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【日報】今すぐRRRを観に行け(逆噴射聡一郎)

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よくきたな。おれは逆噴射聡一郎だ。おれは毎日ものすごい量のテキストを書いているが、だれにも読ませるつもりはない。

つまり、おれは「RRR」のテキストをこれの他に3本書いたが、3本とも公開していないということだ。この判断は真の男の態度であることが完全に照明されている。真の男とはそうした忍耐強さを持ち、一度決めたことをそう簡単に変えたりはしないのだ。

なぜ読ませないでおこうと思ったのか? 真の男であるおまえは、これが「バーフバリ」のラージャマウリ監督の新作だとすでに知っているだろう。だからおれに言われるまでもなく、公開初日にもう観ていると思ったからだ。そこでおれは、「バーフバリ」を知らないやつのために1ヶ月くらい待ってから書こうかなと思い、日報の公開も、しこし我慢することにした。この映画については、なるべく前提知識なしにフラット訪れた劇場でいきなり観たほうがガツンとくると思ったからだ。そうした楽しみや驚きをスポイルしてしまうのは・・・・おれの望むところではない。

だが、そうこうしてるうちに「RRR」公開から1週間が経過し、おれはもうRRR2回観て3回目観に行こうとしているし、最早がまんの限界なので筆をとったとゆう寸法だ。

逆噴射聡一郎先生プロフィール:社会派コラムニスト。昔からダイハードテイルズ・マガジンに時々寄稿してくださいます。



おまえは圧倒される

「RRR」を観たおれは、「バーフバリ」に続き、またしてもものすごい衝撃を受け、フラフラになって映画館をあとにした。

ラージャマウリは真の男なので、当然ながら新作映画を撮るたびに前作のハードルを超えようとする。これは当たり前のことだ。だとしても、伝説的なストレートのグー・パンチであったあの「バーフバリ」を超えるのは、そう簡単なことではないだろう・・・・。真の男であるおれですら、「RRR」を観る前は、心の片隅でそのように考えていたと、正直に申し伝えておこう。おれは、ラージャマウリの力をナメていたというほかない。だがそれは完全な間違いであった。

なぜなら真の男であるラージャマウリは、数学にものをゆわせ、完璧にクレバーな答えを用意していた。それは「真の男の映画を超えるには・・・・真の男を2人・・・・・ダブル主役で出せばいい・・・」とゆう、おまえの顔面をダブルのグーパンチで全力ボコボコになぐってくるような解決策だったのだ。おまえはRRRの力の前に圧倒されるだろう。初めてバーフバリを観た時のように。



真の男+真の男+真の男=RRR

RRR・・・このタイトルにそもそも深い意味はないとされる。だが・・・そこには強烈で問答無用のパワーがある。オープニングに自信満々でかっこいい「R」の文字がゆっくり聳え立っただけで、おれは震え上がった。これが3個もそろったら、おれは死んでしまうのではないかとすら思ったほどだ。

このタイトルは、主演のラームチャランとNTRJr、そしてラージャマウリの名前にある「R」を並べたものが発祥とか言われている。おまえはラームチャランとNTR.Jrを知っているか? ラージャマウリ監督は真の男だ。つまりそれと並び立つイクォールな存在・・・・「R=R=R」・・・・ラームチャランとNTRjrもラージャマウリと同じく真の男であることが、この段階で早くも数学的に照明された形だ。「R」とは「真の男」という意味だったのだ。

ではRRRはどんなストーリーの映画なのか? ひとことでゆうとそれは近代歴史アクション映画だ。植民地支配の時代を舞台として、現地の民衆をナメくさっている帝国の悪代官をたおす話だ。しかしRRRは、そうゆうカテゴライズには収まりきらない・・・・完全に規格外の映画でもある。

おれはこの映画のタイトルがRRRでよかったと思う。この真の男の映画の前では、どんな具体的タイトルですら、それを狭めてしまっただろう。そう感じさせるだけのパワーが、この映画には詰まっているのだ。もしおまえがまだ映画を見ていないなら、この先を読まず、今すぐ映画館に行け。


ポスターを見てピンときた奴もいるかもしれない・・・ほのお属性とみず属性・・・・つまりこれは、スマートタイプとパワータイプ、二人の真の男が出会って激突し、相乗効果ですごいことになる映画だ。


