【グッド・タイムズ・アー・ソー・ハード・トゥ・ファインド】
◇総合目次 ◇エピソード一覧
この小説はTwitter連載時のテキストに若干の加筆修正が行われたリマスター版です。このエピソードは書籍に収録されていないエピソードです。また、第2部のコミカライズが、現在チャンピオンRED誌上で行われています。
1
「スミマセン。仰る意味がわかりませんね」温厚無害な笑みを張り付かせた紳士は微かに首を傾げて見せた。「アー……」後ろで手を組み、書棚の前を所在無さげにゆっくり歩きながら、長身白髪の男は続く言葉を探しているようだった。
「まあなんだ。そういう無駄な遣り取りはナシにしようや、校長殿。確証無しにこんな話はしねえよ」紳士は卓上で革手袋に覆われた手を組み、眉根を寄せる。「確かに酷く困惑させられるお話で、恐怖を覚えます。私は責任ある立場です。彼女らは未来のネオサイタマを背負って立つ天使達だ。それが……」
「なあ。やめにしようや」男は強い調子で遮った。足を止め、校長を振り返る。感情を抑えている。校長は彼の凝視を、悲しげな溜息とともに受け止める。「貴方がクライアントから受けた依頼は、あくまで彼女の件でありましょう? 一方、今貴方がなさっている、唐突かつ荒唐無稽な憶測……」「やめに。しようや」
「ンッ。フッ!」校長は肩を震わせた。「ンッフッフッフッフッフーン……」それは笑いだった。「その姿勢、プロフェッショナルのそれとは違いますなあ。ゴミを漁らねば鳥撃ちに撃たれる事もない! よからぬ寄り道は貴方のクライアントにも失望をもたらしましょうなあ!」
その瞬間、男のコートの袖の中からディリンジャーがスライドし、それぞれの手に握られていた。男は校長に二挺のディリンジャーを向けた。「イヤーッ!」校長は黒檀の机を片手で跳ね上げた! なんたる腕力……まるでニンジャだ!
BBLAMNN! 銃撃は一瞬遅く、机に遮られた。男はディリンジャーを素早く捨てると、主武器である49口径マグナムをホルスターから引き抜き、両腕をクロスさせる独特の構えをとる。ピストル・カラテ!「イヤーッ!」校長は回し蹴りを繰り出し、男に机を叩きつけんとす!
BLAM! 男は左手のマグナムを横に撃ち、その勢いで回転しながら身を沈め、飛来した黒檀の机をスレスレにかわした。一瞬後、彼は右手銃を校長に向け、発砲した。BLAM!「イヤーッ!」校長は流麗なブリッジで銃弾を回避!背後の壁にかかった「不如帰」のショドーが破砕!
ブリッジからバック転を繰り出し、広い部屋の端まで飛び下がった校長の顔には、おお、ナムサン……禍々しいメンポが装着されていた。ネクタイを外し、スーツの上着を丁寧に壁のハンガーにかけると、そこにはダークグリーン装束のニンジャが立っていた。「ドーモ。ファフニールです」
先手を打ってオジギした恐るべきニンジャ存在に対し、男は怯まずオジギを返した。なぜなら彼もまたニンジャだからだ! オジギから顔を上げた白髪男の顔にはカラスじみた色の覆面マフラーが巻かれていた。その色は、額に刻まれた黒い渦めいた傷跡と同じ色である。「……ドーモ。ディテクティヴです」
「ニンジャに嗅ぎ回られるのはあまり良い気分とは言えません」ファフニールは埃を払う仕草をしたのち、カラテを構えた。周囲の空気がじわりと陽炎めいて滲んだように見える。「さて……貴方は実際、どうするおつもりですかな? 罪の証拠を叩きつけていい気になれば……それで物事が解決するとでも」
「……」「実にその……ものぐさなモータルの悪癖と思いませんかな? 議論に勝てばそれで相手を黙らせられると……以て事態を打開できると考えてしまう……こんな愚かな勘違いはない。真実とは即ち、恐怖と権力です」「現実的だなァ。結構だ」ディテクティヴは言った。「生徒にもそうやって教えてンのかい」
「彼女らは芸術品だ。利発で、正義感と、希望に溢れている……フクククク」ファフニールの邪悪な瞳が細まった。「競争を経てモノになるのは一握り。しかし私は落伍者達にもそれなりの価値を付与してあげているわけだ」「ベラベラと喋ってンのは自信のあらわれッてワケか?」「貴方は油断が過ぎる」
「暖かい気遣いだな」二者の会話は張り詰めた糸のような危うい緊張の上で行われている。攻撃の糸口を見出し次第、お互い即座にカラテを仕掛けるのだ。「貴方はたった一人で私を追い詰めにかかった! 密室で! 尤も、この学園の人間は全て私を庇うでしょうな。私には地位と名誉があり、貴方は野良犬だ」
「悪い。聞いてなかった」ディテクティヴのサイバネアイにボンボリ光が反射。「あのな、俺はな。怒ってるぜ」「私は面倒だと感じています」「イヤーッ!」ディテクティヴが仕掛けた。ファフニールが応じた。BLAM、BLAM、BLAM。ピストルカラテのムーブのたび、校長室の調度が吹き飛ぶ。
「イヤーッ!」ディテクティヴの大振りのハイキックを、ファフニールは身を沈めて躱す。ファフニールはチョップ突きを構える。大技の隙を突き、脇腹を貫く構えだ。だがディテクティヴにはもう一手ある。彼は蹴りを繰り出しながらマグナムを斜めに撃った。巨体が反動でさらに回転した。
「何」ファフニールが片眉を上げた。直後、側頭部に恐るべき速度の左肘打ちが叩き込まれていた。「グワーッ!」ファフニールの首が衝撃で150度回転した。ディテクティヴは右手のマグナムを既に構えており、左脇の下越しにファフニールの心臓を狙い、残る全弾を撃ち込んだ!
糸の切れたジョルリ人形めいて、ファフニールはぎこちなく後退した。胸に空いた大穴を見下ろし、呻いた。「アバーッハッハッ、ハー……ハハハ」白目を剥いていたファフニールはにわかに焦点を取り戻し、侮蔑的にディテクティヴを見返す。ディテクティヴは左手のマグナムを構えた。「イヤーッ!」
BLAM! ディテクティヴの銃弾がファフニールの額を貫く事はなかった。ファフニールの右手は一瞬早くディテクティヴの左手を掴み、狙いをそらしていた。ファフニールは関節の逆方向に捻じった。「グワーッ!」ディテクティヴは呻き、右のマグナムに……「イヤーッ!」「グワーッ!」
ファフニールの拳がディテクティヴの頬骨を一瞬早く捉えていた。ディテクティヴは怯んだ。ファフニールな更に拳を振り上げた。ディテクティヴはマグナムを持った右手を差し上げ、額を庇った。ファフニールは邪悪な愉悦に瞳を赤く光らせた。がら空きの肋に強烈な蹴りが突き刺さった。
「グワーッ!」ディテクティヴが床に沈む。ファフニールは踵を振り上げる。カイシャクだ。ディテクティヴは横へ転がり、ストンピングを躱す。身を起こそうとする。「イヤーッ!」ファフニールは背中に蹴りを叩き込む。「グワーッ!」KRAASH! ベランダ窓が破砕、ディテクティヴが転がり出る。
「イヤーッ!」「グワーッ!」ファフニールは長身のディテクティヴをズダ袋めいてベランダから蹴り出した。校長室は二階。空は夜。外は雨。ディテクティヴは大の字になり、下の地面に叩きつけられる。一方のファフニールはひらりとベランダから飛び降り、優雅に着地した。
「死は甘美。恐れる事はない。誰かがそう言った。私はそうは思いませんが」ファフニールは死にゆくディテクティヴを見下ろし、呟いた。「そこそこ場数を踏んで来たニンジャ。カラテに自信もあった事でしょう。残念ながらセンシの誰もが英雄的に死ねるとは限らない。不注意、ウカツ、力不足……」
「オイオイ……マジか」ディテクティヴの言葉は音にならなかった。「……参ったぜ……」彼は再度のカイシャク動作を取るファフニールの肩越し、ぬるい重金属酸性雨を降らせる空を見上げた。雨雲の僅かな切れ目に月が顔を出し、ドクロ模様は敗者を嘲笑った。「インガオホー」
【グッド・タイムズ・アー・ソー・ハード・トゥ・ファインド】
キカ・ヤナエは眠っていなかった。痣が痛んで発熱している事もある(奴らは、服の上からは見えない箇所を傷つけた)。雨の音が、いやに耳に障る事もある。しかしそれらとは別の、言葉にしづらい、「アトモスフィア」と言う他ない何かが、彼女を眠りに逃がさなかった。
痛みや怪我には耐えられる。屈辱にも。傷は耐えればそのうち治る。心は閉ざせばそれで済む。彼女にはどうでも良いことだった。だがこの夜、彼女は胸騒ぎをおぼえた。下のベッドのユマナを起こさぬよう、床に降りて横切り、窓のサッシを少し押し開いた。
雨はぬるい。キカは窓から顔を出し、左右を確かめる。また部屋を横切り、ユマナを起こさぬよう、コートを取り出し、しめやかに羽織ると、窓枠を乗り越え、外側にぶら下がった。そしてそのまま下へ降りた。大胆な行いだ。雨であろうと、警備員は犬を連れ、常に敷地内を巡回している。
キカは自分が降りた二階窓を、一度見上げた。部屋にユマナしか居ないところにサモダ女史がやってくれば、二人とも、かなり、よくない。早目に戻った方がいい。だが、キカは確かめたいと思った。胸騒ぎが気のせいであるという安心を得るには、もう少し歩かねば。
校舎沿いに、彼女は駆ける。どこへ向かえという確証があるわけではない。アトモスフィアだ。「……」泥を撥ねて彼女は立ち止まる。前方でヒトダマめいて、ゆらゆらと光が揺れる。彼女は近くを見渡し、植え込みの茂みに身を潜めた。……近づいて来たのは、やはり巡回警備員だ。犬もいる!
「……」キカはじっとやり過ごそうとした。雨は僥倖だ、犬の嗅覚をごまかすことができる。ごまかしきれるかは、わからない……。「ハーッ……ハーッ……」犬は荒い息を吐きながら通過する。キカの方向を見ようとする。コンマ数秒。犬はすぐに茂みを離れた。リードを引く警備員を引っ張るように、先を急ぐ。
キカはひとまず安堵。茂みを出て、そのまま進む。左手に大人達の寮。雨はぬるい。やがてレンガと瓦の塀。瓦は電導素材で作られており、変質者やペケロッパ・カルト、生徒との逢引を試みるヨタモノに対して致死的バリアとなる。同時にそれは、内に暮らす生徒を外の退廃世界に放たぬようにする鳥籠の意味も持つ……。
厳しい建物、塀、刈り揃えられた生け垣。心安らぐものではありえないが、いつもと変わらぬそれらの質感が、彼女を鎮めてくれそうだった。気のせいなんだ。帰ろう。迷惑がかからぬうちに。キカは雨水の滴る髪を撫でつけ、顔を上げた。息を呑んだ。
遠目に、確かに見た。礼拝堂の裏手で影が蠢いていた。
「……」彼女はツバキの木の陰に隠れ、見守った。彼女は祈った。不安な予感を打ち消そうとした。影は人間だ……男だ。何人かの。闇に目が慣れて来ている。彼女は雨の中、目を凝らす。何人かの……警備員? それから、傘をさしているスーツ姿の男……校長だ! 何をしているのだろう?
警備員が何をしているのか、やがてわかった。土を掘り返しているのだ。校長が見守る中、大きなスコップを振るい、ザクザクと。雨を通し、キカの耳はどこか後ろ暗さのある行為を捉えている。やがて彼らは穴を掘り終えたか、互いに言葉をかわし、次の作業に移った。大きな長方形を抱え上げたのだ。
警備員達は雨の中、キアイ声を上げ、掘り返した穴の中に、長方形の物体を降ろす。あれはカンオケなのだ! 中に人が? 中には何者が? キカは緊張に震え、爪が食い込み血が出るほどに強く拳を握った。警備員達は再びスコップを手にし、カンオケに土を被せていく。当然そこは墓地ではない!
カンオケを埋めて土を固める一部始終を見守るわけにはいかない。キカは後ずさった。枯れ枝を踏み、雨の中でパキリと鳴った。校長の光る目が彼女の方向に素早く向けられた。キカは息を止め、じりじりと下がった。警備員が校長になにか声をかけた。校長がそちらを見た隙に、キカは走り出した。
それからどうやって再び宿舎に駆け戻り……自室の二段フートンの上段に潜り込んだか……キカは覚えていない。キカは雨と泥で酷い状態だった。さすがにユマナは物音に目を覚ました。「キカ=サン?」眠い目を擦りながら身を起こした彼女は、驚いて叫びそうになった。キカはしぐさで彼女を黙らせた。
「ちょっと……何して来たの!?」ユマナはキカの濡れた髪をタオルで拭き始めた。「眠れなくて」「こんなに降ってるのに?」ユマナは呆れた。「キカ=サン、時々びっくりするような事をするよ!」「大丈夫だった? 部屋に誰も来なかった?」キカは尋ねた。ユマナは思い出したように、「来てたらヤバイだよ?」と咎めた。
「本当にスミマセン」キカは詫びた。ユマナは叱った。「見つかったら、罰があるよ。配膳、掃除、ショドー! 連帯責任!」そして、急にキカの腕をぐいと引いた。「何、これ……」ユマナが気づいたのはキカの背中の痣だった。「どうしたの、これは」「さっき転んで」キカは滑らかに答えた。「痛かった」「バカ! 変な事するからだよ」
「気をつける」キカは呟いた。彼女はユマナの言葉を上の空で聞き流した。ユマナは明るく、物怖じする事がない。事情を知ればユマナは正義感から首を突っ込むかもしれない。そうなれば彼女にも累が及ぶだろう。無駄に他人が苦しむ事はない。それはキカにとって迷惑でもある。
夜着を乾いたものに着替え、キカはすぐに横になった。ユマナはまだあれこれと尋ねてきたが、キカは寝たふりをした。キカは、放っておいてもらうのが一番いい。ユマナやヤナエ夫妻ような人間は、そういうキカの気持ちを、本質的には理解できない。遠慮をしているのだと決めつけ、何かと世話を焼きたがる。
そういう人には、しかし、少なくとも罪はない。……キカはやがて眠りに落ちた。その夜、彼女は不安な夢を見たが、記憶に残らなかった。
2
スナリマヤ女学院高等部の掲げる理念は「知性により律する」であり、学園内のあちこちに、この文言のショドーをおさめた額縁と、創設者の肖像画を見る事ができる。校章のモチーフは古事記に由来する「一粒の梨」で、制服であるブレザーの胸にも神話的エンブレムが奥ゆかしくあしらわれている。
神秘的でモデストな礼拝堂を中央に据えたこの全寮制の学園は、ネオサイタマのやや外れに位置しており、周囲には美しいバイオ松の森が広がり、小川のせせらぎや鳥たちのさえずりが爽やかな風に乗って届けられる。
寮の朝は早い。起床は4時30分。「健康な暮らしが知性と美を育み、社会を教え導く担い手たらしめる。健康とは睡眠時間であり、これを疎かにすれば邪念や誘惑に屈する素地を生む」。校内の決まりごと一つ一つに、こうした説明文が常に添えられている。
学園の清掃は生徒たちによって行われる。清掃業者のアウトソーシングは最小限だ。生徒にいらぬ労働をさせているという批判もあるが、学園側は「伝統に則った情操教育の一貫」と主張し、保護者の賛同を得ている。就学者の手で学び舎を掃除し、セイシンテキを高めるというのだ。
一斉に起床、海藻とコメを主体とする朝食を摂り、口々に文句を言いながらDIY清掃を行い、朝のショドーをしたのち、生徒たちは各々のカリキュラムに沿って組み立てられた授業の教室へバラバラに向かってゆく。各教科は成績ごとに10段階の序列がつけられ、試験のたびに再編成が行われる。
かように苛酷な学園生活ではあるが、生徒たちは溌剌な若さと、気力体力、前途への期待を胸に、日々の暮らしに楽しみを見出し、お互いに笑いあい、憎み合う……。
「いつにもましてボンヤリしていたけど、答えられるものだよね」ユマナは呆れ気味に言った。渡り廊下を二人は並んで歩く。二限目の音楽の授業に向かうのだ。「たまたまね」とキカは頷く。ユマナは苦笑した。「昨晩あんな風で、風邪とか引いてないの?」「大丈夫」「ちゃんと覚えてる?」
キカの脳裏に深夜の無謀な探索行が蘇る。犬の息遣い、ライト、運ばれる棺、校長、傘……光る目。「多分ね」彼女は短く答えた。「何、多分て」「多分」渡り廊下の窓は大きい。雨や曇りばかりの日中の明かりを少しでも多く採ろうという努力だ。健康は美と知性に結実し……。「コンニチワ」前方で声。
キカは立ち止まった。目の前に立ちはだかるように現れたのは、美しい黒髪と、刺すような美貌の少女だった。「コンニチワ、キカ=サン。キカ・ヤナエ=サン。それから……そっちのあなたは……誰でもいいわ」「コンニチワ。ヤヨイ=サン」キカはヤヨイの攻撃的視線を見返す。ユマナは言葉に詰まった。
「元気そうでよかったわ、本当に」ヤヨイは言った。「……」「私の顔に何かついていて?」ヤヨイはキカの凝視を咎めた。「ヤヨイ=サン、どうしたんです?」「ヤヨイ=サン?」取り巻きめいた数人が加わった。ユマナは学年一のカチグミとされるヤヨイを前に、気圧されて困惑する他ない。
「何でもないの」ヤヨイは取り巻き達に冷たく笑いかけた。そしてキカに近づき、囁いた。「顔色が悪いから心配になってしまって。どこか怪我でもしてるのかしら? って思ったの」言葉とは裏腹に、そのトーンには毒を注ぎ込むような悪意がこもっていた。「大丈夫? 心配しているの。とても!」
「大丈夫です」キカは答えた。「心配してくれて、どうもありがとう」「……」「困った事なんて、何もないです」「……」二者はしばし見つめあった。「……それはよかった」ヤヨイは笑い、取り巻きを連れて、キカ達とは反対の方向へ歩き去った。
ユマナは困惑ぎみにヤヨイの背中を見送った。「こんなに近くで見たのは初めて。ヤヨイ=サン……!」「行こう」キカはユマナの手を引いた。ユマナは振り返り振り返り、興奮ぎみに言った。「キレイだけど、おっかないね! 迫力がスゴイだった……」「そうだね」キカは抑揚の少ない声で同意し、足を早める。ユマナは食い下がった。「どこで知り合ったの?」
「紹介してほしい?」 「いいの? エート……」ユマナの表情は曇った。「私の名前、訊かれなかったし。やめておくよ」キカは足を止め、ユマナを見た。ユマナはぶつかりそうになった。キカは静かに言った。「そのほうがいいよ」
◆◆◆
その後の授業においても、キカは専ら、昨晩の出来事に思いを巡らせていた。闇に蠢く姿、棺を埋める者たちの光景を、彼女はニューロンに繰り返し再生した。この学園には色々な秘密が隠れている。大きな秘密、小さな秘密。保護者は安心しきっている。規則が厳しければ厳しいほど、安心できる……。
ヤナエ夫妻は彼女の為を思って、由緒正しいこの学園に彼女を送り出した。年老いた、人のよい夫妻だ。こうして学園に入ってみれば、様々な問題や欺瞞が見えてくる。だが、夫妻が自分を理由に悩んだり悲しむ事があれば、残念だ。ゆえにキカは、そうした秘密には極力関わりたくないと考えていた。
では、昨晩の胸騒ぎは何だろう? キカは自問した。すぐに指先に震えが来た。昨晩の自分の心の動きを、わけもなく衝き動かされたその理由を、深く考える事は、よそうと思った。江戸政府の税制の話が遠くで聞こえる。講義は第四限。放課後は……どうする。
◆◆◆
夜がもうすぐ訪れる。許された時間はあまりない。キカはツバキの木を越えた。昨晩はここまでだった。彼女はもっと奥まで進んだ。夕方と雨の闇夜ではアトモスフィアがまるで違う。鳥の声も風に舞う落葉も好ましいものだ。足下の土は湿ってなお硬く、短い草が優しく生えている。
キカは一度周囲を見渡した。遠くで笛や喇叭が鳴っている。体育館の方向からは断続的な掛け声。……近くに人はいない。彼女は草の切れ目に向かった。そしてその先の土を見る。濡れて硬い土。「……」彼女は痕跡を探そうとした。盛り上がった箇所や、色の違う部分、そうしたものを。
