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【バイオテック・イズ・チュパカブラ】

この小説はTwitter連載時のログをそのままアーカイブしたものであり、誤字脱字などの修正は基本的に行っていません。このエピソードの加筆修正版は、上記リンクから購入できる物理書籍/電子書籍「ニンジャスレイヤー ネオサイタマ炎上4」で読むことができます。

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ニンジャスレイヤー第1部「ネオサイタマ炎上」より

【バイオテック・イズ・チュパカブラ】


1

 中国地方の五割を覆う、広大なタマチャン・ジャングル。ここは重金属酸性雨耐性を獲得したバイオバンブーとバイオパインから形作られる、陰鬱でサツバツとした密林だ。時刻は昼下がり。見えない太陽が傾き出した頃。どこか遠くから、オツヤじみた物悲しい水牛の鳴き声が聞こえてきた。モウン、と。

 極彩色のLANケーブルと猥雑なネオンサインに彩られる灰色のメガロシティ、ネオサイタマ……そこから遥か北に広がるこの密林を、トーフのごとく無機質な一台の車が駆け抜けてゆく。錆びたワイパーが重金属酸性雨を切り刻む。運転席にはスーツを着た金髪の女性。助手席にはニンジャ。

「この一帯はまだ電波塔が生きてるわ」とナンシー。右耳の後ろにインプラントされたバイオLAN端子には、白いアンテナ付きのトランスミッターが挿入されている「地域マップにアクセス。この先三百メートル地点に農場」。助手席に座るニンジャスレイヤーは腕を組み、呼吸を整え、周囲を警戒していた。

 今にも朽ち果てそうな小さな橋を渡り、「雇用の問題」と書かれたコケシ・トーテムの脇を抜けて走ると、不意に密林が開けた。旧世紀の郊外型スーパーマーケットと思しき空間が二人の前に広がる。アスファルトの大半はバンブー・スプラウトによって地下から突き破られ、ビルディングは廃墟と化していた。

「ブッダ……! まただわ」静かにブレーキを踏みながら、ナンシーが吐き捨てるように言う「数十頭は殺されているかしら」。「調べてみよう」ニンジャスレイヤーはシートベルトを外し、ドアを開ける。民間人との接触を考慮に入れ、その赤黒いニンジャ装束をダスターコートとハンチング帽で隠した。

「酷すぎるわ」赤い傘をさして車を降りたナンシーは、頭を横に振りながら溜息を漏らした。おお、ナムアミダブツ! 何たる光景か! 現在は農場として使われていると思しきその駐車場跡一帯には、40頭余りの水牛たちが、打ち上げられたマグロのように横たわっていたのだ。ツキジめいた凄惨さである。

「手口は同じだ」ニンジャスレイヤーはアスファルトに方膝をつき、そのうち3頭の死体に特徴的な傷痕を発見した。この3頭だけは腹がさばかれ内臓が抜かれている。血は一滴も残されていない。「狂ったイタマエの仕業だろうか? とてもそうは思えない。こんな事ができるのは……ニンジャだけだ」。

 ニンジャスレイヤーとナンシーは目を合わせ、同時に呟く。「「チュパカブラ……」」と。チュパカブラとは、メキシコの伝説的な獣の名だ。そしてそれは、タマチャン・ジャングル界隈で水牛ミューティレーション行為を繰り返す正体不明のニンジャに対して、二人が与えたコードネームでもあった。

「ザッケンナコラー!!」「スッゾコラー!!」不意に怒声が飛んだ。編笠を被った三人の農民が建物から駆け出してきて、タケヤリとカービン銃を組み合わせた恐るべき武器を構えるところだった。ニンジャスレイヤーは反射的にスリケンを投擲しようとしたがこらえ、ナンシーをガードする立ち位置を取る。

「ドーモ! 私たちはネオサイタマ新聞社の特派員です!」ナンシーは首から下げたジャーナリスト・パスをかざし、身分を証明する。NSNWのロゴが輝かしい。ハッキングによって作成した偽造品だ。「どうか興奮しないでください! 私たちは反ブッダの運動家ではありません!」

「アイエエエエエ……」「安心した」「アンタイ・ブディストじゃないのか」農民たちは銃口を下ろし、ナンシーたちに近づいてきた。緊張に引きつっていた顔が、わずかに緩む。「特派員=サン、ご覧の通りの有様です。オーガニック水牛たちが次々に残酷な殺され方をしているんです」

「ドーモ、特派員のイチロー・モリタです」ニンジャスレイヤーが偽名を名乗る「これは一体、誰の仕業なのです?」。「ドーモ、タバキ・トヨタです」眼帯をつけた農民のリーダー的存在が返す「建物の中で話しましょう」。姿の見えない敵を威嚇しているかのように、鋭い眼光を松林の中に向けながら。


◆◆◆

 同日同時刻。そこから数十キロ離れた、タマチャン・ジャングル南端部。

 小高い丘に建つ古風な温泉宿「ニルヴァーナ」の前に、ものものしい雰囲気で3台の車が止まった。見事な松の木の下で、2台の覆面SPパトカーに前後を守られた防弾高級車のドアが開く。思っていたよりも肌寒い風が、暖房の効いた車内に忍び込んできた。「寒いね!」と少女の声が漏れる。

「ありがとうございました」運転席から降りた若い男が、覆面SPパトカーの精鋭デッカーたちに対して、奥ゆかしいオジギを行う「ここまでくれば、私たちだけで大丈夫です」。「お気をつけて」「ごゆっくり骨休めを」私服で正体を隠したネオサイタマ市警のデッカーたちは110度の最敬礼で返した。

 続いて助手席から彼の妻が、左の後部座席からはペットのミニバイオ水牛を抱いた幼いムギコが、最後に右の後部座席からは和服を着てカタナを腰に吊った老人が姿を現す。数々の修羅場を生き抜いた男だけが持つことを許されるタツジンめいたオーラを、老人は静かに発散させていた。

「……ムギコや、はしゃぎすぎて転ばぬようにな」 娘を優しく諭す彼こそは、かつてニンジャスレイヤーに命を救われたネオサイタマ市警の重鎮、ノボセ老であった。彼らは日本人ならば誰しもが持つワビサビ的な想いに駆られ、ネオサイタマの喧騒を離れて、一家で温泉宿を訪れていたのだ。

「転ばないよ!」ムギコは少々ムッとしたような調子で言うと、重金属酸性雨避けの厚底ブーツで砂利道を蹴り、フロントへと駆けていった。そしてミニバイオ水牛を両手で高く抱き上げてクルクルと回りながらネコネコカワイイ・ジャンプを繰り返し、楽しげに語りかけるのだった「一緒に温泉に入ろうね!」

 もしかするとこの時、彼は自分の身にただならぬ脅威が迫っていることを、動物的な第六感によって感じ取っていたのかもしれない。あるいは単に、ネコネコカワイイ・ジャンプに驚いて目が回っただけなのかもしれない。彼は喉の奥から搾り出すようにか細く、モウン、と鳴いてから、静かに失禁したのだ。



 廃墟と化したコケシマート。かつては賑わっていたであろう回転スシバーのタタミ席に座り、五人の農民達に対するインタビューが始まった。少し離れた場所では、ヘッドギアを被った四頭の水牛たちが大きな車輪を回し、覚束ない電気を起こしている。タングステン・ボンボリが明滅し、時折火花を散らした。

 彼らはネイティヴな農民ではない。工業プロジェクトの失敗によってこのエリアが過疎化し、やがてタマチャン・ジャングルに飲み込まれたのは、今から僅か十数年前のことである。彼らはUNIXを溶かして鍬と鋤に変えた、テクノ・ピューリタンの入植者なのかもしれない。だが、今はどうでもいいことだ。

「では、お話を聞かせてください」ナンシーはハイテク電子レコーダーにLAN直結を行ってからスイッチを入れ、白いインロウ型の小型マイクを農民達に向ける。報道特派員イチロー・モリタに変装したニンジャスレイヤーも、それらしく振舞うべく、DJめいた大仰なヘッドホンをかけてメモを取っていた。

 農民たちは寡黙だった。リーダー的存在であるタバキ・トヨタが、右眼を覆う眼帯に手を当てながら、最初に重い口を開いた。「数週間前から始まったんです。地図を見てください。ここだけじゃなく、エリア一帯で水牛たちがミューティレートされ始めました。マッポは忙しくてなかなか来てくれません」と。

「正体は何なんです?」イチロー・モリタの偽名とハンチング帽で正体を隠したニンジャスレイヤーは、核心にせまる鋭い質問を投げかけた。「謎です」とタバキ。「アンタイ・ブディストかもしれません」と農民の一人がつぶやいた「水牛は生贄にされたんです」。モリタは『反ブッダ?』とメモを取る。

「死体の近くに反ブッダ的な魔方陣は描かれていましたか?」とマイクを向けるナンシー。「いいえ、でも、奴らがジャングルで儀式をするのは有名なんです。以前、バイオパインに人形が打ち付けられていたことも…ナムサン!」。「では水牛と儀式の関連は無いのですね」ナンシーは冷静に農民を論破した。

「では正体は何なんでしょう?」改めてイチロー・モリタは核心にせまる鋭い質問をした。「怪物ですよ」とタバキ。「私は凶暴化したバイオパンダだと思います」と農民の一人が冷や汗とともに呟いた「それも、かなり大きくて素早い」。モリタは『素早いバイオパンダ』とメモを取る。

「バイオパンダの声を聞きましたか?」と農民にマイクを向けるナンシー。「いいえ、でも、“奴”は外科手術メスのように鋭い爪を持っているらしいんです。バイオパンダも……持っているじゃないですか。鋭い……爪を」。「それは早計だと思うわ」とナンシーは冷静に分析した。

「正体はニンジャなのでは?」モリタが鋭い提言をした。「ニンジャではないと思います」とタバキ。「アイエエエ……UFOだと思います」と農民の一人が言った「宇宙人の作り出したおそるべきクリーチャーが……アイエエエエ……アイエーエエエエエ!」。農民は絶叫しながら、どこかに走って消えた。

「確かにクリーチャーという表現は正しいかもしれない」農民のリーダーであるタバキ・トヨタは、安シガレットをヨウジで吸いながら、苦々しい口調で言った「奴は光る眼を持っていますから」。「実際に見たことがあるのですか?」ナンシーが問う。「ええ、奴は俺の右眼を持っていきましたよ」とタバキ。

 重要な証言だ。イチロー・モリタ特派員はヘッドホンをおさえて頷きながら、ハイテク電子レコーダーの「重点」ボタンを押す。「交戦したのですか?」とナンシー。「1週間前の夜、見張りに立っていた時です。突然、茂みの中を“奴”が走ってきた。俺はショットガンを撃ったんです。まったく、闇雲にね」

「……敵は、応戦してきませんでしたか?」モリタは人差し指を立てて、斬新な推理を伝えた「スリケンめいたものを投げる……などして」。「いいえ」とタバキ「しかし、奴はいやな臭いがしました。それから、素早くて……手か足の先に鋭い爪がついていました。それを使って、俺の眼をえぐったんです」

「ショットガンは効いたのですか?」ナンシーが的確な質問をする「命中の手ごたえは?」。「ありました」とタバキ「数メートル向こうに飛んでいって……どさりと落ちる音がしました。でも、“奴”は何事もなかったかのように高く跳躍して、バイオバンブーを蹴り渡りながら、飛び掛ってきたんです」

「敵は何色の装束でしたか。ここは重要ですよ」モリタは重点ボタンに指をスタンバイさせながら質問した。「服を着ていたかどうか……アーッ! アッ! アーッ! アイエエエエエエエエ!」冷静さを保っていたタバキが突然絶叫する! ナムアミダブツ! あの夜のトラウマがフラッシュバックしたのだ!