STORRY•••

物語の主人公はラーマという男である。ラーマは何があっても動じず、目つきからして「こいつは真の男だな」と思わせる気迫と筋肉と狂気がみなぎっている。ラーマの登場シーンには、真の男特有のカメラアングルと、問答無用の凄みがあるので、あえて具体的に書く。

舞台は帝国の暗黒面によって支配されし1920年代のインドだ。ラーマは英国植民地下において警官をやっている。つまりラーマは真の男でありながらタルサドゥーム側に属していることになる。帝国は現地の活動家を投獄したり抑圧してばかりいたため、怒ったインド市民によって基地を包囲されてしまう。この包囲の迫力がまず物凄く、腰抜けはこの時点で震え上がり失禁するだろう。そんな中、帝国の偉いやつは金網に群がる投石インド市民のひとりを指差し「あいつを捕まえろ!」とヒステリックに命令する。他の警官は命令聞いてないフリをするが、ラーマだけは違った。あほの腰抜けからの命令を受けるやいなや、ラーマはジョジョみたいに完璧にポージングが決まったすごい一直線の英雄的ジャンプで金網の外に飛び出してゆく。そして群がる市民を棒でボコボコに殴り、逆に囲まれて殴られたりして負傷しながらもまた殴り返し、血みどろで下手人を捕まえ引きずってくるのだ。

ものすごい人数の怒れる民衆、砂塵、警棒、叫び声、殴打、混乱、怪我、崖、暴動。徹底的に克明に描かれる徹頭徹尾未体験の執拗なアクションだ。ラーマはすさまじい無表情で、その冷酷な仕事を・・・同胞であるインド人を警棒で殴ってボコボコにするという仕事を・・・やってのける。鉄拳のドラグノフくらい無慈悲にボコボコにする。しかし、そんなラーマの瞳には、邪悪さではなく、何か秘めた決意のようなものを・・・・真の男特有の哀しみを感じる・・・・。帝国の抑圧の尖兵でありながら、何故この男はこんなにかっこいいのだろうか・・・? ラーマの表情を見たおまえは、いっぱつで物語に引き込まれるだろう。

そして・・・・真の男はもうひとりいた。それがビーム。ビームはジャングルの村で育った野生の男で、純朴な力持ちだ。やさしくて騙されやすいお人好しという感じだが・・・・・じつは重い使命を背負っている。部族の幼い妹が帝国によって面白半分で連れ去られたため、ビームは可愛い妹を奪還して復讐すべく、部族の仲間とともに都会に出て来たのだ。ビームはチャーミングな野生児なので、都会の事がわからず途方にくれているが、その一方で、部族の仲間たちと無慈悲な奪還計画の準備をすすめてもいる・・・。

警官として出世をのぞむラーマは「帝国を悩ませるテロリストを捕まえろ!」という難しい任務に、自ら志願する。その標的が・・・・・お察しのとおり、このビームなのだ。

そうした悲劇的な運命の歯車の噛み合いを感じ取って、列車が暴走大爆発し、キッズの命が危険にさらされる。ラーマとビームは出自も立場も違うが、命の危険にさらされた子どもを見かけると行動せずにはおれない真の男でもあった。二人は街でとんでもないアクションをした結果、お互いが何者かを知らぬまま意気投合して・・・わずか3分のうちに濃密に時間経過と二人の意気投合が進み友情が深まるさまを描き切るミュージカル・シーケンスの合理的な挿入によって理解し・・・ダンスが炸裂し・・・・・やがて事態は凄いことになる。

どれぐらい凄いことになるかとゆうと、おまえがここまでのあらすじを読んで「ふーんどうせこのくらいでしょ」と想像した内容とは360℃違う境地にまで到達する。

確かにインド映画では結構バディものは多く、そいつらがやむにやまれぬ事情やすれ違いで敵対する話も多い。王道なのだ。だがおまえが今想像したありきたりな結末は、全3時間のうち90分ぐらいのところで消化しつくされ、インターミッションになる。そこから何が起こるか、どんな境地に行くのか・・・・・それは書かない。おまえがこれから受ける衝撃をスポイルしてしまうからだ。


おそるべきアクションに精神が試される

おれはこの映画を観ている時に、今まで経験したことのないものすごい仰天の工夫に満ちた過剰なアクションを新規に見せられ続け、エンタテイメントの連続ストレートパンチで脳を揺らぶされ続けた。具体的にどうゆう過剰アクションを見せられたのか、それを書くだけでおまえの楽しみを奪うことになってしまうから、いちいち書かない。

