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闇の訪れのような声だった。 「さあ、抜きなよ」 共に深夜の雑居ビル、その間の暗がりにはとても似つかわしくない二人だった。 一人は静かな闘志を孕んだような赤髪。背は高く、闇のように黒いセーラー服に、赤いリボンタイ。人差し指に通したリングキーホルダーの先、黄金の防犯ブザーは左右に引っ張られ、今にもエネルギーを開放しそうになっている。 ブザーを構えるまで幼剣士とわからなかったことを、もう一人──ルミは己の慢心であると捉えた。 「私が『時知らず』と知っての狼藉か」
マインドセット。1K8畳の部屋。奥にベッド、手前にTV。足元で子犬が吠え……違う、犬が居たのはアレより昔。実家に居た時。 「イメージ、イメージを固めろ……」 銃撃戦の音が響く。緊迫した中で私は、正確に主観時間軸から10年前の自分の部屋を見つけなければならない。 「焦点を合わす……」 抱いた赤ん坊が泣き喚く。20年前への輸送は熟練の『運び手』の私にとっても離れ業だが、状況は集中を許してくれない。母親業は大変だと聞いていたが、まさかここまでとは思わなかった。 「掴
誰にでも、「開けたくない」けれど「捨てられない」箱がある。 それは一週間前の洗っていない弁当箱だったり、はたまた若いころの記憶の箱だったり。 私の場合は、押し入れに入れてある桐の箱だ。 年末が近くなり、仕事もある程度落ち着いてきたので大掃除を始めた。 重い腰をあげ、押し入れにある物を順番に出していく。 秋にしまった夏物の服と靴、空気が乾燥してきてやっとしまった除湿器、 しばらく前にもらって扱いに困っている古い炊飯器。 未使用の布団カバーとタオルのセットも出てきた。 そし
柔い背に刺棒を挿れる度、琉の華奢な身体は悶え、施術台を微かに揺らす。 額の汗を拭い、俺は慎重に輪郭線を彫る。 もう後戻りはできない。 深呼吸。顔料の鈍い香りで気を静めると、十年来の教えが脳裏に蘇る。 「尋、邪念は敵だ。心が絵に表れる」 師匠は姿を消し、人の背を切り刻む悪鬼へ堕ちた。 発端は、俺の背が青く染まった日。 ◇ 一週間前。幾年も耐え忍び待ち望んだ独立の記念に、俺は自作の下絵を彫るよう願った。青き憤怒尊、不動明王。師匠の十八番を。 心は絵に表れる
身の丈七尺の大柄。左肩の上には塵避けの外套を纏った少女。入唐後の二年半で良嗣が集めた衆目は数知れず、今も四人の男の視線を浴びている。 左肩でオトが呟いた。 「別に辞めなくたって」 二人は商隊と共に砂漠を征き、西域を目指していた。昨晩オトの寝具を捲った商人に、良嗣が鉄拳を振るうまでは。 「奴らは信用できん」 「割符はどうすんの」 陽関の関所を通る術が無ければ、敦煌からの──否、海をも越えた旅路が水泡に帰す。状況は深刻だった。 口論が白熱する最中、遂に視線の主達は姿
―はい、クリーンデンタルクリニックです ―急ぎで、今夜、処置お願いします ―かしこまりました、確認しますので診察券番号を ―11564です 強引な急患の電話はよくあることだ。 しかし、静かに灯った赤ランプに黒髪黒縁眼鏡の受付嬢は思わず姿勢を正した。 ―少々お待ち下さい 診療室へと急ぎ、処置を終えた院長に声をかける。 「急患です。11564番、今夜希望です」 番号を聞いて院長は目を細めた。おもむろに指を組みポキリと鳴らす。受付嬢にはその姿が嬉しそうに見える。 「
香が薫る。夜更にも部屋の中は仄かに明るい。シヴァの王の臥所は、その栄華の暮れと言えど比類なき美しさだった。 下腹部の違和感に王は目覚めた。宮中の、それも王の寝所に入り込んだ者がいる。動揺を押し殺しケットを跳ね除けた。 そこには自らの娘、蛇の牙と謳われる第2姫アルザーバがいた。王を見つめている、実の父の性器を咥えて。 王はおぞましい光景に一時だけ動揺したが、何が起きているかを悟ると瞳を閉じた。父の覚悟を確かめ娘は肉親の一部を噛みちぎった。悲鳴も上げず最後の王は絶命
