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【アーバン・レジェンド・アブナイ】

◇総合目次 ◇エピソード一覧
この小説はTwitter連載時のログをそのままアーカイブしたものであり、誤字脱字などの修正は基本的に行っていません。このエピソードは物理書籍化されていない第3部エピソードのひとつであり、スピンオフ系エピソード集「ネオサイタマ・アウトロウズ」の1エピソードに分類されます。第2部のコミカライズが、現在チャンピオンRED誌上で行われています。



【アーバン・レジェンド・アブナイ】



『列を飛ばさない、列を飛ばさないのが奥ゆかしい……自由時間はあと20分……しかし5分前には部屋へ……』サイレン塔から中庭へとモラル放送が届けられる。白い壁に貼られた「保釈金一発ローン」「ヨロシサン製薬フレッシュ治験」などの欺瞞ポスターは、陽光に晒されいかにも居心地が悪そうだ。 

 陽光?そう、陽光だ。ネオサイタマでは年に数度しか差さぬ陽光が、タマ・リバーの中州に浮かぶ巨大監獄島、スガモ重犯罪刑務所に降り注いでいたのだ。病んだ黄色い日差しの下、囚人たちは中庭に出て、腕立て伏せや懸垂を楽しんでいた。「ザッケンナコラー!」「スッゾコラー!」トラブルもある。 

 BLAMBLAMB!けんすい鉄棒の周辺では順番待ちトラブルが絶えず、何度も監視塔から強化ゴム弾が撃ち込まれている。「アバーッ!」頭を撃たれた男が動かなくなり、医務スタッフが駆けつけた。監視塔のマッポが無言でヤッタ・ポーズを作り、隣で悔しがる同僚から万札を受領した。腐敗世界! 

 無論、そのような理不尽が全囚人を襲うわけではない。曲がりなりにもここは、NSPDの運営する監獄島だからだ。(何故彼らは危険と解っているのにイザコザを起こすんだ?)他の囚人達と同じオレンジ色のツナギ服を着たイシカワは、運動もせず、建物の影の下でひとり静かに正座し、恐怖していた。 

 イシカワは看守ではなく、他の囚人に恐怖心を抱いているのだ。「ハッハー!見ろよ!腕立て300回もしちまった!エッ……300回!?ハッハー!」グランドで笑う偉丈夫、連続スモトリ殺人鬼タガチマ・イッペイ、通称オニバスタードは、殺した人数だけスモトリ型のキルマークを腕に刺青している。 

 あれに締め上げられれば数秒で死ぬだろう。「ハッハー……アァン…?」タガチマがこちらを睨んだような気がした。イシカワは恐れ、視線を横のバスケコートに逸らした。「ウツブアディマウーマン、ナスマーン、ナスマーン」バスケコートの端では、陰気な車椅子の男がブッダの聖句を逆詠唱していた。 

 アブナイ!その男はブラックメタルバンド「キルタンク49」の元ベーシストだ!かつてこの男は下半身をサイバネ小型タンクと結合してジンジャに乱入。その場に居た全員を殺した。彼は本名を含め黙秘を続けており、真相は定かではない。イシカワは目を合わさぬように立ち、より隅の日陰へ向かった。 

 イシカワは安全地帯で腰を下ろす。2、3分も経つと、再びスイッチが切れたように、ポカンと白い塀を眺めた。自由時間は長い。何もする事がない。周りには誰もいない。監視塔以外は誰も自分を見ていない。それは安らぎ。「晴れやがって…」彼は毒づく。晴れたせいで全房の強制点検が始まったのだ。 

 プリズンに投獄されてしばらくの間、イシカワは暗黒メガコーポによる報復を恐れていた。彼らが塀の中まで暗殺者を派遣したとしても、何ら不思議は無いからだ。だが一年も経つと、張りつめていた警戒心は急激に薄れていった。「あれは結局、どこからどこまでが、俺の妄想だったのか……」 

 イシカワは曇り始めた空を見上げ、棒切れを拾った。彼はそれを所在なく左右に動かした。やがてそれは……無意識のうちに……ある謎めいた図形を描き出す。中央に丸。その周囲には4つの致命的なトゲトゲ。おお、ナムアミダブツ!それはもしや……スリケンでは!?「おい、あんた」後ろから声! 