たとえばプロモ映像でこすられ続けているやつだけ例に出すと・・・・・主人公2人が橋の両端から紐で体をつないでバンジージャンプした後、アメリカンクラッカーのターザンみたいにお互いに孤を描いて、燃える川で溺れる子供をキャッチし、岸に投げてレスキューした後、お互いに掴み合ってバランスするのを観たやつもいるだろう。それで「ふーんこういう感じね」と全部分かった気になるやつもいるかもしれないが、あれは全部で2000個ぐらいあるアクション要素の1つにすぎないのだ。

はっきりいっておれはバーフバリを観て衝撃を受けて以降、インド映画はある程度観てきた。ラームチャランとラージャマウリ監督の過去作マガディーラを観てわけがわからなくなったり、バジュランギおじさんで泣いただけではなく、プレーム兄貴やダバング大胆不敵などのサルマン・カーンの映画で破けたシャツが風で飛ばされてムキムキの胸筋があらわになったり、あるいはサーホーやWAR!やマッスルやロッキーハンサムなどのすごいアクション映画の数々を見たし、燃えよスーリヤで結構がっかりしたり、グンデーをDVD輸入して英語字幕で無理やり観たり、ネットフリッコスで女神は二度微笑むを観たり、ランヴィール・シンのガリーボーイでラップバトルしたりラームとリーラーやパドマーワトや色々観て経験を積んできた。今のおれは、インド映画といえばその文脈必要性を考えもせず「ダンスで踊り出すんでしょう?」みたいなお決まりの混ぜっ返しするような腰抜けとは完全に一線を画する境地まで来たといっていいだろう。コロナ禍がきてインド映画の供給が減った後、ようやくもたらされしこのRRRに、そんなおれは万全の体勢で望んだ・・・だが・・・それでも・・・RRRのエンタテイメントがもたらす強烈なダブルグーパンチにより、軽々とおれの精神的準備はぶち抜かれてしまった。おれは今更、ミュージカルシーケンスやこれでもかというスローモーションや強引で気持ちの良い展開があるくらいではビクともしない。だが、今まで体験したことのない驚くべきシーンの含有率は、他のインド映画と比べても更に50倍くらいあった。つまりLEEの激辛50倍カレーくらいの衝撃をおれはうけた。とんでもない情報量だった。このRRRで、おれはいま再び・・・バーフバリを初めてみた時のような・・・・インド映画未体験時代に戻ったかのような衝撃を味わっていた。

この映画のアクションは全部やばい。しかもそれは「ここでクールなアクションを入れとけばいいんでしょ?」みたいな感じで適当に入れられた無意味アクションなどでは決してない。工夫と必然性と夢に貫かれし、真の男の狂気がもたらす真のアクションだ。

こいつらは何をやっている!? このアクションは一体何だ!? 上映中、おまえの頭の中には、そうした無数の!と?があふれるだろう。・・・一見すると問答無用、荒唐無稽にみえて、理由は・・・・・全てある。やばいアクションになだれ込んだ必然性や、エモーションが、全部ある。そして、だからこそ恐ろしいのだ。


理性と野性に打ちのめされる

恐ろしいことに、この映画の一見ワケのわからない過剰な出来事と意味不明なまでに凄絶なアクションシーンには、逐一、「何故そうなったのか」「何故そうするのか」の理由が事前に用意されており、よく考えると丁寧に説明がなされ、作中ルールにおいては決して矛盾しない強固な文脈が用意されている。「こうゆう理由で、こんな事になった。だからおかしくない。わかったか」と真顔で逐一わからせてくる。

特に後半は、不条理ですらある仰天のアクションが待ち受けるが、それすらもラーマーヤナ神話との合わせ技によって「この映画のルールにおいては必然」という数学的証明がなされている。どうして近代の帝国主義と戦うイップ・マン的な映画でラーマーヤナが? おまえは思うかもしれない。だが、そうとしか言いようがないし、これ以上言いたくない。見ればわかる。