「ザッケンナコラー! 俺のかわいい水牛たちを! 何年かけたと思ってるんだ! スッゾコラー!」悪夢を追い払うために、タバキは脇に置かれたズバリを手に取り、自分の腕に注射した。しばし、荒い息使いだけが録音される。「……フゥー、遥かにいいです」タバキは平静を取り戻し、頭をかきむしった。

 瞳孔が開き、ぎらぎらと覚醒して、落ち着かない虫のように動き回っていた。「そういえば、俺のランニングについた血が緑色だった気もします。あるいは紫。少し光っていた気もします。次の日には赤に変わっていました」タバキは浜に打ち上げられたマグロのように畳に身を横たえ、苦しげに語るのだった。

「ありがとうございました……インタビューを終了しましょう」ナンシーが沈痛なおももちで言った。農民たちは、得体の知れぬ恐怖と怒りのせいで発狂寸前なのだと解ったからだ。これ以上彼らを責めさいなんではいけない……ジャーナリストの良心が彼女にそれを気付かせたのだろう。

 それはニンジャスレイヤーも同じだった。ナンシーが止めねば、彼のほうから終了を提案していただろう。愛する者をある日突然理不尽に奪われる悲しみは、水牛であろうと妻子であろうと同じことだ。……全員が無言になる。発電車輪の上に置かれたテレビからは、ノイズ交じりのオスモウ中継が流れていた。

 畳の上でもがくタバキを見ながら、ニンジャスレイヤーは心の中でひとりごちる……一歩間違えば、彼のようになっていただろう。いや、もしかすると己も既に、どこか狂っているのかもしれない……と。タバキの苦悩を感じ取った彼は、顔を伏せて血の涙を流していた。やり場のないカラテが爆発寸前だった。

「ドーモ」全員が正座してオジギし、インタビューは完全に終了した。「御礼です」と、ナンシーは素子マネーを取り出して、チャブの上に置いた。ヨロシサン製薬系列ダミー会社の口座をハッキングして抽出した、結構な額のマネーだった。

 二人は湿った靴音を響かせながら出口へと向かう。攻撃的なヒップホップ・ハイクが乱雑なスプレーでしたためられた、大きなシャッター。そこに背を預けるように、カービンタケヤリを構えた一人の農民が座り込んでいた。先ほど、錯乱して飛び出していった男だ。

「ドーモ、モリタ=サン、ナンシー=サン。お話したいことがあるんです」男は雨に打たれ、落ち着きを取り戻していた。彼は周りに仲間がいないことを確かめてから、歯をかちかちと鳴らしながら語る。「実は、恐ろしくて、恐ろしくて、まだタバキ=サンにも報告していないことが……」



 夕暮れ近く。健康に良くないガスが充満する、温泉旅館ニルヴァーナの露天岩風呂。寂しげな風が吹いて松の枝を揺らし、見事なサンスイのハーモニーを奏でる。時折、湯の中から大きなコケシ・オートマトンがいくつか姿を現し、おごそかなレーザー光線を発射していた。

 誰もが思わず心躍り、ハイクを詠みたい衝動に駆られるだろう。だがムギコは独り、緑色の湯に肩まで浸かって、鼻から顎を覆う漆塗りガスマスクから溜息を漏らしていた。「恐れ入ります」「動物禁止な」とミンチョ体で縦書かれたノボリがはためき、ミニバイオ水牛の入浴を無言のうちに拒んでいたからだ。

「せっかく連れてきたのになぁ……」ムギコは、とげとげしい大岩の上にライトアップされた赤いトリイを、ぼんやりと眺め上げた。その根元では、ミニバイオ水牛のモウタロウが、湯気に紛れて楽しげに8の字旋回を続けている。バイオ動物であるモウタロウは、ムギコとは根本的に違うクリーチャーなのだ。

 あの子は成長した、ムギコは独りでも大丈夫だ。ノボセ老は深く頷きながら、岩露天風呂の様子をうかがうフスマをぴしゃりと締めた。彼に残された隻眼はたちまち、温かい祖父の眼差しから、ソードマスター・ツジゲッタンのように鋭い古参デッカーの眼差しへと変わる。「……では話を聞かせてもらおうか」

 タマチャン・ジャングル・レンジャーマッポ隊の2人がチャブの前に正座する。「アイエエエエ……。ノボセ=サン、温泉旅行を邪魔してすみません」「水牛を連続で殺害して内臓と体液を抜く、異常アニマルネクロフィリア犯罪者らしき存在が、近頃このタマチャン・ジャングルを騒がせているのです!」

 コワイ! 連続殺害事件とは! 幽玄なタイガーを描いた墨絵ビヨンボの陰で、ノボセ息子夫婦の表情がこわばる。「大丈夫です、この温泉は現場から遠く離れていますし、周辺には水牛もいません。しかし、ジャングル中心部はひどいものですよ! 農民や無関係な市民も被害を受けていますよ!」とマッポ。

「それで、何をしろと?」ノボセ老はマッチャを啜りながら問う。「事件解決まで、ご家族の方はこの宿から出ないでください。ただ、ノボセ=サンは……可能であれば……明日、調査にご協力いただけないでしょうか。このような異常性犯罪者にどう対処すべきか……我々はノウハウに欠けているのです」

「スゥーッ、ハァーッ」ノボセ老はチャドーの呼吸を整えながら、静かにマッチャを啜った。そして目を閉じ沈思黙考する。「死んだら終わり」「困っている人を助けないのは腰抜け」……平安時代の哲人ミヤモト・マサシが遺したアンヴィヴァレントな2つのコトワザが、彼の胸を去来する。まるで禅問答だ。

(((わしはまだ死ぬわけにはいかぬ。ネオサイタマの影の巨悪を暴き、法の裁きを下さねばならんのだ。だが…))) 伝説的デッカー、ノボセ・ゲンソンの答えを待ち、レンジャーマッポ達は息を飲む。老人は目をかっと見開いて膝を叩いた。 「…明日ではなく、今から動こう」「「ヨロコンデー!!」」


◆◆◆

 ナンシーは独り、吸血ヒルが潜むタマチャン・ジャングル奥地を進む。車に積み込んでいた重金属酸性雨除けのレインコートとロングブーツが、思わぬところで役に立った。車のタイヤは農場に駐車している間に何者かによってパンクさせられていたため、そこから1キロ先の川辺で乗り捨てざるを得なかった。

 竹林に混じって立つ古い電柱から、ノイズ混じりのミニマルテクノと呟き声が聞こえてくる。ハッカー教団の電波を拾ったスピーカーが、虚しいプロパガンダを続けているのだろうか。下栄えに覆われた微かなアスファルトの痕跡、朽ち果てたノボリや自販機が、かつてここが国道だったことを暗示していた。

(((タイヤをパンクさせたのは誰なの? 農民たち? でも、あの鋭い切断痕はまるで水牛の腹の傷跡のようだったわ。まさか、私たちの追っているチュパカブラが?)))ナンシーはIRC空間内でひとりごち、ログを遺した。(((チュパカブラの正体は何なの? ニンジャ? 本当にそうかしら?)))

 その時だ! 「ウオー! ウオー!」突然、竹林から巨大なバイオパンダが姿を現し襲い掛ってきた! ナムアミダブツ! だがナンシーは反射的にショットガンを腰溜め射撃する! 「アババーッ!」バイオパンダはワイヤーアクションのように吹っ飛び、返り血がナンシーの白いPVCコートを染め上げた!

 だが、タマチャン・ジャングルの恐ろしさはこんなものではない! 「ウオー! ウオー!」さらにもう一頭のバイオパンダが、ナンシーの死角となる密林から姿を現し、おそるべき爪を剥き出しにして飛び掛った! ナムサン!

「イヤーッ!」竹林の上から声が聞こえたかと思うと、続けざまに三枚のスリケンが放たれた! 隙間わずか1センチほどの竹と竹の間を抜ける、信じ難いほどの精密投擲である! 「アバババババーッ!」三枚のスリケンはバイオパンダの両目と股間に突き刺さり、瞬時に失禁かつ絶命させる! タツジン!

「Wasshoi!」ニンジャスレイヤーが竹林の上から3回前方宙返りで着地する。偵察に出ていた彼が、時宜を得て戻って来たのだ。「イヤーッ! イヤーッ! イヤーッ!」「アバーッ!」ニンジャスレイヤーは、ニンジャらしい無慈悲なキックで、ナンシーが傷を追わせたもう一匹の猛獣を絶命させた。

「悪くないわ」ナンシーは返り血をぬぐいながら、平然と言った。ダイダロスとのIRC電脳空間での死闘をくぐり抜けてからというもの、彼女は日に日に逞しくなっているようだ。常にザゼンドリンクをオーバードーズしているかのような、恐ろしい冷静さが身についてきた。

「こちらも悪くない」と、常に喉を責めさいなんでいるかのようなニンジャスレイヤーの不吉な声が、鋼鉄メンポの奥から聞こえた。「この先に、あの農民が言っていた通りの特徴を備えた廃工場がある。チュパカブラの秘密を解く鍵が、そこに隠されているに違いない」

 ニンジャスレイヤーとナンシーは、猛獣の襲撃に注意を払いながら、国道跡を進んでいった。その数百メートル後方……錆び付いた自販機の陰に隠れて彼らを観察する、奇怪な影! 前傾姿勢で二足歩行するこの謎の存在は、人間とは思えぬ俊敏さで竹を飛び渡り、迂回しながら廃工場へと先回りするのだった!




