【アンダーワールド・レフュージ】
【アンダーワールド・レフュージ】
部屋の隅から聞こえてくる鼻歌で、ナボリは浅い眠りから目を覚ました。頭を起こすと、顔に埋め込まれたスゴイテック社製N33式サイバーサングラスの有機EL液晶面にうっすらと緑色の光が灯り、「起動する」のドット文字が浮かぶ。
まだ馴染みが悪い。謎の細いパイプが何本も通され常に数センチほど空いているガラス窓の隙間からは、電力不足で明滅気味の灯りが外からチラチラと忍び込んできて、ナボリの擬似視神経をちくちくと刺激した。こめかみの辺りに頭痛があった。鼻の下を拭ってみたが、幸い、出血は無かった。
部屋の中は暖かく、いい匂いがした。ここには簡易寝台とキッチンしかない。それとモナコだ。彼にはそれで十分だった。モナコは寝室に背を向けて、鍋を火にかけていた。長いピンク色の髪と、とてもいい形のヒップが見えていた。「何してるンだいハニー」ナボリは無精髭を掻き、ぼんやり微笑んだ。
「クッキング」「ケミカル薬物クッキングじゃなさそうだ」「バイオチキンとセロリのオーゾニを作ったから、元気になる」モナコは酷い見た目のスープをよそい、運んだ。味覚は戻っていなかったが、ナボリはそれを貪り食った。モナコは横に座り、少し焦点の合わない目で、にこにこと微笑んでいた。
食事を終え、ミスター・ハーフプライスのニューロンが働き出した。「地上はどうなってる?大金は手に入ったが、ここから出れなきゃ使い道が…」ナボリが問うと、モナコは幸せそうにうんうんと頷いてからキスをして、よく喋る口を塞いだ。舌の上で半ば溶けたシンピテキ錠剤の甘い味が伝わってきた。
『アッコレ』サイバーグラスにLED文字が映し出された。モナコは彼を押し倒して、毛布に包まった。豊満なバストの感覚があった。「そんな事よりファックしよう。そしてもっと寝よう。そうしようー」モナコはべろべろと液晶面を舐めまわした。シンピテキが決まる。ナボリもまんざらでもなかった。
フスマの隙間からはモナコの声が漏れ出していた。狭苦しい木造階段を軋ませながら上階から下りてきたユンコ・スズキは、少し眉根を上げながら彼らの部屋の前を通り、コンクリートと木材とバンブー足場と謎めいた配管とチューブが入り混じった過剰増築建造物の廊下を抜けて、さらに下へと向かった。
ユンコは厚底ブーツを履き、何とか美的センスが許せる範囲のツギハギのサイバーウェアを着込み、それでもサイバネ皮膚が損傷し露出しているメカニカル部には、包帯を巻いていた。片方の頰と目元。それから肩。手首。10月10日の長い戦いの後、オモチシリコンを貼り替える時間も手段もなかった。
「アイテテテ……そっちもまだ痛むかい?」集合住宅(ただそう呼ぶしかない代物)の玄関先で足を投げ出しギターを弾いていたゴウトが、ヘッドホンを外しユンコに微笑みかけた。彼も包帯を巻き脚にはギプス。ユンコは立ち止まり、微笑み返した。ここで笑顔がどれだけ重要か、彼女は来てすぐ学んだ。
「痛覚は切除できるから」ユンコは言った。「いいね」ゴウトが頷いた。「本当は、包帯もクールでカワイイかなって」「カワイイだと思うよ」「ありがと。本業は床屋だっけ?」「まあそういう事で」ユンコは頭のLANケーブルヘアを指して言った。「こういうの、作れる?」「材料が見つかればね」
「そのうちお願いするかも。分けてもらう予定だから、ヴィンテージケーブル」ユンコは後ろ手を振って別れた。「ああ、いいよ」ゴウトは笑い、またギターを爪弾き始めた。ユンコは迷路のような道を進み、上を見上げた。空は無い。どこか遠いところから、旧世紀マグロ冷却装置の稼働音が響いてくる。
ユンコの表情はまた硬くなる。夢を思い出した。過去の記憶ではない純粋な夢を見るのは、ニューロンチップから再生されて以来、ほとんど覚えが無い。どこか知らぬ湾岸部の埋め立て地。山と積まれたオイランドロイドの残骸。その中で仰向けになり、ユンコ・スズキも朽ち果てていた。「ヤな夢……」
水路を越えると、錆びはてたガレージ広場から笑い声が聞こえてきた。それがまたユンコに笑顔を取り戻させた。老人とシェリフバッジの男がデミ太陽光電球の下で座り込み、ショーギを指していた。正確には、モーターチイサイと腕を失ったショーギロボットを隣に置き、二人がその代打ちをしていた。
ユンコは立ち止まらず、広場側に向かって短く手を振った。モーターチイサイが不安定にジャイロ浮遊し、痛んだLED光をチカチカと明滅させて返事をした。ここには多くの奇妙な者たちが暮らしている。過酷な戦いを経て、彼らには傷を癒すための時間が必要だったが、地上に安息の場所は無かった。
彼らに残された避難所は、ここツキジ・ダンジョンの最深部だけであった。ネオサイタマの地表はアマクダリによって完全掌握されている。ここに潜んでいる者たちは皆、統治システム内に発生した異物であり、地上に出れば最後、アルゴスの監視カメラ網に捕捉されハイデッカーにより排除される運命だ。
このシャッター防壁の内側に潜む逃亡者の人数は、総勢で100名近い。老人や子供も含まれるため下水道網で長期間潜伏することは不可能。だがツキジ地下廃墟ならば、辛うじて暮らしてゆける。無論、ここも完全な聖域とは言い難い。いつアマクダリに発見され包囲攻撃を受けてもおかしくないのだ。
ユンコは隔壁を越え、旧世紀の遺物たるロービットマイン採掘所を抜けて進んだ。何人かの者が電子部品の採掘に勤しんでいる。逃亡者の多くは、街を捨ててエクソダスめいた逃避行を選んだコードロジストだ。かつてネオサイタマは猥雑なケオスに溢れ、彼らのような者たちに避難所を提供してきた。
だがアマクダリにより、ヴェールは引き剥がされた。唯一の例外といえば、ニチョームである。だがツキジとは遠く分断されており、ニンジャでなければ往来は不可能。加えてツキジ潜伏が露見する危険もある。ユンコは現在のニチョームについて信じがたい噂を聞いたが、どこまでが真実かは解らない。
かくの如く、逃亡者たちが潜み、傷を癒すツキジ廃墟街。だがこれほどの人数を、アマクダリの監視を逃れながら、如何にしてエクソダスさせたのか?無論ニンジャの力もあった。だがそれだけでは不可能だ。その答えがここにある。ユンコは「大事」と書かれたフスマの前で立ち止まりノックして開いた。
室内には、深い象牙色に変色しケースに赤錆を浮かせたUNIXが山と積まれていた。その中心にはナンシー・リー。彼女は生命維持装置付きの最新鋭エルゴノミックUNIXチェアに横たわり、昏睡状態にある。その横には黒いショールをかけたツイン・オダンゴ・ヘアの魔女。ホリイ・ムラカミがいた。
