ……あの疫病神野郎……!」「待て。病み上がり」ガーランドはインシネレイトを掴んだ。「まず状況把握しろ。そして、ゲホッ」血を吐いた。クレッセントが無言でメディ・キットを放り投げた。インシネレイトは唸り、天井の裂け目を見上げた。ゴウゴウと空気が唸っている。

「……!」インシネレイトは訝しみ、頭上の裂け目の上の砂嵐様の色彩を見た。風の唸りにまじって、雷鳴が遠く聞こえる。そして……わあんわあんわあんわあんわあんわあん。この世の終わりじみた凄まじい羽音が、雷鳴をも覆い尽くした。


◆◆◆


『ザリザリザリ……ザリザリどうだオイ、ニンジャスレイヤー=サン! 何が起きてる! ノイズがすげェ、ハックした監視モニタが、クソッ』ニンジャスレイヤーのニューロンに微かにタキの声が響き、再び遠ざかった。どのみち、助けはもう要らない。ビルに侵入する為、コトブキの操縦するカイトとタキの力を借りた。十分だ。

 かわりに、ナラクの憤怒が戻ってきた。(((コシャク也。この地すべてを糧にしたか))) 周囲のボンボリ・ディストリクトの建物から無数の光る霧の松明が立ち上り、渦を巻いている。ベルゼブブはゆっくりと、濡れた羽根をひろげる。ビルを見下ろす大いなる存在の影が再びちらつく。

(アイエエエ!)(アイエエエエ!)(アババーッ!)眼下、阿鼻叫喚地獄図が今まさに繰り広げられる。人々の断末魔がニンジャスレイヤーの耳に入ってくる。幾筋もの蝿の大群が母のもとへ戻ってくる!「イヤーッ!」ニンジャスレイヤーはスリケンを投げた。そして急速接近する!「イヤーッ!」

 ベルゼブブはスリケンを上腕で掴み取り、投げ返しながら、下腕でカラテを構えた。ニンジャスレイヤーは地面をスライディングして投げ返されたスリケンを躱し、その勢いのままにベルゼブブに襲いかかった。「イヤーッ!」「イヤーッ!」「イヤーッ!」「イヤーッ!」押す! ベルゼブブ防御!

「イヤーッ! イヤーッ! イヤーッ! イヤーッ!」ニンジャスレイヤーはクランク回転じみたチェーンパンチでベルゼブブに反撃の隙を与えない。否……ベルゼブブは時間を稼いでいるのだ。ボンボリ・ディストリクトを蹂躙する蝿のうねりが今、ポンポン・ビルディングの屋上に到達しようとしていた!「イヤーッ!」ポン・パンチ!「イヤーッ!」防御! ナムサン!

「イヤーッ!」ミドルキック! 防御! その反動で後ろに滑ったベルゼブブを、蝿の群れが受け止める。ベルゼブブが分解するように薄れ、蝿のミルキーウェイを上流に伝うようにその肉体を逃していく!「イヤーッ!」ニンジャスレイヤーはヌンチャクを引きずり出し、乱舞させる! 渦巻く黒炎!

「イイイイヤアアアーッ!」わあああんわあああんわあああんわあああん! 四方八方から集まってくる蝿達は不気味にパンプアップし、一匹一匹が身にまとう蛍光色の光をさらに強めていた。まるでそれはカラテ粒子のカラテミサイル……否! 実際それは! KBAM! KBAM! KBAM! 炸裂! 炸裂!

「ヌウウウーッ!」KBAM! KBAM! KBAM! KBAM! 今度はニンジャスレイヤーが防戦一方となる番だった。ヌンチャクの軌跡は黒炎の帯を生じる。蝿の爆発衝撃と黒炎は相殺し、今ここに死力を尽くした拮抗状態。だがベルゼブブの本体は上空に四枚の羽根でホバリングしながら、悠然と見下ろすのみ!

「獣よ。手こずらせてくれたものだ。褒めてつかわす」ベルゼブブは四つの複眼を輝かせた。「だが、もはや王の領域に逃げ場はないぞ」「イイイイイヤアアアーッ!」ヌンチャク! 際限なき蝿! KBAM! KBAM! KBAM! KBAM! 圧殺の構え!「イイイイイヤアアアーッ!」KBAM! KBAM! KBAM! KBAM!