「活力バリキ!!」「実際安い!!」……虚飾的な標語とともに、ドリンク剤を持った半裸のスモトリとオイランが笑う。今にもサイレン塔からブルーズが聞こえてきそうなほどレトロなヨロシサン製薬の看板が、工場の壁に掲げられていた。看板に浮いた激しい錆は、化粧を落としたマイコを思わせる。

「ぱっと見は、数十年前に遺棄された、ヨロシサン製薬のドリンク工場だ」正門前に立ったニンジャスレイヤーは、微かに残ったタイヤの跡を手で触れて調べる。「当時の推定従業員数は5000人。閉鎖により一帯は過疎化……やがてジャングルに呑まれた」ナンシーがカメラを回しながら言葉を続ける。

「そこへ何者かがやって来た…」ナンシーは放置された数台の黒塗りバンを映す「農民たちの噂が真実だとするならば、およそ1年前に。そしてドリンク工場は、彼らの手で謎の生体兵器工場に作り変えられた。夜な夜な謎の吼え声や怪光が漏れ、そして数週間前に……爆発」カメラは崩れ去った西区画を映す。

「電気やシステムはまだ生きている」ニンジャスレイヤーは、正門の柱の上に置かれた2台のダルマ・ガーゴイルを指差した。殺人レーザー発射装置が隠されていたダルマの両目にスリケンが突き刺さり、バチバチと火花を散らしている。先ほどの偵察時に、ニンジャスレイヤーがこれを破壊していたのだ。

 2人は初代ヨロシ=サンの銅像が建つ正面玄関から侵入を試みる。『お世話になっております』ナンシーのLAN直結ハッキングによってロックが解除され、ノイズ交じりの電子マイコ音声が鳴った。人気のないエントランスが姿を現し、割れた巨大金魚鉢や「タイムイズマネー」と書かれたショドーが見える。

「何、この臭い……?」ナンシーが顔をしかめた。奥の廊下からだ。ナンシーは懐からサイバーマグライトを取り出し、耳の後ろに備わったバイオLAN端子とLANケーブルで直結する。かなりの光量のライトが壁を照らし、そこを長く住処としていた吸血コウモリたちを追い払った。

 サイバーマグは、漢字サーチライト技術を応用した、スゴイテック社のハイテク機器だ。ガラス部分に有機液晶が仕込まれ、LAN直結者から転送された文字やイメージを壁にプロジェクトする。この程度の暗闇はニンジャにとって何の苦でもないが、建物内の地図が表示されるのはフジキドにも有難かった。

 2人は異臭が漂う廊下へと進む。頭痛を覚えたナンシーは、懐から小型ガスマスクを着用せざるを得なかった。そしてサイバーマグの文字を『重点』に切り替え廊下を照らす。「ナムアミダブツ……!」そこに見えたのは、惨殺された水牛の死体の列だった。比較的最近にミューティレートされたものばかりだ。

「これを追おう、ナンシー=サン。チュパカブラのところに連れて行ってくれるかもしれん。ニンジャ、殺すべし……」ニンジャスレイヤーが先頭に立って、バリキドリンク工場内の廊下を歩く。壁に並んだパイプからは時折得体の知れない液体が漏れ出し、配電盤からは火花が散っていた。

 水牛の死体は、何十メートルも続いていた。途中で、バリキドリンク自動販売機同士の細い隙間に、ニンジャスレイヤーが何かを見つけ、おもむろに引きずり出す。それは惨殺された職員の死体だった。白衣を着て、胸にはヨロシサンのバッジを付けている。比較的新しい。死んで数週間といったところだろう。

「この装置は何?」ナンシーは、職員の死体が背負っている無骨な装置に強い興味を抱いた。ランドセルのように背負う形をしており、本体は角ばった銀色。パトランプとスピーカーグリル、そしてスーパーのレジで使うようなコード付端末が備わっている。大量生産されたものではなく、試作品の類だろう。

「皆目見当がつかん」と、ハイテクに疎いニンジャスレイヤーが答え、先を急ごうとする「今は捨て置こう、ナンシー=サン。ニンジャを殺さねば」。「待って……すごく、気になるの。LAN直結用のプラグがあるわ。マニュアルが読めるかも。5秒だけ待って、一瞬よ」

 そう言い終わらぬうちに、彼女は自らのLANケーブルを謎の背負い型計測装置に直結していた。赤い起動スイッチを押すと、膨大な情報が一瞬にしてナンシーのニューロンを駆け巡る。急いだせいで、頭がくらくらとして鼻血が出る。「大丈夫か、ナンシー=サン?」「……これはニンジャソウル測定器だわ」

「ニンジャソウル……測定器だと?」フジキドは耳を疑う。ナンシーはスーパーのレジで使うようなコード付計測具を彼にかざし、手元のトリガを引いた。『ハイ、513メガカラテです』背中の赤いパトランプが回転して、スピーカー部から無表情な電子マイコ音声が漏れる。ナムサン! 何たる冒涜的技術!

「そんな機械などに頼らなくても、私はニンジャソウルを感じ取れる。チャドーの精神集中を行えば、それこそ風の流れを感じ取るように」ニンジャスレイヤーはそこで口をつぐんだ。自分が少々冷静さを失っていることに気付いたからだ。

「確かにそうだわ」ナンシーが静かに言う「でも、これで明らかになったこともある。あなたの言うとおり、ここにはニンジャがいるわ。そして、この職員たちはそれを発見しようとしていた。恐らくは、ヨロシサンのバイオテック実験によって生み出された、何か恐るべきニンジャを」

それから二人は無言のまま、再びドリンク工場の廊下を歩く。ナンシーの計測器は、数十キロカラテほどの微弱なニンジャソウルを検出し続けていたが、それが隣にいるニンジャスレイヤーの影響なのか、あるいはチュパカブラの痕跡なのかはわからなかった。時折意味不明にパトランプが明滅した。

「課長室」と書かれた部屋の前で、水牛の死体の列は終わっていた。計測器の値は徐々に強まっているが、端末をニンジャスレイヤーの方向に向けたときほどに強力な反応が起こることはなかった。「開けるぞ」と、メンポの奥からニンジャスレイヤーが静かに囁いて、勢い良くキックを入れる「イヤーッ!」

 CRAAASH!! 鶴の描かれたフスマが破壊され、ナンシーがすかさず最大光量にしたサイバーマグの光で課長室の内臓部をえぐり回す。静寂。安らぎ。ニンジャスレイヤーは、スリケン投擲の動作のまま止まっていた。敵の気配は無い。測定器の値も数百キロカラテから上昇していない。

 二人は警戒しながら、ハカバのように暗い課長室に潜入した。「しめた、有線端子だわ」ナンシーが掛け軸の裏に小さな穴を発見し、LAN直結とシステムハックを試みる。十秒後、ブーンという音とともに、建物内全体の電灯が灯り、どこか遠い場所からタービンや大型排気ファンの作動音が聞こえ始めた。

 電灯が灯った課長室の光景は、あまりにマッポー的だった。床には無数の基盤や水牛の骨が散乱し、壁にはトレーニング用の木人や黒いニンジャ装束が吊るされている。課長机の下には、笹を敷き詰めた粗野な寝床と、液体入りの薬瓶。壁に掛けられたヨロシサン歴代社長の写真は顔が赤く塗りつぶされていた。

「チュパカブラはどこだ?」ニンジャスレイヤーは抜け目ないジュー・ジツの構えを取りながら部屋の中を探索する。「どうやら居ないようね」ナンシーが計測器をあちこちにかざしながら言う「これまでの証言をもとにすると夜行性の可能性が高いわ。狩りに出かけたのかも…」。言い終わろうとしたその時!

 トゥルルルルルルル!! トゥルルルルルルル!! 課長机の上に置かれていた電話が不意に鳴った。二人は声を潜め、課長机をはさんで目を合わせた。(((私が取ろう)))とニンジャスレイヤーがジェスチャーを伝える。(((できるだけ引き伸ばして)))とナンシーもジェスチャーでこれに答える。

「ドーモ、研究員のヒデヨシです」ニンジャスレイヤーが受話器を取る。機転を利かせ、死体の胸バッジに書かれていた名前を拝借したのだ。「ドーモ、ヒデヨシ=サン。本社のオダワラです」受話器の向こうから冷酷そうな声が聞こえた。スピーカーモードに切り替え、ナンシーもそれを聞く。

「タイムイズマネー! 何故何日間も電話に出なかったんだね君はァ!?」オダワラの怒りがぶちまけられる。日本企業においては、現状把握や問題解決よりもまず、原因と責任の追求が行われる。オダワラはおそらく重役だ。「大変恐れ入ります」ニンジャスレイヤーはサラリマン時代のノウハウを駆使した。

「ニンジャの件はどうなっているのか!?」と甲高い声でオダワラ。「大変申し訳ございません」「とんだイディオットだな、君は! 君では話にならん! 爆発事故に巻き込まれたチャベタ所長は発見されたのか?!」とヒステリックな声でオダワラ。「恐れ入りますが席を外しておりますので伝言をどうぞ」

「一刻の猶予もない。マッポが動き出したとの報告もある。我々は今、Y-13ヤクザ部隊を率いて君らの研究所に向かっている。一時間以内に着くだろう。証拠を隠滅するのだ。これはセンタ試験ではないぞ。マッポには勿論だが、このクローンニンジャ計画を絶対にソウカイヤに知られてはならん。以上だ」

「ドーモ、オツカレサマデシタ」「ドーモ、オツカレサマデシタ」ニンジャスレイヤーは、相手の顔も見えないのにオーセンティックなオジギを行い、受話器を置いた。手が微かに震えている。鋼鉄メンポで覆い隠していたサラリマン時代の記憶が、一瞬蘇ったのだろう。愛しき妻子、フユコとトチノキの顔が。

「時間がないわ、二手に分かれて情報収集しましょう」とナンシーが提案する「万が一チュパカブラが接近してきても、このカラテ検知器があれば大丈夫だわ」。「わかった、ではこちらは爆発で倒壊した西区画を調べよう。地図によれば、地下研究施設への入口があるはずだ。ナンシー=サン、油断するなよ」


◆◆◆

「イヤーッ! イヤーッ! イヤーッ! イヤーッ!」ニンジャスレイヤーは四連続バク転で、レーザー光線トラップを軽やかに回避した。そのまま一瞬たりとて動きを止めず、壁に一列に埋め込まれたダルマめがけてスリケンを投擲する。ダルマが爆発する頃には、彼はもう前を向いて矢のように駆けていた。

 西区画に近づくにつれ、警備システムが危険になってゆく。こんな健康ドリンク工場は考えられない。間違いなくこの先に恐るべき秘密が待ち構えているのだ、と彼は確信する。直後、天井からディスコボール状のマシンガン発射装置が出現! 「イヤーッ!」無慈悲なジャンプパンチでこれを破壊し突き進む!

 ナンシーと別れてから、ニンジャスレイヤーは一秒たりとて前進を止めていない。彼女がハッキングによって得た見取り図からすると、もうじき地下への入口だ。そのとき、天井からディスコボール状のマシンガン発射装置が2個出現! 「イヤーッ!」無慈悲なダブルジャンプパンチでこれを破壊し突き進む!