「容体どう?」ユンコが問う。ホリイが首を横に振る。「時々うわ言をいうだけ。どこか別の世界でも彷徨ってるみたいに」「そっか……」ユンコは眠り続けるナンシーを見下ろした。彼女は皆を避難させる過程で、アルゴスから熾烈なIPスキャン攻撃を受け、再びソウルワイヤード状態に陥ったのだ。
「でもそれも、今日で終わり」「死蔵IPを使えば、アルゴスにここの位置を悟られず、救い出せるはず」「そう。準備がちょうど終わったわ。潜る準備はできた?」とホリイ。「うん」ユンコが頷く。「じゃあざっとシステムの説明を、ここの10台のUNIXがデコイ。ウイルスを仕込んであって…」
ブガー!ブガー!突如、非常LEDボンボリが明滅!「ファック!?」「こちらホリイ、何があったの!」魔女は壁を這う複雑な真鍮パイプ通信網の蓋を開け、問うた!狼狽したコードロジストが答える!『アイエエエエエ!ニンジャ襲撃です!ゾンビーニンジャがシャッター防壁を破壊しアイエエエエ!』
「ゾンビーニンジャ……!?」ついに恐れていた事態が現実のものとなってしまったのか。ユンコは険しい顔を作り、真鍮パイプ通信網に向かって叫んだ。「持ちこたえて!私がニンジャを……!」『ARRRRRGHHH……俺が行く……』その時、別の死体じみた声が真鍮パイプ通信網に割り込んだ。
「嬢ちゃんは来るんじゃねえ……。ここにいるのがバレたら面倒だろ。俺なら、ツキジに居たっておかしくねえんだ……死体だからな」荒れ果てた地下礼拝堂で、ジェノサイドは苛立たしげに通信パイプの蓋を閉じ、ウイスキー瓶を煽って放り捨てた。「……クソッタレめ、面倒ごとが始まりやがった」
ホリイとユンコは視線を交わし、頷いた。一刻も早く、ナンシー救出作戦を開始せねば。ホリイの表情は硬い。ホリイはいまや、アルゴスの攻撃に対抗するための鍵を握るキーパーソンであるとともに、数十人のコードロジストの命を預かる指導者だ。
かつてホリイは多大な危険を冒し、100名以上の住民を連れて、危険極まりない大脱出を敢行した。そして10月10日の夜、ついに追い詰められた彼女らの前に、何らかの運命に引き寄せられるかのように、ジェノサイドが再び現れたのだ。ジェノサイドは彼女らを護衛し、ツキジへと導いてくれた。
「これ以上、一人だって犠牲者を出したくない。でも彼は強い、きっとうまくやってくれる。私たちも」「うん」ユンコがナンシーのUNIXデッキに並列直結し、深呼吸を行った。未ログイン状態。頭の中でナンシーから教わったチャントの数々を反復する。一歩一歩高飛び込み台に向かうような心境。
積み上げられた10台のUNIXデッキに、稀少極まりない死蔵IPがセットされ、ウィルスが仕込んである。あまりにも高価なデコイだ。アルゴスにどれほど通じるか解らぬが、時間稼ぎにはなる。ナンシーに付与するための死蔵IPもある。これらのIPが尽きる前に、彼女を起こさねばならない。
ナンシーの脳波計パターンを見ながら、秒読みののち、ホリイがUNIXにフロッピを挿入し、RUNさせた。ナンシーの生命維持装置からZBRアドレナリンが注入され、体が小さく跳ねるように痙攣する。脳波計が山を描いた。ユンコは祈るようにナンシーとUNIXモニタを交互に見つめていた。
『#SYSTEM: IP DETECTED』デコイUNIXデッキに、システムメッセージが流れ始める。恐るべき速度のIPスキャン!アルゴスの攻撃は予想以上に速い。ナンシーはまだ目覚めない。「呼び掛けて」ホリイが言う。ユンコは目を閉じ、ナンシーのデッキへと並列直結ログインした。
◆◆◆
「アイエエエエエエ!ニンジャだ!ニンジャが出たぞーッ!」高天井の回廊を、見張り番の男が死に物狂いで逃げる。後方からはバネの跳ねるような音と、奇怪な影が迫っていた。「アイエーエエエエエ!」見張りは「マグロ専門」と書かれた低いシャッターをくぐり、暗い廃墟ガレージの中を駆け抜けた。
「電脳埋め込み日帰り」「人生」「築地電脳中心」「ドロイド腕専門」などと書かれたカンバンが散乱するガレージ内を無我夢中で走り抜け、分厚い油の膜で覆われた得体の知れないオフダの並ぶ裏口をドアを開け、広場へ続く通りに出た。意を決し後方を振り返る。あの呪わしいバネの音が聞こえない。
「ヤッタ!」見張りはすぐさま裏口の重いシャッター防壁を下ろした。「これで少しは時間稼ぎが」彼が広場側を振り返った瞬間、廃墟ガレージの上を一飛びしたゾンビーニンジャが、目の前に着地した。そのニンジャは両膝から先に金属製スプリング脚がボルト留めされ、右腕はフック状になっていた。
それはまさしくニンジャ装束を着た動く死体としか形容のできぬ怪物であった。「アバー……」ゾンビーニンジャは見張りに背を向けたまま、緩慢な動きで、首を左右に振った。何かを探しているようだった。「……アイエエエエ……」見張りは腰を抜かし、後ずさった。シャッターが退路を塞いでいた。
見張りは口を手で押さえ、必死で恐怖をこらえた。もう片手でガタガタと鳴る自分の顎を押さえた。「アバー……」ゾンビーニンジャはまだ彼を見つけられていないようだった。横を向いたその両目は濁った黄色に発光し、病んだ粘液によって覆われてていた。蝿が何匹も、腐った肉体の周囲を飛んでいた。
息を潜めていれば、やり過ごせるやもしれぬ。だが、それはこの怪物を先へ進ませることを意味する。負傷者や子供らがいる居住区へ。(ブッダ…!)指先は、床に取り落としたショットガンの柄に触れていた。「アアアア、ブッダチクショウ……!」彼は恐怖のあまり涙を流し、震える手で銃を構えた。
BLAMN!ショットガンが火を吹いた。背中に命中し、怪物は前に2歩、バネ脚でよろめき歩いた。だが、それだけだった。「アバー…」動く死体は何事も無かったかのように、ゆっくりと振り向き、錆びたフックを掲げながら見張りにアイサツした。「アバー、ドーモ、スプリングヒールドです……」
もはや彼の勇気は限界であった!ニンジャ!そしてゾンビー!ありうべからざる超自然的恐怖の融合体を、そして己の無力を目の当たりにし失禁!「アイエーエエエエエエ!」だが、見張りが悲鳴をあげた次の瞬間、火花を散らし回転する鎖付きバズソーが、スプリングヒールドの後方から飛来したのだ。
「ゼツ……メツ!」カラテシャウトが響く!叩きつけられる鞭めいて放たれた鎖付きバズソーは、死の円弧を描きながらスプリングヒールドの頭頂部に命中!そのまま動く死体をカラタケ・カットめいて真っ直ぐに切断!腐肉を切り裂いて股下へと突き抜け、コンクリート床に突き刺さり火花を散らした!
