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【アイアン・アトラス・プレジデント!】

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「CEO」

「……」

「CEO?」

「……まずい……」

「CEO! 落下時刻です。CEO!」

「ンンッ?」

 圧迫感のある夢から覚醒したヨロシ・サトルCEOはまず、己の見ていた夢の内容を思い出そうとした。しかし、その暇はなかった。彼のすぐ隣に、秘書のナインの緊迫した表情があった。

 サトルは奇妙に思った。ナインは降下スーツに身を包み、ハーネスを装着している。それから己の姿を認識した。彼もまた降下スーツを身に着けている。次に、揺れと速度感を認識する。そして己を取り囲む鋼鉄を。ここは飛行艇……マグロツェッペリンの中だ!

「そうだった!」

 サトルはハッとした。

「そうです? そ……そうです!」ナインは訝しみながら追認した。「CEO、ヨロシ・レイディアント・タワーの落成式上空からの降下とアイサツですよ! お気を確かに」

「そうだったな、ナイン=サン! なにも問題ない。備えは充分だ。自分の心配をし給え!」

「大丈夫ですか? 本当に? では……」

 ブガー! 赤ランプが回転し、床が消失した! 底面ハッチが開いたのだ。眼下にひろがるのはネオサイタマ、ヨロシ区の光景!

「ヌウウッ!」

 サトルは急激な気圧の変化に慄いた。3。2。1……デバイス解放! 落下!

 サトルとナイン、そして三名の飛行技師が、同時にスカイダイビングした。眼下には陽光を受けて銀色に輝く、完成したばかりのヨロシ・レイディアント・タワー。

 高層建築が密集するネオサイタマにおいて、レイディアント・タワー周辺には緑の公園が保持され、贅沢な眺めだ。

 そこに今、人々がつめかけている。野外ミュージックフェスじみたありさま……実際、特設ステージでは様々なミュージシャンのパフォーマンスも行われているのだ。

 数秒後、落下傘が展開。バタバタとはためく音に混じり、ヨロシ区民のどよめきと歓声が聞こえてくる。

 ナインがサトルにアイコンタクトした。サトルは頷き返し、ジャケットに仕込まれたオモチをつかみ取り、ばら撒いた。他の降下者達もそれに倣った。歓声が大きくなった。

 ばら撒くオモチはピンポン球大で、赤と白の二色。ヨロシグリーンではないが、今回はめでたさを表現するネオサイタマ式のカルチャーに沿ったものだ。オモチをキャッチできた者にはヨロシサン・インターナショナル系列会社の未公開株が、他愛のない株数、プレゼントされる。

「サ・ト・ル!」「サ・ト・ル!」「ヨロシサン!」「ヨロシバンザイ!」

 歓声が近づいてくる。サトルは完璧な笑顔をセットアップし、モチを撒き続ける。色のモザイクに過ぎなかった人々、一人ひとりの表情を見て取ることができる。サラリマン、家族連れ、老若男女……。

「ヨロシ反対!」「絶対粉砕!」「未確認成分の含有反対!」

 人だかりに乱れが生じ、数名の「ビリジアンジャケットマン」たちが暴れだした。ビリジアンジャケットマンはその名の通り、ヨロシグリーンよりも色の濃い緑のジャケットに身を包み、反ヨロシ活動にいそしむ団体である。

 彼らはヨロシサンによる生態系破壊や化学物質汚染、マグロの健康問題に抗議しており、その活動内容はデモ行進やIRC-SNS運営に留まらず、海洋調査設備に対するマグロ魚雷発射やパーティー潰しなどの直接的行動まで多岐にわたる。

 彼らの妨害活動はしばしばテロの領域に踏み込んでおり、一笑に付すのが躊躇われる程度には規模の大きな団体である為、サトルは既に内部に複数名のスパイを送り込み、その詳細を調べさせようとしていた。