 ついにニンジャスレイヤーは、銀行金庫的なドアによって封印された地下施設への入口を発見。「イヤーッ! イヤーッ! イヤーッ!」警戒色に塗り分けられた大型ハンドルを、ニンジャ筋力で強引に回す! 圧縮空気が漏れ出し、分厚い鋼鉄製の隔壁が撲殺されたマグロのようにだらしなく口を開けた!

 階段を降りる時間も惜しい。ニンジャスレイヤーは飛び込み選手のように両膝を抱えながら、斜め前方への空中回転で一気に距離を稼ぐ!「Wasshoi!」そして着地! マフラー状の布をなびかせながらさらに駆ける! もっと速度を! 亡霊の如き悪夢を振り払うのだ! スゴイタカイ・ビルの悪夢を!

「……何だここは?」崩落した廊下を諦め、壁を破りながら闇雲に突き進んだニンジャスレイヤーは、突然、開けた暗い場所に出た。一瞬、足が止まる。

 重犯罪刑務所の独房棟のように、左右に三階層の階段と廊下が並び、ショウジ戸で封印されていた。タタミ1枚分ほどの個室らしきものが、この空間内に数十個存在するのだ。天井の非常ボンボリがバチバチと火花を散らし割れる。ショウジ戸の奥で青白い光が明滅し、数十個の人影が浮かび上がった。

 ニンジャスレイヤーは不吉な胸騒ぎを覚えながら、最も近くにあるショウジ戸の前に立つ。そして勢い良く引き開けた! おお、ナムアミダブツ! そこには見覚えのあるクローン培養プラントが置かれ、ニンジャ装束を着た人影が正座したままうつむいていたのだ! 肉はもう無い! 骨だけの死体である!

「奴らめ、クローンニンジャと言っていたか……?」ニンジャスレイヤーはいいしれぬ怒りに心を支配され、隣のショウジも、さらに隣のショウジも開け放った。そこにはやはり、骨だけになったクローンの死体がニンジャ装束を着て、奇怪な溶液の中に正座の姿勢のまま浮かんでいたのである! コワイ!

 その時、奥の小部屋から物音が聞こえた! さてはチュパカブラか? ニンジャスレイヤーは右手でスリケンを握り、左手でチョップの態勢を取り、攻防一体の構えで駆け込む! だが意外にも、小部屋からは弱弱しい悲鳴が漏れ聞こえてきたのだ! 「アイエエエエ……誰か、誰か……!」

 小部屋は何らかの制御室のようだった。壁に埋め込まれた大型UNIXがグルグルと何十個ものテープを回し、パンチドシートを吐き出している。点滅するボタンパネルからは時折火花が散っていた。「アイエエエ……ここです……」その声の主は、片方の足首を倒壊したガレキに潰された研究員であった。

 ニンジャスレイヤーは研究員の上に馬乗りになり、襟首を掴み上げて質問する。「この施設は何だ? 手短に説明してもらおう。クローンニンジャ計画とは何なのだ?」「アイエエエ! ニンジャ! ニンジャアバーッ!」研究員は初め恐慌に陥っていたが、加減して平手打ちを入れると、おとなしくなった。

 「時間がない、答えれば助ける」鋼鉄メンポの奥から情け容赦ない声が漏れた。「アイエエエ…」胸のバッジにタケシタと書いたその研究員は、泣きながら答える「計画は失敗に終わりました。ニンジャの体組織をもとにクローンを作成することはできたのですが、ニンジャソウルの複製は不可能だったのです」


◆◆◆

『クローンニンジャ計画には、我が社にとって2つの利点がある……』ナンシーは課長室の机の引き出しに隠されていたマキモノ・ダイアリーを解読していた。記録者はチャベタ所長。『……ひとつは、ソウカイ・ニンジャによる支配のくびきを脱せること。もうひとつは、人類に新たな脅威を提供できること』

『我が社のキャッチフレーズ、“ビョウキ、トシヨリ、ヨロシサン”を思い出して戴きたい。我々は毎年インフルエンザを造り、抗体を販売してきた。延命治療を発展させ、老人ホームビジネスを展開してきた。だが人々は恐怖に鈍感になってゆく。もはや誰も重金属酸性雨を恐れない。新たな脅威が必要だ』

『それがニンジャだ。まだ技術的課題は大きいが、私が先日発明したカラテ測定器を応用することで、ニンジャソウル検出が可能になるだろう。クローンニンジャをウィルスのように放ち、ポータブル・ニンジャソウル検知器を販売する。キャッチフレーズはこうだ“隣の部屋にニンジャがいるかもしれない”』

 数週間後、突然所長の筆致が乱れ始める。『ブッダ! 我々は恐ろしい怪物を作り出してしまった!人間、ニンジャをも超える!おぞましいクリーチャー!原因はおそらく、コンタミした高濃度バイオエキス!緑色の肌!光る目!水牛が大好物!暴走バイオテック! バイオテック! イズ! チュパカブラ!』

 さらに数日後。『ようやく奴をネギトロに変えた直後、新たな事態が起こった。コンタミした高濃度バイオエキス濃縮タンクが爆発寸前なのだ。廃棄しておくべきだった。私が欲目を出したせいだ。爆発が起これば生命維持ラインが遮断され、クローンが全滅してしまう……いや、それだけならまだいい……』

『万一、何体ものクローンがコンタミ高濃度バイオエキスを浴びたら……もはや対処不能だ。怪物たちが研究所の外に解き放たれてしまう。……私が行くしかない。私が今から地下に降り、バイオエキス濃縮タンクを緊急停止させるのだ。理論上はやれるはずだ。それを信じよう。私は科学者なのだから……』

 マキモノ・ダイアリーの記入はここで終わっている。だが、何か嫌な予感を覚えたナンシーがさらに引っ張ると、そこから後にも、何か奇怪な文字らしきものが書かれているのがわかった。筆跡は所長のものとは思えなかった。それが延々、延々、続いていた。

「何よ、これ……」それはカタカナのようにもアルファベットのようにも見えるが、エジプト象形文字のようにも見えた。彼女の脳内にインプラントされた辞書素子のどこにも存在しない文字だ。見ているだけでニューロンが病んでいきそうな禍々しさを感じる。「一体これを書いたのは誰…?」

 突然、ブレーカーが落ちた。部屋の四隅の青白い非常ボンボリだけが点灯する。ニンジャソウル測定器のパトランプが猛烈な勢いで回転を始めた! 「ハイ、500キロカラテ、800キロカラテ、20メガカラテ、100メガカラテ…」と電子マイコ音声! ナンシーの心臓が破裂しそうなほど鼓動を速める!

「ニンジャスレイヤー=サン?」とナンシーは闇の中に呼びかけた。答えは返ってこない。その時不意に、ナンシーのニューロンの中で全てがクリアになった。ここが今、誰の部屋なのかを、彼女は思い出したのだ。ウカツ! しばしば情報収集に夢中になってしまう彼女の悪い癖が、こんな所で仇になるとは!

「ニンジャスレイヤー=サン!?」ナンシーは絶叫にも近い声をあげる! それに応えるように、人間の発声器官によるものとは思えない奇怪な声が聞こえてきた! マキモノに書かれていた意味不明の文字列を発音したとしたら、おそらくそのように聞こえるであろうと考えられる、奇怪な声が!!

((何故チュパカブラがこのマキモノに文字を書くの?! 自分の呪われた出生を知るため?! 知性はあるの?! 何故ニンジャソウル反応があるのよ!?))ナンシーのニューロンが恐怖のあまり混乱を始める! 左手に計測器、右手にサイバーマグライトを持ち、壊されたフスマの辺りを照らした!

 ……意外にも、課長室の入口には何もいない。ナンシーは軽く息を吐く。だが、ニンジャソウル計測器の値は上昇を続ける一方だ! 恐ろしいほど無表情な電子マイコ音声が「ハイ、100メガカラテ、200メガカラテ、400メガカラテ」と告げる。近づいてきているのだ。だが何処から?!

 …ナンシーはテクノロジーに頼るのをやめ、耳を澄ました。何故もっと早くそうしなかったの?と思いながら…。おお、ナムサン! チュパカブラの声は、天井伝いに近づいてきていたのだ! サイバーマグを最大光量にして斜め上方を照らす! 「アイエエエエエエエ!!」ナンシーの絶叫が廃工場に響いた!



「アイ、アイエエエエエエエエエエエ!」ナンシーは絶叫しながら、最大出力のサイバーマグで斜め前方の天井を照らす! 天井を這い進んでくる奇怪な灰色の影! ニンジャ装束か? あるいはぼろ衣か?! いずれにせよ、ナンシーのニューロンは恐怖のあまり、それを正しく認識することは出来なかった!

 だが、ナンシーに危害は及ばなかった。同時に、人間のものともニンジャのものともつかぬ奇怪な叫び声が上がったのだ! 最大光量にひるんだのか、灰色の影はどさりとナンシーの前方3メートルの場所に落ち、一瞬のたうち回った後、バイオモンキーのように飛び跳ねてナンシーの視界から消えた!

「ハァーッ! ハァーッ!」ナンシーは目を剥き、今にも心臓を吐き出しそうなほど息を荒げていた。胸の谷間が緊張でじっとりと汗ばむ! 室内は依然として暗い。灯りは手元のサイバーマグだけ。ナンシーはサイバーマグを持つ手にカラテ探知器の端末を持ち、左手で腰に吊ったオートマチック拳銃を抜く。

(((やはり敵は夜行性のニンジャね。恐らく、同じ手は二度通用しないはず。次は銃弾を!)))ナンシーは冷静に次の作戦を練る。だが彼女の手は恐怖に呑まれ、小さく揺れ始めていた。精神と肉体のバランスが崩れている。両手が塞がっていなければザゼンを服用できただろうが、この状況では不可能!

 左手から物音! 「ヒッ!」ナンシーが息の詰まるような声を吐きながら部屋の隅を照らすが、敵の影はない。その代わりに、放り投げられたと思しき水牛の頭蓋骨がカランカランとなっていた。「フェイント? そんな!」ナンシーは右手の暗闇へと素早くライトと銃口を向けなおす! だが遅い!

 BLAM! BLAM! BLAM! サイバーマグライトが飛び掛ってくる影を照らすと同時に、ナンシーはほとんど無意識のうちにオートマチック銃のトリガーを引く! ナンシーは肩口から腰までを斜めに斬りつけられたうえに体当たりを喰らい、もんどりうって倒れた!