「ア、アバー……サヨナラ!」スプリングヒールドは人体標本めいた断面図をさらして左右に倒れ、爆発四散!「ア……ア……」見張りは目を見開き、声を失っていた。残された蝿の群れは、しばし不満そうな羽音を立てていたが、すぐに次を嗅ぎつけた。強烈なアルコール臭の奥に覆い隠された腐臭を。
その先には、襤褸のカソックコートを纏う別の動く死体が立っていた。見張りは安堵した。それはジェノサイドであった。「呆気ねえ、出来損ないのクズゾンビーが…」彼は苛立たしげに蝿を払いながら、バズソーを引き寄せて袖に仕舞い、一層強力なアルコール度数の酒フラスコを懐から出して煽った。
「こいつが防壁シャッターを壊して入ってきたのか?」ジェノサイドは問うた。「ハ、ハイ」見張りは汗を拭いながら答えた。彼はホリイとともに逃亡してきたコードロジストであり、ジェノサイドが敵ではないことを知っている。そして、決して怒らせてはならないことも。「こいつ一匹か?」「ハイ」
それから2分近く、ジェノサイドは何も返事をしなかった。それどころか、電池の切れた玩具か、あるいは壊れたマネキンめいて、微動だにせず立ち尽くしていた。追い散らされた蝿が寄ってきた。見張りの束の間の安堵を、再び理解不能の恐怖が覆った。
ナムアミダブツ!彼を怒らせてしまったのだろうか。あるいは思案しているだけか。それとも……まさか、死んでしまったのだろうか。見張りが恐る恐る声をかけようとした時、ジェノサイドの腐ったニューロンがようやく再稼働した。「……なら野良ゾンビーだ……整備士でも呼んで穴を塞いどけ……」
見張りは震えながら頷く。ジェノサイドは続けた。「…こいつらは徒党は組まねえ。不幸中の幸いだ…」ツキジ地下には、INWに作られたこのような実験体が何体も徘徊しており、迷い込んだ不運な外敵に襲いかかる。どの野良ゾンビーニンジャも知性は低く、明確な意図を持って行動することはない。
「ア……」見張りは声を詰まらせながら、苦心して言った。「アリガトゴザイマス……」敵ではなかったが、やはり、不気味で、恐ろしかった。「……いらねえよ、礼なんざ」ジェノサイドは舌打ちし、礼拝堂に向かうべく踵を返した。醜い腐肉を隠すため、帽子を目深に被り直し、口元の包帯を直した。
「ブッダのクソッタレめ……」彼は神を呪いながらしばし歩み、この小さな防壁地下街の各所に設置された真鍮パイプ通信菅の前で身をもたげて、状況報告を行った。「ホーリイ、こっちは片付いた。ただの野良ゾンビーだ。たまたまシャッターを超えて」次の瞬間、再び非常LEDボンボリが明滅した。
そして通信菅に響く悲鳴!『アイエエエ!東のコンクリ壁が破壊されて!ゾンビーニンジャ……2匹も……アババババババーッ!』ナムアミダブツ!西のシャッターに次いで東まで!意図的な攻撃を疑う余地無し!「クソの始まりか……!」ジェノサイドは通信管に裏拳を叩き込んで破壊し、走り始めた!
「イヤーッ!」KRAAAAASH!ジェノサイドは最短距離で壁とガラス窓を破壊し、廃墟ガレージを超え、居住区を駆け抜ける。「アイエエエエエエ!」集合住宅前のゴウトが泡を食って道を開けた。ジェノサイドはそのまま集合住宅内の扉を蹴破り、最短距離を突き進んだ!
「こっちか……!」迷宮じみたバンブー木材足場を軋ませながら駆け、階段を登り、電脳オカメの描かれた壁を突き破って三階から着地する。もはや東の防壁は目と鼻の先だ。「「「アイエーエエエエエエエ!」」」入れ違いで、防壁側から逃げてきたコードロジストたちが集合住宅内に避難していった。
ジェノサイドは走り、敵の気配を間近に感じ取って、止まった。十数メートル先、打ち砕かれたコンクリ防壁の近くに、二体のゾンビーニンジャが並び立っていた。左は巨漢。右はカラテカ。……どちらも厄介な敵だ。彼はジャラリと鎖付きバズソーを垂らし、アイサツした。「ドーモ、ジェノサイドです」
「アバー」緩慢なオジギを返すのは上半身裸、筋骨隆隆たる鉛色の肌のスキンヘッド巨漢ゾンビー。皮膚は所々剥げ、紫色の筋組織が露出。口元は鮮肉と鮮血で真赤。人骨を吐き捨てると、ネックウォーマーじみたメンポを上げて臨戦態勢を取った。辛うじてアイサツを返す程の知性。「マンイーター…」
かたや、棒立ちのまま周囲を見渡し続けているのは、いわば腐肉のカラテカ。古い返り血と汚濁が黒い錆のようになって皮膚を覆い、所々がヒビ割れている。その不気味な骸を包む袖無しニンジャ装束は、何故か真新しい。強大なソウルがそれを生成している証。これこそは悪名高きカラテゾンビである。
「テメエはカラテゾンビ=サンだな」ジェノサイドが言った。カラテゾンビはようやく彼を見ると、ごぼごぼと笑い、緩慢にオジギしてカラテを構えた。一触即発。ジェノサイドはバズソーを回転させて牽制しながら、マンイーターを指差した。「テメエらリー先生に言われて攻撃しにきたか、それとも」
それをカラテゾンビが遮った。「ココハ何ダ、何ヲ隠シテイル……」「アア……?」ジェノサイドは訝しんだ。「テメェ、喋れたのか……?」「内側ニ、何カ、隠シテイルナ……」カラテゾンビが言った。「知らねェよ。俺の寝床荒らしやがって。死ね」ジェノサイドは鼻で笑い、バズソーを繰り出した。
ギャギャギャギャギャ!2枚の鎖付きバズソーが唸りを上げて飛ぶ!「「アバー…!」」2体のゾンビーニンジャは雑な防御で腐肉を切り裂かれながらも突き進んでくる!マンイーターは壁を破壊した石材付き鉄パイプを持ち上げ突撃!カラテゾンビは先ほどまでの知性が突如欠落したかのような無表情!
たちまち大立回りが始まった!「arrrrgh!」間合いを詰めたカラテゾンビが、踏み込みながら三連続のネクロカラテパンチ!だが相手もまた死体!「効かねえよ」ジェノサイドが強引なネクロキックを繰り出す!「イヤーッ!」「arrrrgh!」カラテゾンビは防御の上から弾き飛ばされた!
カラテゾンビは受け身一つ取らず、後頭部を分厚いコンクリ壁に叩きつけられた。CRAAACK!後頭部の骨が割れ砕け、脳が揺れる!生身のニンジャであれば即座に戦闘不能の重症!だがゾンビーニンジャにとっては痛くも痒くも無い。即座に起き上がり、濁った白い眼を光らせて再突撃の構えを取る!