 そして裂け目の下、最上階には、彼らの神話的闘争のつまらぬ分け前じみた蝿たちの溢れが流入し、手負いの者達を十二分に苦しめていた。クレッセントは両手を翳し、調整されたアンタイ・ヨロシ・パルスの照射によって蝿を跳ね返し、気まぐれに殺戮される運命にあらがっていた。

 今やこのボンボリ・ディストリクト全体が、邪悪な光の靄に覆われ、悪夢じみた異常気象に呑み込まれていた。近隣街区のメガコーポ勢力は境界線に治安部隊を配備し、様子見の構え。打ち捨てられた街区に過ぎないとでも言うのか。あるいはカタナ社は何らかの特殊CEO命令に訳も分からず従っているか?

『信じられません! これは凄い!』報道ヘリコプターは上空よりポンポン・ビルディングに接近。どうやらTVカメラで中継を行おうとしている。『こ、これは蝿です! いかがですか? NSTVでは日夜このような迫真映像を皆様の端末に届ける事を使命としております! すぐチャンネルしてください! そして……』

 ベルゼブブは僅かに注意をそちらに向けた。「イヤーッ!」ニンジャスレイヤーは動いた! 蝿の群れを焼きながら貫通し、高く跳躍した! わああんわああん! 追いくる蝿の群れを激しくヌンチャクで打ち払い、焼き殺すと、カラテ粒子が激しく炸裂! その衝撃でさらに身体が上へ跳ね上がる!「イヤーッ!」

 ニンジャスレイヤーは空中で身を捻り、燃えるフックロープを投擲した。フックロープはNSTVヘリのスキッドに絡みついていた。上昇したニンジャスレイヤーはヘリの側面に指をめり込ませた!「ア、アイエエエエエ!?」ヘリの中のNSTVキャスターが失禁し、反射的にニンジャスレイヤーにマイクを向けた。

 ニンジャスレイヤーの眼力を受けてか、カメラクルーが向けたカメラが煙を噴いて故障した。ニンジャスレイヤーは……ヘリのボディを蹴り、跳んだ!「イヤーッ!」KRAAAASH! 瀕死の大型羽虫めいてよろめくように遠ざかるヘリ! 一方ニンジャスレイヤーは十分な高度を確保、そのまま空中のベルゼブブに躍りかかった!「イヤーッ!」

 ベルゼブブは半透明の翼を羽ばたかせ、高速で空中に弧を描いた。しかしニンジャスレイヤーは高速キリモミ回転の中からフックロープを投擲した!「イヤーッ!」「ヌウーッ!」ベルゼブブの腕のひとつに燃える鈎が食らいついた!「イヤーッ!」一瞬後、彼は彼女の眼前に居た!

「貴様……」「イヤーッ!」ベルゼブブを殴りつける! ベルゼブブは弾き返す! ニンジャスレイヤーは落下……しない!「イヤーッ!」反動をつけ、ベルゼブブの周囲を旋回する。フックロープを締め上げながら、飛び戻るニンジャスレイヤー!「イヤーッ!」「ヌウーッ!」弾き返す! 遠ざかる! だが!

「イヤーッ!」再びニンジャスレイヤーはロープを巻き取り、ベルゼブブの肉体に吸い寄せられるように飛び戻った。見よ! さながら鼻持ちならない惑星に何度でも墜落を繰り返す憤怒の衛星じみて、ニンジャスレイヤーは……「イヤーッ!」ベルゼブブの脳天に踵落としを食らわせる!「グワーッ!」

 ベルゼブブの頭が割れ、異色の血が噴いた。たまらず振り払おうとしたが、ニンジャスレイヤーは既にベルゼブブの死角、背中に取り付いていた。「離れぬか! 卑しき獣め……!」ベルゼブブはもがき、滑空し、飛翔した。ニンジャスレイヤーはその背後、ジゴクめいて言った。「続けるぞ」

 ベルゼブブは目を見開く。ニンジャスレイヤーは羽根に手をかけ……「イヤーッ!」力任せに、引きちぎったのだ!「グワーッ!?」バランスを崩すベルゼブブ! ニンジャスレイヤーは離脱! そして再びロープを巻き上げ接近……!「イヤーッ!」ベルゼブブは状況判断。鈎ごと自身の左上腕を自ら刎ねた!