 ナムサン! ナンシーは死を覚悟した! だがサンズ・リヴァーにはまだ早い! チュパカブラは銃声に驚いたのか、ナンシーから飛びのいて、再び部屋の闇の中に姿を消したのだ。切り裂かれて床に落ちたのは、PVCコートとスーツのみ。出血は頬と肩口からごく僅か。スポーティなブラの色は銀だった。

「ハァーッ! ハァーッ!」部屋の隅を背にしたナンシーは、再び銃とライトを構え敵の位置を探る。カラテ反応はあるが場所が定まらない。まるで、無数の冷凍マグロが吊るされた暗いコンテナを舞台に、凶悪なチェーンソーを持ったツキジ・ブッチャーと死のハイド&シークを繰り広げているようなものだ。

 恐怖でニューロンがチリチリいい始めた。カラテ探知機のパトランプが狂ったように回転する。『重点! 重点!』と電子合成された絶叫マイコ音声が鳴った! 『500メガカラテ突破! 重点!』 対角線上の部屋の隅に、背中の丸まった人影と発光する奇怪な眼! ナンシーは闇雲に銃のトリガを引いた!

「CHULHULHULHULHULHULHU!!」チュパカブラが発する、超自然的な金切り声! BLAM! BLAM! BLAM! ナンシーが放つ銃弾の雨! だが前傾姿勢を取ったチュパカブラは、ナンシーの放った弾丸全てを、反復横飛びめいた非人間的高速ステップで回避した! コワイ!

 カラン、カランと最後の一発の薬莢が課長室の床板に落ちて転がった。「CHULHULHULHULHU!!」全身をぼろ衣かニンジャ装束のようなもので包んだチュパカブラは、ナンシーの努力を嘲笑うかのようにその場で高速反復横とびを繰り返す! そしてナンシーめがけて一直線に駆け込んできた!

 0010101010111101……。極度に分泌されたアドレナリンが、ナンシーの疲弊したニューロンをブーストする。全てがスローモーションに見えた。それから奇妙な現象が起こった。脳内に、視覚とは異なる別の映像が浮かんだ。部屋の中心を軸にして、見えないカメラが回転しているかのような。

(((何? とうとう私のニューロンが焼き切れたの? 酷使したものね、薬物に、直結に)))スローモーションでチュパカブラが駆け込んでくる。カメラが回転。絶叫する自分の顔が見える。回転。チュパカブラが着ているのは、ぼろぼろになった白衣のようだ。胸に薄汚れたバッジらしきものが見える。

 さらにカメラは回転。ナンシーは弾切れにもかかわらずトリガを引き続けている。(((私、何をしているの? 攻撃をかわさなくちゃ)))しかしニューロン内の思考だけが超高速で行われ、彼女の肉体はまるで言うことをきかない。マッポー的タイムラグに見舞われたサイバーIRCショウギのように重い。

 ナンシーの心……いや、ニューロンに、もはや恐怖は無かった。彼女は悟っていたからだ。まるで能天使から力天使となるように、自分が今ハッカーとして新たな位階へ昇ろうとしていることを。だが、おお、ナムアミダブツ! それとほぼ同時に、自らのニューロンが怪物の手で破壊されんとしていることを!

 そう思うと、ナンシーのニューロンは泣いていた。恐怖のためではなく、口惜しさのために。(((嫌よ! 認めないわ! 死にたくない! 死ぬわけにはいかない! まだ私には成すべきことがあるのよ!)))

 だが肉体は動かない。脳内映像だけが無慈悲なスローモーションと回転を続ける。ああ、ナムサン! 覚醒しかけた力の使い方も解らぬまま死ぬのか? 絶望が彼女のニューロンを支配しかけた、まさにその時! 鋼鉄メンポの鋭い輝きが闇を切り裂き、課長室に赤黒いニンジャ装束の男が飛び込んできたのだ!

「Wasshoi!!!!」課長室の戸口から現れたニンジャスレイヤーは、パトリオットミサイルめいたトビゲリを繰り出し、ナンシーに飛びかかるチュパカブラを撃墜した! ゴウランガ! 弾き飛ばれ壁に叩きつけられた怪物は、苦痛の呻き声を洩らす!「CHULHULHULHULHUUUU!」

「ドーモ、チュパカブラ=サン、ニンジャスレイヤーです」課長机の上に着地したニンジャスレイヤーが敵にアイサツを繰り出す。すると、素早く立ち上がったチュパカブラも、奇声とオジギで反射的にこれにこたえた! ナンシーは息を呑む。チュパカブラがニンジャソウル憑依者である新たな証拠の一つだ!

「イヤーッ!」気勢とともにニンジャスレイヤーの右腕がムチのようにしなり、目にも止まらぬ速さで2枚のスリケンが射出される! だがチュパカブラは、ニンジャスレイヤーの放ったスリケン全てを、反復横飛びめいた非人間的高速ステップで回避した! コワイ!

「イヤーッ!」ニンジャスレイヤーの殺人的カラテ! だがチュパカブラも素早いバク転とカラテでこれに応戦。両手でトーキックを上下から掴み、コマを回すように激しく左右に引いた! 「グワーッ!?」ニンジャスレイヤーの体が浮き、水平状態で回転する! バランスを崩しながら片膝立ちでの着地!

「CHULHULHULHULHUUU!!」チュパカブラは獲物を狩るバイオモンキーのようにパウンスし、組み付いてくる! 「グワーッ!」ニンジャスレイヤーの肩に激痛が走った! ニンジャ頭巾に隠された長い嘴のような器官が、ニンジャスレイヤーの左肩に突き刺さり、血を吸い上げていたのだ!

 インガオホー! 組み伏せられた不利な態勢から、ニンジャスレイヤーは右のパンチを敵の顔面に向けて放つ! チュパカブラは悠々と反応し、命中の直前でその手首を掴み上げる! だがニンジャスレイヤーは流れるような動きで、親指のバネの力を使い、中指の先端を敵の顔面に叩き込んだ!「イヤーッ!」

「CHU!!」チュパカブラの左眼球がトーフのように破壊され飛び散る。体が仰け反り、ニンジャスレイヤーの肩口から嘴が抜かれた! 怪物はそのまま前方に大きくジャンプして、課長室の戸口へと逃げ去ってゆく。ニンジャスレイヤーはブレイクダンスじみた動きから、ネックスプリングで立ち上がった。

「ナンシー=サン、廊下にいる研究員と脱出してくれ。私はチュパカブラを追う!」バク転から勢いを付けて転前方宙返りをして課長机の上に乗ったニンジャスレイヤーは、ナンシーが気丈な顔でうなずくのを確認すると、そのまま大車輪のような三連続側転で課長室を出て、逃げたチュパカブラを追った!

 ニンジャスレイヤーは非常ボンボリに照らされた廊下を駆けながら、スリケンを投擲する。だが敵はスーパーボールのように上下左右を飛び跳ねるため、移動ルートを予測できない。流れ弾は、工場のかつての賑わいを偲ばせるショドーや集合写真、色褪せたバリキボーイの等身大ポップなどを破壊するのみ。

「CHULHULHU!!」チュパカブラはショウジ戸を何枚も破壊しながら逃げ回り、ガラスを突き破って工場外へと飛び出した。すでに陽は暮れ、サイレン塔からは錆び付いた定時放送が流れている。ニンジャスレイヤーもそれを追い、重金属酸性雨が降りしきるタマチャン・ジャングルへと消えた……。


◆◆◆

 一方その頃。廃工場から南に数十キロ離れた温泉旅館ニルヴァーナでは、食事を終えたムギコがミニバイオ水牛のモウタロウとフートンに入っていた。『品質』と大きくショドーされた、高級羽毛フートンだ。「随分早いのね」と戸口の母親。「疲れちゃったの」とムギコはあくびを返す「ね、モウタロウ!」。

「車の移動が長かったからね」戸口に立つ父親は、廊下に置かれた屋外有毒ガスモニターの数値が安全域にあるのを確認しながら言った。「じゃあムギコ、先に寝ていなさい。お父さんとお母さんは、温泉に入ってくるから」。2人は部屋の電気を落とすと、桶と簡易ガスマスクを持って露天風呂に向かった。

「モウン」。モウタロウは嬉しそうに鳴きながら、隣にいるムギコの頬をべろべろ舐めた。いつも部屋の隅に置かれたミニ牛小屋で寝ている彼は、久々のスキンシップが嬉しいのだろう。だが、ムギコの様子がどこかおかしい。彼女はぱちりと目を開け、四つん這いで静かにフスマに向かった。

「よし、いない」ムギコはフスマをそっと締め、四つん這いのままテレビの前に向かった。ポケットから100円玉を何枚か取り出し、スリットに入れる。キャバァーン!キャバァーン!クレジット投入音が鳴り、暗い和室をテレビの蒼ざめた光が照らした。モウタロウが不思議がって彼女の後ろに近づく。

 ムギコはTV本体に備わったボール状装置を回し、チャンネルを変える。チャンネルが多すぎ、ボール状でなければ全番組をカバーできないのだ。オイラン天気予報、サムライ探偵サイゴ、バイオ生物根絶を訴える過激派団体の電波ハッキング放送……違う、違う、急げ、急げ。ムギコの掌に冷汗がにじむ。

 育ちの良いムギコは、家でのTV視聴を厳しく制限されてきた。実際、暗黒メガコーポの過剰消費プロパガンダに汚染されたネオサイタマのTVプログラムは、どれも酷いものだ。だからといって禁止されると、学校で話題が合わず、ムラハチの危険性が高まる。ムギコはそうした恐怖に怯えていたのだ。

 先週も危うくボロをだすところだった。ムギコは思い出して身震いする。オイランドロイド・アイドルデュオ『ネコネコカワイイ』の最新プロモビデオについて級友たちが語っている輪に入ったはいいが、その映像をまだ観た事がなかったのだ。

 ムギコは確かにネコネコカワイイの大ファンだったが、ムラハチを恐れてもいた。ムラハチとは陰湿な社会的リンチである。学校でムラハチにされたら、それが死ぬまでずっと続くのではないか……ムギコもまた、そういったありふれた恐怖に怯えていたのだ。

 ついに目的のチャンネルを発見する。だが画面には、有料コンテンツを知らせる文字が。キャバァーン!キャバァーン!ムギコは惜しみなく100円玉をスリットに投入した。ノイズが晴れネオサイタマ・ヒットチャート番組が映し出される。「今日のゲストはネコネコカワイイです!!」「ワー!スゴーイ!」

 ズンズンズンズズポポポポーウズンズンズンズズポポポポーウ電子的なサンプリング音声のイントロが鳴り、いよいよ新曲『ほとんど違法行為』がスタートする。ヘキサゴン型の浮遊ステージに乗ったオイランドロイド2人のシルエットが映る。「ワー!スゴーイ!」観客はすでに熱狂の渦だ。

 タコ型巨大マシーンがスモークを吐き出し、ついにショウジドが開け放たれる! キーボードとサンプラーの前に立つ2人の姿が見えると思った瞬間……ここで異常が起こった! ムギコのTV画面にダルママークが出現し、ネコネコカワイイの姿を覆い隠したのだ。ナムアミダブツ! 性的コンテンツ保護だ!

