【サイレント・ナイト・プロトコル】#2
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「まるで遥か未来のネオサイタマの姿のようです」コトブキは色褪せた灰色の世界を見渡し、呟いた。「文明が果て、化石めいて、ビル群が傾いているのですね。そして、ほうぼうに浸水……」沼地じみた澄んだ水を確認する。彼女の瞳に「走査」の文字が浮かび消えた。「……有害物の溶け出しは特段ありませんね。でも、なにか危険を感じます」
ゲーゲーという声が空から降ってくる。旋回するバイオカモメの影を見上げ、それから、湖水の向こうで蠢く、ひとつふたつではない影を見る。「生き物。そして、人たちですね。ここにも、暮らしがあります……」「スカベンジャーだ。スクラップを漁って、金目のものを探す」マスラダは答えた。
「99マイルズ・ベイは人口ゼロ地帯と聞いていました」コトブキは言った。「でも、違いますね」「そうだ、違う。暗黒メガコーポの連中が勝手にゼロにしている」マスラダは言った。「ここの連中も必死だ。下手に刺激すれば面倒だぞ」「善良な市民らしくします」「ナメられるなよ」
ごく近い水場のあたりには保護色のテントが張られており、ドラム缶の焚き火に当たる数人が、二人を目で追っている。彼らは長い銛状の得物を抱えていた。「漁師ですね」「そうだ。奴らはああやって海老やバイオマナティを獲る。場合によっては観光気分の人間を」「見てください!」オンセンだ。
砕けたコンクリートの向こう、湯気を立ち上らせる泉が確かにある。浸かっているのは人間ではなく、何処かからやってきて棲み着いたとおぼしきバイオモンキーだった。額には拾得物らしきテヌギーを載せ、人間めいた仕草で入浴しているが、実際、バイオモンキーは非常に危険な生き物だ。
ゴウウウウ。爆音とともに空を横切った影は企業の高速艇である。パラシュートつきの四角いコンテナを投げ下ろし、そのまま飛び去った。コンテナは何らかの闇取引の物資であり、スカベンジャーすら降下地点には近寄らない。事前にポイントを伝達された受け取り手の企業戦力やヤクザに掃討されてしまう事を、彼らはわかっている。
「ネオサイタマとはまた違った混沌の様相ですね」コトブキは言った。「ニンジャスレイヤー=サンがここに来るまで、わたしはあまり動かずに居ましたが……奥へ進めば進むほど、まだまだ何かがありそうです」「面倒の種がな」ネオサイタマの方角に沈みゆく弱々しい太陽。落日である。
この日、ニンジャスレイヤーは別の依頼者のもとを訪れていた。銀の三日月のロケットペンダントをブギーマンに盗まれた市民に、動かぬ進捗を伝えに。博覧会で爆発四散したブギーマンはレリックを撒き散らしていった。それらの在り処は感じ取る事ができる。虱潰しにすれば、いつかは見つかる。
だが、その一つ一つが何であるかはわからない。時間がかかる。そんな超自然的な事情は依頼者の慰めにはならない。そんななか、新たな依頼に気づくや、日を改めずこうして99マイルズ・ベイに彼が向かったのも、そうしたもどかしさに衝き動かされての行動だったろうか。コトブキは今、彼の横で風の音を聞いている。
「どうした」「危険を警戒しています。特異な物音や周波数は今のところはありません」コトブキは少し遠い目をした。「……貴方がタキ=サンと出会った因縁の地ですよね、ここは。そんな事も考えていました」「……ああ、そうだ」「タキ=サンは嫌そうにして、あまり話しません」「奴の恥だからだ」
「恥……」「闇取引に失敗し、この場所でニンジャに拉致監禁されていたのがタキだ」「そこに貴方が」「ただの偶然だ」傾いたビルの連なり。マスラダはかつてその上を飛び渡り、ヘリと交戦し、そして……。「人に歴史ありですね」「奴に訊け。大した話でもない」「ウーン」
それから、コトブキの話題は99マイルズ・ベイにまつわるさまざまな噂話に移った。彼女は都市伝説の類が好きなのだ。曰く、空気感染する電子ウイルスが充満した毒沼やら、幽鬼ペイルライダーやら、インターネットダマスカス鋼の産出する坑道の入り口やら、モーターマサシやら。「最後のは実在する」マスラダは言った。「遺棄されたオムラの自動兵器だ。厄介だぞ」
「他のものも実在すると思います、きっと!」コトブキはやや勢い込んだ。だがマスラダは話を切り上げ、指さした。「見ろ」白い地平に隆起した建物の影。携帯端末の目印と照らし合わせる。「あれだ。コケシマート」「確かに……あります」コトブキはスコープゴーグルの倍率を上げた。「旗が見えます。嗚呼……八本の矢の」
放射状に無作為に飛び出す八本の矢。二人の間に張り詰めたアトモスフィアが漂った。八は混沌の意匠である。サンズ・オブ・ケオス。「今回のような依頼は、十中八九、ガセネタか、罠だ」マスラダは呟いた。「だが少なくとも、ガセネタではなくなった」「罠、ですか」「感じるぞ」
白色の一片が視界を横切った。雪だった。雪が降り始めた。マスラダはコトブキを見た。コトブキは遠視ゴーグルでさらに詳細を確かめようとしている。「火が焚かれています。それから……何という事でしょう、串刺しのマグロの頭やヒイラギです。骸骨も刺さっています」「見張りの類は」「いいえ!」
二人は移動速度を上げた。雪が強まり、夜が訪れれば、99マイルズ・ベイの危険は更に大きくなる。さいわい障害物はない。彼らは粉々に砕けたコンクリートの大地をしめやかに走り抜け、コケシマートの前までやってきた。ノボリ旗はもとはコケシマートの平和なロゴだ。そこに混沌の意匠が上塗りされているのだ。
「安い。安い。実際ザリザリ安い」潰れた広告音声をいまだに発する恐るべきスピーカーと、串刺しのマグロや骸骨に、炎が影を投げかける。近寄ってみると、骸骨はフェイクではなく、血腥い暴力の痕跡そのものだ。近隣のスカベンジャーが犠牲になったか。場合によっては、依頼者……。
そして、ナムサン。二階建てのマートの窓にはシャッターが下ろされていたが、正面扉の隙間からは中の光が線状に漏れているのだ。「十中八九、罠」コトブキが繰り返した。マスラダは頷いた。「そして、十にひとつが本当の依頼だ。どちらにせよ、サンズ・オブ・ケオスのニンジャが居るのならば容赦はしない」
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