 斜めに落下しながらニンジャスレイヤーは高速回転。ボンボリ区のビルのひとつ、消灯した「電話王子様」のネオン看板にしがみつき、これを足がかりに跳躍して、屋上に飛び上がった。彼は燃える目を向け、空中をよろめきながら飛ぶベルゼブブを追った。着地点のビル屋上をめがけ、彼は走り出す!

 わあああん! わあああああん! ビルを飛び渡るニンジャスレイヤーに、複数の蝿のミルキーウェイが襲いかかった。間一髪側転!「イヤーッ!」フリップジャンプ! 隣接ビルに飛び移ると、後にしたビルに蝿の群れが衝突! KA-DOOOOOM! カラテ粒子連鎖爆発! 崩落! だがニンジャスレイヤーは止まらぬ!

「イヤーッ!」距離を取るようにビルからビルへ跳んで距離を取りながら、ベルゼブブはニンジャスレイヤーをめがけ腕を振った。さらに幾筋もの光の塊がニンジャスレイヤーを襲った!「イヤーッ!」ニンジャスレイヤーは跳んだ! 一瞬後、足場のビルが爆発! 崩落! そして着地点ビルにも蝿の渦!

 KA-DOOOM! 着地点であった筈のビルが無残に崩落してゆく! だが!「イイイイヤアアーッ!」ニンジャスレイヤーは空中でヌンチャクとともに車輪回転! 燃えながら蝿の渦の背に衝突し、ギュルギュルと燃やしながら、そのミルキーウェイの上を走り始めたのだ! 蝿密度が仇となったか! 目指すは……ベルゼブブ!

 KBAM! KBAMKBAMKBAM! カラテ爆発を花火じみて空中に刻みながら、ニンジャスレイヤーは凄まじい車輪前転で加速し……跳んだ!「イヤーッ!」ニンジャスレイヤーはトビゲリを繰り出す!「イヤーッ!」ベルゼブブが殴り返す! トビゲリと右上腕拳が衝突し……拳が砕けた!

「グワーッ!?」拳が爆ぜ、腕が裂けた。ニンジャスレイヤーは再びベルゼブブに取り付いた。首を左腕でロックし、右手で繰り返し殴りつける!「イヤーッ!」「グワーッ!」「イヤーッ!」「グワーッ!」「イヤーッ!」「グワーッ!」不完全な羽根で羽ばたき、狂い飛ぶベルゼブブ!

「イイイ……」「イヤーッ!」ベルゼブブは一瞬の隙を捉え、遠心力を用いてニンジャスレイヤーを投げ飛ばした!「グワーッ!」KRAAASH! そこは再びポンポン・ビルディング屋上! 天井に破壊のあとを更に増やしながら、ニンジャスレイヤーは後転! 起き上がると……彼は光の中にいる。蝿の竜巻の中に!

「イヤーッ!」ベルゼブブは人差し指と中指を立てた右手に左手を添え、ジツを発動した。すると、ナムサン! 蝿の性質が変化した。一匹一匹に込められたベルゼブブのカラテは炸裂性を失い、硬度強化の力となった。竜巻がニンジャスレイヤーを中心に閉じ込め、布を捻じり絞り上げるように圧縮開始!

「ヒサツ・ワザ!」ベルゼブブは叫んだ。ねじれた蝿の柱はニンジャスレイヤーを内にいだき、ギリギリと捻れながら、徐々にその半径を狭めていった。(イヤーッ! イヤーッ! イヤーッ!)ニンジャスレイヤーのカラテ・シャウトを、蝿の無慈悲な羽音が覆い隠す。わあんわあんわあんわあああんわああん!