 仮に彼らのバックに暗黒メガコーポのスポンサードがあったのだとしたら、それは非常に憂慮すべき事態だ。ヨロシサンは中立主義をとっている。そこに敢えて敵対してくる企業が生まれれば、大きな懸念となる。

「やれやれ。こんなめでたい場にまで現れるとは」

 サトルは閉口した。彼らの周囲、数秒のうちに、ヨロシ警備兵や同じ顔をしたクローンレンジャーが展開し、制圧して引っ立てていく。

 クローンレンジャーはクローンヤクザをベースに調整を重ねた量産型の「市民の友」である。彼らはヨロシサン支配領域の何処にでも配置されており、こういった抗議活動への対処や、暗殺行為の警戒を行う。

 サトル自身がニンジャであるゆえ、よほどの事がなければ不測の事態は発生しないと言ってよいが、本社ビル外で……否、自室から一歩出れば、彼が気を抜ける瞬間は一瞬たりともない。ましてここはネオサイタマだ。

『CEO! 着地ポイントはネット隔壁で仕切られた芝生です。わかりますね?』

 IRCインカムを通してナインが伝えてきた。サトルは頷き、制動した。あっという間に緑の地面が迫ってきた。サトルは真っ先に着地した。

 KRA-TOOOOOOOM!


◆◆◆


 キイイイイイン……。耳鳴り。ホワイトアウト視界。


◆◆◆


(CEO!?)

(なんてことだ! 消防……救急……アイエエエ!)

(CEO!)

(ダメだ、意識が……)


◆◆◆


 キイイイイイン……。

「私は……」

 キイイイイイン……。

「CEO! 指が見えますか? 返事をしてください」

「CEO……私か」

「アドレナリン注射いきます! 3、2……」

 ドクン!

「グワーッ!」

「CEO! CEO!」「CEO!」「CEO!?」

 社員達がサトルの顔を覗き込んでいる。白い仮設テントの天井が見える。サトルは瞬きした。周囲に音が渦巻いていた。エコー。騒乱。視線。信頼のおける社員たち。医療スタッフ……。

「ナイン=サン。ナイン=サン。どこですか」

 サトルは譫言めいて呟いた。医療スタッフが横を見る。秘書のナインが駆け寄って、サトルの手を力強く握った。

「ここです。CEO。大丈夫ですよ。CEOのお身体に外傷はありません」

「大丈夫ならば……問題ない……今何時です……すぐに準備を……」

「いいえ、落成記念スピーチは中止です。問題ありません。ヨロシチャンの等身大ぬいぐるみチームを率いたワニコ・レンジャーズが見事に場を盛り上げています。事前に録画してあったCEOメッセージをプラズマモニタで流します」

「何をバカな事を言っているのです。私が……私がやらねば……」

 心電図グラフが乱高下している。電子音が稲妻めいてニューロンに鳴り響く。

「私はCEO……ヨロシサン・インターナショナル……世界のリーディングカンパニーの頂点に立つ男なのだ!」

「CEO! まだ動いてはいけません!」

 医療スタッフが肩を押さえた。サトルは曖昧な意識ゆえに反射的に激高した。

「頭が高いぞ! 貴様!」「グワーッ!」

 CEOはこめかみの血管が切れて白目を剥き、再び意識を失った。


◆◆◆


 ネオサイタマには雨が降っていた。月破砕以前を思わせる陰鬱な雨が。サトルはヨロシ区のヘッドオフィスに向かうCEOリムジンの柔らかいソファに体重を預け、窓ガラスを這う雨粒を、滲むネオンの街並みを眺めていた。

「爆発の原因ですが、にわかには信じがたい出来事ですが……作為的なテロ、暗殺未遂ではない……というのがシンクタンクの結論です」

 護衛ニンジャエージェントのイミディエットが車載モニタのスライド画像を進めながら説明した。その横ではナインがメモを取っている。

「こちらの写真をご覧ください。爆発したのは、地中深くに埋まっていた、電子戦争時代の市街戦ミサイルの不発弾です。運悪く……まさに運悪く、パラシュート着地時にCEOが着地した地点に不発弾が存在し……」

