【ア・サイン・オブ・ハンザイ】
【ア・サイン・オブ・ハンザイ】
大気圏めいた青空と、冠雪した鋭角の岩肌。分厚い重金属汚染雲も、マッターホルンの高貴なる肌に触れることはできない。トレンチコートにハンチング帽を被った国際探偵フジキド・ケンジは、スキー板の入ったリュックを担ぎながら、独り、徒歩でアルプスの尾根を渡っていた。
セトとの戦いで負った傷をドラゴン・ドージョーで癒した後、フジキドはすぐに旅支度を整え、再びユーラシア大陸全土を巡ってリアルニンジャの活動痕跡を探し始めたのだ。
彼はいつも徒歩での旅を好んだ。飛行機では素通りしてしまうような世界の暗い片隅にも、邪悪なニンジャは必ずや隠れ住んでおり、それに苦しめられる人々もまた必ず存在するからだ。加えて、こうして大自然の中を歩くことは、フジキド自身にとっての喜びのひとつとなっていた。
かつてネオサイタマやキョートで様々なセンセイから生きる道を教わったように、国際探偵となった今、フジキドはこうした雄大なる自然とのコネクトにも大きな学びを見出していたのである。
フジキドは地平の果てを広く見渡した。視界の端、遥か南。イカスミめいた汚染雲海の彼方では暗黒メガコーポや論理聖教会の衛星軌道エレベーター群がヤッコ・ダコめいて揺れ、Wi-Fiツェッペリンの大群が空を圧する。だがこの霊峰マッターホルンの峰々には、過剰商業主義やAIドローンが近づく気配はない。ここにあるのは、ゼンだけだ。
フジキドはまたひとつ尾根を降る。アルプス山脈の冷たく澄み渡った空気を味わいながら、雪の下から芽吹く谷間の植物に目をやる。ゼンめいた光景だ。ここで小休止し、バッテラ・スシを食べるために足を止めようとした、その時。
フジキドはふと気づいた。前方の谷間……巨大な岩の下敷きとなった、茶色いウールスーツの男に! ナムアミダブツ! その男には未だ、息がある!
フジキドは駆け寄った。大岩に潰されたその初老の男は、よく鍛えられた半サイバネの肉体を上等なウールスーツに包んでいた。上品なハットに、片眼鏡型の望遠サイバネアイ。やや神経質気味に整えられた灰色の髭。右腕の最新型サイバネティクスは破損し、バチバチと火花を散らしていた。
男の胴体は見えず、その大部分が岩の下敷きとなっていた。かなりの血が流れている。だが、それでも、まだ息があるのだ! フジキドは迷いなく、大岩に両手と左肩を押し当てた。大岩の重量は数トンもあろうか。
力を籠める。フジキドの全身をカラテが瞬時に駆け巡る!「イイイヤアーーーーッ……!」 フジキドの瞳が赤黒く輝いた。首に巻いていたマフラーが爆発的にコートの外へと飛び出し、橙色の炎の輪郭を帯びる!
「……イヤーッ!」ひときわ大きなカラテシャウトが、アルプスの峰々にこだました。この最後の一押しで、ようやく大岩は男を解放し、脇の崖から谷底へ転がっていった。タツジン!
「ああ……」大岩の戒めから解放されたウールスーツの男は、仰向けのまま目を見開き、フジキドを見上げて、声を絞り出した。そして……笑い出したのだ。それは瀕死の重傷を負っているとはとても思えない、穏やかな笑い声であった。「君の名は知っているぞ。国際探偵、フジキド・ケンジだな……?」
「オヌシ……もしや、ロベール=サンではないか?」フジキドは驚き、男の横にかがみ込んだ。そして視線を交わし、確信した。「国際探偵ロベール・ムラカミ=サン……そうなのだな!?」「いかにもそうだ。フジキド=サン。ああ……まさか最期に出会うのが、君のような頼もしき同業者になろうとは」
国際探偵は、この世界に数えるほどしか存在しない。二人の国際探偵が同時刻に、同じ場所に居合わせるなど、皆既日食ほどの確率でしかない。実際フジキドがこれまでにロベールと直接顔を合わせた事はないし、IRCメッセージをやりとりした事もない。しかし、二人とも互いの存在だけは知っていた。
国際探偵とはその一人一人が孤独なオオカミめいた存在であり、決して群れ集うことはない。それでも彼らは、他の国際探偵の動向に対して常に関心を持ち、心の奥底では互いにリスペクトを抱いているのだ。
世界のいずこかで、別の国際探偵が成し遂げたその偉業と名声だけが、IRC-NETの風に乗って、そう時を経ず、別の国際探偵のもとへと届けられる。そしてこのように実際出会えば、彼らは直感的に、目の前の相手が何者なのかを瞬時に悟るのであった。