 わあんわあんわあんわあああんわああん! わあんわあんわあんわあああんわ(イヤーッ!)ああん! わあんわあんわあんわあああんわああん! わあんわあんわあんわあああんわああん! わあんわあんわあんわあああんわあ(イヤーッ!)あん! わああんわあああんわあああ「イヤーッ! イヤーッ! イヤーッ!」

 ドクン! ベルゼブブの目から出血した。然り、これは決して余裕のイクサではありえぬ。互いの死力を尽くした力比べであり……オスモウめいて、一瞬の機を捉え、ニンジャスレイヤーは内側から反撃に出た!「イヤーッ! イヤーッ! イイイイヤアアアアアーッ!」蝿半径が押し拡げられる! 中を見よ!

 ニンジャスレイヤーは四方八方に拳を繰り出し、硬質の蝿を僅かに押し戻し、キリモミ回転し、黒炎をまとわせたマフラー布を振り回し、蝿を焼きながら、更に包囲を押し拡げ、回し蹴りを無限に繰り出し、更に包囲を押し拡げ、凄まじきヌンチャクの振り回しによって、さらに包囲を押し拡げた!

 すぐさま蝿は元通り密集しようと襲い来る。だがその一瞬があればよかった。「イイイイイ……」ニンジャスレイヤーはヌンチャクをひとたび首にかけ、回転の中から……スリケンを……繰り出した!「イイイイイヤアアアアアーッ!」

 ニンジャスレイヤーとベルゼブブは同じ記憶のヴィジョンを見た。それはニンジャスレイヤーにとっては屈辱と憤怒の発火点。ベルゼブブにとっては獣に印を刻んだ粛々たる儀式のセットアップの記憶。ニンジャスレイヤーは全方向にスリケンを投じ……ベルゼブブは蝿の群れを使役し、その全てを相殺した。

「同じ事だ!」ベルゼブブは四つの目を獰猛に見開いた。脇腹から繁殖のブーストを経たさらなる蝿が溢れ出し、ダメ押しじみて蝿竜巻に分厚く加わった。「同じではない」ニンジャスレイヤーは回転の中、蝿越しにベルゼブブを見た。投じるスリケンが黒炎を帯びた。

「イイイヤアアアーッ!」ヘルタツマキ! 黒炎が蝿の群れを焼き焦がす!蝿は燃えながらスリケンを押し戻す! だが、その時! ニンジャスレイヤーは再びヌンチャクを掴み……薙ぎ払ったのだ!「イイイイイヤアアアーッ!」ヌンチャクの鎖が伸び、スリケンが残した黒炎を絡め取り、巨大な渦と化した!

 ナムサン! ヘルタツマキを越えたヘルタツマキ……それはいわば、ヘルジゴクタツマキと称するほかなし!「イイイイイイヤアアアーッ!」黒炎を絡め取りながら旋回するヌンチャクは、今や、さながら黒炎の鎖鉄球と化し、蝿を薙ぎ払い、焼き滅ぼし、打ち破り……完全に破壊したのである! ゴウランガ!

 不完全な羽根でホバリングするベルゼブブの回避が一瞬遅れた。蝿竜巻を打ち破ったニンジャスレイヤーが砲丸投げめいて投じた燃え盛るヌンチャクがベルゼブブを捉えた。燃える鎖が彼女の身体に巻き付いたときには、既にニンジャスレイヤーは地を蹴っていた。「イヤーッ!」

「グワーッ!」飛び上がり、叩きつけた拳が、ベルゼブブの鎖骨を割って突き刺さった。ニンジャスレイヤーが拳を引き抜くと、そこには燃える鎖がつながっている。ベルゼブブに絡みついていたヌンチャク・オブ・デストラクションが持ち主に繋がり、再びその腕の中へ吸い込まれてゆくのだ。

「アバッ……アバーッ……!」苦悶しながらホバリングするベルゼブブに、再度の拳を叩きつける……落下開始まで十分すぎる時間があった。ニンジャスレイヤーは引き抜いた拳をチョップ突きに構え直し……突き刺した。「イヤーッ!」「サヨ、ナラ!」ベルゼブブは心臓を貫かれ、爆発四散した。