残念ながら、それとわかる痕跡は見当たらなかった。タイヤ痕も無し。昨晩の雨のせいで、そうしたものがあったとしても、一緒くたにならされてしまっている。キカは失望した。失望? 考えようによっては、懸念の種が減るという事でもある。あれが、寝ぼけて外を夢うつつに歩いた幻なのだとすれば。
キカはしゃがみ込み、土を掴んだ。「……」そして諦め、立ち上がる。掘り返すにしても、道具が要る。彼女は振り返り、近づいてくる存在を視認した。走ってその場を離れようとしたが、その必要はないとわかった。それはポクポクと蹄を鳴らす馬である。馬を引いてくるのは住み込みの馬丁の少年だ。
「コンニチワ」キカはアイサツした。馬丁は少ししどろもどろになりながら、会釈を返した。「ドーモ」名前はワカヤマ。年の頃はキカに近い。彼と父親は、乗馬の授業やヤブサメのクラブ活動で使う馬の世話をする為に雇われている。
「馬だね」キカは話しかけた。「ああ。馬だとも」ワカヤマは頷いた。「なにか探しているのか?」「どうして?」キカはワカヤマを見た。ワカヤマは目を逸らした。「一人でいるからさ。怒られないのか」「いつまでもこうしていたら怒られる」キカは馬の顔に触れた。馬は瞬きした。「大人しいね」
「しっかり躾けてあるからな。君らお嬢様方に怪我させたら大変だから」ワカヤマは少し得意そうだった。「馬の名前は?」キカは尋ねた。「タロだよ」「コンニチワ。タロ=サン。キカです」馬は尻尾を振った。ワカヤマは笑った。「……実際、俺なんかがお嬢様方と話してたら、大目玉だよ。じゃあな」
「うん。じゃあね」キカは手を振った。ワカヤマは手を振りかえした。実際キカにはこれ以上の時間はない。少年の後ろ姿を見送る事もなく、彼女は足早にその場を離れる。ワカヤマは無害な相手だが、このままノロノロしていれば、別の誰に誰何されるともわからない。
キカは敷地内をしめやかに駆けた。誰にも見られる事はなかった。彼女は寮のそばで呼吸を整える。問題のない時間だ。暮れ行く空に思いを巡らす。シャベルが必要だ。……シャベル? 彼女は自分にやや呆れた。掘り返して、カンオケが出て来たら、それでどうする? ではこのまま夢と決めつけてしまうか。
「誰かを待っているのかね?」キカの背筋が凍った。自然に見えるようにつとめて、ゆっくり振り返った。「コンニチワ。……校長先生」キカの笑顔は少し引きつっていた。校長はキカに微笑み返した。「コンニチワ。君は、エート……キカ・ヤナエ=サン、だね」「ハイ」キカは唾を飲んだ。「キカ・ヤナエです」
キカは続く言葉を探した。「夕暮れが綺麗だったので。ゴメンナサイ」「見とれてしまったか。なに、まだ時間は少しある」校長は腕時計を見た。「確かに、そうお目にかかれないような暮色だね」「……ハイ」
「ん? 私がどうしてここに居るって?」校長はおどけて言った。「ひどいぞ、私は不審者ではありませんよ。そりゃあ、私もそぞろ歩きをしたくなる時はあります。置き物ではないからね。特にこんな、爽やかで好ましい日は」「そうですね」「学園生活は楽しいかね。キカ=サン」校長は穏やかに尋ねた。
「学園生活……」「楽しいかね」校長は謎めいた目でキカの目を見つめる。キカは瞬きし、下を向いた。「そうですね」「君はとてもいい」校長は言った。「このまま研鑽を続けてください。先生方のおぼえもめでたい」「それは、よかったです」
「学園は競争社会の縮図だ。辛い事も多いだろうが……」「大丈夫です」掠れ声でキカは答えた。校長は頷いた。「頑張れば頑張っただけ、世界は応えてくれます。この学園はね」「ハイ……」
「あれ? キカ=サン!」二階の窓からユマナの声が飛んだ。校長はそちらを見上げた。キカは振り返った。「今、上がる!」自分でも驚くほどに大きな声が出た。
「今の彼女は、ユマナ・オミヤ=サンだね? 同室の」校長は確かめるように言った。反芻するように。「……さあ、時間だ。寮母さんに怒られますよ。戻り給え。いやはや、私のせいにされたら大変だ!」「……」キカは会釈した。そして寮の中へ駆け込んだ。
◆◆◆
その夜、キカの目は痛いほど冴え、フートンの中で、食いしばった歯をカチカチと噛み合わせた。ユマナは何度か心配して声をかけたが、何と答えたかはキカ自身も覚えていない。彼女は翌日そのまま起きてくる事ができず、高い熱を出して、じっとフートンの中で丸くなった。
風邪ではない。それは恐怖と緊張から来る高熱だった。キカは震えた。知恵熱が収まると、学園に幾つかの出来事が起こっていた。チコ・ケヒタが退学し、学園を去ったという。チコとキカは幾つかのクラスが同じだった。同級生が唐突に学園を去った事は、一年生にとって衝撃的なニュースだった。
その日、日が落ちた図書室で、補修授業に備えていた二人の生徒がヒステリーめいた恐慌反応を起こし、司書に助けを求めた。司書は二人のもとへ駆けつけ、壁に映った不気味な影が身を翻すのを見ると、彼女もまた恐怖に打たれてその場で気を失った。
更に、と言うべきか、音楽教師のシオヤカ先生が唐突に心身の不調を訴え、彼の身内の人間を臨時教員に立てると、ほとんど有無を言わさず休職してしまった。シオヤカ先生は学園の音楽の授業を一人で回しており、ユマナとキカも影響を受ける事になった。
殆どドサクサに紛れるように現場で承認され、赴任してきた臨時教員……シオヤカ先生の知人を自称するナツイ先生は、生徒に過剰な歓迎、あるいは警戒を引き起こした。ナツイ先生は長く滑らかな黒髪を持つ痩せた男で、容姿は大変に秀麗だった。
3
「あれは、エート、何年の事だったかな……インタビューでも彼はひどく混乱してた……本当さ。あの頃ぼくはRS誌に書いてた……本当だよ。ぼくの事はいいか。で、彼が自殺して、その後ドラムは自分のバンドを始めたね。ベースは政治家になろうとした。人生ってのは……」「センセイ」「何?」
「全然、先週までの授業の内容と違うんですけど」勇気を出して指摘した生徒に、ナツイ先生は笑いかける。「アー……それはね、教える人間が変わると、言葉は変わるね……そういうものだよね。生きた授業ってのをしたいよね……ぼくはね、君たちに、当時のリアルな……ウフフ……リアルな体験を」
「先生、幾つなんですか?」からかうように別の生徒が質問した。「だって、ずっと昔の事でしょ、電子戦争よりも前!」皆、利発なのだ。「うん、そうなんだ」ナツイ先生は教壇から身を乗り出すようにして、まっすぐに見返した。生徒の顔が真っ赤になった。「時の経つのはとても早い。人は老いて死ぬ」
教室の約半分は、半笑いでナツイ先生の冗談を流している。もう半分の半分は熱に浮かされたようにナツイ先生を見ている。残りは困惑と警戒を……本能的な畏れの表情を浮かべ、だがそれを自覚できぬといった様子で、じっと黙って、互いに目を見交わしている。キカは、自分がそのどれに属するか考える。
ナツイ先生は、はなからまともな授業をするつもりがない。シオヤカ先生も随分な代役を立てたものだ。「でもね、ロックンロールなんていう生き方はね……どうしようもない……ぼくも一時期ね……ぼくの関わったバンドのギタリストは、ぼくより余程才能があった。でも彼はその後、酷い転落人生さ! お勧めしないよ」
「テストに出るんですか?」努力家のシチダ=サンが眼鏡を曇らせた。「テスト?」ナツイ先生は考え込んだ。「テストか……テストもぼくが作るんでしょ? 出るよ、真面目な授業だよ。もっと昔のピリオドが良い? でも、教えは体験から生まれるわけでさ……ぼくが音楽に特に興味があったのはその頃で」
困惑組のひそひそ話はざわつきになり、赤面組の様子はいよいよのっぴきならず、震えている者もいた。そして、半数の半笑い組が徐々に赤面組に加わりつつあった。キカは考えた。ナツイ先生の授業は与太話、ただのおふざけだ。……つまりナツイ先生は授業を行いにこの学園に来たわけではないという事。
ただのバカな教師は、よくいる。それこそ、キカがこの学園に連れてこられるよりも前、それよりも前……昔に通っていた小学校、中学校……。そう珍しいものでもなかった。だが、ナツイ先生は彼らと違い、どこか油断がならない。ああしてにこやかにおどけていても、目の奥には弛緩も笑いもないのだ。
キカは胸騒ぎを覚える。彼女の胸騒ぎは、教室の者らの動揺とは異質のものだった。キカはナツイ先生の目の凄みから、あの雨の夜の光景を連想し、思い起こした。つまり……闇に光る校長の目を。そしてその十数分前、キカを部屋から外へ駆り出した感情を。……同じだ。
キカは思った。自分はいま、土を掘ろうとしている。棺を探ろうとしている。それを、既に始めている。
この学園で、なにか良くないことが起こっている。これは探索だ。探索を通して、自分がなぜ探索を始めたのかを突き止めよう。まるで己の尾を噛もうとぐるぐる回るタイガーのようだ……。フォアー。笙リード音が廊下に響き渡る。「アー終わりだ、またね」ナツイ先生は肩をすくめた。
キカはナツイ先生を見た。彼はこの学園に、授業以外の何かをしに来た。キカはそう仮定した。仮定して動いてみよう。彼女は思った。「ねえ、行こう」ユマナがキカの手を引いた。「うん」「恋人いるかな、ナツイ先生」ユマナが囁いた。「いないよ!」遠くからナツイ先生が答えた。「いつでもおいで」
ユマナはキカの手を引き、逃げるように教室から駆け出した。キカは一度音楽教室を振り返った。前へ視線を戻すと、そこには冷たい笑みを浮かべたヤヨイが、取り巻きを連れて立ちはだかっていた。キカはカラテ部女子の手で、ユマナからグイと引き離された。ユマナは何も言えず、その場で見送った。
◆◆◆
ヤヨイがキカを連行したのは、喉が焼けるほどの芳香で満たされたバイオ薔薇園だった。アクリルの壁と天井で覆われた空間には上品に剪定された生垣と紫、黒、青のバイオ薔薇がひしめき、外からの音と視線を妨げてしまう。「ヤヨイ=サン」カラテ部のアンミがパイプ椅子を開き、ヤヨイを座らせる。
「フー……」ヤヨイは脚を組んだ。「よくない椅子」「ゴメンナサイ」アンミが目を潤ませた。「役に立ちたくて」「いいのよ」ヤヨイは小さく溜息をついた。乗馬部のミマがやや緊張しながらワゴンを引いてきた。ワゴンにはポットと茶道具が載っている。ヤヨイは目を閉じ、ミマがチャを入れるのを待つ。
実際それは劇場じみたわざとらしいプロトコルであった。今こうしてチャを供され、ダンゴを上品に口にするヤヨイは、生垣を背に立つキカを、逃げられぬように包囲しているのだから。ヤヨイはキカをじっと見、尋ねた。「ねえ。怪我は大丈夫だった? 私、心配なの。とても」「大丈夫です」とキカ。
「あのとき貴方が急に」ヤヨイは残念そうに首を振る。「逃げるものだから。乱暴なんてしないわ、私。痛くなんて」「本当に大丈夫です」キカは言った。あれは咄嗟の行動だった。あの時もこうして詰め寄られたキカは、窓の下の植え込みめがけて跳んだ。ここ数日、窓から跳ぶ状況によくよく縁がある。
「でも私、そのとき思ったのね」ヤヨイは茶器をミマに下げさせた。「貴方、面白いなって。ね? だって笑えるじゃない……」ヤヨイはくすくす笑った。取り巻きの者達も嘲笑めいた視線をキカに投げかけた。キカは呟いた。「そうですか」「貴方は私の手元に置いたほうが面白いって気づいたの、その時」
キカは無表情だった。その瞼が少し、ひくついた。ヤヨイはパイプ椅子から立ち上がった。そしてキカの頬に手を当て、囁いた。「貴方、ナカヨシの一員にしてあげる。末席に加えてあげる。とても素敵なことなのよ、それは。ワカル? 貴方には知らないことがいっぱいある。この学園の……社会の仕組み」
「ナカヨシ?」「そう。とても歴史あるソサイエティなの。この学園の実質……」ヤヨイの言葉は遮られた。頬に触れる手をキカが掴み、グイと退けたからだ。その瞬間のヤヨイの目は、ガラス玉のようだった。驚きに目を見張る彼女は、きっと、こんな拒絶を受けた経験が生涯無かったのだ。
一方、その瞬間のキカはどんな表情をしていたのだろう。キカはすぐにヤヨイから目をそらした。殆ど我に返るように、己自身の決断的な拒絶にやや驚き、それから、ヤヨイの手首を掴む自分の手を見つめた。「……」キカは手を離した。「アナヤ!」アンミが叫び、キカの頬を横から平手で張った。
ぶたれたキカは地に膝をついた。その瞬間、激怒したのはキカではなく、ヤヨイだった。彼女は瞬時に燃えあがった激烈な憎悪と怒りの目でアンミを睨みつけ、力任せに頬を張った。「アナヤ!」「ンアーッ!」アンミは悲鳴を上げ、尻もちをついた。カラテ部のアンミは凛として美しい少女であったが、その泣き顔は驚きと悲哀と屈辱に歪んでいた。
ヨノコとミマがおずおずとアンミを助け起こす。皆がヤヨイを見た。「差し出がましい!」ヤヨイは言い捨て、荒い息をつく。アンミは嗚咽し、必死にすがりついた。「ゴ……ゴメンナサイ! 許してください! 私……コイツのシツレイが許せなくて……!」
ヤヨイはもはやアンミを見ず、今一度キカに向き直って、震え声で言った。「私はね!? 私は学園の筆頭者で、ナカヨシのグランドマスターなのよ?」「要らない」キカは小声で言った。ヤヨイは地に膝つくキカを見、ほとんど縋るように問うた。「どうして!?」
キカは顔を上げ、ヤヨイの目をじっと見つめた。そして答えた。「わたし、こんな事している場合じゃない」「……!」ヤヨイは言葉を失い、その目には見る見るうちに涙が溢れだした。
「ヤヨイ=サン!」「ヤヨイ=サン」取り巻きの者達が近づくが、彼女はそれを振り払った。それでも取り巻き達はヤヨイを気遣う事をやめなかった。媚びたようにぎこちなく微笑む者、泣いてしまう者もいた。アンミは起き上がれず、蒼白になって震えていた。
キカは立ち上がり、ヤヨイ達にオジギすると、足早にバイオ薔薇園を去った。ヤヨイは怒りに震える手で青い薔薇を掴み、むしり取った。キカは振り返らなかった。キカは自分自身がとった行動に驚いていた。
……進めよう。とにかく、物事を進めよう。そうすれば、それもきっとわかる。キカは心の中で呟いた。
翌日、アンミは退学した。
◆◆◆
ヤヨイを拒絶した後、庭から走り出たキカが最初に出会ったのは、馬を散歩させるワカヤマだった。馬丁のいつもの日課だ。馬の足音がまずキカの耳に入った。それから彼と馬の姿が。彼女はまず、ワカヤマを避ける事を検討した。だが、それはそれで不自然だと思った。「コンニチワ」「やあ。キカ=サン」
後方を気にしながら、キカは馬のタロの向こう側へ移動した。「なんだ? どうしたの?」ワカヤマは訝しんだが、キカが目配せした直後、ナカヨシの少女達が庭から足早に現れたところだった。ワカヤマはキカの望みを察し、そのまま自然に馬を進めた。キカは庭から死角になるように動いたのだ。
「何かあったんだな。揉め事かい」ワカヤマは尋ねた。キカは曖昧に返事をした。ワカヤマは少し肩をすくめ、「お嬢さんって怖いからな」とだけ言った。風が吹くと、木々がざあざあと音を立てた。「馬、走らせてみようか」ワカヤマがキカを見た。「何?」「この時間なら、人目につかない路だよ」
キカは素直に従った。ワカヤマはキカをまず馬に乗せる。そして自分がその前に。馬の脇腹へ踵を当てると、徐々に速度を上げる。「な。しっかりしてるだろ。もう一頭は雌で、名前はオハナ。オハナも賢いし、偉い」バンブー林の中の路を、馬はゆく。勿論それも学園の敷地内。出入口は不通の正門のみ。
林を抜けると、そこは石で境界めいて囲われたむき出しの土。キカは菜園を連想した。「使われていないんだ。こういう所、幾つかある」ワカヤマは言った。二人は馬を降りた。ワカヤマは手近の木に手綱をかけると、「お嬢さん達は、こっちまで来ること無いよね。俺は詳しいんだ。この学園にはね」
ワカヤマはキカを呼び、向こうの塀まで歩く。屈み込むと、塀の根本に妙な形の石が埋まっている。亀裂を塞いでいるのだとすぐにわかった。「大したものじゃないけどさ」ワカヤマは呟き、石を外した。キカを促す。キカは亀裂を覗きこんだ。ネオサイタマの遠望だ。既に街の明かりが灯り始めている。
「こういうところから見下ろすと、ネオサイタマも綺麗だよな」ワカヤマは言った。キカはしばしその風景を亀裂越しに眺めていた。遠い風景を。「そうだね」じきに日が暮れる。「ありがとう」キカは亀裂から目を離し、ワカヤマに礼を言った。ワカヤマはにっこり笑った。「部屋に帰る頃だな」「うん」
ワカヤマはそれ以上の余分な気遣いや慰めをしなかった。キカは彼の態度に奥ゆかしさを感じた。「ここに住んでいるのね?」「そうだよ」「いつから?」「ずっと前さ」ワカヤマは馬の鼻面を撫でた。「街に行ったって、俺は別にやることも無いけどさ……キカ=サンは? 下に降りたいこと、あるかい」
「降りる?」「そう」「……」キカは瞬きした。答えなかった。ワカヤマは少し訝しそうにしたが、強い風が吹いて葉を散らしたので、問答はそこまでだった。
◆◆◆
「ハァーッ……ハァーッ……」「シーッ……もう少し静かにしないと」「そんな事……今更そんな事」「今更そんな事?すっかりその気なのに、俺が意地が悪いって?」「そう、そう」「ヒヒヒ……よっぽど辛いのかい……抑圧ってやつかい……」「そうなの、抑圧……ひどいの」「ひどいのかァ」
「ひどいの」「いや、わかるよ、すごいワカル……人間ってのは色々抱えてるものさ、どうにか自分をごまかして……」「そうなの、辛いんです」「ワカル。なんでも話していいよ。俺、それしか能がないしさ。無害だし……」「ひどいのォ」「生徒の、何だっけ? ソサイエティ?」「そう。ナカヨシ」
「ナカヨシが?」「ねえ、私なんて、あの子たちより立場が実際下なんです。わかるんです」「そりゃ酷い……先生なのに」「ウウーッ」「泣いていいよ。俺、それしか能がないしさ。なんでも吐き出していいよ」「好き、ナツイ=サン、好き……」「いいよ俺のこと好きになってよ、楽になるよ」「好き」
「話して。楽になるよ。カヤカ=サンは生徒に受け容れられない……その、ナカヨシの子たちが率先してるって?」「そう」「カヤカ=サン、こんなに魅力的なのに」「教師よりも強いんです、あの子たち」「君が素敵だからだよ。子供の嫉妬は怖い」「ナツイ=サンだけです、わかってくれるの……」
「口じゃそう言うけど。まだ隠してるでしょ」「……」「隠し事してる人にそんな事言われてもさ。全然嬉しくない」「待って! お願い」「だってさァ」「突飛な話なの。笑われるかもって」「笑わないよ。話して」「……儀式を」「儀式! 儀式だって!?」「ねえ、嘘じゃないわ」「疑うわけない。話して」
「……」「震えてる? コワイ? 俺、全力で守るよ。大丈夫。二人だけの秘密」「礼拝堂、ウシミツ・アワー」「ワーオ。まるでアンタイブディズム……」「シーッ! 日曜の深夜に、ナカヨシは礼拝堂に集まって……何かするんです」「何かッてのは?」「きっと、とても恐ろしいこと。噂では、他の生徒を」
「生徒たちが……生徒をねェー? 生徒たちが、生徒同士で?」「噂よ……私が見たわけじゃ……」「いや、すごくイイよ。イイ感じになってきた。続けて」「ねえ、私怖いんです。あの子たちの冷たい目。私……この学園に来たのが間違いだったって、最近は毎晩思うんです……」「待った。閃いたぞ」
