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【アイアン・アトラス】

◇総合目次 ◇アイアンアトラス目次


 ネオサイタマ、トリヨシミツ・ストリート11PM。下水配管工から湧き出すスモークが足首の高さに立ち込める。「電話王子様」「チャツコのお店」「大きい人専門店」……ネオン看板の蛍光色は残響じみてスモークを薄く彩り、空を縦横に横切る電線ケーブルはパチパチと音を立てて火花をアスファルトに落とす。

 トリヨシミツは磁気嵐消滅後のネオサイタマで伸長した地域のひとつだ。ネオサイタマ南東部の損壊や企業戦争によって商売が立ち行かなくなったもの達が自然と集まり、中立緩衝区域に極彩色の歓楽街が生み出された。

 ここではメガコーポの目は届きにくく、ちょっと油断すればカツアゲマンに襲われ、陰に引き摺り込まれて金品の強奪にあう。そういった暴力行為を未然に防ぎたいならば、ソウカイ・シンジケートのケツモチ・トークンを購入することだ。ケツモチ・トークンを使えばソウカイヤの治安ヤクザが現れ、敵をやっつけてくれる。トークンは回数制で、2回使用すると再度のチャージが必要となる。だが、いかんせん値段が高く、カツアゲマンの半分はソウカイヤの末端構成員で、マッチポンプをやっているという、まことしやかな話もある。

「十人十色! 十人十色!」

 ライムグリーンの自走マネキネコは左腕を激しく動かしてマネキ・サインをしながら、8の字を描いてストリートを練り動く。狭い路地裏ではモヒカン・ヘアの側面に「悪人」の文字をペイントしたカツアゲマンが気弱なサラリマンを壁に押し付け、財布を奪い取る。桃色の格子戸の奥ではオイランが微笑み、ネオン扇子をゆっくりと振っていた。

「安い、安い、実際安い」「自由なら何でもある! あなたはここで何をする?」「ムカつく奴をノックアウトだ!」広告音声にメランコリックな街頭BGMが混じる。「ヒートリー、コマキー……タネー……ミスージノー、イトニー……」あるいはホロ・オスモウのオハヤシ音声。「イヨオー! ノコッタ!」あるいは市民に注意を促す自治会警告音声。「街頭キャッチマンに気をつけてください。あなたのIDや素子が狙われています。トリヨシミツ商店会の腕章が無い人間! 今すぐキャッチやめなさい。射殺される事もありますよ!」

 ここは不夜城ネオサイタマ・トリヨシミツ。0時以前など、いわば朝のようなもの。ネオン誘蛾灯に誘われるホタルめいて、流行りの発光アクセサリを身につけた市民が集まり、次の飲み屋の一軒、ホットなオイランランド、深夜イベントのクールな地下クラブを求めて、東へ西へ歩き過ぎる。

「参ったなあ、お店どこも一杯じゃね!?」「本当だな!」

 そこを歩くほろ酔いの赤ら顔の若者集団も、そのクチだ。先ほどまではカラオケ・ステーションで楽しんでいたが、今は二次会の場所を求めていた。
「だれかIRCのID、ゲットできた?」「俺ダメ!」「俺も」「皆ダメかよ、しょうがねえな」「お前どうなんだよ?」「ダメだった……つか、おかしくね? 盛り上がったよな?」「盛り上がった」「絶対おかしいよ!」

 青年男子たちは不満を募らせた。彼らはコンパの帰りだった。コンパとは男女がグループでノミカイを行い、ホットな相手を探すイベントだ。集団オミアイよりもカジュアルで、セックス・パーティーよりも性的に健全であるとされている。この日、彼らはエスイーの女性たちとの会合を持ったが、誰一人、連絡先の交換すらできなかったというわけだ。

「こんな状態じゃ帰れねえよ」

「ホントだよな」

 彼らは反省会の場を探していた。コンパは非常に複雑なプロトコルに支配された場であり、奥ゆかしく、なおかつユーモアを絶やさず、チームプレイを大切にし、場面場面で適切に行動する事を求められるイベントだ。今回の会合の何がいけなかったのか? 店には満足だったか? 誰の発言がホットな女性のテンションを落としてしまったのか? 逐一検証する必要がある……彼らはそう考えていた。相手の集団は極めて奥ゆかしく、いわばセッタイじみて友好的だった。それゆえに全く本心が汲み取れなかった。