「アイエッ?」イシカワは我に返り、振り向いた。「そりゃ……スリケンか?」そこには神妙な顔つきの囚人が立ち、顎髭を撫でていた。鋭い眼光。元はヤクザだろう。「アイエッ!?」男の視線を追ったイシカワは、自分が砂の上に描いた危険な図形に気づく。彼は慌てて立ち上がり、靴で踏み消した。 

「まあ慌てんな……座れよ、兄弟」男はヤクザスマイルを作り、イシカワの肩に手を回しながら言った。次の瞬間には耳元で囁く。(((周りは見るな、俺はお前に危害を加えん)))ドスダガーめいた鋭い声で。イシカワは従った。この手慣れた所作……元は強力なグレーターヤクザだったに違いない。 

「何であんなに慌てたんだ」「特に何も……いったい何の話を……」イシカワは全身から汗が吹き出すのを感じた。「とぼけるンじゃねえよ……スリケンだよ」ヤクザが静かに言った。「スリケンだなんて、そんな、まさか……馬鹿馬鹿し」「ニンジャを見たんだろ」「アイエッ!?」イシカワは恐れた。 

「あんまり大きな声出すンじゃねえよ。ニンジャって言われて、何でそんなに焦ってんだ?」「な、何も、焦ってない」イシカワは答えた。「テメエはすぐ顔に出るな。その傷、埋め込み型サイバーサングラスのボルト跡だろ。ハック&スラッシュの現行犯でブチ込まれたか?」「あ、あんたには関係ない」

「俺ァ不思議なのさ。刑務所にブチ込まれる程のワルが、何でそんなに焦るかねえ」男は言った。ニンジャはフィクションの産物だ。吸血鬼やドラゴンと同じ、子供騙しの存在だ。それにここまで過剰反応するとなれば……「可能性はふたつ。あんたサイコ野郎か?それとも、本物のニンジャを見たか?」 

「自分でも実際解らない」イシカワは頭を押さえながら言った。そして、何かを思いついた。「…あんたは、あんたはどうなんだ?見たのか、ニンジャを」しばしの沈黙。ヤクザは頷いた。「そうだ」「あんたがスガモにブチ込まれた理由も、ニンジャ絡みの事件なのか?」イシカワの顔が明るくなった。 

「ああ、そうだ」ヤクザは苦い顔を作って頷いた。暗く重い秘密を背負うピルグリムめいた表情で。イシカワは目を大きく見開いた。「ニンジャは実在するんだな?俺の妄想でも、都市伝説でもなく……」「てめぇはニンジャに遭遇して生き残った。そうだな?」「ああ」「恐れ入ったぜ、大したタマだ」 

「単純に幸運だっただけだ」イシカワはかぶりを振った。「ツキも実力のうちだぜ。……自己紹介が遅れた。俺の名はヤマヒロだ」ヤクザが言い、ケジメされた厳つい手で握手を求めた。相手を真の男と認めるかのように。イシカワは大きな栄誉を味わった。これもまた、グレーターヤクザの手練手管だ。 

「イシカワだ」彼も名乗った。ヤマヒロが返した。「……先に質問しとくが、イシカワ=サン、俺がこれから聞く話は、マッポにも聞かせたか?」「ニンジャ部分は話してない。狂人扱いされてアサイラムに放り込まれると思ったから」「サエてるな」ヤマヒロが頷く。「じゃあ兄弟、話してもらおうか」 

「……俺は向かう所敵無しの、調子に乗ったハッカーだった。暗黒世界なんてチョロいもんだと、いい気になっていた。ハック&スラッシュのビズは、実際4連続でアタリを引いていた……」イシカワが語り始めた。いつの間にか、そうなっていた。語り始めたからには、もう後戻りはできなかった。 