「え……?」「UNIXのキーコード、教えて。君、持っているでしょ、臨時雇いの俺と違ってさ」「え? UNIX? でも」「教えてくれないの? そう」「待って! 114xqq39193xqq14よ! だから……」「アリガト。またね」
……会話が終わった。ザラザラと音を立ててカーテンが開き、ナツイ先生がシャツを着ながら外に出てきた。戸口で聞き耳を立てていたキカは危ういところでその場を離れ、廊下の角に隠れた。ナツイ先生は準備室の外へ出たところで立ち止まり、数秒、そのままだった。やがて廊下を歩き出した。
「……」キカは彼の背中がずっと小さくなるまで待ち、それから、しめやかに後をつけてゆく。 付かず離れず、何かの拍子に彼が振り向けばすぐに隠れられる距離を保つ。幸い、ナツイ先生が振り向く事はなかった。別棟に通じる渡り廊下に辿り着く。渡り廊下は扉で仕切られている。時間外で施錠されていたが、彼は問題にしなかった。細工めいた手つき。錠が開いた。
だが、間の悪い事にその時、二人組の巡回警備員が、すぐ傍の階段を降りて来たのである。「あれ?」ナツイ先生が薄笑いでそちらを見やる間もあらばこそ、携帯フラッシュライトがひょろりとした彼の姿を薄暗い廊下に焼きつけた。「あン? お前……ここで何してる」「おい。先生だぜ、そいつ」
「そうです! 実際教諭です」ナツイ先生がホールドアップしながら答えた。「実際ナツイです。臨時雇いでして」「何やってンです」「眠れなくて」「教員寮は全然違う方向でしょ」「色々……ヒヒヒ……色々ありまして」「ナメてんのか? ちょっと来なさいよ。不審だぞ」「ハイ、大丈夫です。何でも話します」
ナツイ先生はあっさりと巡回警備員に従った。三人は階段を上がっていく。「……」キカはしめやかに進み出た。渡り廊下の扉は開いたままだ。彼女はするりとその奥へエントリーした。ナツイ先生が目指していたのは別棟にあるUNIX事務室。さっき口頭で彼が確認していたキーコードも覚えている。
キカはナツイ先生の動きに目を光らせていた。どうみてもただの代用教員ではなかったからだ。シオヤカ先生は彼に何か弱みを握られてでもいたのだろうか。だが、彼がここへ来た経緯は、今はいい。彼は間違いなくなにかを探していた。彼の探すものを探れば、キカの答えも、あるいは。校長。棺。おかしな噂。
「114xqq39193xqq14……114xqq39193xqq14」小声で呟きながら、彼女は別棟に入り込んだ。そしてUNIX事務室へ。彼女には調べるべき情報がある。パボッ! ……事務UNIXを起動すると、モニタ光の照り返しで暗い室内が幻惑的な薄黄緑色に染まる。
キカは反射的に出入口を振り返った。誰もいない。彼女はおずおずとキーボードをタイプし、コードを入力した。UNIXは控えめなパワリオワー音を発し、やがてフォルダ管理画面が彼女を出迎えた。キカは爪を噛み、黙考した。情報……リスト……情報……在籍名簿……在籍……違う……退学者。
退学者! キカは更に奥の階層へ入り込む。画面上を怒涛めいて流れる文字列に眉根を寄せる。一週間に一人。多い時に二人、三人! 誰も退学しない週もある。ペースはまちまちだ。ペース? そんな事を考える時点で異常だ! キカの学年ではまだ少ない。だから異常に気づかなかったのか? 退学者が多すぎる!
つい最近の退学者は、チコ・ケヒタ……そして、アンミ・コナキノ。ヤヨイとともに庭園でキカを追い詰めた時のアンミの態度は、とても翌日に退学を控えた者のそれではなかった。学園を出て行く者が、生意気な同級生だの、ソサイエティだの、ナンセンスにも程がある。アンミ自身も予期せぬ退学?
アンミはヤヨイの怒りをかった。ヤヨイはキカよりもアンミに腹を立てていた。僭越だったからだ。とにかくアンミはヤヨイの怒りをかった……アンミは蒼白に……退学……? キカのニューロンはぐるぐると高速で働いた。もう少し。謎を解かないと……なぜ謎を解く? 離人症めいて彼女は唐突に自問する。
その急速なクールダウンが、彼女の聴力に、廊下を近づいてくる足音を拾わせたのである。キカは息を呑んだ。そして事務室内を見渡し、隠れられる場所を探そうとした。足音が近づいてくる! キカの鼓動が早まる。クローゼット! そんなものはない。ロッカー! そんなものはない。
ヤンナルネ! キカはせめてもの努力、机の上へよじ登って反対側に飛び降り、反対側の机の下へ潜り込んで息を殺した。UNIXの電源は切れていない。いや、せめて、UNIXに注目して、キカのほうには気づかず去ってくれたなら……去ってくれたなら……おお、ナムサン! 遂に廊下の足音が室内へ!
戸口に立った者にUNIX光が照りつけ、廊下に巨大な影法師を作り出す! キカにその不吉で巨大な影法師は見えていない。彼女は机の下で息を殺し、ひたすらやり過ごそうとしていたのだ。足音が止まった。そして勢い良くズカズカと室内に入り込んできた! おお、おお! キカは祈るように目を閉じる!
4
「ハァーッ……ハァーッ……」反対側の机の下でキカは息を殺し、闖入者の荒い息遣いを聴く。「ハァーッ……ハァーッ……」宙に浮く眼球でもなければ、影の主の動きを視認するなど不可能だ。彼女は少しでも聴覚情報を得ようとつとめる。
「ハァーッ……ハァーッ……!」影の主は荒い息を吐きながら、UNIXデッキの前(キカの隠れる机を挟んだすぐ向こうだ!)から動かない。やがて……カタカタ、バシバシという荒っぽく性急なタイピング音! デッキを操作しているのだ!
キカは考えを巡らせる。デッキを操作するということは、少なくとも闖入者は学園でここ数日噂されているようなテリブル・モンスターの類いでは無いということだ。目的は何だろう? 情報を暴かれたことを懸念しているのか? 情報を暴く側か? キカのように? とにかくこの場から離れないと……。「誰だ!」
誰何したのは戸口に現れた新たな声である!「そこで何を……貴様!」「……!」キカは息を呑んだ。その声には聴き覚えがあった。校長だ!「ヌゥーッ……」闖入者の呻き声! そして床を蹴る音! 叫び!「イヤーッ!」ゴウランガ! その者はキカ同様にUNIX机を飛び越えた。だが、ずっと高い!
KRAAAASH! キカは衝撃的瞬間を机の下で目の当たりにした。闖入者は机を飛び越え、窓ガラスを体当たりで破壊しながら、外へと跳んで逃げたのである! 黒く巨大な翼めいて影が翻り、あっという間に窓の下へと消えた!「おのれ!」机群をこちらへ回り込んでくる足音! キカも安心してはいられない。
キカは身を屈めたまま、校長とは逆側へ、机群をしめやかに回り込んだ。校長は割れ砕けた窓の下を憎々しげに見下ろした。「おのれ……どういう事だ……!」校長の懸念と注視がキカを救った。キカは振り返らず、気づかれぬままUNIX事務室から駆け出した。
キカは廊下を全力で走った。彼女の胸は痺れるようだった。危険を乗り越えた高揚と緊張感、そして、ニンジャアトモスフィアによって!「ニンジャ……」走りながらキカは口に出して呟いた。「ニンジャだ……! ニンジャだった……!」
◆◆◆
フェー。次の授業の始業を予告する笙リード音が廊下に鳴り響き、談笑していた生徒たちはやや慌て、笑いさざめきながら駆けて行った。「ほら、キミたちも急がないと。急いで」黒髪の痩せた音楽教師は数人の女生徒を優しく追い出した。彼女らが見えなくなると、音楽教師は廊下の門松飾りを見やった。
「……」門松飾りの付近の壁が、剥がれた。否、剥がれたのではない。それは壁ではない。壁と同色の布であった。フシギ! 布をたたみながら現れたのは、赤黒装束の……ニンジャである!「ドーモ。ニンジャスレイヤー=サン」「ドーモ。フィルギア=サン」アイサツもそこそこに、彼らは教室へ入った。
ナツイ先生、いや、もうよかろう……フィルギアという名のニンジャは無人の音楽教室の扉を後ろ手に閉め、薄笑いを向けた。「女の園だぜ、一人一人が美しい謎さ。怖いけど楽しくやってるよ。このまま就職しようかな……」「どこまで調べあげた?」ニンジャスレイヤーは取り合わず、本題に入る。
「簡単なようで難しい」とフィルギア。「笑える話は色々入ってくるんだが、セキュリティもきついな……そっちはどうだい、早速動いてンのか」「まだ何も掴めておらぬ」ニンジャスレイヤーはかぶりを振った。「だが少なくとも死体が出るまでは信じるわけにはいかぬ」「ヒヒヒ、爆発四散してたら?」
「死体が無ければ、遺留品なりを探すだけだ。だが、そんな話はいい」ニンジャスレイヤーはフィルギアを睨んだ。「そもそも、彼の危機の話をもたらし、私を呼び出したのはオヌシだぞ」「そう。アンタは恩に着る必要がある。俺にね」フィルギアはニンジャスレイヤーの視線を受けた。「トレード、わかるよね」
「……」ニンジャスレイヤーは腕組みして無言。消極的肯定である。フィルギアは話を始めた。「たまげるよ……キョートのキナ臭い動きを辿ってたら、アンタの元相棒。それから、ここの校長先生だ。俺、ブルッと来たよ。あいつ、こんな所に溶け込んで。嫌な奴だぜ、あっちは俺を知らないだろうけど」
「どんなニンジャだ」「イヒヒ……」フィルギアは懐から古びたポートレートを取り出す。「学園の創業時かな。大正エラ。これ、初代理事長にして初代校長、創業者ね」「……」フィルギアは次に学校パンフレットの切り抜きを取り出す。「で、これが今の俺の上司だよね……今の校長先生の写真だ」
ニンジャスレイヤーの瞼がぴくりと動いた。フィルギアは笑みを浮かべ、「よく似た血族だな? 凄いよな、ヒヒヒ、それとも俺の長生きぶりを信じる材料になった? 俺のロックンロールライフ……」「リアルニンジャだと……? どんなジツを使う?」「さあね。俺は無害な有象無象だよ。肝心の秘密は知らないのさ」
「……」「とにかく、俺じゃ奴を排除できない。そこでアンタのおっかないカラテの出番ってわけで」「シマナガシどもを使わんのか」「ウチの連中でこんな所に乗り込んだら大変さ」フィルギアは言った。「でも、アンタには却ってサイオーホース……俺の手に余る件だったからこそ、トレードが成立するんだよ」
では、なぜこの男は校長を排除しようと考えるに至ったのか? ニンジャスレイヤーはフィルギアを凝視する。油断ならぬ男だ。何もかもを隠している。「ディテクティヴ=サンは何故この学園を探りに来た」「生きてると考えてンなら、本人から訊いたら……」フィルギアは笑う。「俺よりは信用がおける」
「もう一度言っておくが」とニンジャスレイヤー。「ここでディテクティヴ=サンが消息を絶ったという情報自体、オヌシが出処だ。俺を都合よく操る偽情報の方便であったならば、オヌシを殺す」「イヒヒヒヒ、コワイ」フィルギアはホールドアップの仕草。「都合よく使いたいが、そういう嘘はねえさ」
ニンジャスレイヤーは黙った。消極的肯定だ。「頑張ろうぜ」とフィルギア。それから思い出したように、「ああ、やらねえとは思うが、いきなり校長先生にかかっていくなよ。曲がりなりにも社会的地位のあるオッサンで、手の内もわからない。ディテクティヴ=サンの二の舞にならないようにしないと」
「手の内がわからぬままなら、最終的にはどこかの時点で直接叩く事になる」「最終的にはな。だけど、そこらの憑依者とはわけが違う。それだけ忘れるな。ナメるのはダメだ」「当然だ」「ええと……強大なニンジャの中には、特別な護りを持っている奴も多くてさ……その辺の情報が欲しいんだよ」
「特別な護り?」「アイツにはその手のジツを連想させる伝承がついて回るんだよ。不死身のオマモリとか。龍の血を浴びたとか。その手のハッタリがさ。色々と。一つ一つがブルシットでも、何かがあるって事」「どう探る」「そう、それ」フィルギアは頷いた。「今週末になれば何かわかるかも」
「今週末? 待つ必要があると?」「コワイ話を耳にした」フィルギアは低く言った。「女の子たちの中には、先生よりも権力のあるようなのがいてさ。ソサイエティを作ってる……ナカヨシって言うンだけどね……そのナカヨシが、どうもこう、気になる。週末、ウシミツアワー、礼拝堂。儀式の噂」
「生徒の他愛ないオカルト趣味に古代のニンジャが関わるか」「他愛ない? そんなの、見てみなきゃわからない。それに、歴史あるソサイエティらしいよ。それこそ創立以来だとか……代々受け継いで……」「……秘儀を」ニンジャスレイヤーは呟いた。「秘儀を」フィルギアは繰り返した。
「まずはディテクティヴ=サンの行方だ」ニンジャスレイヤーは整理した。校長である邪悪なニンジャの殺害は、あくまでトレードだ。「わかってる」フィルギアは薄笑いを浮かべる。「でもアンタ、ニンジャを殺したいだろう?」「……」「まあいいさ。そっちの話に入る? じゃ、戦利品の話をしよう」
フィルギアは教室の奥、準備室に入ると、軋むロッカーの戸を開けた。微かな呻き声が教室に届く。ニンジャスレイヤーはそちらへ移動した。フィルギアはぐったりと弛緩した警備員を引きずってきた。「力仕事はキツイな」フィルギアがニンジャスレイヤーを見た。「こいつね、戦利品。眠らせてある」
「どういう事だ」「イヒヒヒ……」フィルギアはヘラヘラと笑う。ゾッとするような酷薄さが笑顔の奥底に垣間見えた。「一見、無害な警備員。その実、校長先生の私兵ってわけ。俺に難癖つけて来たんで、キツめに眠ってもらった」「襲って来たと? そいつ一人か」「……ああ。一人だったさ……」
警備員は後ろ手にきつく縛られている。フィルギアは教室の床に彼を投げ倒し、顔を二、三度蹴った。「アバッ」「起きたな。ごめんな。荒っぽくして」フィルギアは呟き、ニンジャスレイヤーに肩をすくめて見せた。「インタビューどうぞ。だけど時間があまりない。俺、先生だからね……」
◆◆◆
キカは顔を上げた。馬を連れて「例の場所」にやってきたのは、ワカヤマである。「あれ?」ワカヤマは少し驚いたようだった。「どうしたの。ネオサイタマの夜景を見に来た?」「その馬がオハナ?」「ああ、そう」ワカヤマは頷いた。黒い毛並みで、足先だけが白い。「靴下みたいだろ」
「そうね」キカは馬に触れた。オハナもよく訓練されていると見え、おとなしい。「アー……」ワカヤマは言葉を探している。キカは答えた。「もう少し、ここで時間をつぶしたいの」「隠れ場所に?」「そうね」キカは頷く。「良い時間が来るまで」「良い時間。へえ」
「良い時間」。今度の週末までで校長がこの学園を不在にするのはこの日に限られる。校長は理事長でもあり、この学園の中に住んで、暮らしている。授業や礼拝の合間の空白時間は僅かで、おかしな動きを他の人々に知られるのも避けたい。ワカヤマは外部の人間だ。内にあって外にある。キカの直感だ。
「ワカヤマ=サンは、ずっと昔からここに居た」「そう」「色んな人、見てきたんだね」「まあね」ワカヤマは答えた。「父さんもずっと馬丁さ。衣食住の安定、大切な事だよ。毎年、お嬢さん達を見送って。みんな、外に出て、カチグミになるんだよな。君も。たいしたもんだよ」
「でも、うまくいかない子達もいるよね」キカは言った。「途中で辞めて、途中で、いなくなる」ワカヤマの目を見た。ワカヤマは小さく頷く。「ああ。いなくなる」「……」二人はしばらく無言で互いを見ていた。「つまり君は、その事を気にしてるってわけだな」ワカヤマは静かに言った。
キカは否定しなかった。「なにか私に教えてくれること、ある?」「おれが? バカ言っちゃいけない」ワカヤマはキカの隣に座った。「衣食住は大事、好奇心は災のもとって、父さんの口癖さ。たぶん、父さんの父さんが何をしていたかは知らないけど、馬丁なら、やっぱり同じ口癖だよな、きっと」
「教えられるのはそこまで」キカは呟いた。ワカヤマは頭を掻いた。「教えられないというか、知らないようにしているんだ。馬や飼葉や蹄鉄と、お嬢さんの誰かがいなくなる事、繋がっていないだろ? お嬢さん達の誰かとおれが、付き合ったり、結婚したりしないのと同じさ。軽口じゃなく、そういう事」
「ワカヤマ=サン、すごく大人みたい」キカは率直に言った。ワカヤマは笑った。「君もちょっと変わってるよ。なあ、でも、せっかくだから忠告させてくれよ。衣食住は大事、好奇心は災いのもと……あまり変な事に重点すると、きっと、よくない」「そうね」キカは頷いた。「でも、私には馬も飼葉も蹄鉄も無いし」
キカは立ち上がり、草を払う。時間だ。「ありがとう。またね。ワカヤマ=サン」「ああ。またいつでも」「またね。オハナ=サン」馬は尻尾を振った。キカは木々の間の路を戻る。ゴーン……ゴーン。礼拝堂の鐘が鳴っている。クラブ活動の生徒の姿は既にない。「良い時間」。彼女は校長室を目指した。
あのカンオケには何が入っていたのだろう? あんな時間に、周りを警備員に見張らせて、自らが見届けて。校長はそれを土に埋めさせた。人任せには出来ない事情。それは何だろう。校長は何故そんな事を? そこにはきっと、ニンジャが絡んでいる。キカはそれを知りたかった。確かめたかった。
あの時、事務室の窓を破って校長から逃げたのは、間違いなくニンジャだった。そのときキカは悟った。ニンジャアトモスフィア。更に遡って、そもそもの発端のあの夜、キカを不意に目覚めさせたのは、彼女自身の知覚だった。彼女自身が、彼女をニンジャアトモスフィアに向かわせようとしたのだ。
もう少しだ。キカは思った。校長の謎を辿れば、彼女はニンジャに辿り着くだろう。その時、彼女自身のこの疼きにも、きっと答えが出るだろう……。キカは校長室の扉に手をかけた。当然、開くはずもない。試しただけだ。彼女は廊下を迂回し、上階へ。トイレの窓を開け、下を見下ろす。高い。当然だ。
建物は木骨造だ。外壁には梁が渡されている。キカは人がいないことを確かめた後、窓から外へ、するりと抜け出す。梁に足を乗せ、外壁に体重を預ける。三階の高さ。恐ろしい行い! 彼女は細かい震えを自覚する。怖いものは怖い。だが彼女は身体の動かし方に集中する。梁を伝い、横へ。横へ。
下、見るな。風、吹くな。誰もここへ来るな。壁に額をつけ、少しずつ横へ。横へ。校長の埋葬行為について、キカは二つの仮説を立てている。あのカンオケの中身について。可能性のひとつは、「退学者」。ナムアミダブツ。だが証拠は何も無い。あてずっぽうだ。少なくとも、まだ。
もうひとつの可能性、それは、校長の後ろ暗いなにかに近づこうとした人間。それこそ、退学者の件で。これも同様にあてずっぽうだ。証拠はこれから探すのだ。校長室で。「……」彼女は微かに下を見る。校長室のベランダ、窓。深呼吸をする。そして飛び降りた。
体内にジワジワとアドレナリンが拡散する。手摺には補修の跡がある。キカは窓を振り返った。交換したばかりの窓なのだ。躊躇ってはいられない。ブレザーを脱ぎ、右腕にぐるぐると巻きつける。とんでもない行いだ。ユマナが見たら気絶するかもしれない。そして実際アブナイだ。
「……!」腕を振り上げる。そこではたと気づき、取りやめる。窓ガラスに耳をつける。人の気配はない。ダイジョブ。ダイジョブだ。窓ガラスを割るなど、あの怪人になら、お手のものだ。事務室の窓を割ったように、校長室の窓も、あの怪人が割った。そういう事にできる。そう思わせる事ができる。
「……!」SMASH! 腕を窓ガラスに叩きつける。SMASH! 周囲に人はいない。SMASH! ガラスにヒビが入る。キカは深く息を吸い、歯を食いしばった。「……!」KRAAASH! ナムサン!