「ウオーッ!」時間差でマンイーターが迫る!恐るべきネクロカラテの怪力で、総重量数百キロはある岩盤つき建築杭棍棒を振り下ろす!いかなジェノサイドとて、この一撃を食らえばただでは済まぬ!「イヤーッ!」素早く跳びのく!棍棒は空振りして地面を割り、マンイーターは無防備な側面を晒す!
「イヤーッ!」ジェノサイドはネクロカラテパンチをマンイーターの横っ面に叩き込み、さらに重い膝蹴りを脇腹へ!だが今度は、マンイーターがその体格差の有利を発揮する番であった。「アバー」マンイーターは身じろぎひとつせず、防御も取らずに、腕を伸ばしてジェノサイドに掴みかかった!
ジェノサイドは真正面から組み合い、膂力比べの態勢に入らざるを得ぬ。そこへ背後からカラテゾンビが襲いかかる!「arrrrrgh!」連続のネクロカラテパンチ!「クソッタレめ……!」ジェノサイドの体がわずかに揺れる!「ウオーッ!」マンイーターが一気に押し込みにかかる!
「ふざけやがって……!」ジェノサイドは痛烈な後ろ蹴りを繰り出す!だがカラテゾンビはこれをカラテ本能的に跳躍回避し、後頭部に回転踵落としを叩き込んだ!瞬間、ニンジャシューズの踵から、凶悪な隠し刃が飛び出す!刃は帽子を貫き、ジェノサイドの頭に突き刺さって根元から折れた!ナムサン!
「クソが……!」ジェノサイドの視界が一瞬、真っ白に飛んだ。マンイーターがさらに押し込む。もはやジェノサイドの態勢はブリッジに近い。カラテゾンビはサンドバッグでも殴るかのように、ネクロカラテパンチを叩き込み続けていた。直後、ジェノサイドの怒りが爆発した。
「ARRRRRRRRGH!」ジェノサイドは両目を緑色に輝かせ唸り声を上げた。ネクロカラテが湧き上がり、両腕、両脚の筋繊維の一部が、張り詰めたロープ束めいてブチブチと千切れた。次の瞬間、マンイーターの象めいた巨体は振り回され、放り投げられ、集合住宅の壁に命中していた。
壁は砕け、巻き込まれたカラテゾンビもガレキの下敷きになっていた。マンイーターはすぐに起き上がり、吠えた。ジェノサイドが飛びかかった。戦場は迷宮じみた集合住宅内へと移った。ジェノサイドの視界はチカチカと、途切れ途切れにホワイトアウトしていた。何も聞こえず、何も感じなかった。
まるで三匹の不死の猛獣が暴れ狂っているかのような壮絶さであった。そのうちの二匹は、大熊と象めいた巨体であった。彼らは無人の小部屋から小部屋を、壁を破壊しながら移動し、灰色のコンクリ片が靄のように立ち込めた。その中でカラテが吹き荒れ、骨がへし折れ、血が飛び、腐った肉片が飛んだ。
しばしばジェノサイドはバズソーを振り回したが、狭苦しい通路や壁が仇となり、再び乱闘に持ち込まれた。床が2階層も崩れ、不死の怪物たちは広い貯蔵庫へと落ちた。逃げ込んでいたコードロジストらの悲鳴が上がった。そこはバズソーを振り回すのに適した広さだった。死の旋風を起こすのに十分な。
ナメやがって。俺は……。面倒くせえ……。ゼツメツだ。また全部肉片に変えてやる。彼女を助けりゃそれでいい。誰だ。わからねえ。ジャラリ。バズソーが両の袖から垂れた。
その時、砕かれたガレキ片が引き起こした白い靄の中、ジェノサイドは、過去の記憶の混濁を見た。靄の向こうに見えるぼやけた人影や、敵の影に混じって、ここにいるはずのない者が立っていた。それだけがコラージュされた写真のように、鮮明に浮き上がって見えた。
上等な身なりの少年が、白いシャツを血に汚し、立ち尽くしていた。またテメエか。少年は口をきっと結び、バズソーによって無残に切断されたと思しき母親の片腕を、手繋ぎするように引きずっていた。少年特有の純粋な憎悪の目が、突き刺すように、ずっとジェノサイドを見ていた。クソッタレめ。
幻影は掻き消えた。そしてまた忘れた。クソッタレめ。これが俺だ。永遠に呪われてやがる。死んでも死んでも終わらねえ。SMAAAASH!電池が切れたように立ち尽くす彼の頭を殴りつけるのは、マンイーターにとっていとも容易い仕事であった。首の骨が折れ、殺し屋の体は床に叩きつけられた。
「ジジイ、俺はまた罪を重ねちまったみてえだ。しかも、大半は覚えてねェ……」記憶ノイズ「……肉もソウルも呪われてんのさ、二重にな」ノイズ「悪党の俺にお誂え向きの……腐り果てた体ってことだろ」ノイズ「まだスピリットがある」ノイズ「……真の悪党なら、あなたは罪の意識すら抱かない」
あと少しというところで、記憶ノイズは消えた。彼は仰向けでマンイーターに何度も踏みしだかれ、骨を砕かれ、包帯も帽子もズタズタに切り裂かれていた。肋骨がカソックコートを突き破り、醜悪極まりないゾンビーの姿が露わになっていた。ついに貯蔵庫の床が砕け、落下した。地下礼拝堂があった。
マンイーターはカイシャクせんと、ひときわ大きく足を振り上げた。だがジェノサイドは立ち上がり、組みついた。そしてマンイーターの肩に噛みついた。トラバサミめいた勢いで、腐ったニンジャの肉を食いちぎった。筋繊維が繋がり、呪われた肉体が再生を始めた。獣じみてさらに食いちぎった。
(クソったれめ、死んでる場合じゃねえ)「イヤーッ!」ジェノサイドはマンイーターを殴りつける!(最初っからこうしてりゃよかったんだ)「イヤーッ!」「アバーッ!」ネクロカラテで殴りつける!「イヤーッ!」「アバーッ!」食いちぎる!「イヤーッ!」「アバーッ!」形成は逆転していた!
