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【試し読み】灰都ロヅメイグの夜 2:我等が故郷


承前

2:我らが故郷

 無数の寺院、神殿、学院、書庫、大劇場、賭場、工房、地下大墳墓、坑道、貧民窟、伏せ目の辻、教団、殺害者ギルド、陰謀団、金銀、宝石、財宝、剣、弓銃、銃、蒸気鉄車……神秘と欲望の香り漂うあらゆるものが灰都で作り出され、編み出されている。だが、その多くが巨大都市直下の遙か地底にて、絶える間もなく行われる大規模な発掘作業による成果であると云われ、少なくともこの数世紀の間、ロヅメイグに於いて新たな物は何一つ作り出されていないのだとも云われる。魔法もまた、灰都にあっても例外では無く、かつてひとたびその息の根を止められかけてからというもの、堕落し、腐敗を続け、やがて世界の忘却の彼方に消えゆくのみであった。いずれにせよ、謎多き灰都にて、物事の存在意義や由来に注意を払う者はごく僅かであったし、或いはそもそも殆どの者達にとって、この街をいかなる者が支配しているのかという根本的な疑問について思いを馳せることすら、眠れぬ夜の寝台にてひとり行う、気紛れな謎かけ問答のねたに過ぎなかった。

 そして今、謎に満ちた数奇な運命を宿すという意味で、この上なく灰都におあつらえ向きの、若き二人の探索者が、夜の街路橋を進んでいた。無慈悲なるエターナル・ダスクの荒野をゆく彷徨人にして、灰都ロヅメイグの雑踏の中にも生き、時に血みどろの修羅と怪奇の渦の中にも生き、だが決して何者にも賞賛を与えられることはない、暗い英雄の道のりを歩む二人の男だった。彼らは決して自らの信ずる運命と信念と美徳を失っては居なかったし、この世界で多くのものが辿る酩酊と停滞と退廃の道を進むこともなく、ゆえに堕落しても居なかった。しかし、これまで数多くの危難と、奇怪にして目眩むような冒険を潜り抜けてきた勇敢にして抜け目のない二人の放浪者にしては、此度は何事か様子が異なっているようではあるまいか……。

「燃えるようだ」右腕で隻眼詩人の肩を後ろから抱き、半ば背負われるようにしてすがり、重い足取りで歩む隻腕の剣士が言った。「燃えるように熱い」

 濃緑のフォロゼ外套の留め金をはだけ、可能な限りに熱を発散させようとしながらも、けっしてその身を露わにしようとはしないこの男こそは、貫きトゥヴェイクの第三徒弟にして、欠落した出生の秘密を探し求める暗黒の知識の探求者、隻腕のグリンザールであった。左腰に吊ったラーグニタッド刀もまた、苦しげにうなだれる如く見えた。垂れた頭は、波打つ漆黒の毛髪に隠されていた。青い瞳の周りには、化粧でも施したかの如くに、死斑の如き隈が黒々と広がっていた。口元から苦しげに吐き出される息は恐ろしいまでに熱く、病魔か疫痢にその身を蝕まれて居るらしい事を窺わせる。その肌はこの病がもたらしたものか、或いは生来のそれに因るものなのか、死びとの如くに蒼白していた。彼は今、半分は死んでいるように見えた。ロヅメイグの夜の冷気が、彼の意識をかろうじて繋ぎ止めて、その足どりに僅かな力を送らせているようだった。

「グリンザール、グリンザール、そろそろ死ぬかな?」灰色の髪の隻眼詩人が歌うように言ったが、この重労働のためか、所々は声がひっくり返り、まったく調子外れな有様だった。「俺の忠告を聞かんからさ。不用意な入れ墨は<やめろ>と、あれほど云ってやったろうに」