新品のガラスが破砕! 飛散防止の工夫がされたガラスが飴細工めいて歪む。それでも破片がいくつか飛び、うち一つがキカの頬に赤い筋をつくった。キカは安堵した。これくらいの傷なら誤魔化せる。割れたところから内側に手を差し入れ、サッシの鍵を外した。彼女は無人の校長室にエントリーした……。
書棚、ボンボリ、カーペット。黒檀の机。卓上にはフクスケ。何冊かの本。壁には「不如帰」「品の良さ」といった額縁入りのショドー。天井近くには神棚。神棚にはミニマム・トリイやマンダリンが飾られている。「どうしよう……」キカは呟き、探るべきものを探す。
校長はリムジンで正門から出ていき、山を降りた。キカは注意深くそれを確かめてある。だが、今の音を聴きつけて、誰かが人を呼ぶかもしれない。確かめにくるかも。時間は無い。机……引き出し。キャビネット。開かない。鍵がいるのだ。窓と違って、壊し方がわからない。椅子に登り、神棚を探る。
マンダリン、トリイ、トックリ。トックリを退けると、小さな鍵があった。ブルズアイ。こういう隠し方をする者は多い。キカは椅子から降り、キャビネットに挿しこむ。合わない。今度は引き出し。入った。鍵を捻ると、開いた。引き出しの中に更に鍵。キャビネットにそれを挿し込む。アタリだ。
キャビネットには何冊かのファイルがあった。キカはここで少し逡巡する。恐ろしい考えが首をもたげる。ここに手がかりが無かったら?たとえば、どこか外の倉庫、地下室……その手の場所に隠されていたら?「今更」彼女は呟いた。それらファイルを小脇に抱えた。これはあの怪人の狼藉だ。悪い怪人。
卓上には写真立てがある。セピア色の写真。被写体はモンツキを着た校長である。キカは目をそらし、だがもう一度見た。「……」彼女は写真立てを手にとった。いつの写真だ? 理解できぬまま、名状しがたい戦慄に首筋が粟立つ。校長はこの部屋に普段、積極的に人を入れる事はあるのだろうか?
いつしかとっぷりと日が暮れ、室内の闇を見通すには目を凝らさねばならなかった。ボンボリをつければ怪しまれる。潮時だ。他に何か……彼女はもう一度室内を見渡す。「不如帰」のショドー額縁に手が届く。彼女はそれをずらした。壁には丸い穴が穿たれている。すぐに彼女はそれが銃創だと気づく。
書棚には様々な背表紙。頭に入らない。何かが隠してあるかもしれない。だめだ。時間切れだ。キカは扉と窓を交互に見た。……窓だ。廊下は誰かに会うかもしれない。彼女は再び窓からベランダへ出た。手摺から顔をのぞかせ、下の、周囲の様子を伺う。誰もいない。どう降りる? 梁を伝うしかないか。
……ザクッ……その時、キカの耳は、やや離れた下の音を拾う。ザクッ。ザクッ。「……」彼女は身を屈め、耳を凝らす。ザクッ。ザクッ。ザクッ。(俺、肉体労働は向いてないんだ。見ての通り軟弱でね)薄笑い混じりの声。(手を動かせ)ザクッ。ザクッ。彼女は思い当たった。土を掘っている!
声の方向、刈り込まれた茂みの奥で、オレンジの光が閃く。携帯ボンボリを地面に当てているのだ。キカは目を凝らした。シャベルを使い、土を掘っている。おそらく二人。木々が邪魔で、動いている者達をうまく確認できない。シャベルが土をどけていく。もう、確かめなくてもわかる。何が出てくるか。
以前にキカが暴こうとした位置に実際近かった。彼女にはその時、土をどける手段が無かった。(ご対面! イッヒヒヒヒ! ご対面だ!)一人が、土の下から現れたものに……カンオケに、嬉々として屈みこむ!(こいつはちょっとしたスリラーだな!)その男はナツイ先生だ! 蓋に手をかけ、開く……!
ALAS! カンオケの中には、何も無し! 空っぽである!(ワーオ!それじゃ死体はどこ行った? 腐って溶けちまったか? ゾンビーになっちまった? ……なあ、どうしたもんだと思うね?)ナツイ先生が驚いてみせた。キカは瞬きも忘れ、校長室のベランダから、その光景を見守っていた。
5
「ご対面! イッヒヒヒヒ! ご対面だ!」フィルギアはシャベルを投げ捨て、土の下から現れたカンオケに、嬉々として屈み込んだ。「こいつはちょっとしたスリラーだな!」ニンジャスレイヤーは引き続き周囲をカラテ警戒している。フィルギアはカンオケの蓋に手をかけ、開く……。
ニンジャスレイヤーは眉根を寄せた。「あれ?」フィルギアは訝しんだ。「空っぽだな」「うむ」「ワーオ!それじゃ死体はどこ行った? 腐って溶けちまったか? ゾンビーになっちまった? ……なあ、どうしたもんだと思うね?」「初めから中身無しか。あるいは、抜け出たか」「で、また土を被せたって?」
フィルギアは両手の土を払いながら、「ヒヒヒ! カンオケの中で爆発四散したってのはどうだ? ワンダフルな死に様だ。それにしちゃ中が綺麗だけど」「警備員の話が確かならば、校長が駆けつけた彼らに命じ、ディテクティヴ=サンの死体をカンオケに入れさせた……ここまでは確かな事実であるようだ」
「で、話が戻る。中で死体が動いて、内側からカンオケを……アー」フィルギアはカンオケの蓋の止め具に注目した。「ブッ壊れてる」「……!」ニンジャスレイヤーはその時、弾かれたように振り返り、木々の向こうを見た。「ア? どうした? また音か? これをほったらかして離れるのはマズイって!」
「うむ。……それで? 止め具が壊れていると?」「じゃあ、まあ、仮説で進めようぜ」とフィルギア、既に彼はシャベルを拾い、再び土を被せ始めた。ニンジャスレイヤーも自身のシャベルを取り、彼を手伝い始めた。事後即離れるべし。フィルギアは続ける。「中から探偵は棺桶を破壊し、土ごとふっ飛ばして外へ、ヒヒヒ」
「つまりニンジャ腕力だ」「……ニンジャ腕力だな」フィルギアは真顔で答えた。「止め具の破損はそのせいだッていう仮説。カンオケも歪んでたかも。よくわからねえけど。で、ゾンビーになった探偵は、山を降りて、幸せに暮らしましたとさ」ニンジャスレイヤーは後半部を無視し、「敷地内に残り、何を」
「探しものかな……ゴーストの怨念めいた執着かも」フィルギアは被せた土を上から踏み固めながら呟いた。「推理を続けている」ニンジャスレイヤーは言った。「仮に彼が生きているのならば、まだ捜査を放棄する時ではあるまい」「アンタがそう言うなら、そうなんじゃない?」とフィルギア。
「じきに一雨来て、誤魔化してくれるだろ」彼は埋め直した跡を見下ろした。「警備員のお兄さんもう一回搾るか?」「彼の知っている事は限られている。引き出せる情報は引き出した」ニンジャスレイヤーは考えながら、「そも、ディテクティヴ=サンの請けた依頼とは何だ?キョートの動きと言ったな?」
「知ってたら詳しく話してるさ。ざっと伝えた通りだよ……キョートの政府筋とあの探偵が接触して、そンで、ネオサイタマに、この学園に来たッて事」「仮説はないか」「頭が爆発しちまうよ」フィルギアは首を振った。「ここの校長は名士さんだからさ……キョート政府が何か働きかけたかったのかも」
ザイバツ・シャドーギルドとオムラ・インダストリが引き起こした大規模破壊以降、キョート共和国政府と日本政府の間には、冷戦じみた緊張が生まれている。政府間の暗闘の末端でディテクティヴが動いている可能性は十分にある。何らかのスキャンダルの種があるのか? どのみちまだ結論は出せない。
「要は、探偵に直接訊きゃいいって事」フィルギアは先日と同じ意見を述べた。実際、それしかない。学園内に潜んでいると思しき彼とコンタクトを取らねばならない。「しかし」ニンジャスレイヤーは言った。「彼が己自身を助けられるなら、私はお前と取引を行う必要がなくなるな」
「今更そりゃないぜ」フィルギアはやや食い下がるように、「だいたい、まだ何もわかっちゃいない。アンタ自身にとって、それから探偵にとって、最善の動きをアンタがする為には、アンタがここへ来ている必要があったんだ。俺の商店は返品不可、ワカル……」「言ってみただけだ」ニンジャスレイヤーは歩き出した。
◆◆◆
危なかった! 危なかった、危なかった! 自室に戻ったキカはフートンを被って、奥歯を噛み締め、じっと武者震いをしていた。あの直後、校長室のドアノブがガチャガチャと動かされる音が、ベランダのキカの耳に飛び込んできた。そのすぐ後、外の廊下で「アイエエエ!」という悲鳴がした。ノータイム。
キカはベランダの手すりを乗り越え、外壁伝いに、二階、一階、そして地面へと、梁や窓枠を利用しながら脱出した。カジバチカラめいた極限のアクションである。だが彼女は自分がそれを成し遂げた事を意外には思わなかった。残念だったのは、土を掘る者達をそれ以上確かめられなかった事だ。
キカが一も二もなく自室へ戻った時、既に寮内はちょっとした騒ぎになっていた。キカは騒ぎのもとが自分かと一瞬考え、やや焦った。だがキカの事ではなかった。いや……キカの事ではあったが、キカの事として問題になってはいなかった。かねてより学園内を騒がせていた怪人が、またも目撃されたのだ。
その者はあろうことか不在中の校長室への侵入を試みたのだ。侵入の瞬間を廊下で目撃した清掃員はその怪人によって暴力を振るわれ、気絶させられた。怪人は扉を破壊して校長室へ侵入、部屋を荒らしたのち、窓を破って飛び降り、逃走した。駆けつけた警備員達は部屋の状況からそう推測した。
ここ最近の騒ぎはあくまで目撃情報ベースであったが、ここへ来てはっきりと、現実の破壊行為の証拠が示された。学園は騒然となった。サモダ女史は警備員を伴って部屋をまわり、ヨタモノを呼び込んで匿う狼藉者がないか確認するとともに、注意を促した。その夜はずっと巡回の物音がうるさく聴こえた。
キカはその夜ずっと、戦利品のファイルをきつく抱いていた。……「キカ=サン。まだ起きてる?」闇の中で、下のベッドのユマナが名を呼んだ。キカはそのまま寝たフリをしようかとも考えたが、ルームメイトの声音にいつもと違うアトモスフィアを読み取り、返事をした。「うん。何」
「あのね……私ね」「うん」「今日、急にヤヨイ=サンに話しかけられて」「……」キカは少し身を起こした。「何かされた?」「ええとね……」ユマナは躊躇いがちに打ち明けた。「話しかけられただけじゃなく、私、誘われた。ナカヨシに」彼女の声は喜びを隠せていなかった。「ねえ、こんな事って……」
「そうなんだ」キカ自身でも驚くほど冷ややかな声が出てしまった。幸いユマナは聞き咎めなかった。彼女は続けた。「私の事なんて、あの人には石や草と同じだと思っていたのに。でも、ヤヨイ=サン本人が私にね、最近すごく素敵だって……自慢したいわけじゃない。こんな事言われるなんて思わなくて」
「ナカヨシ」キカは呟いた。その時彼女は、とても真剣に悩んだ。ユマナは悪意ある人間ではない。今後もし、ヤヨイやナカヨシの手で、ユマナの身に何かよくないことが起こるとしたら、それはキカのせいなのかもしれない。だとしたら不本意だ。しかしこれはユマナ自身の決める事でもあるのだ。
「ナカヨシの人達は、卒業してからも交流があって、とても……すごく光栄なの!」ユマナは言った。「私、そんなこと、考えもしなかった。カチグミとか、そんな……ねえ、ごめんなさい、一人でこんな、舞い上がっちゃって」「ユマナ=サンは、学校を卒業してから何になりたい?」キカは訊いた。
「卒業してから?」ユマナは訊き返した。「ううん、そうだな、そうだね……ナカヨシだった卒業生は、チャの先生になったり、自分で仕事を始めたり、政治家の奥さんになったり……でも私は全然わからないよ!」「私も」キカは言った。「自分がどうしたいかを考えるのは、スゴイよね」「スゴイだよ」
言葉は続かなかった。やがてユマナの寝息が聴こえてきた。キカの目は冴えたままだった。彼女はしめやかに床へ降り、卓上ボンボリの小さな明かりを灯して、ファイルの中身を確かめ始めた。
まず、キカにはすぐに意味が読み取れない数字の羅列。帳簿らしきもの。ページをめくり、戻り、また戻る。新聞の切り抜き。公園の砂場から土器が出てきたとか、山の中に大昔の墓があったとか、貝殻の化石が大量に出てきたとか、キカにとってはとりとめのない記事のスクラップだ。
厳重に保管しているのがこのような個人的な考古学趣味でしかないとすれば、いささか拍子抜けである。とはいえ彼女はそれらへ斜めに目を滑らせていくうちに、言葉では言い表せない、名状しがたい不安がくすぶるのを訝った。とりとめのない史跡発掘の記事、セピア色の写真、どこか奇妙な調度……。
後ろではユマナの微かな寝息。この夜よりももっと平穏な幾つかの夜と似ている。しかし彼女が今手繰っているのは図書館の書物でも義父母の優しい手紙でもない。彼女が相当強引な手段で盗み出してきた、ここにあるべきではないものだ。窓の外では雨の音。ページを先へ、先へ。
キカの眉が動く。ファイルされているのは別の紙束だ。生徒の名前。家族構成、実家の住所、親の職業、そうした情報の先に、覚書めいたものが日付とともに記されている。オノクミ・ナミ、直接面談にて解決。シノ・モカギ、会社役員を通じた説得にて解決。サノコ・イチオバ、継続中。
既にキカの心臓は早鐘めいて打っている。それらの名前に覚えがあるからだ。先日のUNIX事務室で確認したリストの名前だ……! 日付は今年度のものに限られている。去年より昔の案件はこのファイルには無い。覚書には写真が付いているものもある。家屋の写真、家族の写真、本人の顔写真。
ナコ・スギウラ、名誉毀損の訴訟提起、裁判には至らず和解。イマミ・タドモ、肉親を招きxxす。天下事案。シュモコ・タダタ、継続中。天下事案。チコ・ケヒタ、通知は後日。アンミ・コナキノ、通知は後日。キカは目を擦った。xx? 書くをはばかるような何かか。そして天下事案とは?
「キカ=サン、ヤカンの火、止めて」キカは背後を振り返った。……寝言だ。「ね? 止めて」「うん」「ね。順番だから……」ユマナはまた寝息を立て始める。キカは小さく息をついた。この覚書が意味していることは何か? 退学した生徒達の家族に、校長はその都度何らかの「対処」を行っているようだ。
学力不足や学園生活に適応できず自ら辞めていく者の家族に「会社役員を通じた説得」などをいちいち行う理由がない。退学とはなにか。当初キカが感じていた違和感にまた戻ってきた。彼女たちは辞めていないのではないか。もっと恐ろしいなにか。キカはページをめくる。別の資料だ。家系図? 年表?