「オーイ」

 向かいの店「デコノミ」から出てきたのは、コミタ・アクモ。この男子集団の一人であり、ジャンケンに負けた彼は、入店可能な店を斥候する役目を負っていた。

「どうだった? コミタ=サン」

「ダメ、ダメ」コミタは顔をしかめて首を振った。「二時間待ちだって」

「マジかよ……」

 彼らは途方にくれた。反省会でヤケ酒する事すら許されないのか。暗澹たるアトモスフィアが彼らの間に漂い始めた頃、不意にひとりの女性が彼らのもとに近づいてきた。

「お兄さん達、ノミカイですか?」

「え」「え?」コミタ達は驚き、お互いに顔を見合わせた。「あ……ウン。そう」

 コミタはほかの連中の機先を制して一歩前に出、頷いた。

「だけど店がどこも閉まっててさ。キミ、どうしたの?」

「私たち、コンパの予定だったんですけど、日程を間違えちゃって、男子が来なくって……あ、私、チュリです」

「チュリ=サン? ステキな名前だね」

 コミタは最高な笑顔を心がけた。チュリは噴き出した。

「オモシローイ!」

「あのさ、俺たち、もう一軒行こうとしてたんだよね」

 カバヤシが割り込んだ。

「ほかの皆はどこにいるの?」

「そこのお店」

チュリは雑居ビルを振り返り、5階を指差した。「超タノ」という店だった。

「私だけ先に降りてきちゃった。まだ居ますけど?」

「え、マジで?」カバヤシはグッと力を込めた。「じゃあさ……せっかくだから、俺らとノミカイしちゃわない?」

「えー」

 チュリは迷ってみせた。男達は緊張に唾を飲み込んだ。長い長い2秒後、彼女は元気よく頷いた。

「いいよ!」

「……!」「……!」

 男達は無言でガッツポーズし、カバヤシの機転を讃えた。

「じゃ、行こう!」

 チュリは無造作にコミタの手を取り、ビルに促した。コミタの心臓は期待に早く打っていた。(ヤバイ……こんな最高なインシデントが日常的に起こるストリート、それがトリヨシミツなんだ!)(しかもこの娘、俺の手を真っ先に……完全に狙いを定めてやがる! これは……退廃ホテル一直線コースかもな)


◆◆◆


「イエーイ!」「イエー!」「「「「カンパーイ!」」」」

 男、女、どちらも四人ずつ! ケモビール・ジョッキを打ち合わせ、ひと息に飲む。天井にはミラーボールが回転し、ソファは紫色で、魅惑的なアトモスフィアを醸し出していた。店はそれなりの広さがあったが、彼らの他の客といえば、壁際で飲んでいるカップルだけだった。

「イエーイ! サイコー!」

 チュリはほがらかに喜び、コミタにハイタッチした。チュリは目の下に星のペイントをしており、蛍光色のつけまつげが先進的で、キュートだった。しかも既にコミタの太腿に手を置いているのだった。このスキンシップは積極的過ぎる。(この娘、完全に……その気だな!)コミタは完全にその気になっていた。

「それで、みんな何処から来たワケ?」

「エー? ワカンナーイ!」

 女たちは笑った。そして店員に空のジョッキを振ってみせた。

「水割りください!」「私も!」

「ハイヨロコンデー」

 屈強な店員はオジギし、奥に戻っていった。その店員の屈強な事といったら、サイバーサングラスは埋め込み式で、肩幅はがっしりと広く、シャツの下で筋肉がはち切れんばかりだった。コミタは多少訝しんだ。

「ナンカスゴーイ!」「みんなカッコイー!」

 女たちは極めて友好的だったが、名前や職業もいまだによくわからない。とにかく飲むペースが早い。あれほどのウイスキーを……。

「ホラ、コミタ=サンも飲んで!」

 チュリがサケを差し出した。コミタは笑い返した。


◆◆◆


 それから30分が経った。

「それじゃ、私帰るね。ありがとうね」

 チュリはコミタの手を握って微笑み、席を立った。

「うん……うん?」

 コミタは釈然としないまま、出て行くチュリの背中を見送った。ほかの女子たちはすでにいない。一人帰り、二人帰り……チュリで最後だ。テーブルには沢山の空きジョッキやグラスが並んでいる。

「なあ、カバヤシ=サンは何処行った?」

 ヤマダがコミタに尋ねた。

「いや、わからないけど……」「抜け駆けか? まさか」「それはないんじゃない?」「い、いやあ、わからねえ」

 ヤマダはどこか青い顔をしていた。

「エット、俺ちょっとトイレ」

 ぎこちなく彼は席を立ち、トイレに行った。

「……」

「だいぶ酔ってたのかな」

 コミタはイノに話しかけた。イノも急に青い顔になった。

「お……俺、ちょっと様子見てくるわ」

「ああ。頼む」

 イノは席を立った。コミタは席に一人、残された。テーブルに並ぶ無数の空きグラスをぼんやりと眺めていたが……。

「!」

 鈍感な彼も、さすがにこのとき思い至った。グラスの飲み残しを取り、ゴクリと飲んだ。(ノン・アルコール!)彼は心臓が強く打ち、ニューロンが高速回転した。ドクン! ドクン! ドクン!