「ロベール=サン、誰にやられた……! ニンジャか!?」フジキドは岩に潰されていたロベールの体を見た。重サイバネ者であっても、もはや救える段階にはない事が明らかだった。ロベール・ムラカミは今まさに死に逝こうとしている。それなのに、彼の言葉は晴天のように澄み渡っているのだった。
「いいや違う。ニンジャではない。私自身の油断が私を殺したのだ。それよりも、これを……君に託したい」ロベールは半壊したサイバネフレームを軋ませながら、銀色のメカ・アームを、ぎこちなく、自らの上等なウールスーツの胸元に差し込んだ。そして、封のされていない一通の封筒を取り出した。
「君に託す。まずはこれを安全な場所まで運んではくれまいか……? 中を見れば、全てが解るだろう」「解った、必ずや安全に運び切ろう。そして……」フジキドは封筒を自らのコートの胸元に仕舞うと、己の両腕をロベールの背中と膝下に差し込もうとした。「オヌシもだ。急げば間に合うやも知れぬ」
フジキドは、瀕死の彼を運ぼうとしているのだ。助かる見込みはほぼ無いと知りながらも。「いいや、私に墓はいらないぞ、フジキド=サン」ロベール・ムラカミは笑い、それを拒んだ。「捨て置いてくれ。私は……あまりにも多くのことを知りすぎた。善い事も、悪い事もだ」
「この老いたニューロン組織のひとつひとつ、脳内記憶素子のひとつひとつにまで、この地上から消し去るべき暗い秘密がいくつも収められている。……私に、墓はふさわしくないのだよ」「何か、私に引き継げるものはないか」「ああ……君は勘違いをしているな、フジキド=サン」
「私がこの地上から葬りたい秘密とは、捜査中の恐ろしい事件か何かについてだと思ったのだろう? それについては先ほどの封筒が全てだ。私の秘密とは、私が生涯で出会った数多くの……友や、依頼者や、その家族の個人的な秘密などについてだよ…」ロベールは咳き込み、電子音混じりに血を吐いた。
「揺り籠から墓場まで、あらゆる秘密が暴露され、IRC-SNSにアップロードされる時代だ。だが永遠に明かされるべきではないものも、この世界にはあると思うのだよ。フジキド=サン……噂によると、君はニンジャだな?」彼は改めてフジキドの目を見た。「……いかにも、そうだ」フジキドは頷いた。
「死ねば自ずと爆発四散し、塵すらも残さず、この世から消えるという」「その通り、古事記にも書かれている」「ああ、今この時ほど、自分がニンジャであればよかったと思える時はない。だが、私は悲しんでなどいないぞ、フジキド=サン。君と出会い、手がかりを引き継ぐことができたのだからな」
「……もう心残りは無い」ロベールは残された力を使い、自らの体を起こして横へ転がそうとしていた。その先には崖がある。彼が何をしようとしているのか、フジキドにはすぐに解った。そして、だからこそ、国際探偵ロベールの行いを止めようとはしなかった。代わりに無言で視線を交わし、頷いた。
「では、さらばだ、若き国際探偵……!精進したまえよ。あと三十年も頑張れば、私の栄光の爪先程度にはたどり着くかもしれんな……!」そのまま彼は、底知れぬ崖に向かって自ら身を投じ、落下していった。時折、岩肌への激突の火花を散らしながら、国際探偵ロベールは遠ざかってゆく。
やがて、その姿が米粒のように小さくなり、マッターホルンの谷間を包む灰色の霧の中に消え行こうとした時。「……オタッシャデ!」KA-DOOOM! ロベール・ムラカミは叫び、爆発四散した。彼はニンジャではない。自らのサイバネに備わった自爆装置を起動させたのだ。
「ロベール=サン、オタッシャデ」フジキドは崖の底から立ち上る煙に向かって手を合わせ、祈りを捧げ終えると、ロベールから託されたばかりの小さな封筒を開いた。そこには折り畳まれた羊皮紙の捜査メモが、そして、ドクロ模様の蜘蛛が刻まれた不気味な指輪がひとつ収められていた。
「これは、一体……!」彼はロベールが遺したその指輪から、ただならぬアトモスフィアを感じ取った。謎の国際ニンジャ犯罪組織、即ち『ハンザイ・コンスピラシー』と国際探偵フジキド・ケンジとの戦いは、まさにこの時、始まったのである!
【ア・サイン・オブ・ハンザイ】 終わり
【セカンド・サイン・オブ・ハンザイ】 に続く
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