 彼こそは放浪のナーバルド弾きにして、連撃弓銃の名手、隻眼のゼウドであった。歩くたびに各部に存在する鎖と金具が音を立てる、ロードトック式の外套を羽織っていた。二挺のゼイローム式連撃弓銃が両の腰の金具に吊られていた。痩躯の彼にとって、隻腕の偉丈夫に背を貸して歩むのはこの上なく難儀な仕事であった。左肩に背負ったナーバルドが何度もずり落ちそうになりかけるのを、足に力を込めて背伸びをする要領で元の場所に戻そうとしたが、その度に隻腕剣士の重みがずしりと、一層彼を苛んだ。これまでの二者の冒険の歴史の中では、おのおのまったく逆の役回りであった。 「その逞しい腕がもう片方無けりゃ、多少は軽くなるか?」 彼は皮肉混じりに不満を呟いたが、そうなればグリンザールにはもはやすがる腕もなく、自分になお厄介ごとが巡ってくるではないかと想像し、苦い笑みを浮かべた。

 灰都ロヅメイグはいずれにとっても、第二の故郷であった。全ての民人の記憶から消されてしまったらしき己の故郷の秘密と、失われた片腕の記憶を探し求める定めを負いながらも、剣士としての生をも全うせねばならぬグリンザールにとって、ロヅメイグは忘れることの出来ぬ因縁の地であった。他方、ゼウドは正真正銘のロヅメイグ生まれであるだけでなく、正当な貴族の血筋であったが、いまは故在って彷徨い人に身を窶していた。放浪の吟遊詩人としてロヅメイグをいで、第二の生を踏み出した彼であったが、その皮肉な運命は再び幾度と無くこの都市へと彼を導き、その雑踏を第二の故郷たらしめた。彼は没落してしまった今でもなお、或いはかつてより、高潔と俗悪と貧富と正邪が入り乱れ、渾然一体となり、全てが霧に覆い尽くされたこの街を愛していた。

 此度の帰還に於いて、かような失態を二者が演じねばならなくなった理由は、およそ二週間前の出来事に由来する。冷徹な雇い主、灰都の第七図書館長たる赤衣のエニアリスにまたぞろ言い渡された無理難題を、なかなかに魅力的な報酬と引き替えに聞き届けた彼らは、馬を乗り継ぎながら東方の荒野を走り続け、山岳地帯にて失われた墳墓を盗掘したのだった。数々の古文書と遺物をじゅうぶんに吟味した後、片端から背負い葛籠に詰め込んで、二者は一路ロヅメイグへの帰路を進んでいた。途中、野盗の襲撃を受けて、幌馬車の御者の老人が殺された以外は、さほどの手落ちもなく、順風満帆であるかのように見えた。

 或る夜、野営の焚き火を囲んで、何度か躊躇った後に、グリンザールが深刻そうな面持ちでゼウドに云った。

「お前が信じるか否かは、この際どうでもいい。いいか、これまでに解っているだけで、およそ四十二の呪詛がおれの身体を蝕んでいる。そして、此度手に入れた年経た文書群と、かの墓所の奥底で見出した禁忌の事実が、俺の身体か魂に刻まれているらしき<新たな一つ>を明らかにした」

「ふうむ、こいつは大変だぞ」ゼウドは焙った乾し肉を頬張りながら、ぞんざいに言い放った。「大問題」

「耳長牛の星座が南十時に巡る時、呪詛はおれの身体を焼き、内腑を吐かせ、魂を焦げ付かせるだろう」ゼウドの態度などお構いなしに、グリンザールは背負い葛籠から幾つかの文書や真鍮製の図版を取り出して、続けた。

「耳長牛の星座……失われた星座だな。そして南十時に? なるほど、確かにこれは近い。で、それを食い止めるには?」 ゼウドが、少々おどけたような口調で云った。

「幾つか在る」グリンザールはこめかみに指を数本あてがって、「だが、呪言の入れ墨を施すのが、今は最も適切だ。余り好ましくないが、ヴォローニッカの邪神の力を借りる」

「いいかグリンザール、お前の古代言語と神話に関する知識は、確かに俺も舌を巻くところだ。願わくば、その知識をもう少しでも真っ当な方向に向ける事だな」ゼウドはこれまでと違う、至極真面目な口調で言い放った。 「それとな、不用意な入れ墨はやめておけ。野っ原ですべきもんじゃない」