(まさか!)

 コミタは慌てて席を立った。だがその肩を屈強な手が押さえつけ、無理やり座らせたのである!

「アイエッ!?」

「お客さん。何処行こうっての」

 屈強な給仕店員はコミタに顔を近づけた。恐ろしい!

「アイエエエ! いや、あの……友達がトイレから出てこな……」

「スッゾオラー!」給仕店員は凄んだ。「テメェは逃がさねえぞ」

 ナムサン! やはり! この店は危険な罠だったのだ! 偶然を装い接近してきたチュリ達は、おそらくこの店のマイコ店員! 鼻の下を伸ばした愚かなコミタ達を店に連れ込み、大量に飲んでみせ、そしてその会計を……「お会計」給仕店員が伝票シートを突きつけた。ナムアミダブツ!

「トイレから逃げるとはたいしたタマじゃねえか、テメェの友人ども」

 給仕店員はクチャクチャとガムを噛んで威圧する。コワイ! そしておそらくその通りだ……カバヤシたちはこの店が危険な罠であった事に各自思い至り、トイレの窓から逃走したに違いなかった。コミタは置いていかれたのだ!

「沢山飲んでくれたなァー。アリガトゴザイマス」

 給仕店員は伝票シートに並ぶドリンク注文を逐一読み上げていった。

「……しめて49万円。こんなに払えねえんじゃねえか? 大丈夫か?」

「ア……ア……」

「しょうがねえな。マケてやるからよ」

「アイエエエ……お、お願いします……」

 給仕店員は490,000を二重線で消し、488,000に直した。

「出血! 大サービスだ!」

「アイエエエエエエ! 支払えません!」

「ザッケンナコラー!」右拳!「グワーッ!」「スッゾオラー!」左拳!「グワーッ!」

 KRAAASH! コミタはテーブルに突っ伏した。グラスがなぎ倒された。コミタの心は圧倒的暴力によって一瞬で折れた!

「テメッコラー! 俺の出血大サービスを拒否するってのか?」

「アイエエエエエエ!」

「今すぐ借金センターでカネ借りてくりゃ払えるだろうが! ケチめ!」

「アイエエエエエエ!」

 コミタの頭の中は恐怖で真っ白になり、己の浅薄さを後悔する思考すらできなかった。彼はただ悲鳴を上げた!

「オイッ! ウルッセーゾ!」

 別の強面な叫びが店の奥から聞こえた。

 咎めたのは、先ほどのカップル客の男の方だった。否、隣にいる相手の女は、ここのマイコだろう。

「何騒いでやがんだよ! モメてねえで、俺、お会計!」

 その男は伝票シートを振って見せた。隣でマイコが給仕店員に肩をすくめて見せた。ナムサン……当然ながら、その男もコミタ同様、この店に騙されたクチというわけだ。

「アッハイ! ドーモ!」

 給仕店員は男にへりくだった笑いを投げた後、床で呻くコミタにひそかに唾を吐きかけた。

「ペッ! テメェ、後で一緒に借金センター行くぞ」

 給仕店員は奥の客のもとへ向かった。コミタは涙に霞む目で、震えながらそのさまを見守った。ここはジゴクだ。どうしてこんなひどい目に。

「いやあ、あのファック野郎が無銭飲食しようとしてましてね。お客さんは? お帰りですか?」

「帰る、帰る。酒薄くねえか?」

「そんな事ありませんよ」

「まあいいけどよ。……あン? オイ店員。なんだこりゃ」

「何がですか」

「なんだテメェこの……」男は伝票シートを見直した。「テメェこの……エット……高えよ! 4,900円!? そんなに持ってるかッつうの!」

「……ア?」給仕店員の声に凄みが宿った。「テメェ、マヌケか? 0がふたつ少ねえよ……49万円だ、このカスが!」

「49万円!? ウッソ!」男は呻いた。「……ヤッバ!」

「持ってねえのか? テメェ」

 給仕店員は男を睨んだ。

「アーヤベエ……」

 男はソファから立ち上がった。コミタは息を呑んだ。デカい……「デカい!」コミタは思わず声が出た。その男、7フィート超! 天井につくほどに背が高い! 