「ゼツ!」ジェノサイドの投げ放ったバズソーが、マンイーターの右膝を!「メツ!」もう一発が、左膝を切断した!「アバーッ!」「マンイーターだと?ナメやがって!俺はジェノサイドだ!テメエらを食う化物だ!」彼は鋭い爪をマンイーターの両腕に突き立て固定し、牙をむいた。聴覚が戻り始めた。
「「アイエエエエエ!」」暗い礼拝所の隅で震え上がっていたコードロジストの少女と親が、その光景を見、そして聞いていた。上階の穴から注ぐ光の筋に照らされ、今まさにニンジャを喰らおうとする死神を見ていた。「ああ、嬢ちゃんか」動く死体はバツが悪そうに笑った。「ちょっと目を瞑ってろ」
そしてジェノサイドは、マンイーターの首筋に喰らいつき、何もかも噛みちぎって貪った。己の醜い姿とこの秘密を彼らに隠していたクソッタレの悪党にふさわしい、呪われたクソのような味がした。マンイーターは首をカイシャクされ、頭部を転げ落として踏み砕かれ、爆発四散した。「サヨナラ!」
あたりが静かになると少女は恐る恐る目を開けた。地下礼拝堂の怪物は背を向け、ぼろぼろの帽子を拾い上げて被り直していた。少女はもう悲鳴をあげなかった。ジェノサイドは並べてあるスピリット瓶の中から、ひときわ強い度数の酒を呷ると、天井の穴に向かって高く跳躍した。カラテゾンビを追って。
◆◆◆
KA-BOOOM!デコイUNIXの一台がまた爆発した。ホリイは祈るように戦況を見守っていた。死蔵IPをもってしても、アルゴスには敵わぬのか?……答えは解り始めていた。タイピング速度だ。今アルゴスを出し抜くには、死蔵IPに加えて、ナンシー・リー並のタイピング速度が必要なのだ。
ナンシーは実際、どのような状態にあるのか?ホリイにはそれを明確に説明できない。ナンシーと知り合うまで、コトダマ空間へのダイヴは彼女にとっても未知の概念であり、信じていなかった。外から見れば同じハッキングの怪物でも、コードロジストとコトダマ空間認識者は、全く別種の存在なのだ。
ホリイの目から、今のナンシーはまるで、魂を肉体から半ば切り離しているようにしか見えない。数日前、敵からツキジ経由接続を見抜かれそうになった時、ナンシーはIRCの物理切断ではなく、己の自我を電子ネット内へと瞬時に「戦略的撤退」させることを選択し、ツキジIPの露見を回避したのだ。
事前にこの「戦略的撤退」作戦はナンシーから聞いてはいたが、ホリイにその理論自体は全くわからない。また事前の作戦においては、死蔵IPさえ確保できれば、ナンシーはそれを経由し、本来のツキジIPへと自力で帰着し、目覚めるはずであった。だが……この通りナンシーは眠り続けたままなのだ。
理論では説明できない。それはナンシーにとっても同じ事。コトダマ認識者たちは極めて感覚的にダイヴを行っているからだ。(映画とかで、怪物に見つかりそうになった時、逃げたら殺されるけど、息を止めてじっと動かないでいたらやり過ごせる)作戦立案時、ナンシーは肩をすくめてそう説明した。
逆に言えば、コトダマ空間内では絶対というものが存在しない。そこは底知れぬ海のようなものだ。ナンシー・リーは慢心せず、不測の事態に備え、弟子を残して備えた。トラブルが起これば、弟子が呼びかける手筈。だがおそらく……今の問題は……弟子のタイプ速度がまだ足りぬ事なのだ。
それは弟子自身が誰よりもよく解っていた。「ファック……!また失敗したッ……!」ユンコはLAN直結を解除して目を開けると、悔しげに机を叩き、オボンの上にある最後のオーガニック・トロ・スシを食べた。ユンコにはコトダマ空間が認識できない。ナンシー並のタイプ速度に到達できないのだ。
「まだチャンスはある?」「大丈夫、あと1回なら」ホリイは次々に突破されてゆくウイルス防壁を見ながら、険しい顔で言った。「わかった」ユンコが頷く。非常ボンボリが回り続けている。気持ちばかりが逸る。深呼吸しデータを見る。ダイヴのたびにどんどん論理タイプが乱れ、遅くなっている。
トロ成分が補給され、ニューロンとマイコ回路が再回転する。(このやり方じゃダメだ……!やり方を変えるには、どうすれば……!)ユンコは息を荒げ、頭の中でチャントを復唱した。そして……ホリイを一瞥してから、不意に、スイッチでも切り替わったかのように、思いがけない行動をとった。
(やってみるしかないよね…‥!)ユンコは厚底ブーツを脱ぎ、サイバージャケットもシャツも脱ぎ捨て、スポーツブラ1枚になった。UNIXチェアの上で眠る師匠を見た。(ナンシー=サンを助けるんだ…‥!)さらに下半身もショーツだけになった。ナムアミダブツ!これはマイコ回路の暴走か!?
ユンコの体温が急激に上昇している。背中の放熱フィンが開く。またホリイを一瞥する。ホリイには、何が始まろうとしているのか全く解らなかった。彼女はユンコのボディを見るのは初めてだった。驚くほど白く、美しく、しかし所々が焼け焦げ傷つき、痛々しい金属機械部や球体関節が露出していた。
不意に、ホリイはユンコとジェノサイドの間の共通点を感じ取った。そして、それらの傷を凝視せぬよう振る舞った。「どうするの?」ホリイは汗を拭い、デコイUNIXのフロッピを交換し続けながら問うた。アルゴスの攻撃が加速していた。「最後のチャンス、やり方を変えてみる」ユンコが言った。
「わかったわ」ホリイはショールを脱いだ。室内の温度も上昇していた。ユンコのボディは一個のUNIXデッキめいて、限界まで処理速度を上げようとしているのだ。「もし、おかしくなっちゃったら、ゴメン。それはAIのする事だから。私を機能停止させてほしい」ユンコはLANケーブルを握り、冷たい床にザゼンした。
「大丈夫。心配はいらない」フロッピをデコイUNIXに挿入し続けながら、魔女は微笑んだ。ユンコは頷き、目を閉じた。ナンシーの教えを思い出し、呼吸を整えた。それからドラゴン・ユカノがやっていた神秘的な呼吸を真似てみる。ドロイドに肺呼吸の必要性はないが、ネコネコカワイイなどの上位モデルには、人工声帯発声のための呼吸機能が存在する。
「ダメかも……何も見えてこない」無論、そう簡単に到達はできない。それはユンコにもわかっている。己の未熟さがまた焦りを生む。「コトダマ空間さえ見えれば……ナンシー=サンを助けられるのに。私には何で見えないんだろう? 私は人間のはずなのに。ドロイドのボディだからかな……?」
ユンコは後頭部にLANケーブルを直結接続し、呼吸を深めながら、電子音声でつぶやいた。『それともニューロンチップには魂が入ってないとか……そういう理由なのかな……。ドロイドにもちゃんと魂はあるのかな……? ホリイ=サンは、何か知ってる?』「ごめんなさい、ドロイドのことは詳しくない。それに魂の定義は難しそう……」とホリイ。
『そうだよね。ゴメン』ユンコは肉体をAIに任せ、ザゼンを深めた。ホリイはふと手を止め、独り言めいて言った。「……でも、ドロイドには魂が無いから何かができないなんて、誰にも証明できないと思う。動く死体にだって強いスピリットは宿る。本当は心もある。夢も……」
『夢……。そうだ。夢を見たんだった……』数々のモザイクピースが噛み合い、電子とエテルの波が心地よい同期を始めた。ユンコの声は寝言めいたトーンへと変わってゆく。
『夢を見た……』それは素晴らしく心地よい夢。ネコチャンと直結した時に。『私は夢を見れたんだ。ネコネコカワイイと一緒に。借り物かもしれないけど……』そして今日も。どこか知らぬ湾岸部の埋め立て地。山と積まれたオイランドロイドの残骸。その中で仰向けになり、彼女のボディも朽ち果てていた。『ヤな夢も……』
あれも夢なのか。『……それでも、夢は夢だ。IRCコトダマ空間は夢に似ているって言っていた……』彼女はさらに深く、己の内側に潜った。『ハッカーなら、夢だって自由に書き変えられるはず。もし夢がなくても造ればいいんだ。このボディなら、何だってできるはず。だからナンシー=サンも、助けられるはず。……やってやるッ、私は……!』
呼吸がなお深まり、電子とエテルの波が心地よく、そして力強く同期していった。音が聞こえた。誰かの声。誰かの言葉だ。音が。言葉の残響が。世界を揺らしている。……思い出した。あのニンジャの言葉を。父さんの言葉も。サイバーテクノの歌詞も。何もかもすべて。私の中に。言葉の残響となって。生きている。そしてクラブの心地よいビート。
「なんてタイプ速度……!」IRCをモニタリングしていたホリイは驚き、息を飲んだ。堰を切ったように、UNIXモニタに凄まじいログが流れ始めた。ただの論理タイプによるIRCとは比べ物にならぬ速さ!