全てが破天荒なのに、カッチリとした理論で裏打ちされていて、そのうえでさらに一周回って破天荒になっている。それがおれを2倍震撼させる。見たことのないような工夫されたビジュアルと騒動、ノースタントで、不条理で、過剰で、ものすごい、激しい、人体の限界を超えるような狂気のアクション・シーケンスは、あくまで伏線や神話の象徴性の裏付けのもと、必然性を伴って行われており、そのせいかはわからないが、上映時間中に理詰めで考えるヒマがなくとも無理矢理納得させられてしまう。

つまり、過剰に過剰を重ねながら、ラージャマウリ監督は理性と抑制のもとでその仕事をしているのだ。なんという恐ろしいことか! これは監督があほだったら絶対に作れない。RRRのタイトルに意味がないからといって「この映画は天然あほエンタメ映画」みたいなことを言って己の精神を守ろうとする腰抜けもいることだろう。だが冷製かつ知的に考えればわかることだが、どのアクションシーケンスも「いくら理由があるとはいえこれは過剰だな」「でもやろう」というステップを3回くらい連続で踏んで常識を超えないと出てこない狂気的なアクションなのだ。

この理性と野性の合わせ技で構成されるアクションシーンの数々は、理性と野性の相乗効果でどんどん強くなってゆくラーマとビームのようだ。まずは過剰アクションに驚き、そのあとその過剰アクションを導き出した巧妙な構成と理論、そしてそれを貫く決意に二度驚く・・・そうゆう寸法だ。おれはもっとこの事について作中の具体的なシーンを引用しつつ書きたいと思ったが、そうすると軽く2000万文字くらいになるとおもったので、やめておく。観終わってからもういちどこの文章を読みに来い。そうすれば、おれが言わんとしていたことがあらためてわかるはずだ。

この映画は100000点ぐらい取るが、いくつかのポイントが物足りなく感じるやつもいるかもしれない。それはヒロインのベイブたちがあまりアクションしない事や、動物CGなどだ。しかしおれは今回そうした細かい要因であれこれ減点したくないと思った。この映画は近代歴史バトルであり、神話を下敷きにしつつも、二人の男バディの友情の尊さにフォーカスしている作品なので、もしそれ以外の要素まで全て詰め込んでやろうとしたら、6時間くらいになってブレていただろう。だからおれはラーマとビームに集中したRRRが文句なしに好きだし、バーフバリもまた全然別物で好きだ。つまりおまえは今すぐにスマッホを放り出し、劇場に行って「RRR」を体感しなければならない。


今すぐ劇場に行かないやつは腰抜け

RRRとは何か? それは真の男の映画だ。長々と書いてきたが、結局のとろこ、おれが言いたいのはそれだ。2000個ぐらいのものすごいアクション表現と迫真の演技によってRRRがおまえに伝えてくるのは、これが普遍的な人間の怒りと抵抗と勇気についての物語だということだ。なぜなら最初の5分で子供が買われてゆく不穏なシーケンス・・・・その母親の叫び声、悲痛な表情、そして危険をかえりみない行動は、その後の英雄的シーンと同じくらい強く、おれの脳裏に焼き付いている。

それは、真の男の心に火をつける。その力は真の男と真の男の間で無限に増幅されてゆく。勝手な理屈でタルサドゥームに尊厳を奪われ、服従を強いられ、調子に乗られた時・・・・MEXICOに生きる真の男たちは、苦境にあえぐ真の友を助け、歩いていってドラムにトレーを乗せて叩き、拳を固めてクソ野郎を一発殴り返してやらなければ気がすまない。ロード、エイム、シュートしろ・・・二人の真の男の葛藤とアクションの軌跡・・・・それは、時代が違い、緯度と経度が違ったとしても、帝国主義と独立運動の歴史やラーマーヤナをよく知らなかったとしても、この映画で描かれる葛藤と友情と勇気は、R.E.A.Lな自問自答として、真の男であるおまえの胸を強く打つだろう。

何故なら、この映画に取り組みし者・・・ラームチャラン、NTRJr、そしてラージャマウリ監督を始めとする制作者全員の本気と夢とパワーが、ものすごいエンタテイメントの力となって、スクリーンからまっすぐに飛び出してくるからだ。そして終幕し、ストップモーションにラージャマウリフィルムの判子がおされし時・・・・おまえは真の男となって立ち上がり、弓矢を放ち、帝国を爆破し、村人全員に武器を手渡すことだろう・・・・明日を撃ち抜くための心のG.U.N を。

(Gyakuhunsya Soichi"R"o)


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