「そんなカネ、持ってねえワ」男は給仕店員を見下ろし、言った。「持ってねえから……エット……」

 コメカミに指を当て、男は考えた。給仕店員は男を見上げた。

「そんなら借金セ……」「イヤーッ!」「アバーッ!」

 男はいきなり給仕店員に頭突きを喰らわせた!

「アイエエエ!?」

 マイコが悲鳴を上げる!

「アバーッ!」

 割れた額から血を噴き出し、店員が床を転がる!

「イヤーッ!」「アバーッ!」

 ケリ・キック! 店員は失禁し失神!

「払えるかッコラー! 代金はテメェがポケットマネーで立て替えとけや!」

 男は言い捨てた。その顔には……ナムサン! メンポが生成され、装着されている!

「アイエエエ!」

 マイコは悲鳴を上げ、泡を吹いて失神!

「ニ、ニンジャ」コミタは激しく震えた。「ニンジャ、ナンデ!?」

「アー?」

 男はコミタを見た。そして、歩いて来た。まずい。終わった。コミタは死を覚悟した。罠バーに騙され、友人に見捨てられ、恐怖を味わった挙句、ワケもわからずニンジャに殺されて死ぬのだ……。

「テメェ今、ニンジャつったか?」

「い、言いました」

「ナンデ? なんでわかっちまった? た、確かに俺、ニンジャだけどよ」

「メンポ……」

「だって、メンポが着いちまうんだからよォ! しょうがねえジャンよ!」

「アッハイ、しょうがないです!」

「クッソ、49万円、どうすんだよ!」

「いや、それは……」

「クソ店員、立て替えろっつったのに、気絶してやがるしよ!」

「いや、それは……」

「お前どうすんの?」「え?」「払ったのか?」「いや、払えないです……」

「なあ! ビックリだよな!」

 ニンジャは同意を求めた。コミタはとにかく頷いた。ニンジャは目を細めて笑い、コミタの肩をバシバシと叩いた。

「アイエエエ!」

「だよな! 全くよォー! 俺そんな大金、持ってねえよ! 家が建っちまうジャンなァ!」

「こ、これは実際詐欺だと思います、ハイ……こうやってサケを注文させて、最後に請求を、エット……」

「エート、49、まんえん、エート」ニンジャはもはや聞いていない。不意にコミタを見た。「お前、幾ら?」「エ?」「金額幾らよ」「お、同じです、49万……アッ、違う、488,000円です」「ハァ? なんでだよ」「オマケするとか言われて……」「ズルイだろ!」「アイエエエエ!」「もういいよ。エット……49たす488の……」

 ニンジャは伝票シートの裏の白紙に数字を書こうとして、難儀していた。すぐに癇癪を起こした。

「わッかんねェよ、こんな計算! UNIXじゃねえんだから!」

「978,000円です」

「何?」

「た、足し算ですよね? 僕らの……」

「テメェ……」

 ニンジャは眉根を寄せた。コミタは死を覚悟した。ニンジャは目を見開いた。

「頭いいナ! お前、スッゲエじゃん! お前のあだ名、UNIXマンだな!」

「UNIXマン?」

「ドーモ、UNIXマン=サン」ニンジャはコミタにオジギをした。「アイアンアトラスです」

「ド、ドーモ……」コミタは怯えながらアイサツを返した。「エッ、エット……とにかくその、店を出たいなって……」

「そりゃ出るわ。そりゃ出る」

 アイアンアトラスは紙に「978000、立て替え」と殴り書きすると、気絶痙攣する店員の頭の上にそれを置いて、ドカドカと出口に向かった。振り返り、コミタを見た。

「テメェ何つっ立ってンだよ。行こうぜ」

「ア……アッハイ。僕は家に……」

「飲みなおすよな!?」

「ア、アッハイ」

 コミタは失禁しそうになりながら頷くしかなかった。アイアンアトラスに連れられて、コミタは再びストリートに繰り出した。ヒートリー……コマキータネー……アカチャン! 広告音声とスモークネオンライトはコミタのアルコール混濁ニューロンにサイケデリックな幻を描いた。

「アッ、ボーナスマンだ!」

 アイアンアトラスは路地裏を指さした。そこには……おお……サラリマンを木刀殴打するカツアゲマンがいた。モヒカン・ヘアの側面に「悪人」の文字をペイントしている。

「テメェ、もっと持ってんだろ?」「アイエエエ……命だけは……」「スッゾオラー!」「アイエエエエ!」

 無残! 木刀で繰り返し殴りつけ、カネを奪う……弱肉強食の非道行為である! そのサラリマンは、油断したか、ケツモチ・トークンを持っていないようだった。助ける者はない!