「華々しい暮らしか?」「そうでもない。装備に必要な分だけ取り、あとは全額ドネートしていた」「ドネート?」ヤマヒロが聞き返す。「ああ、おかしな話だろ。どうかしてたんだろうな。それが俺の趣味だった。難病バンクの登録患者を適当に……まあ少々の好みを加味して選び、匿名で寄付する」 

「ハック&スラッシュで作ったカネを、寄付?」「おかしかったんだ、俺は。現実感がどんどん剥離していった。UNIXゲームみたいに」彼は手を振った。「ある難病少女を救うために、あと少しで目標金額達成だった。加えて俺がトップ。勿論それに何の意味も無い。患者とは会わないし自己満足だ」 

「それで、どうなった?」「俺は功を焦って、少々ヤバイ香りのするビズに手を出した。企業スパイだ。企業の施設にハック&スラッシュを仕掛け、敵対企業に情報を売り渡す。……それまでも何度かやってたが、その日見つけたビズは、ヤバイ臭いしかしなかった。だが俺は愚かで、舞い上がっていた」 

「相手はどこだ?……暗黒メガコーポか?」「そうさ」イシカワの言葉に、妙な熱と昂揚感が含まれてきた。「ヨロシサン系列のサイバネ兵器製造会社……ヨロシ・バイオサイバネティカ」「ナムサン……!何てこった兄弟。てめえは狂ってた。そいつは自殺ミッションだぜ」ヤマヒロが重い息を吐いた。 

「依頼企業は当然匿名。だが当時は……まだオムラ社も健在で、キナ臭いビズだが、依頼に整合性はあったんだ。報酬もデカい」「フゥーッ。聞いてるだけで、こっちの心臓がどうにかなりそうだな。……で、アタックに失敗して、ニンジャに遭遇したって訳か」「少し違う、少し……事情が複雑だった」 

「複雑?どんな風に」流石にヤマヒロも、それとなく周囲の様子をうかがい始めた。ヨロシサン製薬の名は、それだけでヤバイ。「俺たちはヨロシ・バイオサイバネティカの第8オフィスでハック&スラッシュを成功させ……最新兵器のデータを盗み出したんだ」「……成功だと?」「そう、成功させた」 

「おい、待てよ。ニンジャはどこで出てくる?」「…まだ続きがある」イシカワは、後頭部の塞がれた生体LAN端子を撫でながら言った。その手はじっとりと汗ばんでいた。「俺たちはハメられたのさ。ヨロシ・サイバネティカ社の第8営業部は、最新兵器のデータが盗み出されるのを期待してたんだ」 


「勿体振るなよ」ヤマヒロが監視塔の時計を見ながら、急かす。「勿体振ってるわけじゃない。自分の……記憶の整理をしながらなんだ。……実際大がかりなアタックだった」イシカワが語り始めた。「通常のハック&スラッシュは、多くても4人程度。その時は確か、8人は居た。スモトリが2人も……」 

 ……そのパーティには、スモトリが2人もいた。俺が体験した十数回のアブナイ・ビズの中で、そんな偏った編成に加わるのは初めての事だった。俺たち8人はアヤセ地区の廃コタツ工場に集まり、初めてチーム全員と顔を合わせた。クライアントは、サイバーサングラスにスーツの謎エージェントだった。 

 エージェントの正体を探ろうとするような、ヤボな奴は皆無。エージェントはどう見ても、Y-12型かY-13型のクローンヤクザだった。他の連中にも、それは解ったようだ。クローン兵士は都市伝説ではない。ここに居るのは、少なくとも、その程度は闇社会に精通したアウトローたちばかりなのだ。 

 皮肉な話だ。裏社会じゃあ、クローンヤクザの製造提供元は、ヨロシサン製薬だと言われている。出荷履歴をロンダリング偽装するための中古闇取引も横行しており、今では暗黒メガコーポの多くが、クローンヤクザを「最も忠実なコマ」として使い始めている。やがて俺たちの食い扶持は無くなるだろう。 