「お前にならば、この仕事を頼めるかと思っていたんだが」グリンザールは言葉を選びながらも、ぶっきらぼうな口調で云うと、最後は笑いながら云った。「いい、戯れ言と思って忘れてくれ」

「ああ、お前も忘れろよ、竜の仔」

 だがその晩、幌馬車の毛布の中でゼウドは微かな物音に目覚めさせられた。頭痛。酒をやりすぎたらしい。横になったまま、馬車の中を見やれば、グリンザールの姿が無い。野営の火がまだ残っているようだった。そちらを見やる。何かを焙る、ぱちぱちとした音が微かに聞こえた。そして、焚火の前に座し、何事か行う隻腕の剣士の影が、切り絵の如く幌馬車の布に写し込まれているではないか。彼は瞼を無理矢理こじ開けると、幌馬車の中を左手を気怠げに動かして、布の継ぎ目を僅か捲った。思った通り、こちらに背を向け、グリンザールがその身に入れ墨を施しているようであった。その上半身が露わになっていた。

 実際の所、グリンザールがその上半身を人前で露わにすることは、例えゼウドにであっても、滅多にある事では無かった。身体には幾つかの傷跡が窺えるが、剣士として申し分ない体躯。だが、それらと対を成す負の存在もまた、そこかしこに存在していたがためであった。如何にして失われたのやら、もはや原型とどめず、奇怪な肉塊の如くに変形した左腕の名残部分を起点として、およそ背の半分を、すでに呪言と禍々しき印形の入れ墨が占有していた。それらは、これまでの長い年月、特に、呪詛と魔法の探求に魂を惹かれ始めたこの数年の間に少しずつ加えられて行ったものであった。そして今、恐らくは左胸から脇腹あたりにかけて、それらに加わる新たな文様が付け足されているのだろう。炎の灯りに照らし出されたグリンザールの異様な姿は、どこかしら人ならざるものを想起させるに十分であった。久方ぶりに見やるとは云え、厚手のフォロゼ式外套に入念に隠されたグリンザールの秘密を既に知り得ているゼウドは、もはや嫌悪感など抱かず、どこかしら、見下すとは違った、複雑な哀れみの念の様なものを覚えるのだった。

 ゼウドは立ち上がろうとしたが、かなわなかった。こうなるかも知れぬ予想は、食事時のやり取りで付いていたはずであった。それなのにあれほど酒をかっくらうとは、我ながら馬鹿な事をした。いや、馬鹿はあの隻腕剣士だ。俺はあれ程忠告したではないか……。身体を、或いは少なくとも頭だけでも持ち上げようとしたが、過剰なアルコホールがそれを許さなかった。

「知らねえ」ゼウドは小さく呟くと、立ち上がるもままならぬひどい頭痛の中で、眠りに落ちていった。

 二日後、グリンザールを明らかな変調が襲っていた。以降、日に日に衰弱を続けていった。

 ゼウドの考える最も現実的な解決策は、薬草を与えてグリンザールを幌馬車に寝かしつけ、あと五日は要するであろう灰都へと、ただひた走る事だった。やがて、馬車馬の一頭が力尽きて死んだため、残った一頭に鞍を乗せて進んだ。この頃既にグリンザールは、時折ゼウドにもたれかかるようにせねば成らなくなっていた。

 衰弱を続けながらも、グリンザールは与えられた薬を拒みがちであった。 「おれは解っている、この熱病の原因は、薬などでは解決しない。もっと根本的な部分に由来する……魂が苛まれているんだ」彼は頑なであり、寝て休むも良しとせず、 幌馬車の中で古文書の解読をひたすら続けていたし、明け方と宵に剣の修練も絶やさなかった。