「納得出来るものか」

 サトルはイミディエットを暗く睨み、低く呟いた。

「偶然の偶然だと? そんなくだらない結論を聞くために私は君らを雇っているわけではない」

「CEO……」

「まさか貴方も私を陥れようとしているのではないですか? イミディエット=サン」

「CEO。そのような事は万にひとつもございません」

 イミディエットは無感情な声を発し、即座に否定した。ナインがサトルを見た。咎めるように呼びかけた。

「……CEO」

「わかっているとも!」

 サトルは首を振った。思考がガタついている。ボタンのかけちがえめいて。ポジティブなエネルギーが湧いてこない。事故のせいだ。事故が彼のニューロンに影を落としている。いや……もっと根源的な……過労……?

「私が? バカな」

「CEO……?」

「独り言も言えないのか!? ほうっておいてくれたまえ!」


◆◆◆


『まずは大事なく……何よりでございました』

 戦略会議室の椅子の上でホロ座像がちらつき、支社からIRCを繋いでいるCXOのハリ・カワキが思慮深げに身を乗り出した。

『CEOのご心労痛み入ります。なればこそ、この危機をチャンスと捉えるのもまた一興かと』

「何?」

『たとえば、この機会に他の暗黒メガコーポやビリジアンジャケットマンのような反抗組織を一応の下手人として仕立て上げ、攻撃を仕掛けるという手もございますな』

「それは……ヌウウ」

 サトルは顔をしかめ、胸を押さえた。傍らのナインが近づき、すぐに水の入ったコップを差し出した。サトルは鎮静剤を溶かして飲み込み、深く深呼吸した。イミディエットは壁際で後ろ手を組み、その様子をじっと見つめていた。

 CXOハリ・カワキは自信に溢れた男だ。髪をアップでまとめ、頬には第六感的危機警戒サイバネティクスのラインが光っている。ハリの手腕は確かながら、どこか不穏なアトモスフィアがついてまわる。

 この数ヶ月、社外の者達の株式売買の動きに不自然な流れがある。巧妙なカムフラージュを行いながら、ヨロシサンの株式を集めている存在がいる。その動きのあちらこちらにハリ・カワキの存在がちらついている。あくまでその疑念はまだサトルの勘レベルに過ぎないが……。

『今回の件により、さらなる株価対策が必要になってしまった。落成式は録画ビデオの再生でも充分だった事が数字で裏付けられています。それを通り一遍の空中降下作戦など。資格が問われるところではないですか?』

 次に発言したホロ座像はCOOのディアドラ・オズモンドである。灰色の目と厳しい表情が印象的な彼女は、ヨロシサン・インターナショナルの古参社員である。月破砕後の会社再編当初はサトルに協力的であったが、近年は派閥勢力を強化するとともに、サトルに対する傲岸不遜とも言える物言いが増えてきていた。だが、下手に彼女を切り捨てれば多くの社員が追随して背く危険性がある。厄介だ。

『CEO。貴方は陣頭指揮が本当にお好きですが、月破砕年ならばいざ知らず。今のヨロシサンはそんなスタンドプレーに寄り掛かるような弱体な会社ではありますまい』

 他のホロ座像の重役達は日和見的に沈黙していた。サトルに対して苦言を呈する事もないが、庇うこともない。油断の出来ない連中だった。

 サトルはヨロシサンの脳であり、心臓であり、船長だ。それは誰もが認めるところである。サトルは諸問題を笑い飛ばし、剛腕と畏怖によって巨大な地球企業を率いてきた。巨人が動けば、どこかにひずみや軋みがそのつど生じるものだ。だが今の彼は些細な事が気にかかり、苛立ちを自覚していた。