 俺は少し安心した。雇い主…つまりバックにいる後ろ盾は、クローンヤクザを使いに出せるほどのパワーを持っているからだ。それ以上は詮索しなかった。考えても無駄だし危険だからだ。俺は他の連中を見た。パラディン1、スモトリ2、スラッシャー2、オイランスラッシャー1、俺を含めハッカー2。 

「ちょっとした戦争でも起こそうってのかね」熟練スラッシャーと思しきシゲオが、仕込みサイバネナイフを磨きながら軽口を叩いた。傷だらけの人工皮膚で覆われたその顔はロシア人を思わせ、目も青色に改造されていた。他は皆無口で陰気な奴ばかりで、誰も反応しなかった。 

「軽口叩くなフクワライ野郎。ブリーフィング途中だ」パラディンのサダイエが、望遠型サイバネ義眼でシゲオを睨んだ。「最も経験豊富、俺がリーダーに選ばれた。百人殺した確かな実績。俺がチームを支配する。不協和音は排除する」パラディンと組むのは初めてだが、俺はこの男が気に喰わなかった。 

 ……「お前もか?ハッ!あの野郎を気に入った奴なんざ、一人もいねえよ」俺の言葉にシゲオが同意した。オイランスラッシャーともう1人のハッカーも頷く。幸い、ミッション開始前に空中分解とは行かなかった。俺たちはもう2台のクルマに分乗し、重金属酸性雨の中、目的地点へ向かっていたからだ。 

「あっちはさぞかし静かで快適だろうよ、喋り続けるバカもいねえ」シゲオが片手でハンドルを操作しながら言った。先行の大型車には、パラディン様とスラッシャー。スモトリは体が大きいので、これも前のクルマに乗っている。「俺は陰気なビズは嫌いなんだ。俺は楽しみでやってるからな」とシゲオ。 

 目的地まで1時間弱、夜のドライブ。これだけ集められたにも関わらず、俺たち8人は誰とも直接面識が無かった。「自己紹介しようか」と女が言い、皆が応じた。普段のビズと同じく、誰も怖じ気づいてなどいなかった。薬物をキメているか、狂っているか、その両方だろう。ちなみに俺は後者だった。 

 言わずもがな、こうした連中の多くは、抜け目無く情報を仕分けする。どこに住んでるだの本名だのを明かすイディオットは、早晩タマ・リバーに浮かぶだろう。自己紹介とは、経験やタイプ速度やキル数で自分がどれだけ有能かを知らしめ、また自分が真のサイコ野郎ではない事を証明する時間である。 

 オイランスラッシャーが毒々しいマニキュアを左のサイバネ戦闘義手に塗りながら言った。「元は、とあるカチグミ企業のオーエル(原註:女のサラリマン)」その義手は最新式で艶かしく、おそらく特注品かカスタム品だった。「スゴイ」ハッカーが電子音声で無感情に言った。「スゴイ」繰り返した。 

 この調子で、時計回りに自己紹介した。オイランがかなり突っ込んだストーリーを持ち出したので、2周目が始まった。「湾岸警備隊で技術を学んだ。マグロだと思って殺すのさ」シゲオが言った。全員の開示情報がおおよそ等しくならないと、ムラハチにされる。秘密主義も語り過ぎもアブナイだ。 

 俺は次のビズでまた組めそうな奴を見極めるため、注意深く話を聞き、サイバネ耳管で全員の心拍数をモニタリングしていた。特に乱れは感じられなかった。こうした自己紹介は、潜入マッポの炙り出しにも役立つらしいが、今回その心配は無用だった。全員が筋金入りのハッカーかスラッシャーだった。 

 2周目が回ってきた時点で、俺の開示情報が少ないのが明白だった。モチベーションの札を切るのがいいと思い、俺は胸に入れていた難病少女の写真を見せた。有効だった。「そりゃ、贖罪のつもりか」シゲオが訊ねた。「贖罪?」俺にはその言葉の意味がよく分からなかった。「殺しの罪滅ぼし」と女。 