 業を煮やしたゼウドは、半ば無理矢理グリンザールにこれらの薬を施した。確かに幾らかは症状が和らいだこともあって、以降はグリンザールも素直にこれに従った。しかし、長期の冒険用の装備を持ち合わせていなかったこともあって、徐々に病状は悪化していった。熱は上昇を続けた。ゼウドの巻革鎧に付けられた無数の雑嚢に収まる、さまざまの薬や薬草も使い果たされた。

 二者は昼も夜もなく、馬を馳せ続けた。しかし酷使が過ぎたか、この馬もまた途中で死んだため、最寄りの村で新たな馬を調達する必要があった。

 夜の闇に紛れてゼウドが馬小屋に忍び込み、たちまち手懐けて村を逃げ出した。グリンザールの背負い葛籠には、なるほど、金の種がぎっしりと詰まっていたが、あの強欲な女図書館長、赤衣のエニアリスに引き渡すまでは、無意味な紙切れとがらくたに過ぎないのだ。ゆえに、馬を買うのに十分な硬貨を持ち合わせて居なかったのは勿論の事だし、そもそもなにより、辺境の農村というものが、余所者の、しかも訳ありと見える死にかけた剣士らのそういった申し出を、快く受ける等は到底有り得ない事だからだ。

 流石に一方的な盗用は気乗りしなかったので、ゼウドは去り際、馬小屋の柱に掛けられた蹄鉄束に何かしらを残してやる事にした。馬一頭と見比べても良い価値と思しきものは幾らか在ったが、差し当たって指輪が良かろうと、両手を見た。彼らのこのところの貧窮ぶりを象徴するようにそれらは随分と減っており、もはや左手小指のくろがね指輪と、右手中指の火踊石の輪しか残っては居なかった。僅か思案した後、右手の火踊石の指輪を外してくくり付けてやった。

 それより二者は二晩の間馬を馳せ続け、這々の体で夜の灰都に帰り着いたのだった。今やグリンザールを責め苛む熱病はなおその猛威を増し、ゼウドの力無くしては歩くもままならぬ状況に陥ってしまっていた。ゼウドは上等な宿、出来れば部屋に備え付けの浴場があるような、少なくとも四十階層より上のそれを望んでいたし、そのために金貨とアメジストを残しておいたのだが、この状態でさらに上へと歩かねばならぬのはもはや真っ平御免であると考えていた。彼はひとまずの所、今夜をやり過ごすべく、最低限の宿は望めるであろう三区各先の地区を目指し、ひたすらに徒を続けた。

「ゼウドよ、俺を捨て置け」グリンザールは苦しげな声を腹の底から絞り出した。無論、それが自らの生を放棄するを意味するのではない。これまでも何度か、死の淵に瀕したことはあった。しかし、その殆どを彼は一人で乗り切ってきたがゆえ、かような状況が心苦しくて成らなかったのだ。「呪詛の付けが回り始めたに違いない。今まで何度もあったが……この度は比にならぬ。俺はもはや滅ぶのやも知れぬ」

「そうか! グリンジ! やっと死ぬのか! 俺も少しは身軽になるだろうな!」ゼウドは笑いながら言い放ったが、肩に掛かるグリンザールの重みがいっそう増して痩躯にのし掛かったことに由来して、所々がかすれがちになった。

 せめてゼウドに借りを作りすぎぬためには。グリンザールは意識を失わぬよう、その両目を意志の力でこじ開けた。首をぐいとやって、視界を覆った髪をどけ、幾らか気分でも紛れるかと天を仰いだ。霧に浮かぶカンテラの群。今まで幾度も見たこの光景はしかし、今宵ばかりは鬼火の如く揺れて、ついには回転して見え始めた。それらは禍々しく、彼に救いがたい目眩と吐き気を催させた。ゼウドに云って、数分ほど座り込ませてくれと頼もうかとも考えたが、首を振ってその考えを追いやり、深く息を整えて、狼狽をきたした精神を鎮めにかかった。師父たるトゥヴェイクから唯一教わった、そして最も強力な、己を律する法であった。彼はトゥヴェイクから殺害剣術のみを学んだ。本来、それらより先に、或いは並行して剣を志す者が学ぶべき精神修練の部分を、彼はすっかりと飛び越して学ぶ事を懇願し、それが貫きトゥヴェイクの信念との合致するものであったがため、受け容れられたのだった。それは剣士として、最も純粋で、最も無垢な生き方であるかのように思えた。トゥヴェイク師と過ごした剣の日々を思い起こすと、幾分か心が落ち着き始めた。そして師父と生き別れ、今はこの風変わりな隻眼詩人の肩を借りているとは。奇妙な話だと彼は思った。彼は可能な限りの孤立こそが、孤高こそが力であると信じていたし、それは今でも変わり得なかった。しかし、此度ばかりはゼウドの力にすがらねば、自らの命運も尽きかねぬのだった。