「チイイ……」

 サトルは歯を食い縛った。その時だ。

「CEO! お怪我は!」

 戦略会議室に飛び込んできたのは、ネオサイタマ支社長のシド・ダオだった。スーツを小脇に抱えた彼のオールバックの髪とネクタイは乱れ、シャツは汗で濡れていた。矢も盾もたまらず駆けつけてきたのだ。

 シドはエネルギーと実行力に溢れた男で、カラテ鍛錬を積んでおり、元ヤブサメ部でショドーも上手い。快活な性格で人望熱く、そしてサトルをよく慕っていた。若武者じみた好ましさがあった。

「シド=サン? ネオサイタマ会議は難航していたと聞いていましたが?」

 サトルは眉根を寄せた。然り、今はネオサイタマの主要な暗黒メガコーポ関係者が折衝を行う重大な「ネオサイタマ会議」の会期真っ只中の筈だ。シドは首を振った。

「CEOの難事は社の難事。会議を踊らせてばかりいられますまい! 早々に本日の会議はつつがなくまとめ上げ、こうして馳せ参じた次第です!」

 シドは大きく息を吸い、ディアドラを睨みつけた。

「車内でIRC会議内容をモニタしていたが、聞くに堪えないぞ、ディアドラ=サン。貴殿はCEOに対するリスペクトをいささか欠いているように思われる。CEOが我らに闊達な発言を許しているのは、ひとえに社の成長、社員の幸福を第一と考えるからこそ。身の程をわきまえよ!」

『支社長の分際で偉くなったものだな。リスペクトが必要なのはどちらだ? 私と事を構えたいのか、シド=サン?』

 ディアドラのホロは帯刀しているカタナをチャリと鳴らし、威嚇した。シドは唸った。

「何だと……!」

「もうよしなさい。シド=サン」

 サトルは溜息をついて立ち上がり、シドの肩に手を置いて落ち着かせた。そして会議出席者のホロを見渡し、言った。

「今回の件は実際私のヒヤリ・ハットでもあった。重大インシデントにつながらぬよう自戒しつつ、今後もCEOとしての責務を果たしたいと考えています。当会議の時間も限られている。次の議題に入りますがよろしいかね?」

 サトルは自信に溢れた表情を保ち、出席者を御する事に成功した。

 だが、努めねばならない時点で、彼の精神は相当やられていると言ってよかった。ナインが、イミディエットが、シドが、心配そうに彼を見ていた。


◆◆◆


「ごゆっくりドスエ」

 訓練されたマイコが完璧なオジギをし、ショウジ戸をゆっくり閉めた。

 個室スシ料亭「よろし」は、ヨロシ・レイディアント・タワー2階に店を構える最高級スシ店である。その黒檀づくりの贅沢極まる個室にて、サトルとナイン、シドは、店のサービス品質の視察を兼ねて、この日の激務を労う夕食を行う運びと相成った。

「今日は私が」

 シドはシャツを腕まくりして、雫の浮いたビールを人数分のグラスに注いでいった。

「CEO。遠路はるばる、ネオサイタマまでよくぞいらしてくれました。まずは、カンパイ!」

「カンパイ」「カンパイ」

 三人はグラスを合わせた。

「私は……よろしいのでしょうか。こんな場に同席して」

 ナインが神妙に尋ねた。サトルは曖昧に頷いた。

「居てくれた方がいい」

「では、遠慮なくいただきます」

「明日の予定はどうだったかな?」

「それなのですがCEO」

 ナインは数秒沈黙した後、言った。

「明日は……24時間、予定を白紙にしてあります」

「何だって?」

「なんとか、うまく調整が出来ました」

「私も調整には尽力しましたよ。ははは」

 シドは笑った。怪訝なサトルに、シドはサムズアップした。

「相当、お疲れですよ! CEO!」

 ナインも頷いた。

「今回の緊急処置の際、バイタルデータの確認を行ったのですが、実際、特にストレス値が危険数値に差し掛かっています。不発弾の爆発は実際予期されざるインシデントであったとはいえ……差し出がましいですが……やはり平常時のCEOであれば、恐らく何の問題もなく回避できた筈です」