厖大な文字列。瞬時に。チャネル内の世界を。満たす。認識する。書き換える。定義する。飛翔する!意のままに!
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「わっ」ユンコは宙に浮かんでいた。 ネコチャンに繋いだ時と同じ、見渡す限り真っ白な無限遠の空間に、神聖なるサイバーテクノが鳴り響いている。自分の体は、あの日、カンオケの中で目覚めた時と同じ、最高のオイランドロイド・ボディに、お気に入りのサイバージャケット。苛立ちも不安も焦燥感も消え、精神は最高にゼンが決まっている。
そして、見つけた。ナンシー・リーを。胸の奥があたたかい熱を帯びる。ユンコはなめらかな宇宙遊泳めいて近づき、声をかけた。「オハヨ」「あら」ナンシーが目を開いた。「迎えに来たよ、ナンシー=サン」ユンコは音楽に合わせ、ゆっくりと無重力回転しながら、気持ちよさそうにサイバーステップを刻んでいた。少し誇らしげに。
「死蔵IPを使ったのね。動きは見えてたわ。ずっと意識はあったから」「意識があったのに、どうして物理肉体に戻れなかったの?」「それがね、アルゴスの監視をかわすために急いでたものだから、引っかかっちゃったみたいで……」
ナンシーは下半身の方を指差した。彼女の論理肉体の一部は、白く大きな立方体オブジェクトに重なり、埋まっていた。何らかの神秘的演算事故が起こったのだ。「面目無いわ」彼女は少し恥ずかしそうに肩をすくめた。
「どうしよう」ユンコは、ナンシーがめりこんでいる真っ白な立方体オブジェクトに触れながら、首をひねった。物理世界での事態は実際一刻を争う。だが論理空間で全てはニューンの速度。二人はいつものアジトにいるような穏やかな口調で会話した。「時間が無いから、KICKしてみようか?」「そうね、やってみて。それで強制ログアウトできるかもしれない」
二人はタイミングを合わせるため、同時にチャントを唱えた。『『**素早い茶色の狐が怠惰な犬を飛び越す**……!』』瞬間、ユンコが光のストリームと化し……KICK!SMAAAAAASH!ナンシーの論理肉体をトラップしていた立方体オブジェクトが砕け散る!だがナンシーの体の一部も01消滅!
「……いけたッ!?でもナンシー=サンの体が……!」「再構築できる!まずはログアウト!IPを辿るわ!飛んで!」「ラジャー!」急加速!二人は横に並び、亜光速めいた螺旋飛翔!七つのトリイ・ゲートウェイを逆に辿る!アマクダリ・ネットの監視をかわす!光に包まれる!そして……
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『切断しました』カエルAIアドバイザが言う。ユンコは目を見開いた。サイバネアイのAI表示が入れ替わり、ユンコ自身がボディの制御権を取り戻した。
ユンコは白昼夢から覚めたように、伸びをし、満面の笑みで辺りを見渡した。自分の手や体を見て、物理空間である事を確認した。ゆっくりと立ち上がる。
だが、ナンシーはまだ眠っていた。ユンコは急に泣きそうな顔を作り、ホリイを見て、口をぱくぱくさせた。発声が必要な事を思い出した。
「……ホリイ=サン!どれだけ時間が経過した!?ナンシー=サンは!?何で目覚めないの!?何か失敗!?でも、ちゃんと見えたのに!コトダマ空間が!そして一緒に飛んで!もしかして、この全部が夢で…‥!?」
「大丈夫よ、落ち着いて」ホリイはナンシーの脳波計を指差した。それは徐々に、力強い波形を取り戻していた。「大丈夫。あなたは成し遂げた」
ホリイはPINGをタイプした。レスポンスがあった。注入された低量ZBRが優しく彼女のニューロンに、神経組織に染み渡る。ナンシーは目を覚まし、UNIX椅子の上で身を起こして、軽い頭痛を堪えながら、不敵な笑みを作った。
「お待たせ。さあ、どこから始……」「ナンシー=サン」ユンコが抱きついた。「きっと認識できると思ってたわ、コトダマ空間を」ナンシーも小さく笑い、弟子の偉業を讃えた。
まるで本当の家族のように抱き合い生還を喜ぶユンコを見ながら、ホリイはデコイUNIXからフロッピーを抜いていった。アルゴスとの戦闘は既に終わっていた。デコイUNIX作戦は圧倒的な敗北を喫した。それでも……「ドーモ、ナンシー=サン。接続の秘密は守り通された。ここはまだ、アマクダリに知られていないから安心して」
「ドーモ、ホリイ=サン。コードロジストが留守を守っていてくれて、助かったわ。アルゴスの監視と検知速度は、私の予想を超えていた。10月10日以前より、ケタ違いに速くなった……」ナンシーは答えた。「カスミガセキ・ジグラットと月面を接続したに違いないわ」
ナンシーは肩をすくめた。「でも、それで私の弟子がコトダマ空間に覚醒出来たのは、ヒョウタンからオハギ」「まったく、あんな怪物とチェイスするなんて」ホリイはデコイUNIXに仕込んだウイルスの無力と、破壊の爪痕を見ながら気丈に言った。「……でも、おかげでこっちもログを得た。古のTELNETプロトコル」
旧世紀の電子魔術めいた奇怪な言葉が飛び交うさまを、ユンコは殆ど理解できぬまま、ただ頷いて聞いていた。最終決戦の武器が鍛え上げられようとしているのだと、感覚的に解った。「作れるの?アルゴスを滅ぼす疫病を」とナンシー。
ホリイは小さく頷いた。「このプロトコルとログがあれば、対アルゴスのウイルスを作れる。でも問題は時間ね。そう簡単には完成しない。それまでにこちらの動きが察知されたらアウト。幸い、死蔵IPはまだ残って……」
SMASH! ノックと呼ぶにはいささか激しい打撃音で、強化フスマが揺れた。室内のアトモスフィアが瞬時に張り詰めた。「……ジェノサイド=サン?」ホリイが問う。だが廊下側から返事は無かった。
「室外。ニンジャソウル検知、ポジティブ。バイタルサイン、ネガティブ……」ユンコが険しい表情で言い、まだ動けぬナンシーを守るように椅子の横に立った。「ゾンビーニンジャ……? まさか、リー先生が……?」ナンシーが舌打ちした。
SMAAASH!SMAAASH!廊下側から、強化フスマにカラテが叩き込まれ始めた!「ニンジャスレイヤー=サンは」「まだピグマリオンを探してる」「傭兵二人は」「別作戦で外」ユンコは拳を握り、ホリイも身構えた。
SMAAASH!強化フスマが変形!もはや疑うまでもなく敵の攻撃だ!「電算機室アンダーアタック!電算機室アンダーアタック!」ホリイは通信パイプに叫んだ。「カエル、戦闘AI、頑張れ」ユンコは深呼吸しカラテを構えた。銃弾は無い。テクノカラテでやるしかない!「……来る!」ユンコがカラテを構え、警告を発した。直後。
SMAAASH!強化フスマはカワラ割りめいて破壊された。廊下側の暗闇の中で、濁った目が白く発光する。「arrrrgh」電算機室の中にいた女たちを見渡し、緩慢なザンシンを決めるのは、動く死体、カラテゾンビであった。「ハ……ハハハハハ……」それは不気味な笑い声をあげ、歩み入った!ロウゼキ!