風が戦慄いていた。横たわる彼女の髪に息を吹き込ませてくれるかのように何度も何度も唸っていた。 僕は立ち尽くしていた。悍ましい血で染まり、数分前に触れた彼女の最後の生温かさのなごりの手を見ながら。 死んでいた。彼女は間違いなく死んでいる。僕の大好きな彼女が、シスターが、昨日まであんなに笑ってくれていた人が、今はもう見捨てられた操り人形のように事切れている。 目は充血し乾燥していた。髪の毛がずぶ濡れになるくらい降っている雨が僕の代わりに泣いてくれていた。 ふと視線を感じ
『100%保証 あなたの未来に永遠のパートナーを 永恋Eren』 仕事も軌道に乗ってきたし友達の式にも呼ばれたし、真面目に結婚でも考えようかと思っていた矢先。スクロールさせた指の先。 笑えるくらい嘘くさい婚活アプリ。 それでもふと、試してみたくなった。 魚心に水心、ほんの出来心。 僕は飲み屋で生と唐揚げを流し込みながら永恋をDLした。 「特技、幽体離脱っと」 こんなふざけた事を書く奴いるか? でも、これこそ本音。 信じてくれるコが本当にいるのなら
知らない男の子が、燃える燃える。炎に包まれながら、笑いながら。 火よりも赤い口が開く。 「お姉さんがいる場所、本当は知っているんでしょう?」 炎に包まれた指先が扉を指さす。 お姉さんとお母さんを連れて行った扉。世界と私の家族を半分にした扉。 扉は相変わらず無慈悲な顔のまま、少しずつ開いていく。 ばたん、と開きかけた扉が閉まる。男の子が笑う。 「なんだい、意気地なし」 でも、閉じたのは私じゃない。多分見えないお父さん。お父さんはあの日からずっとこの扉の前にいる。今
「一番指名の多い女はね、イク演技が上手い女なの。だからあんたもすぐ指名入ると思うよ」 同棲している彼女の言葉が不意に思い浮かんだのは、丁度私が逝っていたからだろう。 いや、いた。というのはおかしいか。 私の意識はまだある。ということはつまり、逝っている最中だということだ。現在進行系で。 「くそ、くそ、くそ」 「よくも、このヤロウ」 「ざけやがって」 汚い言葉と共に降ってくる足の裏。鉄製の厚い靴底。 それが私の顔を踏みつけている。 ひしゃげた鼻。
明日は水泳コンクールがあるから、私たちはプールの底に沈んでいる。 全身を覆う、ひんやりとした冷たい感触。 緩やかにはためくセーラ服のスカート。 ゆらゆらと揺れている屈折した光。 時折息を吐くと、空気の泡がふわふわと水の中を昇っていって、とても幻想的だ。 水は優しいから、人が溺れないように空気をくれる。 でも、人を浮かべてくれるほど優しくはないから、クラス投票で選ばれた私たちがプールに入って、水の中に私たちの優しさを染み込ませている。 私たち——五人。 25メ
太古の昔、昼と夜とは巡るものであった―― 旅人は、古い伝承を思い起こした。そんなおとぎ話に心を躍らせたころが、己にも確かにあった。なんと平和な時代だったことか。 不意に感傷に囚われ、旅人は足を止めた。〈昼〉の国、小高い丘でのことだった。 天頂には、巨大な太陽。この空で唯一の天体だ。故郷の影は、〈夜〉の姿はどこにもない。 感傷、哀愁、そうしたものを、旅人は抱かぬようにしてきたはずだった。しかし、抑えきれぬものがある。 長い旅路が、ついに果てるのだ。 地平線上に目を
一隻の貨物船が、シイワ諸島を航行している。 上下左右に散らばる無数の小島の合間をおっかなびっくり進むさまは、群れからはぐれた老齢のクモヰアシゲクジラのようだった。 事実、その船、エスペランザ号は老いていた。船体には錆が浮き、四基の浮遊機関のうち二基は故障している。 老骨に鞭打つように、甲板にはコンテナが満載されている。眼下の雲海に落ちた影は、奇妙にねじくれた魔の城のようだった。 ――急げ、急げ! 船長を焦らしめるのは、予定より伸びない船足ばかりではない。 空賊で