「それは当然です。私は……」

 サトルは胸を張り、そして自覚した。

「……確かにそうですね。我ながら、どうもこう、噛み合わない。判断力が低下していることは否めないか……」

 イミディエットに辛辣な言葉を吐いた事を、サトルはバツ悪く思った。ナインは躊躇いがちに告げた。

「身体の状態は良好です。ひとえに……過労かと」

「私が過労とはね」

 サトルは息を吐いた。

「やれやれ。これまで私は、何も懸念することなくCEOを突っ走ってきたものですが」

「もちろんです。その前向きな行動力にこそ、我々は心惹かれてきたわけですから」

 シドは頷き、サトルにすかさず、ビールのオカワリを注いだ。

「ですが、ここでポッキリと折れられては困りますよ。走るためにこそ、今は敢えて休み、エネルギーを溜め直すべきかと」

「フム……」

 ナインが請け合った。

「24時間ならば、問題なく融通できます。しっかりとリフレッシュなさってください、CEO!」

 ショウジ戸が開き、マイコが奥ゆかしくスシの舟を運んできた。何たる海鮮! オーガニック・トロやオーガニック・ハマチ、生きたエビ等が輝くコメに乗せられたスシ群!

「我らバイオテックの雄といえども、時にはオーガニック食材もよろしいでしょう」

 シドが気さくに言った。サトルはスシを取り、ショーユにつけて咀嚼した。滋養とDHA成分が全身に染み渡った……。


◆◆◆


「カンパイ!」「カンパイ、あらためて!」「カンパイ!」


◆◆◆


「カンパイ!」「もう一軒……行きますよ!」「本当ですか?」「お供します!」


◆◆◆


「カンパイ!」「CEO、そろそろ……」「私はネオサイタマ出身ではあるが、民草の暮らすストリートというものを、実際あまり経験していないものでね! なんと素晴らしい事だろう。屋台もオツなものです」


◆◆◆


「カンパイ!」「CEO? もう本当にいけませんよ」「休め! と言ったのは、きみっ、キミだぞ、ナイン=サン!」「ちょっと飲みすぎています!」「ナイン=サン、私は……私は感動している。キミが居なければ私はとっくに潰れていたに違いない。そしてシド=サン。キミもだ! 有能な社員の助けがあってこそ私は……ククーッ……」


◆◆◆


「カンパーイ!」「カン、カンパイッ……ナイン=サン? 何処だ? シド=サン?」「エー? CEO? 三文字でカワイイー!」「ああ、そうです、私はCEOだ。ここは私のおごりです!」「スッゴーイ!」


◆◆◆


「カンパーイ!」「私はねッ! C……CEOッ! 何だね、キミはッ!」「それ人間じゃなくてワータヌキ像だぜ?」「何ッ!? タヌキのくせに……けしからん!」


◆◆◆


「……私はねえ……」「この人、誰?」「知らね……」「平気かよ?」


◆◆◆


 サトルはハッと顔を上げた。歪んだネオン看板が発した火花が、水溜まりに落ちた。酔いは醒めきっていた。だが、すさまじい頭痛が残った。

「ヌウウウウッ……」

 何処とも知れぬ裏路地に、彼は居た。それから、自分がとっているおかしな姿勢に気づいた。路地に打ち捨てられたバスタブの中に、彼は横たわっているのだった。

「ウヌ……一体これは……」

 彼は自身の身体を叩いた。スリーピースのジャケットがない。失われている。シャツとベスト、スラックス着用の状態で、彼は丸腰だった。ネクタイも締めていない。携帯端末も無い。彼は徐々に、事の重大さに気づき始めた。

「待て……これはどういう事になる……?」

 その時だ。彼の後ろで何者かがバスタブを掴み、横転させた!