「カラテ!」ユンコが飛びかかった!「イヤーッ!」ジャンプからの脳天肘打ちだ!カラテゾンビはこれを両腕で防御!「イヤーッ!」ひざ蹴り!これも防御!「イヤーッ!」左右のボディーブロー!全く意に介さず、カラテゾンビは回し蹴りを腹部に叩き込み、ユンコを蹴り飛ばす!「ピガガーッ!」
何たるカラテ力量差!「arrrrg」カラテゾンビは弾き飛ばされたユンコに向かってカラテを構え、本能的なカラテを開始しようとしたが……「アバッ」ビクンと痙攣!見えない手で動かされるように、ナンシーらの側に向き直った。「ナルホドナ、コレガ、秘密カ…?」不気味に笑い、歩み寄る!
「モット近クダ…見セテミロ……蛆虫ドモ、コノ蛆虫ノ巢ニ、何ヲ隠シテイタ…ハァハーハー、ハー……!」「ファック野郎……!」ユンコが再び側面からカラテ攻撃を仕掛ける。「…邪魔ダァ」「ピガーッ!」裏拳の一発で再び打ちのめされる!BLAMBLAMBLAM!ホリイが震えながら発砲!
銃弾は数発命中したが、死体は平然と歩き続ける。緩慢な動きで室内を、ホリイを、ナンシーを見渡す。ユンコは項垂れ、トロ欠乏状態。BLAMBLAMBLAMBLAM!ホリイはトリガを引き続けた。一発が頭に命中した。「蛆虫ガ……」カラテゾンビは苛立たしげに、ホリイへと腕を伸ばした。
ホリイが叫び声をあげた。次の瞬間、カラテゾンビの体は高速で、斜め後方に吹っ飛んだ。そして脳天から床に激突!「イヤーッ!」「アバーッ!」頭蓋破壊!果たして何が!?ジェノサイドである!「ふざけやがって……!」廊下から駆け寄った彼は、敵の後ろ襟首を掴み、力任せに叩きつけたのだ!
「アバー」カラテゾンビはネクロカラテで抵抗しようとした。だがジェノサイドは離さなかった。再び振り回し、後頭部を床に叩きつける!「イヤーッ!」「アバーッ!」脳漿粉砕!さらに廊下側へと力任せに放り投げる!「イヤーッ!」「アバーッ!」壁に背中を叩きつけられるカラテゾンビ!
ジェノサイドは即座に廊下側へと跳躍!凄まじい重量を乗せた飛びヒザ蹴りを繰り出した!「イヤーッ!」「アバーッ!」カラテゾンビの頭蓋を鉄壁との間でクルミ割り!CRAAAACK!骨の割れる破砕音が響く!ナムアミダブツ!
全てはニンジャの速度であった。ホリイやナンシーの目には、黒い風が一瞬巻き起こったようにしか見えなかった。廊下の暗闇で、死者と死者のカラテは続けられていた。「アバー」カラテゾンビは頭を潰されてもなお動き続けた!何たるカラテ執念!首無し腐肉カラテカと化し、セイケンヅキを放つ!
「ふざけやがって……!イヤーッ!」「アバーッ」ジェノサイドは鳩尾を蹴り上げ、カラテゾンビを廊下の先へと弾き飛ばす!「ゼツ!」そして見よ!両袖から鎖付きバズソー!ギャリギャリギャリギャリ!放物線軌跡で空中を飛ぶカラテゾンビめがけ、狂乱せる刃の嵐めいて投げ放った!「メツ!」
SPLAT!SPLAT!空中で死体は4個の肉片へと切断!なおも唸りを上げ乱れ飛ぶバズソー!肉片は8個に!16個に!32個に!ナムサン!もはや原型を留めぬネギトロめいた腐肉片が床に降り注いだ!「死にやがれ」ジェノサイドは得物を引き寄せる!「サヨナラ!」カラテゾンビ爆発四散!
「……気配は、これで消えたか……?」ジェノサイドは独りごちた。彼は最初の戦闘時から訝しんでいた。それは確信に変わっていった。おそらくは、ジツ。何らかのジツで、別なニンジャの気配が、カラテゾンビの中に入り込んでいたのだ。
「……クソみてえなイカサマをしてる奴がいるって事か……」目的はおそらく、偵察。それはカラテゾンビのみならず、マンイーターや、スプリングヒールドの間を飛び回り……。「イヤーッ!」突如、ジェノサイドはバズソーを投げ放った!廊下の先から接近してくるニンジャソウルを感知したのだ!