「グリンザール、声が聞こえないが、生きてるか?」ゼウドが問うた。

「ああ、生きてるともよ」そして今自らの置かれた状況に、再び引き戻された。何が此度の災厄を招き寄せたのか、筋道立った思考がおぼつかぬ中で、ようやく一つの結論に達し、口惜しげに呟いた。「どうやら、おれはやり方を間違えたようだ」

「ハッハ! ようやく解ったか!」ゼウドが返した。「それも大間違いだ、この大間抜け!」

「アーリ・ヤエ・オルドギス……三血路を正中線に導き、五十六の孔穿ちて八十八の成句成す。老婆の眼球と乙女の歯、サングル・フェルド……ともに擦り潰し、死灰の粉混ぜ、墨と……針……ヤェ・ロルガ……奈落の縫い針が……! 儀式が不十分だったと云わざるを得ない……」グリンザールは失われた言語の一つでもって所々の部分を呟いたが、この、ゼウドから見れば相変わらずの見当違いは、彼をいささかげんなりさせて失笑を誘った。

 それより数分ほど後、二者はまた別の街路橋を進んでいた。変わり得ぬ光景が続いていた。グリンザールから爪先の感覚が失われて行った。視界ももはや、おぼつかなくなり始めたようだった。一時は楽になり始めたと思ったが、今はまた、体中を針で突き刺されたような救いがたい激痛と熱の波が、再び大きく寄せて来たのだった。意識が遠くなって行く。最後の力を振り絞る如く、吐く息に混じるような声で彼はゼウドに云った。

「俺を捨て置け……因縁が触腕の如く絡み付き、お前にまで呪詛のくびきが及ぶやも知れぬ」

「おお、竜の仔は、まだわかってねえ御様子だ」ゼウドがおどけた口調で云った。「呪詛の付けなど回らぬが、口だけは達者に回るとはこれ如何に」

 しかし、グリンザールから返答は無かった。気を失ったか、気を失うように眠ったかのいずれかであると見えた。ゼウドは、グリンザールの申し出を受け入れる気は更々無かった。彼は、全ての原因は入れ墨によってグリンザールの身体に侵入したなにかしらの有害な菌であり、今この男に必要な物が的確な薬と静養なのだという事を知っていた。そして、それさえ有れば、死はさほど近くも無いという事を確信していた。恐らくはグリンザールが魂の奥底に宿している冥い妄想が、平時は彼に活力と躍動を与えているのだが、此度ばかりは心を弱めているのだろうとゼウドには感じられ、ただそれだけが気がかりであった。此処まで考えて、ふと、何故ここまでこの男に世話を焼いているのだと、純粋な疑念にも囚われたが、この男が生きていた方が自らの旅路は痛快になるのだとも改めて思い起こした。ゼウドはかようにして、自らがかつてと変わらず利己的な人間であることを確かめると、納得したように再び隻腕剣士を負い直した。

 目指すは、ラシェイロの大劇場。そして、その裏手の路地に並ぶ宿場通り。まだ半刻は歩かねばなるまいか? 膝が痛み始めた。

 やがて街路橋を渡り負え、大劇場地区へと辿り着く。不夜城の歓楽街も近く、それゆえに人通りが多くなり始めた事に苛立ったか、隻眼の吟遊詩人は先程から不機嫌そうに歌い続けていた。