 キャバァーン!キャバァーン!ムギコは必死に100円玉をスリットに流し込み、性的コンテンツ解除ボタンを叩く。するとダルママークが消滅し、サイバーサングラスをかけたネコネコカワイイ2人の顔のアップ画像がついに映った! 「カワイイヤッター!!」ムギコは興奮し、狂ったようにジャンプする!

「モウタロウ、ごめんね! 今忙しいから寝ておいて!」ネコネコカワイイの性的なオイラン衣装を見て頬を紅潮させたムギコは、息を荒くしながらがら立ち上がり、新曲のダンスの練習を始めた。急がなくては。タイムリミットは両親が帰ってくるまでだ。「5万円ー」ついに歌唱パートが始まった!

「モウン、モウン」何度鳴いても振り返ってくれない。彼女は一心不乱にオジギやステップやネコネコカワイイジャンプを繰り返すのみ。モウタロウは落胆した様子でフートンに戻る。すると、微かに隙間の空いたフスマが目に入った。興味を抱いたのか、彼はそれを押し開け、トコトコと廊下に出るのだった…



 テーッテテレレレッテテッテレッテーテレッテレー、テテレレレッテレッテレッテーーーーーーーピロリロピロリロピロリロピロリロ……。錆び果てたスピーカーから、ザラザラとした8bit系音楽が洩れる。電源復帰した工場内のネットに、ペケロッパ・カルトのプロパガンダ電波が忍び込んだのだろうか。

 遠くから聞こえてくる微かなクランク音とタービンの回転音が、物悲しい8bitのBGMに混じってナンシーたちの心を掻き乱した。「古き善き時代。むろん私は知らないが」研究員タケシタは足の痛みを堪えながら廊下を歩く「テクノロジーは未発達でも、人間はより人間らしい生活をしていたはずだ」

「果たしてそうかしら。知らない過去を美化しているだけではないの? 誰しもタケダ・シンゲンやハンニバルを名将と信じて疑わない。そんなものよ」タケシタに肩を貸しながら歩くナンシーの言葉には、いつになくニヒルな冷たさがあった。廊下に転がる水牛の死体のせいで、脱出が手間取っていたからだ。

「いずれにせよ、行き過ぎた科学は怪物を生み出してしまったんです」タケシタはうめく「…チュパカブラを」。「その観点から行くと、私も怪物の一種だわ」ナンシーはやや自嘲的な笑みをこぼした。「何か言いましたか?」「…何でもないわ。それよりあなた、ニンジャソウル測定器の原理は知ってる?」

「あのデータは所長の脳内素子にしか存在しないのです。所長は恐らく、もう生きてはいないでしょう」。「そして最後の1個も、さっきの戦いで壊されてしまったわけね」とナンシーは溜息をついた。あの技術さえあれば、生身の人間である自分でもニンジャに対抗できるのではないかと考えてい たのだ。

 ザザーザリザリザリ……。プロパガンダ放送にノイズが入り、ジャジーな音に乗って、レトロなコマーシャルソングが鳴り始めた。「バリキボーイ、バリキボーイ、空を飛ぶ。バリキボーイ、バリキボーイ、力が強い……」かつて世界がずっとシンプルでミニマルだった時代の、信じがたいほど安直な歌だった。

「僕たちはハイテクを捨ててあの時代に戻るべきなんです……もうフートンに入って寝たい……」タケシタは水牛につまづきながら言った。ペケロッパ・カルトの洗脳放送効果は随分と高いようだ。「愚痴は後で聞くわ。インタビューと一緒にね。今は急ぎましょう、ヨロシサンのヤクザ軍団が近づいているわ」

『ブガー大変お世話になっておりますブガー』 突如、スピーカーに割り込んでくる電子マイコ音声とブザー音! エントランスの近くまで辿り着いていたナンシーは、窓から外の様子をうかがった。おお、ナムサン! 粗野なエンジン音と、威圧的な漢字サーチライトの光が工場に近づいてくるではないか!

 こうなってしまっては、脱出は難しい。窓やエントランスから出れば、漢字サーチライトに照らされて射殺されるだろう。一時的に隠れてやり過ごすしかない。でも、何処に? ナンシーはエントランス付近を素早く見渡し、隠れ場所にふさわしい遮蔽物がないかを探した。

(((受付の机の下? まさかね、子供の隠れんぼじゃないのよ。……あった、これだわ…!)))獲物を狙うイーグルのように鋭い彼女の観察眼は、エントランスの片隅に打ち捨てられた、レトロなバリキドリンク着ぐるみを発見した。手足と顔が出るタイプだ。これを着て座りこみ後ろを向けば完璧だろう。


◆◆◆

「部長、着きました」運転ヤクザの無機質な声が発せられる。黒塗りにされた3台の武装バンが、廃工場の駐車場に止まった。ルーフの上には「制圧」の二文字を照らし出す四基の漢字サーチライトと、最新型のマシンガン、そしてタケヤリが備わっている。ヤクザの一個中隊にも対抗できるほどの戦闘能力だ。

「…総員、展開せよ!」クローンヤクザよりも冷酷で無機質な声が、助手席から発せられた。ヨロシサン製薬バイオテック部のオダワラ部長だ。オーダーメイドの3ピーススーツに、ナチスめいた丸いアイグラス付きガスマスク。ヨロシサンの社章が入った黒い規格帽。両腕は最新鋭の機械義手。重役の風格だ。

 オダワラ部長が武装バンから降りる。重金属酸性雨に濡れた冷たい泥水が、強化PVC製の黒いロングブーツにはね飛んだ。激しい怒りと苛立ちを表すように、右手に持ったグンバイに力がこもる。それに続いて、武装バンの後方のドアが開き、Y-13型クローンヤクザたちが1体、また1体と姿を現す。

 サッキョー・ラインの満員電車からあふれ出るサラリマンのごとく、クローンヤクザたちは際限なく吐き出されてくる。全員右足から地面に降り立ち、同じ歩幅で進む。クローンならではの統一感だ。左手にはチャカ、右手には鋭い輝きを放つチタン・カタナ。整然と列を成し、エントランスへと向かう。

 四人のクローンヤクザを前衛に配しながら、オダワラは薄暗いエントランスに足を踏み入れる。「営業中」とショドーされた古い立て看板が、無言のうちに彼らを迎えた。50畳ほどの空間。朽ちたデスクが散乱し、部屋の隅にはバリキドリンク着ぐるみ。「くだらんノスタルジアだ」オダワラは吐き捨てる。

「ザッケンナコラー! スッゾコラー!」前衛に立っていたクローンヤクザたちが動く。暗闇の中に人影を発見し、取り囲んだ。タケシタである。「アイエエエエエ……部長……」床にへたり込んだタケシタは、複雑な思いで上司を仰ぎ見た。全く表情の見えない、赤いレンズを。

「とりあえず君、ドゲザしたまえ」オダワラ部長が冷たく言い放つ。「ヨ、ヨロコンデー!」タケシタが何の躊躇もなくドゲザを行う。「プラントは、壊滅かね?」「はい、もう駄目です、使い物になりません」「そうか……」シュコー、シュコー。オダワラ部長のガスマスクから、不愉快そうな息が漏れ出す。

「地下プラントへ案内します」恐怖のあまりどもりながら、タケシタ研究員が言った。横目でちらちらと、部屋の隅に置かれたバリキドリンク着ぐるみを見ながら。((ナンシー=サン、あなた方は僕の命の恩人だ。生きて逃げて欲しい。この事件を闇に葬らせてはいけない。どうか記事にしてください!))

「いや、その前にだね…」オダワラ部長は胸ポケットから、葉巻カッターめいた携帯式ケジメ器具を取り出した「私の怒りが収まらないから、君、ちょっとケジメしてくれたまえ」。「アイ、アイエエエエ!」タケシタは失禁する。「何をモタモタしているんだね。タイムイズマネー!私の時給は君の何倍だ?」

「アイエエエエエ!」「仕方ない、私がしてあげよう」オダワラ部長は、機械義手の有無を言わさぬ力でタケシタ研究員の腕をつかみ、まるでサラミソーセージを切るような気軽さで人差し指をケジメした。「アイ、アイエーエエエエエエ!!」ナムアミダブツ! 血飛沫がオダワラ部長のガスマスクにはねる!

「アイエーエエエ! アイエーエエエ!」タケシタは生まれて初めてのケジメの激痛に耐え切れず、床を転げまわった。「ところで君、何か隠してるんじゃないのかね? 私はイディオットではないよ。伊達にヨロシサン製薬で部長を努めてきたわけじゃない。君のような低所得者の考えることはお見通しだ」

(((すみません、ナンシー=サン、ニンジャスレイヤー=サン、僕はもう駄目です。早く楽になってフートンに入りたい……)))タケシタは無念そうに涙を流しながら、もごもごと口を動かした。「バ、バリキ……」「何だって? 聞こえないな。もう一本ケジメかね?」

「そ、そこの、バ、バリキボーイの等身大ポップの後ろに、ニ、ニンジャが!」「ニンジャだと!? ソウカイヤに嗅ぎつけられていたのか!?」オダワラの声色が変わる。グンバイを使って、クローンヤクザたちにバリキボーイ等身大ポップの包囲をうながした。その時だ!

 部屋の片隅に置かれていたバリキドリンク着ぐるみが突然立ち上がり、ソードオフ・ショットガンの一撃をクローンヤクザたちの背後からお見舞いした! ナンシーだ! (((ありがとう、タケシタ=サン!))) 「グワーッ!」「グワーッ!」「グワーッ!」3体のクローンヤクザが即死し肉片に変わる!

「敵だ! 総員、三倍量ズバリせよ!」オダワラ部長はこめかみに備わった拡声器ボタンを押し、無慈悲なる命令を下す。「「「ヨロコンデー!!!」」」」数十体のクローンヤクザが一斉にチャカを胸元に仕舞い、注射器を取り出して、各々の首元に三倍量のズバリ・アドレナリンを注入した! コワイ!

「イヤーッ! イヤーッ! イヤーッ!」クローンヤクザたちが注射を行っている隙をつき、ナンシーはソードオフ・ショットガンを勇ましくポンプさせながら連射した!「グワーッ!」「グワーッ!」「グワーッ!」クローンヤクザの体が次々と切断され、緑色の返り血でナンシーの顔と着ぐるみを染め上げる!

「敵は一人だ! 殺せ! 殺せ!」オダワラ部長も胸元からモーゼル型拳銃を抜いた。注射を終えたクローンヤクザたちも、電気ショックを浴びたような痙攣を一瞬だけ見せてから、カタナを構えて斬りかかる。ナンシーは朽ちたデスクの間を素早く移動しながら、クローンヤクザをネギトロに変えていった。

「スッゾコラー!」カタナを上段に構えながら、クローンヤクザがデスクの上を駆け抜け、ナンシーの背後に迫る! アブナイ! だが彼女のニューロン内映像は、再びサードパーソン・シューティング的視点に切り替わっていた! 後ろを振り向くこともなくショットガンを発射する!「グワーッ!」即死!