「誰も殺してない」俺は笑った。実際そうだった。俺はハッキングをして扉を開き、中の連中を殺すのはスラッシャーの仕事だ。「罪滅ぼしでもない」俺は頷いた。実際なんでそんな事をしていたのか、自分でも解らない。「何か、行動に意味を持たせたいんだろうな」クルマは丁度ハイウェイを降りた。 

 ……「今ではどう思ってんだ?」ヤマヒロが少々落ち着かぬ様子で聞いた。「贖罪について?」「ああ」「実際……俺は今、贖罪を求められているのかもしれない。俺が生き残って、ここに収容されたのは、何か意味があるんじゃないかと思えてきた。だから喋ってるんだ」「なら核心を聞こうか、兄弟」 

 ……俺たちは業者用の偽造コードを提示して、ヨロシ・バイオサイバネティカ社の第8オフィス無人ゲートを堂々とくぐった。少し、記憶が途切れがちになる。この後に起こった事がショッキングだったからだ。俺たちは地下駐車場で装備を整え、パラディンの指揮の下、ハック&スラッシュを開始した。 

 最初の扉は二人掛かりでハックして突破した。廊下を進んでいるとツーマンセルの警備クローンヤクザが銃撃を仕掛けてきた。ここでスモトリが一人脱落したが、こちらには重サイバネ者が多く、チームワークも悪くなかった。パラディンが銃撃で支援し、スラッシャーたちが切り掛かって淡々と殺した。 

 パラディンはクライアントから受け取った内部情報データをもとに、鬼軍曹か何かのように俺たちを目的のUNIXルームへ導いた。スラッシャーたちも順調にキル数を重ねた。夜勤社員はおらず、クローンヤクザばかり。途中の廊下の壁には「納期ゼッタイ」「毎日夜勤だ」の警句。今思えば妙だった。 

 敵の抵抗は激しかったが、俺たちはそれ以上の脱落者も出さずにUNIXルームに侵入。「やや物足りない程だ」とパラディンは自画自賛していた。『もう少し死なねえと、取り分が増えねえな』シゲオは俺にIRCウィスパーで軽口を送った。次の瞬間「ンアーッ!」パラディンがオイランを銃殺した。 

 ……シゲオは反射的にサイバネナイフを抜こうとしたが、留まった。パラディンは、オイランスラッシャーの手に握られたLANケーブルを示した。それはハッキング対象外である別のヨロシサンUNIXに接続されていた。「契約違反行為なので粛正した。追加で盗み出し小銭を稼ごうとしていた模様」 

 険悪なアトモスフィアの中、パラディンは依頼主から渡されていたフロッピーをマザーUNIXに挿入した。「どうした、ハッカーども、やれ」彼は高圧的に命令した。増援のクローンヤクザが廊下を走ってきた。応じるしかなかった。スラッシャーとスモトリが廊下に出て、俺たちはタイプを開始した。 

「ザッケンナコラー!」危険なヤクザスラングと銃声が廊下で鳴り響く中、パラディンと俺とハッカーは三人掛かりでハックを行った。挿入されたウイルスが既に何枚もファイアウォールを破っていた。廊下のスラッシャーが負傷する頃、俺たちは「カンゼンタイ計画」と呼ばれる圧縮データを抜いた。 

 直後から敵の攻撃が一層激しくなった。スラッシャーたちはUNIXルーム内に後退し、クローンヤクザたちの銃撃は室内のUNIXにすら跳弾し始めた。ケオスだ。グレネードを投げ込まれればイチモ・ダジーンの恐れがある。「待機せよ!」パラディンがサイバネ装甲を頼みに、廊下に単身突撃した。 