 だが、アイアンアトラスはいきなりそちらへ向かっていった。

「やったぜ!」

「エッ……エッ?」

 コミタが状況を把握できずにいるうちに、ニンジャは容赦なくカツアゲマンを殴打した。

「イヤーッ!」「グワーッ!?」「イヤーッ!」「グワーッ!」

 殴打気絶昏倒!

「アイエエエエ!?」「アイエエエエエ!」

 被害サラリマンとコミタは悲鳴を上げる! アイアンアトラスはカツアゲマンにしゃがみ込み、財布を奪って懐に入れた。

「ボーナスゲット!」

「い、いきなり何やってンですか!?」

「そりゃお前、ボーナスマンは殴ったらカネを落とすんだぜ? 知ってるか?」

 アイアンアトラスは得意げにコミタを見た。

「こいつらは他人からカネを集めてッからよォー、たくさんカネ持ってんだよ!」「ア……ア……」「飲み直しに行こうぜ!」「ア……ア……!」

「あ、あの」サラリマンはアイアンアトラスを見上げた。「僕、取られたおカネ、その……」「アー?」「なんでもありません! アイエエエエ!」サラリマンは逃げ去った。

「なんだ全く……オイ見ろよ! 10万円ぐらい入ってるぜ!」

 アイアンアトラスは奪取した財布を開き、中身をあらためて笑顔になった。穏便に逃走しようとするコミタの肩をがっしりと捕まえ、アイアンアトラスは笑いかけた。

「軍資金できたナ! 飲み直そうぜ!」


◆◆◆


「そういう、ひどいことがありました……」「大変だったね」「死ぬかと思いました……」「そうだよね」

 コミタは柔らかい太ももの上で泣き濡れた。天使めいた女はコミタを撫で、頭に豊満な胸を乗せた。

「アイエエエ……」「泣いていいのよ。大変だったんだから」「アイエエエ……」

 女は優しい笑みでコミタを見下ろした。その顔に見覚えがある。チュリだった。

「エッ!?」

 ガタン! コミタは寝相でダストボックスを蹴飛ばした。その音で目が覚めると、天使めいた女性などどこにもおらず、コミタは着替えてもいない状態で、ワンルーム・アパートの自室で独り、仰向けに、気絶するように寝ていたのだった。

「エッ……あれ……?」

 コミタは胸を揉む動きをむなしく宙に行いながら起き上がった。アルコールで頭は割れるように痛く、殴られて腫れた顔が痛み、服はビショビショだった。腫れた顔に手を当てると、罠バーの店員にボコボコにされた事が記憶に蘇った。

「アイエッ!」

 コミタは反射的に飛び上がった。自分の体をまさぐると、財布があった。蛍光PVC製、クロームの「冷気」の漢字エンブレムがクールな、見慣れた財布だ。自分のものだ。中身は無事か? 慌ててあらためると、

「アイエエエッ!?」

 万札がボロボロと零れ落ち、床に散らばった。じわじわと記憶が戻ってきた。そうだ。罠バーで痛めつけられた後、アイアンアトラスとかいうニンジャと遭遇し……ニンジャナンデ……その後、繁華街のバーをハシゴして……。

「頭が……!」

 泥酔して……パチンコ店に……ストコココピロペー!「大当たり! ポイント再倍点!」「スッゲエな!」ゲラゲラ笑うアイアンアトラスがコミタの肩をバシバシと叩き……さらにバーをハシゴして……。

「ア、アイエエエエ」

 コミタは頭を抱えた。上着のポケットで、携帯端末がブルブルと震えた。コミタはそれを確かめた。IRC通信の跡があった。知らないアカウントからのフレンド登録依頼のメッセージが着信している。アイアンアトラスだ。

『また遊ぼうな! オマエ!』

「夢じゃない」コミタは呻いた。「夢じゃなかった……」

 コミタはがっくりと膝をついた。暴風めいた出来事に思いを馳せるには、もう少し時間の経過と気持ちの整理が必要だった。結果的に倍増したカネを拾い集める気力もなく、彼は横になり、そのまま二度寝した。

 そして残念ながら、コミタがアイアンアトラスと遭遇したのは、これが最後ではなかったのだ。


【アイアン・アトラス】終わり

→ 次エピソードへ続く


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