 ニンジャスレイヤーは血を吐き、背中から落下した。落ちながら、鋭敏化したニューロンがもたらすスローモーション時間の中で、彼は訝しんだ。飛び散ったベルゼブブの血が空中にピシャリと固定され、そして集まり……アブストラクト・オリガミとなって静止したのである。コンヴァージと同様であった。

 ゴーン! 鐘の音が鳴り響き、上空に黄金立方体が垣間見えた。イクサを見下ろす者達のうち、巨大な目玉じみた影の存在感が突如として強まった。ニンジャスレイヤーは眉根を寄せた。異状はオリガミだけではなかった。飛び散ったベルゼブブの爆発四散パーティクルの中、燃え残りじみて、「王」の漢字。

 空を荒れ狂う蝿たち。爆発四散パーティクルの一粒一粒が、突如、腫瘍めいて空中で膨張した。膨張した腫瘍はより集まり、額に「王」の漢字をいただく名状しがたい姿を生じた。それはベルゼブブの残滓であって、もはやベルゼブブではないなにかだった。イクサを見守る影たちに不審のアトモスフィア。

「ヌウッ!」ニンジャスレイヤーは消耗しきった身体を強いて受け身を取る。『イヤーッ!』超自然のカラテシャウトが響き、空を荒れ狂っていた蝿たちが渦を巻いて、ニンジャスレイヤーをめがけた。(((おのれ! ドゥルジ・ニンジャか!))) 内なるナラクが吠えた。(((マスラダ! どうにかせよ!)))

 ニンジャスレイヤーのニューロンがスパークした。空中に浮かぶ肉腫、あれがアンテナじみてドゥルジ・ニンジャとやらの力を発揮している事がわかる。横に転がって蝿の渦を躱し、スリケンを投げ返して破壊するのだ。……否、否! 蝿はポンポン・ビルディングを壊滅し、さらなる死を招くであろう!

 蝿は荒涼たる輝きをまとって降り注ぐ。引き伸ばされた時間のなか、ニンジャスレイヤーの状況判断が幾千もの可能性と打開策を探った。その時、ニンジャの可聴域の微かな領域に重なる奇妙な周波数が空を走った。『アカチャン……ソダッ…カチャン……テネ』ボンボリ区に乱立する広告スピーカーが源だ。

 キイイイイイイイ! 奇妙な周波数が空を満たすと、蝿の突進が秩序を失い、四方八方に散った。『イヤーッ!』肉腫が痙攣し、蝿を再び統制下に置く。「スッゾスッゾスッゾ……スッゾスッゾスッゾ!」喚き声が下から這い上がってくる。ニンジャスレイヤーは裂け目を見る。

「スッ……ゾコラー!」マグマめいた炎の塊が、裂け目の下、最上階から屋上へ飛び上がった。状況判断! ニンジャスレイヤーは全身のカラテを再び寄せ集め、最後の攻撃に出た。「イイイイヤアアアーッ!」スリケンを無数投擲! そして燃え上がるヤクザは花火めいてカトンを放射する!

 散り散りに乱れる邪悪な蝿の雲に、炸裂打ち上げセンコ花火じみたカトンが叩きつけられた。カトンは連鎖爆発じみて燃えた! その爆発をニンジャスレイヤーのスリケンが貫くと、炎は広く遠く離れた蝿に燃え移り、燃え広がり、空を真っ赤に燃やしていった!「アアアアア!」インシネレイトが燃え叫ぶ!

「……やれ!」声の方向にはガーランドが居た。やはり同様に屋上にエントリーしたと見える。ニンジャスレイヤーは構わず、手の中のスリケンに力を込め、肉腫をめがけて投擲した。「……イヤーッ!」ツヨイ・スリケン! 螺旋回転するスリケンがドゥルジのアンテナを貫き、爆発四散させた!