 自殺行為だと思った。だがパラディンは銃弾を弾き、マズルフラッシュの中で敵を狂ったように斬り殺し続けた。彼は優勢だった。恐るべきカラテだった。「ヤッタ」隣のハッカーが無感情に言った。「ヤッタ」繰り返した。別のスラッシャーも驚きの息を吐いた。そんな中、俺は違和感を感じていた。 

 あまりにも都合良く運び過ぎているのでは?俺は訝しんだが、次の瞬間には、俺がツイてるからだろうと結論づけた。俺は調子に乗っていたんだ。「撤退!」パラディンはたった一人でクローンヤクザを撃退し、俺たちに指示を出した。俺たちは撤退戦を開始し、地下駐車場へ向かった。敵は少なかった。 

 地下駐車場へ戻る直前。スモトリとスラッシャーを前衛に押し出した最後の戦闘で、俺は不意に振り返り、それを見た。後衛にはパラディンとシゲオがいて、追撃ヤクザを排除している筈だった。「アイエエエエ!」だが、パラディンはシゲオから不意打ちを喰らい、首筋から火花を散らし絶命していた。 

 混乱の中でそれを見ていたのは、俺だけだった。俺は戦慄した。車中では、このシゲオが最も信頼でき、最も有能だと思っていたのに、何故。『他に言うな。一人減って取り分が増えたろ。それに、隠してたが』疑問に答えるようにIRCウィスパーがシゲオから届いた。『あのオイランは俺の妹だった』 

『AYE』どこまで本当か解らないが、俺はIRCで同意した。シゲオは電磁サイバネナイフを仕舞い、再びカスタム・チャカガンに持ち替えて後方へ応戦する。パラディンは先程までの大立ち回りが嘘のように、呆気なく、死体を晒していた。俺はパラディンの持っていたデータケースを拾い上げた。 

 パラディン、スモトリ、オイランの3人を犠牲者としてあとに残し、俺たちはクルマに辿り着いた。機密データは俺の持つデータケースの中だ。「急げ!」シゲオがリーダー役を務めた。スモトリは大きいので、全員で大型車に乗り込み、残り一台は爆薬を仕掛けて放置した。爆発を背に俺たちは逃げた。 

 爆発が混乱を引き起こしたのか、追跡の気配は無かった。俺たちは不気味な沈黙を保ったままハイウェイに乗り、クライアントとの報酬受け渡しポイントに急いだ。俺はといえば、ドネートIRCに早々とアクセスし、ミッション報酬額を既に数字だけ入力していた。これで彼女は救われると思った。 

「パラディンは、どうやられましたか?」スモトリが聞いた。「目玉を撃ち抜かれた。胸がすく思いだろ?」シゲオがハンドルを切った。「ハイ、ファック野郎でした」スモトリが笑った。俺たちは勝利を確信した。だが、全てが間違いだった。『着信ドスエ』データケースの中の通信機が鳴り始めた。 

「うるせえな。誰か出ろ」シゲオが言う。「電子ロックされてるぜ」とスラッシャー。『着信ドスエ、着信ドスエ』電子マイコ音声が鳴る。「ハッキングで壊せ」シゲオが俺を見た。「いいのか?機密データフロッピーを仕舞った後は、本来、リーダー以外開封厳禁で」「今は俺がリーダーだ」とシゲオ。 

 俺はLAN直結し、パラディンが施錠したロックを破壊した。車内に焦げ臭い匂いがたちこめた。中には機密データフロッピー数枚、それからクライアントとの非常時用通信機。「ドーモ」シゲオが通信機を取った。「サダイエ=サン?ああ、パラディンの事?あいつは死んだよ。いいリーダーだったが」 

「ハイ、ハイ……データは無事に盗みましたよ、ドーモ、ハイ、ハイ、ハイ、ドーモ……ハイ……ハイヨロコンデー」シゲオは通信を終えた。「クライアントは、何だって?」誰かが聞いた。「何も」シゲオは肩をすくめた。「報酬を払うから、さっさと予定のポイントに来いとさ。幸い、もう近いがね」 