「ラ! ラ! 我は疫病! 我は疫病なるぞ! 四十八の村々滅し、十と二の砦を越えて、遙々此処へ! さああさ、道を空けろ、道を空けろ、うすのろ諸氏! 死者のお通り! 死のお通り! 道を空けろ! 道を空けろ! 死斑の病に冒されたい紳士淑女以外は!」

 彼の歌う様は、雑踏を遠ざけるにいささか役立ったが、如何せん増え続ける人の流れと、背に負った腐れ縁の相棒の重み故おぼつかなくなり始めた足のため、街路のそこかしこで行き交う人々に行く手を遮られた。それゆえ今宵の彼の歌には、あからさまな舌打ちと悪態と共に、「畜生」「くそったれ」「売女」「つんぼ」「めくら」などの詩的な枕詞が即興で挟まれた。

「ゼウド……ゼウドよ」ゼウドの歌を聴き、再び意識を取り戻したらしいグリンザールが、苦しげに云った。だが、高熱に由来する情け容赦の無い幻覚が訪れているようだった。「耳元で詠うな。静かに……。おれを責め苛まないでくれ……。ああ、見ろ、おれを嘲笑う虚空の暗黒星の輝きが、肉塊を溶かし込んだ鉛の海に沈みゆく、幾千の躯の群を形作っている……いや、あれは意志持つ原初の海……? 地の底に……繋ぎ止められた、脈打つ球体…… 沈降…… 沈降…… 沈降…… ああ、おれが、おれの世界が、熔けてゆく、おれが熔けてゆく……!」

「ウォーホウ! 何てこったグリンザール!」ゼウドは灰色の髪に包まれた頭を掻きむしると、狂ったように哄笑し、雑踏をなお一層遠ざけた。「お前の世迷い言の方が詩的だとはな!」

「熔けてゆく……全ての魂が同じ場所へ……? だとすれば、おれの探求は、意味を成すのだろうか……?」グリンザールにとって、もはや今自らがゼウドの背に負われているなどという事は、完全に認識の外であった。時折彼を襲う、運命を完全に放棄してしまいたいという脆弱な誘惑が、彼を責め苛んで居るのみであった。「深刻に呪われ切ったおれであっても、同じ場所へと還れるというのだろうか……」

 そしてグリンザールの意識は再び失われた。無意識の中で、魂が誘惑を受け入れるかを決めるに任せた。遠くラシェイロ劇場から漏れいづる、ワルツを彩る華やかな楽器の音や、サンムルグ式のドレスを着込んだ踊り子の舞踏の靴音など、彼の耳には届くべくも無かった。ある種、魔法的な力にも似て、超自然的な閃きの中に迫り来る危難を見出す彼の力も、今はすっかりと眠り込んでしまっているのであった。

 ゼウドは徒を続けていた。彼の吟遊詩人の瞳は、かような時であっても雑踏の隅々に行き渡っていた。それは、殆ど彼の生来の能力であるといっても良かったが、少年時代に学んだ心理学と、吟遊詩人の生の中でもって磨かれた物である事も間違いはない。人の挙動を見据え、そして目の奥を覗き込んだ時に最も力を発揮する、心胆を探るこの能力は、彼を幾度も窮地から救い出して来た。だが、この能力が働き得ない幾つかの例外も有ることを、彼は経験則で知り得ていた。先ず、彼を憎むか恐れを抱く者、すなわち負の感情に対してしか作用せぬという事。二つに、この能力が何故か女性にはほとんど作用せぬのだと云う事。そして最後には、無論、いかな彼であっても、完全に視線の届かぬ所にある者のそれを知りうるは、容易では無いという事だった。

 さあらば、大劇場通りへと街路を進む、隻腕隻眼のこの二人連れを、街道沿いの建物の二階窓から、殺気に満ち満ちた眼差しで見下ろす一団があることを、二者は知るよしも無かった。

 3へ続く


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