上から下へ、葉脈じみた細い筆致、ところどころに書かれた女性の名前。ページの四分の三ほどで一旦それは中断し、余白に更に書き込まれる事を待っているようだ。そこにはキカもよく知る名がある。ヤヨイ・シンケイド。「ナカヨシ……?」
歴代のナカヨシ・グランドマスターの名前だろうか? 系図はここ十数年に限られている。三年毎に別の者が引き継ぐ。学年は無関係で、入学して、そのまま卒業まで決まった一人が三年間……。あの時ヤヨイの誘いを受けておくべきだったか? そうすれば、企みの内側から詳しく調べられた。否……それは結果論にすぎない。
ユマナはナカヨシで何を見せられるのだろう? よくない事だろうか? それとも、キカの好奇心自体が不当で、ただの過剰な思い込みで、単なる事務的なやり取りを大袈裟に受け取っただけの……それは、ありえない。キカは首を振った。彼女は席を立とうとした。チャが飲みたい。汚い紙が床に落ちた。ファイルに挟まっていたのだ。
「……」キカは拾い上げる。紙自体は新しい。メモ帳の数枚。変色し、縁は黒く焼け焦げたようになっている。薬品か何かで焼こうとしたのだ。キカにはわかる。焼こうとして、途中でやめた? メモの筆跡は荒々しく、力強さがあり、校長の筆とは違う。数字や短い文書の羅列。キカは理解しようとした。
「生徒……少なくともこの十年……」呟きながら、キカの目はメモ帳の数字と文字を追う。「退学の形をとって……」校長にとって、とても都合の悪い推測と、それを裏付ける幾つかのデータ、「……形をとって……」キカは繰り返す、ファイルのページをめくる、焼けたメモが貼り付けられていた箇所。
「行方不明者名簿」パンチシートの切り抜き、名前の羅列を切り貼りしたものだ。警察のデータだろうか?「時に……家族全体……」校長はおそらくそれらを隠滅しようとして、思い留まったのだ。そのページにはボールペンで走り書きされている。「天下事案」。情報の出処を誰かに探らせる為?
外は雨が降っている。巡回者のライトの光が揺れる。キカはあらためて恐ろしさを感じる。この学園は校長の庭だ。あの警戒の薄さも、校長が自身の手に余る問題など起こりようがないと普段から考えている事のあらわれだろう。現にこの焼けたメモを書いたと思しき者は、消されてカンオケに……。
「違う、違う違う」キカは呟いた。掘り返されたカンオケは空っぽだったではないか。追求者の死体は無かったのだ。追求者は死んでおらず、いまだこの学園に居る。ここ最近の目撃情報。生徒や職員が目撃する怪人。繋がる。まるでそれは、この学園の現実に生じた、黒いシミめいた綻びのようだ。
この綻びは最終的に何かを顕わにするだろうか。……キカは不意に自覚する。自分も既にその流れに加担しているのだ。彼女はいつも恐れてきた。死への恐れ、痛みへの恐れ、暴力への恐れ。生きている限り、不感でいられるはずがない。何より彼女は変化を恐れた。変化は死や痛みや暴力を呼ぶからだ。
彼女は、ずっと怖い。あの夜の警備員、番犬、あるいは二階から飛び降りたこと、闇に光る校長の目、事務室の怪人、山の外に広がるネオサイタマ、何もかもが恐ろしい。だが、恐れるどころではないという事も、本当はわかっている。物事は動き出している。穏やかな時間はそう長くは続かない。
「キカ=サン」ユマナが寝言を呟く。キカはファイルを閉じた。明日には校長も戻ってくる。今回の外出も、「退学者」に関する対処の一貫だろうか。週末には、礼拝堂でナカヨシの「儀式」。……「キカ=サン」ユマナが繰り返した。キカは振り返った。寝言ではなかった。「キカ=サン。どうしたの」
「ごめんね」キカは呟いた。彼女はボンボリを消灯した。
この日が、キカが過ごした最後の一日だった。
6
「俺の商店は返品不可、ワカル……」「言ってみただけだ」ニンジャスレイヤーは歩き出した。フィルギアは肩を竦め、後に続く。背後はカンオケの埋め跡、最初の雨粒がポツリポツリと落ちた、やがて激しく降り出すだろう。「どこ行く?」とフィルギア。ニンジャスレイヤーは答える。「破砕音の方向だ」
「音がしたって? さっき?」フィルギアは言った。「俺ァ慣れない肉体労働に必死で……ああ、ああ、ああ」駆け出したニンジャスレイヤーの後へ続く。どんどん引き離される。フィルギアは溜息をつく。その身体が歪み、一瞬にして一頭のコヨーテに変わった。コヨーテはニンジャスレイヤーを追う。
やがてニンジャスレイヤーは目的の場所へ辿り着き、そこから頭上の二階ベランダを見上げた。窓ガラスが割れ、風に煽られた雨が中に吹き込み始めた。「校長室!」追いついたコヨーテが飛び上がり、ニンジャスレイヤーの背中を蹴って跳ねると、フクロウにその姿を変えて、羽ばたきながら上昇した。
「イヤーッ!」ニンジャスレイヤーも一瞬身をかがめて力を溜めたのち、二階の高さへ跳躍! 空中で一回転しながらベランダへ着地、人間の姿に戻ったフィルギアに続いて校長室へ踏み込んだ!「アイツは留守だ」フィルギアは言った。「名士様だ。ネオサイタマでのロビー活動にもご執心なニンジャさ」
「そうは言っても、時間は無かろう……」ニンジャスレイヤーの指摘を裏付けるように、ドアノブが外側からガチャガチャと動かされていた。「誰かいるのですか!」廊下から声。建物内の清掃員ないし警備員が異常に気づいたのだろう。「ちと待ってろ!」フィルギアは堂々と応答し、いきなりドアを開けた。
「アイエッ!?」ドアを内側から急に引き開けられ、声の主は……人の良さそうな清掃員は室内にまろび込んだ。そしてフィルギアにぶつかり、跳ね返って尻餅をついた。「アイエッ? あなた確かナツイ先生とかいう……」「アンタの他に、人は呼んだ?」「アイエッ?」見上げる目は恐怖に見開かれる。
フィルギアの痩躯がザワザワと音を立てた。清掃員の瞳に映る姿が少しずつ歪むにつれ、その瞳孔は恐怖に収縮していく。「アイ……アイエ……アイエエエエ!?」「お前は何も見なかった。私は誰でもない。いいね?」清掃員を見下ろすのは梟頭の怪物であった。「アイエーイエエエエー!」清掃員は失禁!
「アイエエエエ! ニンジャ! ニンジャ! フクロウの……アイエエエエー!」清掃員は失禁しながら叫び出した。梟頭のフィルギアは閉口したように小首を傾げ、その頚椎にチョップを振り下ろした。「イヤーッ!」「アバーッ!」……沈黙。
「言っとくが、殺らなかったぞ」フィルギアはニンジャスレイヤーを振り返る。「目が覚めれば悪夢か何かだと思う筈さ。度を越した恐怖ッて、そういうものだ」ニンジャ・リアリティ・ショック反応にわざとらしく言及しながら、彼はもとの人間の姿に戻った。ニンジャスレイヤーは唸り、探索を開始した。机。棚。クローゼット。
フィルギアも、ニンジャスレイヤーと共に物色を開始した。「ああ……物色を急がないとな。ワオ! これ、弾痕じゃないか。とにかくこの部屋で何かあったんだ。探偵が銃で撃ったかな……。そっちはどう?」
「この部屋には先客があった。窓ガラスを割った人間が」ニンジャスレイヤーは言った。「何かが持ち去られている」「窓を割って、盗みに入った? 確かにまあ、ガキが野球ボールで割ったわけでもなさそうだ」フィルギアは検討する。「俺らの他にこういう真似をしてる奴……探偵……の……ゾンビと、ニアミスしたかな……」「……これは!」
ニンジャスレイヤーは机の引き出しの中から、黒くくすんだ円形の物体を取り出した。鎖がついている。フィルギアはそちらを見、「アァ? ペンダント? ちょっとイイな、だけど、俺らは今、貴金属荒らしじゃなくて……」「これはホーリーシンボルだ」「ああ、だからホーリーシンボル……」「鴉の印だ」
ニンジャスレイヤーは円形のホーリーシンボルを指先でなぞった。その表面には記念コインめいて、鴉の意匠が施されている。「持ち主がわかる。ニンジャとなったのち、彼は、自身を助けたカラス・ニンジャを象徴する品を身につけていた。一種のモージョーとしてだ」「遺品ッてわけ……」
「ただの飾りではない」「他に何かねェか? そういうセンチメンタル品もいいんだがよ……時間がねえぞ」フィルギアはキャビネットを蹴倒し、額縁を引き剥がす。「誰だ、ここから持ち去った奴……」「見ろ」ニンジャスレイヤーはホーリーシンボルを両手で支え、表面を金庫ダイヤルのように捻った。
右に数回、左に数回、また右。暗号じみたリズム。やがてカチリと音が鳴り、ホーリーシンボルは化粧コンパクトのように開いた。「探偵ガジェットだ。幸い、彼の用いる符丁は変わらぬままだった」ニンジャスレイヤーは中身をしめす。LANコネクタ端子。フィルギアは口笛を吹く。「同業者万歳かね」
「そういう事だ。知らぬ者には仕掛け自体がわからぬ。そうして秘密を守る」「ハードウェア・プロテクションだ! ヒヒヒ、マジに探偵らしい……」「ディテクティヴ=サンを破った校長が、所持品を押収。これについては用途がわからぬまま、処分を留保して机の中に寝かせていた」彼は仮説を述べた。
「その説を採用しとくか」フィルギアは言った。「多分、大切なデータだな。早速UNIXにかけなくちゃ……」彼らは廊下の外に複数の足音を聴く。叫び声を聴きつけてきたか。二者はその他目についた物品を懐へしまい、窓から飛び降りた。雨が強く降っている。走りながら彼らは会話を続ける。
「……てことは少なくとも、『先客』はディテクティヴ=サンじゃねえわけだ」フィルギアは言った。「自分の物を取り返しに来たなら、わざわざそいつを置いていくわけがねえ」「そうだな」「誰かな……アー、前」前方でライトが揺れる。巡回か。彼らは生垣の陰に身を隠す。
「とにかくこれでようやく、俺の誠実が証明された」とフィルギア、「そいつはディテクティヴ=サンの品。紛れもない実物だよな」「本人の身につけていた品だ」「だろ! 俺は嘘を吐かない」「痕跡を追えるか……」ニンジャスレイヤーは独り言めいて呟く。「やってみる価値はある」
「追跡か」フィルギアは思案顔で、「本当に生きているッてんなら万々歳。初戦でディテクティヴ=サンがしくじった理由を本人に訊いて、対策が立てられるかもしれねえよな。探偵は生きていた。で、邪悪なニンジャであるここの校長を、ニンジャスレイヤー=サンがブッ殺す。俺、喜ぶ。完璧だ」
「当然殺す。だが、オヌシはそろそろ理由を明かしてもいい頃だ」「理由ね」「そうだ」ニンジャスレイヤーの目は、「忍」「殺」のメンポと頭巾の奥で、確定的殺意の暗い光を帯びている。だが彼は他者の利欲のために殺しのカラテを振るう行為に激しい嫌悪感を持っていた。ましてフィルギアの利欲だ。
「俺は他人に何を言っても、いまいち信じてもらえないんだよな」フィルギアは低く言った。「なんならアンタが決めりゃいいぜ……殺るか、殺らないか。いつもやってきたようにさ。俺がいようがいまいが、アンタが殺すべきニンジャだと判断すれば、殺りゃあいい。だが、賭けてもいい。殺る気になるぜ」
「……」「奴の名はファフニール。アーチニンジャとしての名はマガツ・ニンジャだ。俺は奴を知ってる。いいか、賭けてもいい。アンタが狼狽えちまうような善良無害な聖人君子様のニンジャだったら、わざわざアンタを巻き込みやしねえさ。……この学園は奴の私物。絶対に、現在進行形で、悪事の真っ最中」
ニンジャスレイヤーは無言だ。明かりが近づいてくる。フィルギアは声を潜めた。「気持ちはわかるさ。俺が言ったとおりになるのが気に入らねえんだろ? まあ、我慢しろッて。放っておいちゃ、いけないぜ……それはアンタの道理が通らない……ダメだ……んん?」フィルギアは目を見開く。「馬丁のガキだぜ」
然り、周囲に目配せをしながら小走りにやってくるのは素朴な顔立ちの少年だった。「何てッたかな……ウイリアム、違う……ワカヤマだ、確か」鼻から上を生垣から覗かせ、フィルギアが呟く。ワカヤマは気づかない。「馬はおらんな」「そりゃな。こんな雨の中だ」フィルギアは答える。
「じゃあ、どうしてこんなところを歩いてる? 何を探してる? どこへ向かってる……?」フィルギアはブツブツと呟いた。そしてニンジャスレイヤーを見た。「俺、興味が湧いちまった。一度別れよう。アンタはホーリーシンボル係」ニンジャスレイヤーは懐から懐中時計じみたそれを取り出す。「よかろう」
フィルギアの姿がフクロウに変わり、大きく羽ばたいて雨の中を飛び上がった。ニンジャスレイヤーはホーリーシンボルに集中した。降りかかる雨の感触をシャットアウトし、雨の音を、風の音をシャットアウトし、手の中の残留ニンジャソウルと似た痕跡を周囲から読み取ろうとする。
やがて彼は動き出した。フクロウが滑空してきて、羽ばたきながら言った。「なんだよ、こっちかよ」「同じ方向だ」「奇遇なことで」フクロウは再び飛び上がった。ニンジャスレイヤーは草の中を身を屈め進む……。
◆◆◆
渡り廊下の窓を背に、イバラめいて強く厳しい瞳の少女はまっすぐに立ち、近づいてくるキカとユマナを見やった。両脇の取り巻き達が一瞬遅れてキカに気づいた。ヤヨイは取り巻き達を手で制し、キカの前に立った。「コンニチワ」「……コンニチワ」キカはヤヨイの凝視を受けた。
「……」「……」その場の者達みなが息を潜め、廊下が静まり返る。パラパラと雨がガラスを打つ音。やがて、ヤヨイが溜息を吐き、済まなそうに苦笑した。「やっとアイサツできた」「……」「本当は、その、もっと早くに声をかけたかったんだけど」ヤヨイは言葉を選びながら言う。「難しくて」
ユマナは不安げにキカとヤヨイを交互に見た。ヤヨイは窓の外を見、「今日も雨ね」と言った。「そうだね」少しの間を置いて、キカが答えた。ヤヨイは頬をやや上気させ、思わずキカの手を取った。「私のこと、もう嫌いでしょう、当然よね。私、どうしたらいいかわからなくて……わからなかったの」
「わからない?」キカは訊き返した。ヤヨイはキカから手を離した。「そう。私、こう言うのもなんだけど、皆の方からいつも、その……フレンドリーにしてくれたから……だから、人は誰でも、大人も子供も、そうだと思ってた……皆のほうから来てくれるって。すごく思い上がっていたのね」
「……」「私、あなたの目が、綺麗だと思った。初めて見た時に。だから、傍に来て欲しかったの。他の、素敵な皆のように」ヤヨイは瞬きもせずキカを見ていた。ヤヨイは言った。「思い通りにいかないからって、私、熱くなってしまって、腹を立てて……それですごく自己嫌悪してしまって」
キカは曖昧に相槌を打った。ヤヨイは上目遣いでキカを見た。「ゴメンナサイ。……ね。それが、言いたくて」「……」キカは鼻白んだ。なんと無邪気で、かわいらしい事だろう。この娘は、庭園でアンミが用意したパイプ椅子じみて、ぎこちない、まがいの権力ごっこに興じていたというのだろうか。
……だが、あの時パイプ椅子を用意したアンミは、もういない。キカは目の前のヤヨイが静物画のモチーフじみて冷たく無意味に思えた。「ヤヨイ=サン」「なに?」「アンミ=サンはどうして退学したのか、何か知っている?」「アンミ=サン?」「そう」「……」ヤヨイの目が泳いだ。「わからない」
「急に退学したから、私、気になって」「私」ヤヨイは言葉を探し、やがて言った。「私も悲しい」「そうだね」キカは呟いた。ここで踏み込むべきではなかったかもしれない。キカは思った。その時彼女は、彼女なりに少し冷静さを欠いたのかもしれない。彼女は追求をやめた。何かがわかる。今夜には。
フェー。笙リード音が彼女らを促す。生徒達はいつまでも廊下でダラダラしていてはならないのだ。「またね」もう一度ヤヨイはキカに笑いかけた。それからユマナに顔を近づけ、耳元で(お願いね)と囁いた。ユマナは微笑み、頷いた。ヤヨイ達が去ると、キカはユマナを促した。「行こう」
「キカ=サン」ユマナが言った。「ヤヨイ=サンは、アイサツしておきたかったんだって」「うん」「……寮に戻る前に、一緒に見てほしいものがあるの」「どこ?」「来て」「うん」ユマナに従いながら、キカは彼女をどう評価したものか決めあぐねていた。ユマナはもう、ナカヨシの一員なのだ。
「お庭に行くの?」キカは訊いてみた。「そうね、そっちのほう」ユマナはキカの手を引いた。キカは考えた。ユマナに悪意の影は無い。ヤヨイはユマナを引き入れた上で、再度ナカヨシへの勧誘でも行うつもりだろうか。だとしたら随分と持って回ったやり方だ。渡り廊下から庭へ出、緑のなかを進む。
だが、先日の拒絶と今の心境は異なっている。今ならナカヨシに誘われてみるのもよい機会かもしれない。なにしろ「儀式」の最中、礼拝堂は出入口を封鎖され、窓はカーテンで覆われ、厳重に外界から遮断されるのだという。そこで何が為されるかを確かめる為に、いっそ一員になってしまえば……。「痛」
キカは首の後ろを手で押さえた。刺すような痛みだった。痛みの方向を振り返った。視界がぼやけかける。彼女は焦点を正常に保とうとした。生垣の影から半身を出しているのは、吹き矢を構え、制服のブレザーに黒いニンジャ頭巾で覆面した女生徒の姿だった。
「何……」震え声を発したのはユマナだ。彼女も把握しない事態が起ころうとしている?「ニンジャ……ナンデ……?」ガサガサと植え込みを掻き分け、別の女生徒が庭に入ってきた。その者もやはりブレザー制服に黒いニンジャ頭巾という出で立ち、それが誰かはわからない。手にはジュッテ。
「アイ……アイエエエエ!?」ユマナは悲鳴を上げ、後ずさった。「大丈夫」ユマナの背後からまた一人現れ、肩に手を置いた。「こういうものだから」声だけでは、それが誰なのかわからない。その者もやはりブレザー制服姿に黒いニンジャ頭巾で覆面していた。手には鎌を携えて。
「う……」キカは腰が砕け、両膝をついて、意識が飛ばぬようこらえるのがやっとだった。じりじりとニンジャ頭巾の生徒達は包囲網を狭める。薔薇アーチをくぐり、更に新たな二人がエントリーする。その者らもやはりニンジャ頭巾で覆面している。手にはクナイ、そしてボーだ。
「こっちへ」一人がユマナを引き離し、遠くへ連れて行く。ショック状態に陥ったユマナはされるがままに従った。女生徒の一人がキカの顎にジュッテを突きつけ、上を向かせた。「貴方はね……」「ヤメテ!」キカは力を振り絞り、足元の土塊をつぶてめいてその女生徒の顔に投げつけた。「ンアーッ!」
その隙に、キカはよろめきながら立ち上がった。「ニンジャ」「ナカヨシ」女生徒達は口々にチャントを呟きながら迫ってくる。キカは走りだす。「ニンジャ」「ナカヨシ」その背を吹き矢がかすめる。「ニンジャ」「ナカヨシ」キカは生垣をまたぎ越す。その先にもやはりニンジャ頭巾姿の生徒。
ゴーン……。礼拝堂の鐘が鳴った。じきに陽が落ちる。陽が!「ニンジャ」「ナカヨシ」鎌やサイを構えたニンジャ頭巾の生徒達からキカは遠ざかろうとする。身体の痺れはじきに引いてきた。彼女にはこの毒では弱いのだ。キカは校舎に辿り着いた。通用門。閉まっている。「ニンジャ」「ナカヨシ」
(ニンジャじゃない……ニンジャじゃない)キカは自分に言い聞かせた。(あいつらはニンジャじゃない!)通用門を諦め、一階の教室の窓を確かめる。開いているサッシがあった! 彼女は力いっぱいサッシを引き開け、中へ入り込んだ。廊下へ飛び出し、どんどん暮れて暗くなる窓の外を恐れながら走る。