「グワーッ!?」

 サトルは濡れたアスファルトに投げ出された。手をついて身を起こすと、表通りのネオンライトに逆光となって、手の長い影が威嚇的に跳ねていた。

「キキーッ!」

 獣じみた甲高い叫び声をあげて、その者は手を叩く。サトルは目をすがめた。その者のシルエット……バイオサイバネティクスによって自身の肉体をテナガザル化したケモノパンクスだ。ネオサイタマではケモノパンクスの過激派がギャングクランを形成しており、特にテナガザルパンクスは無差別な暴力行為で観光ガイドにも注意喚起がなされるほどだ。

「キキーッ! こんなところで水も滴るイイ男っぷりを気取ろうッてのかァ? サラリマン野郎!」

 そのテナガザルパンクスは飛び出しナイフを手に持ち、威圧的に刃を舐めてみせた。集まってきた何人かのテナガザルパンクスの仲間たちが目を光らせ、同様に刃物をチラつかせた。サトルは囲まれていた。

「ここは俺らの縄張りなんだよ。カネ、出しな!」

「……」

 激しい二日酔いじみた頭痛の中、サトルは反射的にベストやポケットに手をやった。丸腰だ。テナガザルパンクスはすぐに察した。

「何もねえなら、借金センター、一緒に来いや! それとも、あったけえ臓器を摘出してみっかァー!? キキーッ!」

「キーッ! キキーッ!」「キーッ! キキーッ!」

 テナガザルパンクスは頭上で手を叩き、嘲笑った。

「キーッ! キキーッ!」「キーッ! キキーッ!」「キーッ! キキ……」「イヤーッ!」

 KRAAAAASH! 凄まじい衝突音と共に、テナガザルパンクスの一人が壁に大の字で張り付いた。

 サトルは目で追った。丈高い影が新たに出現していた。ボキボキと指を鳴らし、その者は目を光らせ、他のテナガザルパンクスを見渡した。

「キッ……」「キキッ……?」

「イヤーッ!」「グワーッ!」「イヤーッ!」「グワーッ!」「イヤーッ!」「グワーッ!」

 KRAAASH! KRAAASH! KRAAASH! リズミカルなカラテシャウトと壁衝突音が鳴り響くと、テナガザルパンクスは全員、壁に大の字で張り付いて痙攣していた。彼らの懐から財布や万札が飛び出したのを、丈高い影はすべてキャッチし、満足そうに自分のものにした。

「ボーナスゲット! ……ア?」

「ンンッ……」

 サトルは声にならない呻き声をあげた。彼を見下ろすのは、謎めいた暴力的なニンジャだった。

「何だお前? 酔っ払ってンのか?」

 ニンジャは訝しげにサトルを見たが、首をボキボキと鳴らし、思案し……やがて合点がいったように叫んだ。

「アーッ! お前ッ! さっきのCEOマンじゃねえか!」

「何ッ!?」

 サトルは混乱した。

「さっきだろ! さっきお前、メチャクチャ酔っ払ってたじゃんよォ!」

「何だと? 私は……」

 頭痛の中で、数時間前の記憶断片がフラッシュバックした。何処かのナイトクラブの記憶……確かに、この男の曖昧なシルエット……そしてこの男は確かに、名前を名乗っていた……ような……。

「アイアン……アトラス=サン……だったかね……?」

「俺のこと覚えてンのか? ギャッハハハハハハ! あの後も飲みまくってたのかよCEOマン!」

 アイアンアトラスはサトルに手を差し伸べた。サトルは手を取った。

「私は……CEO……いや……確かにCEOではあるが……」

「CEOマン! 確かにCEOってお前! ギャッハハハハハハハ!」

 アイアンアトラスと名乗ったニンジャは、サトルの曖昧な受け答えに反応し、彼を指さして笑い始めた。

 サトルは困惑と憤慨に顔をしかめた。


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