(((だいぶコツが掴めて来たわ)))ナンシーは、ニューロンが研ぎ澄まされてゆくのを感じる。動きづらいバリキドリンク型着ぐるみを着ている不利を全く感じさせない動きだ。斜め後方で銃を構えるオダワラ部長の動きを察知し、素早くしゃがみこむ。その弾が前方から突撃してくるヤクザに命中する。

 弾が切れた。ナンシーは頭を失いゆっくりと倒れかけるヤクザの胸ポケットからチャカを引き抜き、斜め後ろから迫ってくるヤクザの脳天を打ち抜く。さらに後ろ向きのまま、流れるような動きでその胸ポケットに手を差し込み二挺目のチャカを引き抜く。次いで左右から迫ってくるヤクザを同時に撃ち殺した。

 だが、あまりにも多勢に無勢だ。敵はまだ何十人となく控えている。疲労のせいか、薬物不足か、あるいはまだ精神集中の方法を完全につかめていないのか、徐々にナンシーの脳内からサードパーソン・ビューが失われてゆく! チューニングがわずかにずれたAMレディオのように!

「スッゾコラー!」突然、予想外の位置からクローンヤクザの叫び声が聞こえた。ナンシーは慌てて背後を振り向く。床だ! 腹部をショットガンで切断され絶命したはずのクローンヤクザの上半身が、三倍量ズバリの力によって床を這い進み、ナンシーの細い足首に手を伸ばしていたのだ! インガオホー!

「アァーッ!」ナンシーは思わず悲鳴を漏らし、バランスを崩す! ウカツ! バリキドリンク型着ぐるみの動きにくさが、こんな所で仇になろうとは! うつぶせに倒れるナンシー! クローンヤクザが一斉に駆け寄り、囲んでカタナを振り下ろす! イカを集団撲殺したというニンジャ神話のように無慈悲!

「シャッコラー!」「テメッコラー!」「アイエエエエエエエエエエエエ!」切れ味鋭いカタナが次々とナンシーの背中に振り下ろされる! 弾力性に富んだバリキドリンク型着ぐるみの質感がカタナの衝撃を吸収しているため、まだナンシーの肌に刃は触れていないが、恐らくそれも時間の問題だろう!

 ゴウランガ! もはやこれまでか?! ニンジャスレイヤーはチュパカブラを追跡しているため、救援は期待できない。床にはいつくばり、モーゼルの銃口を向けられたタケシタ研究員は、哀れなナンシーを見ながら哭き、なすすべもなくブッダに祈った! かつての神であるバイオテックではなく、ブッダに!

 エントランスのガラスが盛大に割れ、ドラゴンの咆哮のごときエンジン音とともに、3台のヤクザバイクが乱戦の中へと突入してきた! ライダーたちの顔はいずれも編笠に隠されている! 天井すれすれまで高くジャンプしたリーダー格の男の顔が、サーチライトに照らされた! シケモクに眼帯! タバキ!

「スッゾスッゾスッゾコラーーー!!」おそるべきヤクザ・スラングとともに、農民たちはカービンタケヤリを低く構え、十字軍騎士団のようにクローンヤクザを串刺しにしてゆく! カービンのトリガーを引き、突き刺さった死体を弾き飛ばしながら、ナンシーの足を掴む上半身ヤクザを重厚な車輪で蹂躙!

 四つん這いになって立ち上がろうとするナンシーの目の前から、床を這い進んでくる新たな上半身ヤクザ! ナムサン! だがそこへ、タバキのまたがった武装バイクが視界の右から猛スピードで突っ込んできて踏み潰し急ブレーキをかける!「グワーッ!」即死! バイオエキスがナンシーの顔を染め上げる!

「大丈夫か?」タバキは左手でバリキドリンク着ぐるみのフタ部分を掴み上げ、ナンシーを助け起こす。そこへ流れ弾!「堕亜久怒煮」と極太オスモウ・フォントで彩られた強化樹脂リアガードを貫通し、モーゼル銃の弾丸がタバキの左肩に命中する!「グワーッ!」

「この低所得者たちを殺せ! ありったけの武器を使え!」オダワラ部長は左手のモーゼル拳銃で農民たちを射撃しながら、右手でこめかみの拡声器ボタンを押し絶叫する。「ヨロコンデー!!」火炎放射器を構えた新たなクローンヤクザたちが、武装バンからエントランスへとなだれ込んできた!

「ザッケンナコラー!」タバキは不屈の戦闘精神を誇示するかのように、アクセルをふかした。「武田信玄」「シークアンドデストロイ」と強化樹脂リアガードにプリントした他の二人も、絶妙のコンビネーションでタバキを援護する。ブッダ! 彼らは元ダークオニ・クランのヤクザバイカー兵士だったのだ!

「ナマッコラー!」エントランスを旋回するバイカーたちを火炎放射器の炎が襲う!タバキは身をかがめてこれを回避したが、一人のバイカーが真正面から直撃を喰らい、マグロのタタキのようになって転げ落ちた!「グワーッ!」別のバイカーがタケヤリで火炎放射ヤクザを背中から突き刺す!「アバーッ!」

「アババババーッ!」火炎放射ヤクザは背中から串刺しにされたままバイクと並走し、炎を狂ったように四方八方に撒き散らす!「アバーッ!」「アバババーッ!」地面を這っていたクローンヤクザの上半身や下半身が炎に包まれてゆく! インフェルノ! コワイ! 古事記に予言されたマッポーの一側面だ!

「アッ?! アバッ!?」三倍量ズバリを注射していたクローンヤクザの何人かが、頭を抑えて苦しみ始めた。ズバリの副作用だ! 「アーッ、アバババババババーッ!!!」水揚げされたマグロのように床に転がって痙攣する! ナンシーがそれを手際よく射殺し、ブーツの踵で頭を踏み潰してゆく!

「アイ……アイエーエエエ!」オダワラ部長は恐怖の叫び声をあげた。戦士ではない彼の精神にとって、この狂気的キリングフィールドはあまりにも有害!「バリキボーイ、バリキボーイ、空を飛ぶ!バリキボーイ、バリキボーイ、火は平気!」CMソングが絶叫と銃声に混じり、彼の精神崩壊に拍車をかける!

「ARRRRGH!」オダワラは絶叫を拡声器で放ちながら、モーゼル拳銃を闇雲に発砲し、工場外へ逃げ出そうとする。カチ、カチ、弾切れも気付かない。クローンヤクザを掻き分けながら、なりふり構わず走り抜ける。そこへ全身血みどろのナンシーが立ちはだかり銃口を向けた!「FREEEEEZE!」

「ARRRRGH!」オダワラは足を止めず、右のこめかみ部分に備わった小型レーザー射出装置を押す。「ンァーッ!!」ナンシーの白い腕が焼かれ、チャカを取り落とした! ナムサン! 部長はその隙をついてタックルをしかけ、ナンシーを組み伏せると、そのまま立ち上がって工場外へと脱出!

「車を出せ! 急げ!」オダワラ部長は運転ヤクザに命令を飛ばす。だがその時、1台の武装サファリジープが漢字サーチライトを照らしながら、ジャングルの闇の中から現れた! レンジャーマッポ部隊だ! ルーフの上には和服を血で染めたノボセ老人が立ち、バイオパンダの生首が四方に据えられていた!

「警察」の二文字が漢字サーチライトとなってオダワラ部長を捕える! 「アイエエエエエエエエエ!」想像を絶するほどの恐怖! 最後まで残っていた精神の壁が突き崩されるのを感じながら、オダワラは糸の切れたジョルリのように、武装バンの横にへたりこんだ。全て終わりだ。会社に何と説明しよう。

「動くな、警察だ!」カウボーイハットを被ったレンジャーマッポたちが、提灯を掲げながらオダワラ部長を素早く取り囲み、警棒で叩いた!「何が起こっている、答えろ!」「……バ、バリキ」「何だと? 聞こえないぞ!」「…バリキボーイ、バリキボーイ、空を飛ぶ……」オダワラ部長は歌い続けていた。

 同じ頃、エントランスでも戦闘は終了していた。ザー、ザリザリザリ……「バリキドリンクは用法用量を正しく守ってお使いください」……ループしていたCMソングが終わりを告げる。焼け焦げた肉の異臭と、盛大に撒き散らされたバイオエキスが、タケシタに絶え間ない嘔吐をもたらしていた。

 ナンシーとタケシタそして生き残ったバイカーは、破壊されたバイクに背を預けて血を吐くタバキを沈痛な面持ちで囲んでいた。タバキの腹部には何本もカタナが突き刺さり、まだ生きているのが不思議なくらいだ。「ザッ……ケンナコラー……ゲホゲホーッ!」「何故こんな無茶をしたの?」ナンシーが問う。

「……ナンシー=サン、隠していたが、俺たちゃネオサイタマ市街から逃げてきたヤクザなんだ。毎日のように続く殺し合いと、稼いだ金を次から次へとサイバネ手術とオイランハウスにつぎ込むだけの生活に疲れ、このジャングルに逃げ込み、バイオLAN端子をハンダで埋めて農民になった……ゲホーッ!」

 タバキは血を吐き、歯を食いしばりながら続ける。ナンシーはそれを止めなかった。止めたところで、もう長くはないことが明らかだったからだ。「……あれから十年。可愛い水牛たちとつつましく農業を営み、ハイテックから開放されたと思っていたら、これだ。悔しい! 俺は悔しいんだ! ゲボーッ!」

「だからって自殺行為に走ったの? あの時渡した素子には、かなりの金が入っていたのに」「…仲間の一人が持って逃げた。おそらくネオサイタマ市街に。馬鹿な奴だ。…そういうわけなんだ、ナンシー=サン。俺たちにはもうこれしか残ってなかった。それに、いくら金を払っても、家族は帰ってこない」

「タバコくれ…」タバキが消え入りそうな声で言う。「ハイヨロコンデー!」バイカーの一人が泣きじゃくりながらシケモクを取り出し、タバキの口に咥えさせライターを擦った。最初の煙が立ち上った直後、シケモクは力なく口元から落ちて血だまりの中で爆ぜ、その火を失った。そしてタバキも死んでいた。

「モウン……」温泉旅館ニルヴァーナの薄暗い廊下を、ミニバイオ水牛のモウタロウがトボトボと歩く。ムギコに遊んでもらえない失望は、部屋の外への興味で数分間だけ打ち消されたが、人気のない旧館に迷い込んだ彼の心は、すぐに不安感に塗りつぶされたのであった。

 ボームボームボームボームボーム……。年代ものの柱時計が鳴る。傘つきのタングステン・ボンボリがバチバチと明滅して、カモイにかけられた恐ろしいハンニャやテングのマスクを照らす。ザザー、ザリザリザリザリ……館内放送のレディオが混線し、反バイオ過激派団体のアジテーションに変わった。