どこへ向かえばいい? 寮へ? 教室に隠れる? 何処に行けば、誰もいない? ナカヨシがいない? ナカヨシは何人いる? この学校に?「ニンジャ」「ナカヨシ」キカは立ち止まる。廊下前方から二人。一人はボンボリライトを、一人はモーニングスターを構える。キカは荒い息を吐く。「ハァーッ……ハァーッ」
逃げ道を……逃げ道を!「ニンジャ。ナカヨシ」二人が迫る。ボンボリライトを持つ女学生が逆の手で懐からスリケンを取り出し、キカへ投げつけた。スリケンはヒュルヒュルと飛び、壁に当たって落ちた。キカは斜め後ろにある階段へ逃げ込んだ。上へ走る。踊り場。そして二階。「ニンジャ。ナカヨシ」
上った先に、また一人。手にはアイアンクロー。キカは悲鳴を噛み殺し、グッと眉間に力を込めて、恐怖の涙をこらえる。彼女はずっとそうしてきた。もっともっと恐ろしいことがあったではないか。「ニンジャ。ナカヨシ」「ウワーッ!」キカは行く手を阻む生徒に肩からぶつかった。「ンアーッ!」
生徒は後頭部を床に打ちつけ、震えて動かなくなった。キカはさらに上へ上がる。ルートを想像する。上へ上がって……それから廊下を突き当たりまで行き、また下りて、二階の渡り廊下を使って隣の棟へ……それからどうする? どうやって逃れる? いったい何が起こっているのだ?「ニンジャ。ナカヨシ」
ぞろぞろと現れる新たな生徒達。手に手に松明を持っている。明らかにキカを包囲する形で集まってきているのだ。キカの想定ルートは早くも断たれた。「ニンジャ。ナカヨシ」キカは身を翻した。だが後方からも新たな生徒達。その人数は実際の十倍にも二十倍にも感じられる。キカはまた階段を上がる。
彼女は屋上へ逃れた。否、退路を断たれ、ネズミ袋じみて追い詰められたのだ。既に空は暗黒。屋上を無情に囲むは転落防止のフェンス。防火用貯水タンク、小さなトリイと地蔵が出迎える。キカは武器を探す。地蔵に火かき棒が立て掛けられている。彼女はそれを取った。「ハァーッ……ハァーッ」
フェンス越しに、彼女は周囲を見渡す。山、バンブー林。それら越しに垣間見えるネオサイタマの街並み。校内には別棟。それから馬小屋。ワカヤマを思う。彼女がこんな事態に陥っていると知ったら、ワカヤマはどう思うだろう。何も思わず、やり過ごすだけだろうか。それから礼拝堂。……儀式。
「ニンジャ。ナカヨシ」一人。また一人。ニンジャ頭巾姿の生徒が屋上にエントリーしてくる。手に手に松明。闇を照らす。それらの光を受けながら、ゆっくりと進み出るのは、ヤヨイ……。襞襟つきの外套を制服の上から羽織り、鼻から下をヴェールで覆っている。彼女は特別だった。
「ドーモ、キカ・ヤナエ=サン。ヤヨイ・シンケイドです」ヤヨイはオジギを行った。キカは火かき棒を構え、後ずさる。生徒達が松明を威圧的に振り上げる。「ニンジャ! ナカヨシ!」「キカ=サン」ヤヨイが恍惚めいて言う。「私、貴方がほしかった。とても素敵で、強くて、カワイイだから」
「貴方はニンジャじゃない」キカは絞りだすように言った。ヤヨイは鼻で笑った。「ナカヨシ。この学園の創立以来受け継がれ続ける崇高なるクラン。助け合い。礼儀……。でも貴方は違う。私は貴方がほしかった。でも、貴方は私を拒絶した。私のせいよね」ヤヨイは言った。「だから、もう、いらない」
ヤヨイは片手を上げ、キカを指し示した。「ニンジャ。ナカヨシ」生徒達が迫る。迫る迫る……。「ウワーッ!」「ンアーッ!」キカは先頭の一人を殴りつけた。その者は血を流して倒れた。だがその時にはその後ろの二人、三人がキカを掴み、引きずり倒し、押さえつけていた。
「ニンジャ。ナカヨシ」「ニンジャ。ナカヨシ」キカはどうする事もできなかった。「行きましょう。秘儀の場」ヤヨイが言った。「貴方は本当に素敵。ニンジャ様も喜ぶわ」
7
「ムウウウーッ……」「ドッソイ……」セデムシ・ヤタマは舵めいたホイールを仲間であるスモトリ崩れのミベダと二人掛かりで回し、青銅の扉を開いた。扉にはシメナワが施され、「ご無償」と書かれた巨大なオフダ群とともに、この場所の神聖性を自ずから語っている。
カビと土の匂いが彼らの鼻腔をくすぐる。セデムシは震えた。当然、ミベダもだ。そしてミベダが居ていいのはここまでだ。セデムシだけが入場を許される。とにかくモータルには畏れ多い場所だ。儀式の直前に入場し、呼吸を最小限に、最短時間で準備を整え、できる限り速く退出せねばならない。
扉の先、数十メートルの通路を進むと、そこは厳めしい玄室である。広い。セデムシはローマの地下納骨堂を連想する。勿論そんな所を実際に訪れた事は無いが。中央部は段差が設けられている。そこには石の台がある。台の上にはなにもない。ひどく汚れている。台の真上の天井には四角い穴が空いている。
セデムシは手にしたランプをかざした。闇の奥は見ないようにする。壁を這う木の根めいたもの、その他のものは。それをあえて理解する事は精神に有害だと、彼は長年の執事生活の中で理解している。彼はランプの覆いを開けてロウソクを取り、祭壇じみた台の周囲のロウソクに火を移していく。
ロウソクには香が練り込まれており、火が移ることで、玄室は刺激性の強い匂いに満たされた。セデムシはシャツの胸のあたりを掴み、深呼吸を……する事は畏れ多いゆえ、目を閉じてゆっくり頭上を仰ぎ、緊張した全身の力を抜いた。そして懐からオートマチック・ピストルを取り出し、安全装置を外した。
セデムシに課されているのは、儀式の進行を滞りなく行わしめること……。銃はまさかの事態に備え、渡されているのだ。つまり……「ああ、いけない」セデムシは呟き、玄室入口そばのバッテリーを作動させる。ドルルルル……振動音が腹の底に響く。彼はバッテリーの横、壁のレバーを引き下ろす。パボッ。
特徴的なサウンドを発し、壁かけ式のUNIXモニタが起動する。儀式は既に始まっている。この場への入場は常にギリギリなのだ。セデムシは額の汗を拭う。彼の勤めは長い。長いが、慣れない。銃の用途は、つまり……「アイエエエエ……」悲鳴が降ってくる。セデムシは歯を食いしばる。
ボン、という嫌な音がして、埃が待い、ロウソクの火が揺れた。セデムシは目を凝らした。そして胸を撫で下ろした。殆どの犠牲者はこのようにして落下の衝撃で死に至るか、動けなくなる。で、なくば……万一、「根」の手に負えないほどにその者が無事で、抵抗する場合は……彼が手を汚さねばならない。
セデムシが震えを堪えて見守る中、闇の中をシュルシュルと影が這い、台の上で動かなくなったものを……生徒を捉えた。影……すなわち、壁を覆う「根」の一部は、生徒をひょいと持ち上げ、そう遠くない、セデムシが見ないようにしている闇の中に、一瞬で持ち去った。
UNIXモニタは、この地の直上、礼拝堂の模様をライブ中継している。礼拝堂の天井に設置されたカメラが映像をLANネットワークによってこの場所まで送り込むのだ。恐怖と緊張により、セデムシは殆ど笑顔になっている。罪悪感は数十年のうちに摩耗し果てたが、おそれは消える事がない。
セデムシは脈打つ鼓動音を聴く。木の根が発している音だ。何とおぞましきか。いや違う。神聖なのだ。モータルにはその神聖性を理解できないだけだ。セデムシはわきまえている。彼はしかし、考えを止められない。モニタの向こうの少女達。仲間を断罪し、生贄に選び、そして卒業し、社会へ出て行く。
この学園はそう大きくない。ソサイエティを構成するのはその更に上澄みの限られた者たちだ。だが、セデムシは儀式を見守り続けて数十年。彼の前の代の者。そしてその前の者? その事に思いを馳せると、彼は恐ろしくてたまらない……。「お勤めご苦労」厳かな声が玄室の入口から呼びかけた。
「アイエ!」セデムシは振り返り、明かりを向けた。「眩しいぞ! バカめが!」エントリー者はドスの効いた低い声で叱りつけた。「我は校長であるぞ!」「誰!」セデムシは悲鳴を上げた。その者は笑い出した。「プッ……ウヒ、イヒヒヒヒ、ダメだ、俺じゃ重みが足りねえ……」
「ミベダ=サン!? ミベダ=サン!」セデムシは叫んだ。「侵入者だ! 大変です!」「そのミベダ=サンとやらは」新たな一人が長髪の男の後ろの闇に浮かび上がった。「忍」「殺」のメンポを着けたジゴクの存在が。「入り口に居た男か。寝てもらった。手荒い歓迎を受けたのでな」「アイエエエ!?」
「ドーモ。フィルギアです」「ドーモ。ニンジャスレイヤーです」「アイエエエ! ニンジャ!? ニンジャナンデ!?」突然の極限ニンジャ状況! セデムシは失禁しながら尻餅をつく。BLAM! 引き金が引かれ、明後日の方向に銃弾が跳ねた。「なァおっさん、ここが何なのか、説明できるかい?」
「アイエエエエ!」「ここが礼拝堂の真下ってわけだろ? 手間かけさせやがって。入れやしねえは、えらい地下深くまで潜るらされるはで……」「アイエエエエ!」「上の様子か。儀式とやらか」ニンジャスレイヤーはモニタを一瞥した。そして奥の闇を見通す。「……!」
その視線の先にあったのは、網の目状に壁を這い巡る無数の巨大な根であった。そして、ALAS……なんたる事か。節くれだったそれら禍々しい根に抱かれ、幾つか見え隠れするのは、紛れもなく、かつては生きていたであろう者たち……この学園に学んでいた者たち、少女たちの姿だ!
「ヒッデェ眺めだ! な? 保証したろ。これが古代ニンジャだ」フィルギアがニンジャスレイヤーの肩を叩いた。「キレてるか? ニンジャスレイヤー=サン。探偵殿も、まさかここまでは想像しちゃいなかったろ。知ったら二倍キレたかもな。だがこれで肝心なところが解りかけてきた。奴の秘密がよ……」
フィルギアの笑顔がやや曇った。ニンジャスレイヤーはすぐには答えなかった。その瞳にはセンコめいた赤黒の火が灯っていた。フィルギアは二歩さがった。「お、お前たちーッ!」セデムシが我にかえり、失禁しながら彼らを指さして叫んだ。「神聖な儀式を穢すべからず! 我があるじが許さんぞ!」
セデムシはほとんど半狂乱であった。「こんな! 許されない! 私のセプクでは贖いきれないぞ! お前たちも今すぐセプクしろ! 罪が重い! そしてあるじに詫びなさい! いつものように、彼は準備万端整えた私を労ってくれる筈だったというのに!」「うむ、これは何事かね?」第三の新たな入室者が問うた。
「邪魔してるぜ」フィルギアはそちらへ先手を打ってアイサツした。「ドーモ。ファフニール=サン。マガツ・ニンジャと呼んだ方がよかったら、そっちでもいいぜ。……フィルギアです」「フィルギア? はて」その者は……ダークグリーン装束のニンジャは額に指を当て、首を振った。「何者です?」
「俺の事はいい」フィルギアは言った。「所詮、ゴミのようなニンジャさ。無害なもんさ。アンタが有象無象の俺を知らんのも無理はない。つまり……」「ドーモ。ファフニール=サン。ニンジャスレイヤーです」赤黒の鬼はオジギを繰り出した。「貴様を殺しにきた」
「私を? 殺す?」ファフニールは繰り返した。「……貴方の噂はやや存じております、ニンジャスレイヤー=サン。ドーモ。ファフニールです」ゆっくりとしたオジギ。そしてカラテを構える。「いやはや、私のところに現れるとは……このところ、この手のインシデントが実際多い。閉口します」
空気が煮凝りじみて殺気に澱み、セデムシが泡を吹いて気絶した。「アイエエエ……アバーッ!」「うるせえオッサンだ」フィルギアが呟いた。彼は戦闘者達から更に間合いを取り、横目で壁の木の根を見た。彼は何かを探している。そしてUNIXモニタは、進行中の儀式を冷徹に映し続けている……。
◆◆◆
ヒヨ・コモノミが奈落穴に飛び降りるさまを、キカは瞬きひとつせず見つめていた。縄を解かれると、ヒヨは自らの意志で、ナカヨシ達に見守られる中、歩を進め、躊躇ったのちに飛び降りたのだ。奈落穴から微かに叫び声が尾を引いた。そして静寂。「カラダニキヲツケテネ」ヤヨイが言った。
ヒヨにはナカヨシとして至らぬ行いがあり、その汚点を濯ぐ為に殉教した。とにかく、キカが見せられた今しがたのやり取りをまとめると、そういう事だった。キカにはその理由とやらがまるでわからなかった。ナカヨシ達はニンジャ頭巾の奥から冷たい視線をヒヨに投げかけ、ヒヨは泣きながら納得したのである。
後ろ手と両足首。キカの拘束は解かれていない。それが解かれるのは奈落穴へ向かう死の歩みに際してだろう。否、キカには自ら歩いて死ぬつもりはなかったから、この拘束は解かれぬまま、このナカヨシ達の手で投げ捨てられるのかもしれない。
礼拝堂に集まったのは数十人。三学年全体から、この人数。厳かで不気味な集会を、ステンドグラスを背にした聖像が見下ろしている。頭にはニンジャ頭巾。まるでタチの悪い悪戯だ。「今日はもう一人います。キカ・ヤナエ=サンです」ヤヨイは手にしたダイヤモンドの杖で、キカを指し示す。
聖像の足元に四角い奈落穴が口を開けている。大仰な仕掛けだ。普段は閉じられて、床と見分けがつかない。「まず、反省の弁を述べる気はありますか? あれば、述べなさい」ヤヨイは命じた。「反省?」キカは呟いた。ナカヨシ達はキカを見ながら囁き合う。
「私達には本来、互いをリスペクトし、助け合う、そうした美徳が備わっている筈です。ユウジョウです」ヤヨイは言った。「貴方はそれをたやすく蔑ろにし、踏みにじる。胸に手を当てて考えて。あら、縛られているから無理ね。ゴメンナサイ」ヤヨイの瞼がひくついた。「貴方は私を拒絶しました」
「……」「キカ=サンは、ナカヨシへの誘いを無碍に断りました。私が……私が、」ヤヨイが涙を拭った。「私がキカ=サンを誘ったのに、侮辱です」ナカヨシ達がざわついた。傲慢! 不穏的! といった非難の言葉が口々に発せられた。キカは無表情だった。その時の彼女の瞳はガラスめいていただろう。
「それで?」キカは自分の声を聞いた。震え声だった。彼女は震えながら、せせら笑おうとした。「だから、穴に落ちろっていうの? そうやって、嫌いになった人を決めて、こんな集まりを開いて、ナカヨシ……ユウジョウ……ずっとそうして来たの?」「……」ヤヨイは眉根を寄せた。「何が言いたいの」
「バカみたい」キカは言った。真正面のヤヨイを見た。ヤヨイは己を守るように腕組みした。キカは言った。「昔の先輩達がこういう事をして、その前の先輩達がこういう事をして、今は貴方達。あれをした、これをしなかった、そんな事を責める為に、そんな格好で集まって、裁判みたいな事をして?」
「な……何を言って」ヤヨイはよろめいた。ナカヨシの一人が支えた。「ナカヨシは歴史あるソサイエティ……あなた何を言っているか、わか」「うるさいッ!」キカは叫んだ。両脇のナカヨシがびくりとして後ずさった。「わたしは……わたしは! 生きてるんだ! 一生懸命! 生きているンだッ!」
ヤヨイは抗弁した。「あ、あなたが悪いのよ! あなたが私の……」「お前の事なンか、知るかッ!」キカは叫んだ。空気が震えるほどの叫びだった。「私の邪魔を! するな!」礼拝堂が静まり返った。ヤヨイはブルブルと震え出した。それから笑い出した。「それなら、おしまい! 皆そいつを引きずれ!」
「ウ……」ナカヨシ達は互いに目を見交わし、一瞬、ためらった。ヤヨイがもう一度命じた。「そいつを引きずれ! 奈落に落とせ! 秩序とユウジョウの敵だ!」「ウ……」「ウワアアーッ!」ナカヨシ達が武器を振り上げ、縛られたキカのもとへ殺到した。その時、キカの主観時間は泥のように鈍化した。
躊躇を捨てた時、彼女は全てを悟った。あの夜、近くに感じたニンジャアトモスフィアを追って飛び出したのは何故か。そこで見た光景に何故ああまで執拗に食らいついたのか。……逃したくなかったのだ。彼女は期待したのだ。期待を自覚する事は恐ろしかった。自覚しないよう抑えて来た。でももう、いい。
キカの脳裏に、塀の裂け目から覗き見た外の世界が閃く。それからヤナエ夫妻の優しい微笑みが。夫妻は名前をくれた。そしてキカを心配するユマナ。ユマナはこのニンジャ頭巾の集団の中にいるだろうか。それももう、いい。キカにはわかった。連れて行くのはニンジャではない。自分がニンジャなのだ。
あの日のジゴク、あの日の落下、あの日彼女を護る獣は彼女を受け止め、瓦礫の上に血と肉を撒いて死んだ。そのとき彼女は何もかも失った。そんな彼女を救ったのはヤナエ夫妻だ。だから彼女は奥ゆかしく生きようとした。でも、もういい。連れて行くのはニンジャではない。ニンジャは自分自身なのだ。
「ニンジャ! ナカヨシ!」鈍化していた主観時間が解凍され、ナカヨシ達が襲いかかる。キカの胸に怒りが湧き上がる。自分を邪魔する者達。ヤヨイは杖でキカを指し示す。ヤヨイはキカを罵っている。キカには聴こえない。キカはヤヨイの頭上に新たな不可視の獣を出現させた。獣はヤヨイを喰い殺した。
不可視の獣はヤヨイをバラバラに引き裂き、その場に撒き散らした。あまりのことに、逃げ惑う事すら忘れてナカヨシ達が佇み、見守る中、彼女はゆっくりと近づいてくる獣に向かってアイサツした。「ドーモ。アズールです」不可視の獣は吠え声をあげ、アズールを害する敵達に躍りかかった。
「GRRRRRRR!」「アイエエエエ!?」「アイエエエエ!?」「ア、アイエエエエ!」「ニンジャ様! 助けて、アバーッ!」「GRRRRRR!」アズールの拘束が引きちぎれた。彼女は頬に撥ねた血を指で払いのけた。奈落穴から不気味な地響きじみた音が鳴り、次の瞬間、炎が溢れ出た。
8
「いかにしてこの神殿を知り得たか、訊いておきましょうか」ファフニールの身体の輪郭が陽炎じみて揺らぐ。可視化されるほどに充実したカラテだ。ニンジャスレイヤーとファフニール、向かい合う両者の攻め手がぶつかり合えば、ものの数秒で決着がつくやもしれぬ。危うい綱渡りじみた膠着が始まった。
「状況判断」ニンジャスレイヤーは言った。「そして捜査だ。探偵を排除し、以て秘密が守られたと考えたか? 驕りだ。驕りがオヌシの判断を曇らせた」「フーム」ファフニールの目が細まった。ニンジャスレイヤーは右へ摺り足一歩。ファフニールも左へ摺り足一歩。間合いを保つ。「驕りと来ましたか」
「ミニットマンというニンジャがかつて居た」ニンジャスレイヤーは唐突に言った。「かつて私が殺し損ねたニンジャだ。日を改めず、再度その者と戦い、そして殺した。己のウカツだ」「何を言っているのかね?」「私はその後、その者を遡った。戦闘現場をあたり、出自を暴き、全てを調べあげた」
「何を、言っているのかね?」ファフニールは繰り返した。アンブッシュを警戒する。無意味な会話で注意を逸らし、致命的攻撃を繰り出す……ダマシ・ニンジャクラン等が好む戦術だ。だがニンジャスレイヤーは続けた。「その者が用いたのは奇妙なジツであった。その名をシニフリ。マッタキな死を装う」
じり……ファフニールは右へ二歩。ニンジャスレイヤーも左へ二歩。「オヌシは驕り、見誤ったようだな。当時の未熟な私と同様に」「話が見えませんな」「オヌシが苦労して埋めたカンオケは、もぬけの殻だ」「……」ファフニールの眉が動いた。「イヤーッ!」ニンジャスレイヤーのサイドキックが襲う!