 BOOOM! KA-BOOOOM! 赤い空に網目状にカトンの炎が走った。蝿達はもはや統制を失い、乱れ飛び、燃えながら落下し、やがてその密度は腐乱した沼程度にまで減じていった。「アアアアアア! アアアアアアアアーッ!」インシネレイトは叫び続け、燃え続け、そのまま仰向けに倒れ、動かなくなった。


◆◆◆


 ……ガーランドがインシネレイトに屈み込み、ピシャピシャと頬を張った。「ウ、ア」焦点の合わぬ目を彷徨わせるインシネレイトの口に、ガーランドは携帯バッテラを押し込んで咀嚼させ、また頬を張った。「動けるか」「ンンッ……!」「よくやった。終わりだ」

「チャルワレ……チャレケ……」「下手人は死んで、一応のカタはついた。釈然とせん事もあるが」ガーランドは空を振り返り、空中に静止しているアブストラクト・オリガミを見上げた。「……ニ……ニンジャスレイヤー……が……」「ああ、そうだ」「何処だ……」「逃げたな」

「や、野郎!」インシネレイトは震える手を床に叩きつけた。「何なんだ……あの野郎……! アンタ追わねえのかよ」「俺にそんな元気があるように見えるか」ガーランドはインシネレイトの手を掴み、立ち上がらせ、よろめいた。今度はインシネレイトが掴まねばならなかった。

「き、気に入らねえ事が沢山あるぜ……!」インシネレイトが顔をしかめた。「そうか」「アンタの事も……クッソ、なんか気に入らねえしよォ!」「俺にナメたクチをきくのは今は見過ごしてやる。面倒だからな」ガーランドはインシネレイトを突き放し、裂け目の下を覗き込んだ。クレッセントが居た。

『ヒートリ……キイイイ……コマ……キイイ……コマキタネ……』アンタイ・ヨロシ・パルスの周波数パターンを混ぜ込んだ広告音声が、ボンボリ区に鳴り響いている。クレッセントはUNIXデッキの集音器に掌を押し当てている。彼女はガーランドを見上げ、肩をすくめて見せた。「原始的な方法だが」

「蝿の件、このあと少し付き合え」ガーランドは油断なく念を押す。クレッセントはもう一度肩をすくめた。首肯のしるしだ。両組織間で折衝の必要があった。そのやり取りを見ながら、サイダ3はデッキに寄りかかって腰をおろした。広告音声のインフラはセキュリティが薄く、咄嗟のハックが可能だった。

 サイダ3の決死のハッキングを助けたのは、デジタル・オーディンを名乗る不気味なネットワーク存在だった。サイダ3の試みを助け、タイピング速度を補助した。苦しいミッションだったが、オーディンの傍らに光り輝くヴァルキルが現れ、進捗バーは一気に加速した。サイダ3は興奮の余韻に拳を握った。

 たっぷり長くヨロシ周波数を流し終えると、クレッセントは一息ついてオキアミ・バーを齧り、サイダの肩に手を置いた。「さて。キミの仕事はとりあえず終わった」「ア、アア……ええと……」サイダ3は言葉を探した。クレッセントは猫目を細めて笑った。「立派だったじゃないか。ウチで働きたいか?」

「ええと……考えておく感じですかね」サイダ3は言葉を濁した。混乱と、恐怖からの解放に、彼はぼんやりしていた。ハッキングを助けた電子存在について、彼女に訊いてみたい気もしたが、何となく躊躇われた。「その……連絡先いただければ……」「フ」クレッセントは微笑した。彼女は名刺に何か書き加えて、サイダ3に渡した。サイダ3は胸を高鳴らせた。

 一方、屋上では、ビルの縁から下を見下ろして、インシネレイトは顔をしかめていた。「クソみてえなビルだし、エレベーターもクソになってるし、足で降りなきゃいけねえんですよね。全くよお」

 吹き上がる風がインシネレイトの髪を揺らした。「足で降りたければ、止めはせんが」ガーランドが横にしゃがみ、己のタバコを咥えた。「VTOLが迎えに来る。俺はそれを使うぞ」「チッ」インシネレイトは頭を掻いた。「本当に調子狂うッスよ、アンタ」指先のカトンで、ガーランドのタバコに点火した。


【ケイジ・オブ・モータリティ】終


→ インターミッションA


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