「……バイオ生物は地球の癌なのです! ブルジョアのために作られたミニバイオ動物を御覧なさい! 飼育するのにどれだけの自然破壊が必要だと思っているんですか! ミニバイオ動物を見つけたら囲んで警棒で叩く! 囲んで警棒で叩く! 囲んで警棒で叩く! 囲んで警棒で……」洗脳的なフランジャー音声が続く。



「……モウン」モウタロウは不安そうに鳴いた。彼は人間の言葉を理解しない。少なくとも理論上はそのようになっている。かろうじて反応できるのは自分の名前くらいだ。だが、この旧館の不気味な静けさに恐怖を感じたのか、それともレディオ放送の意味を感じ取ったのか、彼はいつになく不安そうだった。

 ムギコのところに帰ろう。ムギコに抱っこしてもらおう。モウタロウはそう考えて、今来た道を後戻りし始めた。だが、旧館の廊下はまるで迷路のように入り組み、彼を奥へ奥へと迷い込ませる。「…モウン」モウタロウは鳴いた。彼はか弱い生き物だ。ネコと遭遇しただけでも、致命的な命のやり取りになる。

 と、見覚えのあるL字路。壁にかけられた印象的なヒョットコ・マスク。このまま進めば帰れるかもしれない。モウタロウが勇気を振り絞ってL字路の角に向かおうとした時……その先からギシッ、ギシッと、床板の軋む音が聞こえてきた。ムギコだろうか? とモウタロウは考えた。

「……モウン?」その場に立ち止まり、モウタロウは鳴いた。すると、L字路の向こうの見えない場所から「……モウン(嘆く)」という言葉が帰ってきた。ムギコの声ではない! いや、それどころか人間の声ですらない! 直後、バチバチと電灯が明滅し、前方の壁に長く奇怪な影絵が映った! ナムサン!

 モウタロウは後ずさりした! ギシッ、ギシッという音とともに、謎の影が近づいてくる! 前かがみの二足歩行、丸まった背中、両手に備わった刃物のように長い爪、口から生えた蚊のような吸血器官、額の角、背中に垂れ下がる触手めいたもの……チュパカブラだ! 逃げろ! モウタロウ! 逃げろ!

 ガガーン! ガガガーン! ショウジ戸の外で激しい雷が鳴り、青白い光が廊下を照らす! 「モウーン! モウーン!」 哀れ、モウタロウは腰を抜かし、もはや一歩も動けなくなってしまった! 指先の刃物を擦り合わせるカシャカシャカシャという音が、L字路の向こうから聞こえてくる!

 その時、不意にモウタロウの真後ろから声が聞こえた。

「ドーモ、チュパカブラ=サン……いや、チャベタ所長=サン。ニンジャスレイヤーです。やはりまだ言葉を話すだけの知性は残っているようだな」 ガガーン! ガガガーン! 激しい雷光に照らされたその姿をモウタロウが見上げると、「忍」「殺」と彫られた鋼鉄メンポが冷徹な輝きを放っていた!

 ニンジャスレイヤーはモウタロウを後ろから持ち上げ、タンスの引き出しの中に入れた。そしてジュー・ジツの構えを取り、ゆっくりとL字路へ向かう。「ドーモ、ニンジャスレイヤー=サン、チュパカブラです」暗闇の奥から声が聞こえた。それを合図に両者は駆け込み、L字路の角でカラテを激突させる!

「モウン」引き出しから前足と顔だけを出していたモウタロウは、あまりにも激しいニンジャ同士の戦いに恐怖し、すぐに頭を引っ込めてタンスの奥に隠れた。正解だ。直後、無数のスリケンが乱れ飛び、タンスに突き刺さり、上に乗っていたコケシを破壊したのだから。

「「イヤーッ! イヤーッ! イヤーッ! イヤーッ!」」激しいカラテが火花を散らす! チュパカブラの吸血器官がニンジャスレイヤーの腕を貫通したが、もう片方の手が切れ味鋭いカタナのようなチョップを繰り出し、これを根元から切断した! 「グワーッ!」よろめくチュパカブラ!

 好機を見逃すニンジャスレイヤーではない!「イヤーッ!」両腕がムチのようにしなり2発のスリケンが喉と股間に命中する!「グワーッ!」バイオエキスが飛び散る! さらに頭をつかみ強制オジギの姿勢を取らせたまま顔面を蹴り上げる! スパーン! スパーン! スパーン!「グワーッ! グワーッ! グワーッ!」

 チュパカブラはのけぞって浮き上がりながらも、空中で姿勢を制御しバク宙に切り替え、壁と天井をスーパーボールのように飛び回る。「私は死ぬわけにはいかん! バイオテックの怪物チュパカブラとして、人間どもを恐怖に陥れ続けるのだ!」チュパカブラの鋭い爪がニンジャスレイヤーに迫る!

「イヤーッ!」ニンジャスレイヤーが狙い済ました斜め45度のポムポム・パンチを繰り出し、チュパカブラのダイビング攻撃を撃墜! タツジン! 艦載対空砲のごとき破壊力! しかも、負傷したチュパカブラの口元を狙う無慈悲な一撃だ! 「グワーッ!」チュパカブラの体がのけぞる!

 好機を見逃すニンジャスレイヤーではない!「イヤーッ!」両腕がムチのようにしなり2発のスリケンが眼と口元に命中する!「グワーッ!」バイオエキスが飛び散る!さらに頭をつかみ強制オジギの姿勢を取らせたまま顔面を蹴り上げる! スパーン! スパーン! スパーン!「グワーッ! グワーッ! グワーッ!」

 強制オジギの姿勢を取らせたまま、ニンジャスレイヤーは言い放つ。「オヌシはもはや人間ではない。チャベタ研究所長でも、汚染バイオエキスを浴びて生まれた悲劇の怪物チュパカブラでもない。オヌシはただのニンジャだ。どこまでも利己的な、ニンジャだ! ニンジャ、死すべし! イヤーッ!」

 スパーン! スパーン! スパーン! 強制オジギのまま、チュパカブラの顔面に容赦ないキックが叩き込まれる! 眼に刺さっていたスリケンが蹴り込まれ、スーパーボールのように頭蓋内を切り裂く! 「イイヤアーッ!」ひときわ大きなカラテキック! チュパカブラの頭が飛び爆発四散した!「サヨナラ!」


◆◆◆

「モウタローウ! ごめんね、モウタローウ!」ムギコは泣きじゃくっていた。父と母に付き添われながら、旅館中の廊下を探し回る。彼女は自分のずるさが嫌だった。最初にモウタロウがいなくなったのに気付いた時、脳裏をよぎったのは、「お父さんとお母さんになんて説明しよう」だったからだ。

 しかし懐中電灯を持って廊下を歩き回るうちに、モウタロウが感じたであろう不安感に思いを馳せ、自然と涙が出てきた。モウタロウと初めて出会ったクリスマスの夜から今までのことが、いっぺんに頭に蘇って、思い出のひとつひとつが涙になってこぼれてきた。彼女は優しい子なのだ。

「……モウン」小さな鳴き声が、廊下の先から聞こえた気がした。「聞こえた?!」ムギコが両親に聞く。「いや」「聞こえなかったわよ何も」。ムギコは反論する「聞こえた!」そして懐中電灯を持ってL字の廊下を駆けた。床にこぼれた緑色のネバネバしたものを踏み越え、タンスの引き出しを照らした。

「モウン?」「いた、モウタロウ! カワイイ! 引き出しに入って出れなくなったのね!」ムギコは泣きながらモウタロウを抱き上げた。緊張の糸がいっぺんに緩み、ムギコはその場にへたり込む。彼女は鼻水を垂らしながら泣きじゃくった。もう少しで、一番近くにいる友達を失ってしまうところだった。


◆◆◆

 およそ十五分後。バリキドリンク廃工場前の駐車場では、ノボセ老が携帯IRC端末を使い、マグロツェッペリン部隊を至急タマチャン・ジャングルへと向かわせるようネオサイタマ市警に指示していた。武装バンに残っていたクローンヤクザとの死闘で、数名のレンジャーマッポが負傷したからだ。

 全く不可解な事件だ、とノボセ老はひとりごちた。生き残ったのはわずかに、ヨロシサンの重役一人、研究員一人、農民一人、それからジャーナリストらしき女一人。しかも、この女はつい先ほど、着ぐるみとパンチドテープの束だけを残して忽然と姿を消した。まるでニンジャにさらわれたかのように唐突に。

 ざっと見たところ、生き残った者たちの中にも、エントランスにある死体の中にも、今回の連続水牛ミューティレーション事件の犯人と思しき怪物はいない。休暇は返上、ネオサイタマに戻って取調べだ。

 いつものように、ヨロシサン製薬は無関係を決め込むだろう。先ほども、オダワラ部長などという人間は存在しないとの返答があった。だが、もしかすると、このパンチドテープがネオサイタマの闇の秘密を明らかにしてくれるかもしれないと、ノボセ老は直感的に感じ取っていた。


◆◆◆

 重金属酸性雨が降りしきるタマチャン・ジャングルを、ニンジャスレイヤーは音もなく駆け抜けていた。疲労困憊し、意識を朦朧とさせるナンシーの背中と膝の下を抱えながら。「……実際、あのパンチドテープには、これまでに調べ上げたソウカイヤとオムラとヨロシサンの陰謀がおさめられているのよ……」

「ノボセ老は確かに信頼できる。腐敗しきったネオサイタマ市警の中でも、数少ない人格者だ」とニンジャスレイヤー。「…だが、私は彼らに何も期待などしていない。私は孤立無援で、敵はニンジャだ。マッポやデッカーが介入できる戦いではない」「…解っているわ。…でも、私にも私の戦い方があるのよ」

 ニンジャスレイヤーは何も言い返さなかった。お互いのポリシーには踏み込まぬ。それが一番なのだ。「チュパカブラは死んだの?」「ああ、爆発四散した」「脳内素子は?」「粉々だろうな」「……そう」しばしの沈黙。「……私も、テクノロジーが産み落とした怪物なのかしら?」不意にナンシーが訊いた。

「私に訊くな」ニンジャスレイヤーが無表情に返す「少なくともニンジャではない」。「あなたはニンジャを殺し続けるの?」「そうだ」「…きっと、その先には破滅しかないわ」「行き着くところまで行く」 自分もそうだ、とナンシーは思った。そして人類もそうなのだ、と彼女のニューロンは悟っていた。

 ニンジャスレイヤーはバイオパインを滑らかに駆け上がり、林冠の海を渡る。汚染大気の切れ間から覗く病んだ月が、ナンシーの目に不気味なほど美しく映った。ハイクを詠みたいほどに。 ノスタルジアの疫病はカルトの武器だ。もはや退路無し。私は現在と未来にのみ生きよう。彼女はニューロンに誓った。


【バイオテック・イズ・チュパカブラ】終わり


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