「イヤーッ!」ファフニールは上体を逸らしてこれを躱し、回転しながら後ろ足のまわし蹴りを繰り出す。メイアルーア・ジ・コンパッソだ!「イヤーッ!」ニンジャスレイヤーは地面すれすれで身を屈めてこれを躱し、強烈な水面蹴りを繰り出す!「イヤーッ!」ファフニールはバック転回避!
着地した二者は再びカラテ姿勢で睨み合う! ニンジャスレイヤーは瞬時に自身の懐へ手を挿し入れ、懐中時計じみた鎖付きホーリーシンボルを取り出した。「見覚えがあるな?」「貴方が先日の部屋荒らしだと? それが何なのです? 面白くもない話です」「データ端末だ。オヌシには解らなかったようだが」
「成る程。そうでしたか」ファフニールは言った。「詳しい者に調べさせるつもりでいましたが、手間が省けましたな」「探偵はオヌシと直接対決するまでに、既によく調べあげていた。地下空間の存在自体には、その時点では至りきっていなかったが」……「その時点」と耳にしたファフニールが目を細めた。
「推理を継続するにあたり、このデータ端末は非常に重要だった。彼は更なる情報を求め、そしてこの品を求め、校内を徘徊した。手負いの彼は、時に学園内の者に見咎められ、騒ぎを引き起こす」「……」「彼の推理は何の為か。オヌシと再戦し倒す為だ。不自然な敗因を探り、カラクリを破り、勝つ為だ」
「イヤーッ!」ファフニールがノー・モーションでスリケンを投擲した。「イヤーッ!」ニンジャスレイヤーは額の前で指先に挟み取り、コインのように容易く捻じ曲げた。「マガツ・ニンジャよ。霊木の根本に憩う、つまらぬ長虫よ。奴は奴なりにオヌシの弱点を探しておったわけだ。儂には自明だが」
「……?」ファフニールは警戒を強めた。目の前のニンジャスレイヤーのアトモスフィアが変化し、古式の口調があらわれ、なにより……彼の名と彼の力を知っている。この敵の深甚なアトモスフィアを軽んじてはならぬと、彼は考えた。そして襲いかかった!
「イヤーッ!」ファフニールが踏み込み、ニンジャスレイヤーの顔面に拳を繰り出す! ニンジャスレイヤーはギリギリでその手首を掴んで止める。ファフニールは握った拳の人差し指と中指を立て、眉間を狙う。ニンジャスレイヤーは頭を後ろへ逸らしてこれを躱す。そしてイポン背負い!「イヤーッ!」
「イヤーッ!」ファフニールはエンシェント・ウケミでダメージを周囲に逃がす。地面に半径10フィートのクレーターが生まれ、石くれが舞った。「イヤーッ!」ニンジャスレイヤーはカワラ割りを振り下ろし、顔面を砕きに行く。ファフニールは転がって回避、スリケンを連続投擲!「イヤーッ!」
「イヤーッ!」ニンジャスレイヤーの顔の前で火花が弾ける。飛来するスリケンをチョップで叩き落としたのだ。「イヤーッ!」繰り出すケリ・キックをファフニールはバックフリップで回避、二者は再び近接間合いに向かい合った!「貴様のコソつき屋の手下は……」ファフニールが問うた。「どこだ!」
「イヤーッ!」ニンジャスレイヤーがスリケンを投擲!「イヤーッ!」ファフニールはブリッジでこれを回避! 避けながら真横へスリケン投擲!「グワーッ!」ナムサン! 木の根のあわいを這いまわっていた一匹の蛇が、背中にスリケンを受け、身悶えしながら地面に落下!「いたな、ヘンゲめ! 出し抜けると思ったか!」
「イヤーッ!」ニンジャスレイヤーの低空ジャンプパンチが襲う! ファフニールは横へ躱し、鞭のようなミドルキックを叩き込む!「イヤーッ!」「グワーッ!」ニンジャスレイヤーは横へ吹き飛び、蛇と化したフィルギアとは逆側の壁に叩きつけられる!「弱敵!」ファフニールの目が燃える!
「性根が出てきたな。面白い」ニンジャスレイヤーは素早く起き上がり、前傾姿勢のカラテを構えた。「紳士面も一皮剥けば犬畜生と変わらぬ有り様よ」「さて」ファフニールは笑った。「貴方がたの私への対処とは、まさかそこのケチなヘンゲヨーカイを用いて、樹の秘密を探ろうという事ですかな?」
ニンジャスレイヤーはファフニール越しに、奥のフィルギア蛇を見やる。あの飄々たるニンジャが攻撃を受けたのを見たのは彼にとって初めてだ。稲妻にも比すべき速度のスリケン投擲であった。実際侮り難きファフニールのニンジャ反射神経! 蛇は動かない。じきに復帰するか? あるいは手立てが要るか。
「イヤーッ!」ファフニールは背後のフィルギアにスリケン再投擲でカイシャクを試みようとした。その手首にフックロープが巻きつき、投擲を阻止した。ロープ表面を赤黒の炎が伝う!「ヌウーッ!」「オヌシの相手は儂だ。ファフニール=サン」綱引きじみた力比べが始まる! 引き寄せられた側が死ぬ!
「……あの探偵と何らかの繋がりがあることは承知しました。あの探偵はピイピイ泣いてブザマに命乞いをしておりましたよ」「そのブザマな探偵に出し抜かれ、こうしてとっておきの茶の間を荒らされたとあっては、オヌシの無念も察するに余りある事よ」ニンジャスレイヤーはジゴクめいて切り返した。
「奴はその後、学園史の遡及と事務UNIXアクセスによって更なる情報を集めた。学園の定礎の秘密をな。それら情報を組み合わせ、推理し、この地への入り口を見出した。臆病で用心深き長虫め。礼拝堂より直通路でも設けておれば、儂等の労苦も減じられたものを」「……」「オヌシの目的は何だ」
「フククク……」ファフニールは咳き込むように嘲笑う。二者の背中の筋肉は装束越しに縄めいて盛り上がり、この力比べが容易ならざる応酬である事を示す。言葉の投げ合いもまたカラテだ。精神を揺るがせば、それが肉体の集中を削ぎ、敗北に至らしめる。「それこそ自明! 神聖なるドージョーだ!」
「ドージョーだと?」「他に何の為すべき事があります? 楽しきアソビです。創立以来、実に多くの娘等が巣立ってゆきました。私は彼女らに……ちょっとしたインストラクションをくれてやった。互いに断じあい、友を蹴落とす。私が作ったタノシイ枠組みだ! 彼女らはそれを自主的に継承し続けた」
玄室の入り口ではUNIXモニタが光を放ち、まさにその光景を映し出している。ニンジャ頭巾を被った生徒達が、拘束した少女を取り囲み、吊し上げを行っているのだ。「哀れなモータル……己の手でこさえた堕落の爪痕は決して消えない。無意味でつまらぬミームが、社会に伝播する。素晴らしい」
「なんと……くだらぬ……!」「然り! くだらないアソビです。イクサとイサオシの世界も遥か昔。今や、私ごとき死にぞこないの老いぼれの楽しみなど、この程度。フククク……善良なニンジャが日々の暮らしを何とか送っておるのです。実にモデストな営みを。私に牙剥くなど、お門違いにも程がある」
「……霊樹は術者の心臓より生え出で、死を糧に根を伸ばす。生命の樹」ニンジャスレイヤーは唸るように呟いた。ファフニールは腕に更なる力を込めた。「フククク……これはこれは……詳しいものだ。どうやら単なるマニアック・テロリストではないと見える。何者だ? だがそれを知ったところで……」
「知ったところで、何だ?」ロープを伝う赤黒の炎が勢いを増し、ファフニールの腕に絡みついた。ファフニールはメンポの奥で表情を曇らせた。「小細工はやめろと申している……手下は仕留めた。これ以上の狼藉は許しません。御覧なさい。儀式もたけなわ」ニンジャスレイヤーの身体が徐々に引きずられ始める。
「ヌウウーッ……!」徐々にファフニールがニンジャスレイヤーを引き寄せ始める。何たるニンジャ膂力であろうか! イクサが決しようとしていた……!
そして次の瞬間、多くの出来事が起こったのだ。
「場所はわかったンだ……」後ろの床でフィルギア蛇が囁くように言った。「どうにかしてくれねえか……」「……」ニンジャスレイヤーはフィルギアを見る。蛇の背にはスリケンが突き刺さり、じわじわと血が床に拡がっていく。UNIXを見る。ニンジャ頭巾の集団の頭目が、拘束された犠牲者と向かい合っていた。この者は穴に落とされ、穴の底であるこの地点に落下してくるというわけだ。集団が犠牲者に殺到する。
機を捉えよ。ニンジャスレイヤーのニューロンをニンジャアドレナリンが駆け巡り、時間が泥のように鈍った。モニタの向こうで突然、ニンジャ崇拝集団の頭目の身体がひとりでにひしゃげ、グシャグシャに引き裂かれた。ニンジャスレイヤーはイクサに集中した。ファフニールは平常ではいられなかった。
「何だ?」「イヤーッ!」ニンジャスレイヤーは力を込めた! ファフニールは引きずり込まれかけた。だが踏みとどまった。そして瞬間的に極限の膂力を込める!「イヤーッ!」ニンジャスレイヤーの身体が跳ね、一瞬にして手繰り寄せられる! だが、おお、ゴウランガ! 何たる事! それは計算づくの動き!
ナムサン……ファフニールはイクサの駆け引きに出遅れてしまった。平常であれば彼はこの誘いに乗らなかったろう。異常事態とロープを伝う執拗な炎にカラテを乱されたのだ。だが結果を論じても詮なき事である! 彼は力任せにニンジャスレイヤーを引き寄せた。ニンジャスレイヤーはこれを利用した!
「イイイイイヤアーッ!」ロープに引っ張られる力を利用し、ニンジャスレイヤーはファフニールに向かって飛びながらコマめいて回転! ファフニールは防御姿勢を取る! 回転の中からニンジャスレイヤーは無数のスリケンを投げ放つ! ヘルタツマキだ!「イイイイヤアアアーッ!」「ウヌウウーッ!」
ファフニールは飛来するスリケン群を弾き返してゆく! ニンジャスレイヤーは回転を止めぬ! やがて回転の中から繰り出されたのは……スリケンではない! 強烈な回し蹴り!「イヤーッ!」「イヤーッ!」ファフニールはガード! 遅い! よろめく! さらに二度目の蹴りが繰り出される! アルマーダ・マテーロだ!
「イヤーッ!」「グワーッ!」ゴウランガ! ガードをやぶり、ニンジャスレイヤーのアルマーダ・マテーロがファフニールの側頭部を直撃! キリモミ回転しながらファフニールは吹き飛ぶ! ニンジャスレイヤーは着地しながらさらに回転! 吹き飛ぶファフニールめがけスリケンを投擲!「イヤーッ!」
「グワーッ!」吹き飛ぶファフニールの胴体に追い打ちのスリケンが突き刺さり、吹き飛ぶ速度が1.2倍程速まった。そしてそのまま壁面に衝突!「アバーッ!」しかしニンジャスレイヤーはザンシンする暇もあらばこそ、身を捻り、あさっての方向へスリケン投擲!「イヤーッ!」「グワーッ!」
悲鳴をあげたのはフィルギア蛇だ! 背中に突き刺さっていたファフニールのスリケンにニンジャスレイヤーの投擲スリケンが衝突し、蛇の背から荒っぽく引き剥がした!「アバーッ!」蛇はコンマ3秒のたうった後、シュルシュルと床を進んだ。そして壁へ!壁に網の目状に這う樹木の根を昇る!
不気味な木の根はところどころに生徒の成れの果てを抱え込んでいる。蛇はその間へ潜り込み、見えなくなった。ニンジャスレイヤーにはその成否を最後まで見守る暇はない。ジュー・ジツを構え直したところへ、既に万全の状態で復帰してきたファフニールが襲いかかったのだ!「イヤーッ!」
「イヤーッ!」ニンジャスレイヤーはファフニールのチョップを受ける。重い! 重いカラテだ! ファフニールはメンポ呼吸孔から火の粉を噴き出した。「死ね! どけ! 下郎! ニンジャの神聖を穢すでない!」「貴様らの神聖など!」ニンジャスレイヤーの目が赤黒い炎を発する!「穢し尽くしてくれるわ!」
赤黒く燃える左腕が、ファフニールのチョップを弾き飛ばす!「イヤーッ!」「グワーッ!」がら空きの脇腹へ、赤黒い炎に包まれた右フック!「イヤーッ!」「グワーッ!」みぞおちへ、赤黒い炎に包まれた左ボディブロー!「イヤーッ!」「グワーッ!」右!「イヤーッ!」「グワーッ!」
乱打を受けてうずくまるファフニールの顎を、ニンジャスレイヤーは蹴りあげる!「イヤーッ!」「グワーッ!」よろめくファフニールへ更に踏み込み、弓引くように右腕を後ろへ引き絞る。これはジュー・ジツの処刑奥義! ジキ・ツキである!「……イヤーッ!」「アバーッ!」
ファフニールは顔面に致命打撃を受け、弾き飛ばされる……そしてたたらを踏み、カラテを構え直した。ALAS! 何たる繰り返しの致命打撃を受けて一切ものともせぬ不死身か! だがニンジャスレイヤーは突き進むのをやめない! そしてその背後を見よ! 木の根のあわいから這い出した蛇を!
蛇の口には拳大の岩石が咥えられていた。石は黒い輝きを脈打たせ、自ら震動していた。明らかに正気の者が取り扱ってはならぬ忌むべき物体である! 蛇は鎌首をもたげ、ニンジャスレイヤーめがけ、カタパルトめいて投げつけた。ニンジャスレイヤーは振り向かず、手を差し上げてこれを受け取る! 更に!
「イヤーッ!」ファフニールの水平チョップを小首を傾げるように躱すと、ニンジャスレイヤーは右手に掴んだその忌まわしい物体を、ファフニールの胸に……心臓のあるべき場所に叩き込んだのだ!「イヤーッ!」「グワーッ!?」ナムアミダブツ! 手首まで埋め込まれたニンジャスレイヤーの右腕!
「アアアアーッ!」ファフニールは後ろへ下がり、胸を掻きむしった。逃れようとするが、その背は壁だ! その顔の真横に、根に抱かれた女生徒のミイラが垂れ下がって、嘲るように見下ろした!「オゴーッ!」ファフニールの全身に黒い輝きが波打ち、全身から放射されていた陽炎が薄まり……消えた!
ファフニールは顔を上げ、目の前で再びジキ・ツキを構えるニンジャスレイヤーを……そのジゴクめいた赤黒の眼光を見た。「貴様は何なのだ」ファフニールは呟いた。「ニンジャスレイヤー(ニンジャを殺す者)だ」ニンジャスレイヤーは答えた。「ハイクを詠め」「アバッ」ファフニールは血を吐いた。
「我が長き……日々の……死してなお」「イヤーッ!」ハイクを終えたファフニールの顔面に二度目のジキ・ツキが叩き込まれた。今度の打撃が無効化される事はなかった。ファフニールのメンポが破砕し、あらわになった鼻、口、そして目から炎が噴きだした。不浄な命の火が。「サヨナラ!」
ファフニールは爆発四散した。不浄な命の炎は爆発の勢いで拡散、壁の木の根に引火し、まるで導火線に火を放つがごとく、一呼吸の間に燃え広がった。玄室をオレンジの光が照らし、炎は根を伝って、やがて、天井に口を開けた四角い穴の上へ噴き上がって行った。
「もうダメだ、俺は死ぬ」人間の姿に戻ったフィルギアだ。実際負傷が重いか、鼻持ちならない薄ら笑いはない。「俺、死ぬ」「よくやった」「ヒヒ、偉そうによ……」ニンジャスレイヤーとフィルギアは出口めがけ走り出す。モニタには殺戮者の見えない殺戮光景が映る。ノイズが走り、モニタは消えた。
BOOM! KABOOOM!……地下回廊を駆けるニンジャスレイヤーとフィルギアの背後で、立て続けの引火爆発が起こり、気を失った校長の私兵を火と熱の中に呑み込んだ。彼らに死の覚悟はあったろうか?それを知るのは彼ら自身とブッダのみであろう。
この地下回廊は、ナカヨシの生徒達が儀式に出席するにあたり、礼拝堂へエントリーするための秘密通路でもある。地上からは入れない仕組みだ。フィルギアは走りながらコヨーテに変わり、背中から血を流しながら、まっしぐらに逃げる。ニンジャスレイヤーもスプリントの速度を上げる。引き離される。
KRA-TOOOM!「グワーッ!」ニンジャスレイヤーは背後の爆炎に吹き飛ばされ、ゴロゴロと床を転がった。引き続きグラグラと爆発予兆音が回廊をどよもす。地上と回廊を繋ぐのは学園の外れ、梨菜園の隣にある小さな祠だ。地下へ降りるために用いたその場所へ辿り着かねばならぬ! BOOOM!