「イヤーッ!」暗闇の中で長い爪が閃く。ギャリンと火花が散って、バズソーの鎖を華麗に絡め取った。ワザマエ!「ドーモ、ジェノサイド=サン」暗闇の中から現れたのは、吸血鬼じみた目を持つ、白衣のニンジャ。「テメェか…」ジェノサイドは唾を吐き捨てた。「ドーモ、ブルーブラッド=サン」
「説明してみろ。リー先生が契約を破りやがったか……?殺し合うか?」ジェノサイドは怒りを堪えながら、もう片方のバズソーで威嚇した。「まさかまさか!こんな事になっていたとは!」ブルーブラッドは嘆いた。「ああ!カラテゾンビも死んでしまったか!」「……どういうことだ。説明しろ」「アマクダリの仕業ですよ」
◆◆◆
そこから直線距離にして三百メートルほど離れた場所。ツキジ・ダンジョン内の暗いコンテナのうちに身を隠し、乱れた呼吸を整える、ひとりのニンジャがいた。タタミ1畳分しかないそのスペースには、半分ほど食べられたトロ・スシ入りのオボンや、奇妙な漢字が書かれた藁人形が転がっていた。
このアマクダリニンジャの名は、パペットマスター。複数の死体を同時に操り、その視界をのぞく不可思議なジツ、ミマカリの使い手であった。彼はコンテナを内側から押し開けると、自らがここにいた痕跡全てをフロシキに仕舞い、跳躍。ツキジ地下迷宮の闇の中を、地上に向かって駆け出した。
「フハハハハ……!揃った……!」パペットマスターは溝を駆けた。彼に与えられていた任務は、INWの監視。「掴んだぞォ……INWの裏切りの決定的証拠をなァ……!まさかナンシー・リーまでもが……!」邪悪な笑みを禁じえなかった。あとはこの情報を地上まで運び、セクトに報告するのみ。
……「ねえ、リー先生。だそうですけど、いかがいたします?」遠く離れたINWラボ。フォーティーナインはケミカルキャンディめいた甘い声でリー・アラキに問うた。彼女はフブキ女史の姿をとっていたが、その肌はくすんだ水色、エテルの白衣を着て、ネガティブカラテの力により浮遊していた。
「ンンー?困るねェー、こういうことをされると非常に困る!何より面倒!」リー先生は仮説構築の手を止め、怒った。そしてまたすぐに仮説構築に戻った。「ですわよね!」「処分しておいてくれるかねェー、フブキ君」「アアーン!もちろんですわ、先生!」彼女は嬉しげに空中で身をくねらせた。
「……ウム?」パペットマスターは怖気を振るい、足を止めた。誰かに見られている……?周囲を見渡した。見えぬ。だが、何かが。暗闇の隙間で。確かに蠢いた。「何が……」えもいわれぬ胸騒ぎが、彼のソウルを押しつぶし始めた。
得体の知れぬ恐怖。四方の闇。床の裂け目。配管の影。天井に開いた穴。通風孔。全ての暗闇に、何かの気配を感じた。ツキジ地下そのものが、巨大な一個の怪物であるかのような。己は始めから、その暗黒の胎内にいたのではとすら思え始めた。恐怖でパペットマスターは凍え、視界が回転し始めた。
どこまで逃げても、覆いかぶさるような巨大な意識と、コンクリートの亀裂の中に隠れた何かの蠢きが!コワイ!「イヤーッ!」彼はこの呪われた場所から一刻も早く逃げ出すべく、連続跳躍を打った!直後、マグロ倉庫の影からイカめいた大触手が何本も伸び、彼を空中で絡め取った!「アイエッ!?」
「アイエーエエエエエエエエエ!」パペットマスターの体はそのまま闇の中に引きずり込まれ、ツキジ下層部全域に根の如く隠されている巨大な肉塊の中に消えて果てた。これこそがツキジ・アンダーワールド。INWの支配する世界であった。闇の中で断末魔の悲鳴!「サヨナラ!」ナムアミダブツ!
「処分いたしましたわ、先生」フブキがリー先生の仮説ノートをちらちら覗き込みながら言った。「うむ」「それにしても先生、凄いんですのね、これ」「凄いねェー、フブキ君」壁に掛けられた大型UNIX画面には、数日前にナンシー・リー達から買い取ったアマクダリ機密情報が映し出されていた。
「まあいずれ、攻めてくるだろうねェー。だからさっきのもゾンビーにしておいてくれると嬉しい」「勿論ですわ、もうしてありますの!」「流石だフブキ君!ますます有能になった!それに興味深い!ちょっと撫でてあげたい!」「アアーン!もう無理ですわ、こんな体になってしまっては!」
「そこがイイのだ!幽体と肉体!コトダマ空間と物理空間の関係を解くカギかもしれん!…ちょっと出てきたまえ。いるんだろう?」「まあ!知ってましたの、先生!?でも…怖くありません?」排気口からイカめいた触手が恐る恐る顔を出していた。「恐怖なんてのは、無知から来るものだからねェー」
「まあ先生そんな!先生そんな!いけませんわ!嬉しいですわ!アアーン!」「アーッ!フブキ君!ちょっと待ちたまえ!アーッ!だめだ!アーッ!」
◆◆◆
かくしてアマクダリの斥候は握りつぶされ、全てが終わり、束の間の平穏が戻ったコードロジストたちの防壁都市……。その地下礼拝堂では、ジェノサイドがひとり、強いハーブ臭のズブロッカを煽っていた。
扉がノックされた。ジェノサイドが入っても良いと言うと、ナンシーとホリイが現れた。彼女らが何を話しにきたのかは解っていた。リー先生とIWNについてだった。「……少なくとも、今回の件については嘘じゃねェ……アマクダリは元々INWを潰すためのきっかけを探してやがったのかもな……」
「ではINWが私たちを裏切った可能性は今の所、無いわね」とナンシー。「ハ!ハハハハハ!」ジェノサイドは笑った。「そうだ。いいか、ここはツキジの腹ン中だぜ。INWがその気になりゃ、全員即座にジゴク行きさ。電波も雷も届かねェ。……一番安全で、一番危険な場所に逃げ込んだんだ」
この一か八かの賭けにも似た危険な取引を思いついたのは、無論、ナンシーとホリイ。それを実際に繋いだのは、ジェノサイドであった。さらに傭兵ブラックヘイズもリー先生とコネを有していた。だが…実際に交渉を重ねてみても、ナンシーにはまだ、リー先生の腹のうちが何一つ見通せぬのだった。
「改めて、率直な意見を聞きたいの。貴方が多分、一番リー先生について詳しい」ナンシーは険しい顔で言った。「危険だけど、実際私たちはその力によって保護されてる。リー先生の最終目的は、何?契約を絶対に守る男なの?あるいは知的好奇心の赴くままに、軽々と約束を反故にするような男?」
「……」ジェノサイドは酒を飲み、思案した。それは長い思案だった。「知らねェよ……。そもそも、知ってどうする?お互いに利用するしかねェんだろ?ここの全員、ジゴクに片足突っ込ンでんのさ」「ま、そうね」ナンシーが諦めたように肩をすくめた。「今は皆、傷を癒せるだけでも有難いわ」
「あんたも全く、大した根性だな。どうだい、三人で一杯やらねェか?ジゴクも案外、居心地が良いかもしれねェぜ……」「そうね、少なくとも、地上で生きていけない者の安息所」「今は、それで十分かもね、傷を癒して、武器を研ぐ」「ああ、地獄の炉で武器を鍛えりゃいいのさ。……あと何日だ?」
「……鷲の翼が開かれるまで、あと90日」
【アンダーワールド・レフュージ】了
N-FILES(設定資料、原作者コメンタリー)
アマクダリ・セクトと治安維持機構ハイデッカーは、ネオサイタマ全域を暗黒秩序管理下に置いた。帰るべき場所を失った抵抗者たちは、ナンシーの手引きによって秘密の避難所へと次第に集い、電子的反撃の準備を整える。そこはアマクダリ幹部の一人、リー先生の支配領域たるツキジ・ダンジョンであった。メイン著者はフィリップ・N・モーゼズ。
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