「たまらねえな! 死んじまうところだ」その遥か前方、フィルギアは地上の空気を感じた。「先にサラバだぜ、ニンジャスレイヤー=サン。実際アンタはたいした奴だ。縁があったらまた会おう……生きて出られたらの話!頑張りなよ」コヨーテはフクロウに変身し、全力の羽ばたきで小さな光を目掛ける。
目的は達成だ。フィルギアは祠から飛び出し、夜空へ跳ね上がる。ファフニールの熱心なロビー活動はネオサイタマに幾つかの「窮屈な」法律を成立させる動きに繋がっていた。道徳……規律……ブルシット。邪悪なニンジャによる合法的行為。一方、フィルギアの行いは暗殺以外のなにものでも無い。
「ささやかなタノシイ暮らしは、守れるうちは守りたいものさ……」フィルギアは空を旋回し、バンブー林に囲まれた学園を、燃え上がる礼拝堂を俯瞰した。礼拝堂に向かってゆく大柄な影が、ひとつあった。フィルギアの飛行はぎこちなくぶれ、血を散らしながら、都市の夜景へ斜めに墜ちていった。
◆◆◆
不可視の獣は高く跳びあがった。アズールは獣の背から聖像の肩の上へ飛び移り、礼拝堂内を見下ろした。奈落穴から炎が噴き出し、椅子を燃やし、ナカヨシ達が悲鳴を上げて右往左往する。礼拝堂の窓は黒く封じられ、正面の鋼鉄扉の閂を外さねば、出られない。
「GRRRRRR!」「ア、アイエエエエ!」「アバーッ!」火の中へ再び降りていったアズールの獣は、手近のナカヨシを追い詰め、牙と爪で仕留めた。アズールは額の汗を拭った。彼女は聖像の頭にニンジャ頭巾として巻かれた冒涜的な黒布を引き剥がし、マントなように身体に巻いた。
憤怒と高揚は殺戮と反比例するように鎮まっていった。火の粉が舞う中、アズールはただ、この状況について考えを巡らせていた。なす術もなく見えない獣に蹂躙されてゆく女生徒たち。ついさっきまでは逆の立場で、こんな事になるなど想像もせず。
彼女らに死ぬほどの罪はあったろうか。アズール自身の罪は。……罪? 罪とはなにか? 誰がそれを決める? 誰にそんな権利がある。ここには裁判官も法律家も、執行人もいない。「アイエエエエ!」「アイエエ……アバーッ!」「……こんな……」虐殺を前に、アズールは溜息を吐いた。そして自問した。「……あのとき、あいつ、何を面白がっていたんだか」
「アイエエエエ!」「アイエエエエ!」「GRRRRR!」ドウン! 鉄扉が歪み、閂がぐらつく。獣が体当たりをかけたのだ。「アイエエエエ……!」息のある者はまだ幾らかいる。彼女らはアズールの敵だ。だから、倒す。敵は倒す。戦う。これからも。ドウン! 扉がさらに歪む。閂が弾け飛んだ。
BOOOM! 扉が破壊され、炎が外へ吐き出された。「「アイエエエエ!」」息のあるナカヨシがか細い悲鳴を上げる。生きている中にユマナはいるだろうか? それとも既に死んだろうか。「イヤーッ!」アズールは聖像の肩から飛び降りた。透明の獣はその背にアズールを受け止め、共に外へ飛び出した。
◆◆◆
BOOOOM! 開かずの扉が吹き飛ばされるように開かれ、バック・ドラフトの炎が礼拝堂から吐き出された。彼は手をかざし、熱と衝撃を、激しい痛みをこらえた。「ヌウウーッ……」傷が開き、コートに血のシミが拡がる。彼は気絶せぬようつとめた。礼拝堂の中から一人、風のように飛び出した。
飛ぶように行き過ぎる彼女を、彼のサイバネアイは……ニンジャ反射神経は、かろうじて捉えていた。彼を一瞥する空色の瞳を。「キカ……ヤナエ……」「……」彼女は黒い布を翻した。「待ちなよ! 死んじまうんだろ!」彼に向かって叫びながら、少年が馬を走らせてくる。少女は少年とすれ違う。
「サヨナラ。ワカヤマ=サン」少女が呟いた言葉を、男のニンジャ聴力は捉えた。ワカヤマ少年は無言で頷き返した。少女は……そのニンジャはすぐに遠ざかり、見えなくなった。「ガンドー=サン!」ワカヤマは躊躇いがちに近づいてきた。ガンドーに彼女を追う力はない。「ワカヤマ。あれ出せ。あれ」
「あれ?」「持ってンだろ」「でも」「……」ガンドーは厳しいしかめ面でワカヤマを睨み、人差し指を立てた。ワカヤマは観念して、懐からアンプルを取り出した。「アンタが俺に預けたんだろ」「やはり、もうひと踏ん張り要る」彼はZBRを受け取った。「今日の最後の一発だから問題無い」
「あの人らに任せるんじゃないのか。任せなよ」ワカヤマは言った。「アンタがここで死んだら、俺はどう繕えばいいのさ」「ほったらかしておけ」ガンドーはアンプルを素早く射った。遥かにいい。「見ての通り、賽は投げられちまった」彼は燃え上がる礼拝堂へ歩いてゆく。「何を?」
「やる事をやる。……イヤーッ!」ガンドーは礼拝堂の火と熱の中へ突入した。バキバキと音をたて、燃える木材がエントリー直後の彼の目の前に落下した。……彼を出迎えたのは凄惨な殺戮の跡であった。彼は不条理に打たれかけた。「まあいい。知るか」薬物高揚に任せてネガティヴィティを振り払い、生存者を探した。
「アイエエエ……」虫の息の女生徒を一人、見出す。このニンジャ頭巾が彼女を煙から守ったろうか? サイオー・ホースだ。「ヌゥーッ……」ガンドーは担ぎ上げる。やや離れた場所に、また一人。「畜生め……」ガンドーはそちらを目指す。奈落穴を見やる。敵は死んだ。探偵の直感。否、希望的観測か。
「ニンジャ様ァ……」肩に担がれた女生徒が譫言を呟いた。「おう、ニンジャ様が来てやったぜ」ガンドーは呟いた。二人めを逆の肩に担ぎ上げる。「ロクなもんじゃねえよ……」
エピローグ *タカギ・ガンドー編*
コメダ・ストリート、安宿の一室、隙間だらけのブラインドから差し込む薄明かり、BGMは外の衝突事故の喧騒、書きかけのレポートを映すUNIXモニタを前に、私立探偵タカギ・ガンドーはタイピングの手を止め、大義そうに椅子へもたれかかった。
闇医者の処置は最低限度であり、厳しく経過を見守る必要があった。実際、ガンドーは椅子にもたれ、一分間ほど延びる欠伸をした後、気を失った。二時間後、がばと身を起こした彼は、思い出し思い出し、再びタイピングを始めた。混濁した意識が過去を映像で呼び起こす。まるでソーマト・リコールだ……。
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通された一室に待ち受けていたのは、バラクラバを被ったスーツ姿の男だった。万札の収まったアタッシェケースを開いて見せる仕草から、ガンドーはこの男が闇社会の人間ではない事を見てとった。「あんた、どっかの偉い人だね」「無用な詮索ではなく、単なる実力のアッピールと受け止めておく」
面倒だな、とガンドーは思った。男は早速その面倒を切り出した。「風の噂だが、来月、コケシ社に立入検査があるらしいね。コケシ工場の廃材問題だったか……係官は厳しく追求するだろうか? それともリーズナブル車検めいて30分で済ませるかね? どう思う?」
コケシ社長はガンドーの重要なビジネスパートナーである。「さあな」ガンドーは欠伸をし、アタッシェケースに手をのばす。依頼人は素早くケースを手元に引き寄せた。札束の一つを取り出し、ケースを下げた。「前金です」「嬉しい話だ」ガンドーは懐へ札束をしまい、説明を促す。「何すりゃいい」
男は制服姿の少女の写真を机に出した。「キカ・ヤナエという名前だ」「名前」ガンドーは言った。「こいつがどうした。どっかの偉い人の隠し子か。愛人か。殺しは請けねえぞ。それはダメだぞ、そういう仕事じゃねえんだ」「物騒な事を言うものではない。逆だ、むしろ逆」「アア?」「保護が要る」
「どうせ俺は興味が向いたら調べちまうンだ。こいつの事、隠さず教えるといい」ガンドーは写真を懐にしまった。「偉い人の隠し子か。愛人か……」「ネオサイタマのスナリマヤ女学院に彼女はいる。全寮制だ」「さらってこいッて?」「そうだ」依頼人は頷いた。「君の手腕に期待する。ニンジャ殿」
「……モラルには拘りたい」ガンドーは言った。「ネオサイタマくんだりで、あからさまな非合法行為だ。アンタが拠って立つモラルはあるか」「言えぬが、ケチな犯罪依頼ではない。大義である」「大義だと?」ガンドーは唸った。「偉い人にもお抱えニンジャが居るんじゃねえのか?」「君の力が必要だ」
「まあいい。胡乱な探偵ならトカゲの尻尾にできるからな」ガンドーは頷いた。「特記事項」依頼人は言った。「この学園の理事長=校長は、恐らくニンジャだ。ネオサイタマ政府との繋がりも深い。注意して欲しい」「ニンジャ? そいつがこの娘を捕らえてる?」「否。彼らがひとつところにいるのは、単なる偶然……実に悩ましい偶然だ」
結局……ガンドーは依頼を受けた。ビジネスパートナーが人質となっている。受けざるを得ない。依頼を受けた彼は、キカ・ヤナエについて独自に内偵した。ヤナエ夫妻の実子でない事はすぐに判明した。だが、彼らの養子となる以前の情報は全くない。彼は非常に高額なハッカーのコネクションを用い、より深く探った。
この過程で、ハッカー一人が脳を焼かれ死んだ。探りをいれた痕跡を消す事と引き換えだ。闇保険をかけていたが、それでも金銭負担は雪だるま式に増えた。その厳重な守りから、政府機密である事が自ずと知れた。かろうじて得られたのは謎めいたひとつの単語。「オペレイション・マジックモンキー」。
……0100101……
幾つかの「しくじり」があった。スナリマヤ女学院に潜入した彼は、キカの正体を探るために寄り道をした。在籍する学園のデータベースをあたることで、別角度から情報が得られないものかと考えたのだ。彼は己をコケにした依頼人に腹を立てていた。出し抜く材料を欲したのだ。
彼は危険を冒した。データベースにアクセスする事で、彼は触れるべきでない事実に触れてしまった。相当数の生徒の行方不明事案。残された家族への、校長自らの隠滅工作。圧力。時にそれは親族の殺害にすら及んだであろう事が確認された。だが、獅子の身中で無駄な動きをすれば、どうなるか……。
データベースへのアクセス痕跡を嗅ぎつけられ、そもそもの潜入行為について辿られかけた彼は、最終的に校長との直接対決を……0101……「ベラベラと喋ってンのは自信のあらわれってわけか?」「貴方は油断が過ぎる」…0100…「オイオイ……マジか」……01001……「……参ったぜ……」
雨雲の僅かな切れ目に月が顔を出し、ドクロ模様は敗者を嘲笑った。「インガオホー」ファフニールは振り上げた踵をガンドーに振り下ろそうとする。「アイエエエ!」若い女性の悲鳴が空気を割いた。ファフニールは弾かれたようにそちらの方角を見やる。女性教師だ。彼はクーガーめいてそちらへ走る。
ガンドーは物音を遠くに聴いている。天を見上げ、震える手を胸に当てる。ジツを使うべき時がきた。かつてのイクサにおいて、ニンジャスレイヤーにすら明かさなかったジツ、カラス・ニンジャのジツを。全身の傷から黒い血のカラスが羽ばたき、周囲のバンブー林に隠れ潜んだ。ガンドーは心停止した。
そこに再現されたのはマッタキ死である。ガンドーは再び近づいてくるファフニールの音を聞く。彼は警備員を伴っていた。ヤクザじみた無頼の者たちだ。バンブーの枝葉の上で、闇に溶ける無数のカラスがそれを見つめている。「死んでますぜ」「首を刎ねろ」「シーッ……また、人が来やす」
「ヌゥーッ!」ファフニールは闇に身を翻す。彼はニンジャ装束のままなのだ。「何やってる! こっちは立ち入り禁止だ」近づいて来た馬丁の少年に、後に残った警備員達は大声で警告する。横に並び、死体が見えぬように壁を作る。「忘れ物なんです。明日朝すぐに必要なんだ」「明日にしろ!」
馬丁をやり過ごすと、警備員達は互いに目を見交わし、囁き合う。「首ッたってなあ……」「どう見ても、死んでる。ニンジャに呪われたくねえ」「埋めるのが一番だ。カンオケだ」「手間だぜ! さっきの女みてえに……」「こいつはニンジャだ! バカめ。カンオケが一番だ。今までに無かった事じゃねえ」
「それじゃ、そのセンでいくか」「校長にもそうやって話を……」近づく足音、「これは校長! 早いお戻りで! 実はですね……」
……0100101001……
「イヤーッ!」……「イヤーッ!」……「イヤーッ!」KRAAASH!「アイ、アイエエエエエ!?」「ハァーッ! ハァーッ! 見たな! 貴様!」
「アイエエエ!」尻餅を突き悲鳴をあげる少年に、泥土塗れのガンドーは近づく。「見たな!」「アイエエエ! 見ていません!見ていません!」「何を見た!」「カラスが……カラスがうるさく集まっていたから……何かと思って」「それで!」「そうしたら土が爆発して……悪魔!」「そうだ! 悪魔だ!」
「助けて!」「悪魔は容赦しない。言う事を聞くか。さもなくば容赦せん。お前のハラワタで縄跳びをする。言う事を聞くか!」「……!」ワカヤマは涙目で頷いた。「よし……俺は……力を蓄えねばならん……ハァーッ……宿と食い物だ」「アイエエエ……」「俺のオマモリはどこだ」「知らない……!」
……010001……
「いいか、ワカヤマ。男になるかどうかの瀬戸際だ」飼葉の中から悪魔じみた厳つい顔を出し、ガンドーはジゴクめいて言った。ワカヤマは唾を飲んだ。「……何だい」「ハァーッ……見ての通り……ちと無茶をし過ぎた」「騒ぎになってるよ……」「それだ。本意ではない。そこでだ」
「わかったよ」「そう無碍に断るな! 男になれワカヤマ! お前にもできる事が……あン?」「やるよ。アンタのかわりに探せッていうんだろ」「呑み込みが早くなったな、アプレンティス」「アプレンティス? やめてくれよ。アンタは疫病神だ」「親父が帰ってきたら、一回り成長した姿を見せてやれ」
……0100101……
「やられてる。校長室だ」「何?」「探り回ってる奴が他にもいるって事だよ。窓を割って、校長室に」「どういう事だ」「わからない」「今日はせっかくの不在日なんだぞ、ワカヤマ! チャンスだ。奴は間違いなく俺のオマモリを保管している。推理の完成にはあれが絶対に必要だ」
「もう校内の人間が集まって来てる、無理だよ……」「ヌゥーッ……どこのどいつだ……チャンスが……」「だいたい、アンタのその身体じゃ、校長の弱点を掴んだところで返り討ちに……」「綿密に計画を立てるさ。死ぬ気はねえよ……とにかくあの情報端末と、その後の成果をだな……。誰だ?」
……010001……
薄暗い馬小屋の中で、三者は車座になって座っていた。ガンドー、ニンジャスレイヤー、ニンジャスレイヤーの協力者である薄笑いのニンジャ、フィルギア。入り口付近ではワカヤマが柱に寄りかかり、声を潜めたやり取りをじっと見守っている。
「平日の礼拝堂には一度忍び込んだ事がある」フィルギアが言った。「何の変哲もない建物さ。特に地下への入り口を探した。怪しいからな。だが、それらしい仕掛けは見当たらなかった」「いや、礼拝堂で間違いない」ガンドーは時折咳き込みながら話す。「位置的にあの場所の真下である筈」
ニンジャスレイヤーは携帯UNIX端末にホーリーシンボルの中身を挿し込み、学園のフレーム地図を呼び出す。ガンドーの収集した情報を重ねあわせ、検証してゆく。「儀式の間、礼拝堂はロックアウトだ。扉も窓もダメ」とフィルギア。ニンジャスレイヤーは呟く「ロックアウト中のみ直通路が開くか」
「ここだ」ガンドーは学園のはずれの祠を指さした。「この祠は学園の設立時の文献にもある。周囲に不自然なスペースがある……だが、確かめるにはもう少し身体がついてくるようにならねえと」「十分だ」ニンジャスレイヤーは立ち上がった。「今回を逃せば次の儀式まで待つ事になる。任せておけ」
「だな」フィルギアも立ち上がった。「寝てりゃいい」「そうか」ガンドーは飼葉にもたれかかった。「……俺は安楽椅子探偵を決め込むとしよう」目を閉じる。「ニンジャスレイヤー=サン」「どうした」「それなりにうまくやっているようで、なによりだ」「……オヌシもな」「俺はこのザマさ……」
……010010……
三度目の突入からガンドーが帰還した直後、礼拝堂は音を立てて自壊した。二人は言葉もなく、炎の照り返しを受けていた。助けられたのは僅かに四人。皆、意識は無い。「あの娘は……」ガンドーは呟き、言葉を切った。ワカヤマはガンドーを見た。ガンドーは続けた。「ニンジャだな」
「……」ワカヤマはただ炎を見ていた。「知り合いだったか」ガンドーは尋ねた。ワカヤマは頷いた。ガンドーは礼拝堂の殺戮についてほとんど結論を出していたが、敢えて言わなかった。そしてまたガンドーは思った。ニンジャの邪悪な教えを幼き日に与えられ、自ら手を汚した少女達の人生を。
やりきれぬ事だ。大昔から連綿と続いたそれは、邪悪の種めいて、今のネオサイタマを想像以上に毒しているのやも知れぬ。だが……ガンドーは近づいてくる赤黒のニンジャを見る……少なくともその根源にあった存在はこの日、ニンジャスレイヤーの手で、滅びたのだ。
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……0100010……
ガンドーはタイピングを続ける。レポートは二重に作成している。ひとつは依頼者へ向けた中間報告書。もうひとつのレポートは、自分の為の、より詳細な覚書だ。オペレイション・マジックモンキー。ここで降りるわけにはいかない。その時、UNIXモニタにノーティス窓が開く。
IRC送信されてきた画像は、ハッカーが収集したキカの情報の断片だ。日付は忘れもしないあのキョート大破壊。ガイオン街頭の監視カメラが捉えたと思しき不鮮明な画には、ボロボロの服を着、サブマシンガンを構えて泣き叫ぶ少女の姿が、そしてその隣にはもう一人の……ニンジャの姿が写っていた。
ガンドーの表情が険しく歪んだ。安宿の外の路上では、またぞろ別の自動車事故が起こり、破砕した車から発せられる警報装置の音がうるさく鳴り響いていた。
【グッド・タイムズ・アー・ソー・ハード・トゥ・ファインド】終
N-FILES(設定資料、原作者コメンタリー)
ネオサイタマ郊外のスナリマヤ女学院に寄宿するキカ・ヤナエは、深夜に耳にした騒ぎの音に心惹かれ、探索を開始する。学園の奇妙な秘密は、やがて邪悪なニンジャの呪いにつながってゆく。メイン著者はブラッドレー・ボンド。
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