「なあ、今更だが、俺はちょっと気になった事がある」スラッシャーが壊れたデータケースと通信機を睨みながら言った。「この念の入りよう、クライアントはハナから、パラディン以外の誰も信用してないんじゃねえのか?」「そうかもな」「でも奴は死んじまった」そのような不穏な会話が始まった。 

「パラディンが死ぬのを他に見た奴は居るか」という話にもなり、俺は凍りついた。だが俺は嘘をつき通した。車内に疑念が満ちた。犯罪者ってのは一度疑い出すと自分以外の誰も信用できなくなる。そこからどう話が転がったか、もう忘れたが、最後には俺がフロッピー内のデータを改める事になった。 

「完全に契約違反だ。アブナイだ。解っているのか」俺は何度も他の連中にそう確認した。「バレねえよ」シゲオが言った。「俺たち全員が嘘をつき通す限りはな。そうだろ?」「ハイ」ハッカーが同意した。「ハイ」繰り返した。「あの風紀委員は死んだし、誰も言わねえよ」スラッシャーも同意した。 

 車内でフロッピーを読み取れるのは、俺の埋込型サイバーサングラスだけ。しかも処理速度をブーストするために、生体LAN端子と繋がっている。ウイルス入りなら実際死ぬだろう。だが車内は有無を言わさぬアトモスフィアだ。時間も無い。俺は意を決し、一枚、また一枚、分割データをコピーした。 

「急げ、合流ポイントが近い」シゲオが急かす。俺は歯を食いしばり、鼻血を垂らしながら論理タイプしていた。「カンゼンタイ計画」と呼ばれる大型ファイルが復元され、俺はそれを実行した。だが、出現したのは最新バイオサイバネ兵器ではなく、タマ・リバーで戯れる愛らしいラッコの映像だった。 

「何だこりゃ」俺は動画全体のプレビューを確認した。どこまで進んでも、それはニュースでよく見る、ラッコの記録映像だった。隠し暗号も無い。血の気が引いていった。「何だ、何を見た!」スラッシャーが俺の襟首を掴んで揺らした。俺は叫んだ。「俺たちはハメられた!これはラッコの映像だ!」 

「おい、何がラッコだ、ふざけるんじゃねえぞ……」シゲオが言った。「Uターンしろ!」スラッシャーだけが俺の言葉の意味を理解し、叫んだ。もう合流ポイントである廃工場はすぐそこだった。「Uターンだ!」スラッシャーが銃を突きつけた。「ブッダ……ファック!」シゲオが急カーブを切った。 

「とにかく合流地点から離れろ!」スラッシャーが銃を仕舞う。同士討ちを避けるためだ。「説明しろよ!」シゲオが叫ぶ。「誰か一人でも社員を殺したか!?」俺はサイバーサングラスを押さえてまくし立てた。皮肉なほどサエていた。「納期間近のプロジェクトが破綻確実なら、どう言い訳する!?」 

「まさか全部茶番?」スモトリが言った。「なら俺たちはこの後どうなるかって話だぜ!」スラッシャーが叫んだ。シゲオが急ブレーキをかけた。「何で止める?シゲオ=サン、てめえ、まさか」「今仲間の数を減らすのは得策じゃねえぞ」シゲオが前方を指差した。ヤクザリムジンが退路を断っていた。 

「ちくしょう、あの娘はどうなるんだよ」俺はぽかんと口を開け、何とも身勝手な事を口走っていた。合流ポイントである廃工場からも別なクルマが発進し、俺たちに向けてライトを投げかけた。俺たちは一致団結し、先に打って出た。負傷しているとはいえ、ハック&スラッシュを行えるだけの戦力だ。 

 案の定、相手はハナから俺たちを殺す気でかかってきた。スモトリと2人のスラッシャーは、実際心強かった。彼らは先手を打ち、銃弾とサイバネカラテでクローンヤクザを次々と返り討ちにした。重金属酸性雨が降り注ぐ中、俺も滅茶苦茶に叫び、拾ったチャカガンで闇の中に銃弾を撃ち込み続けた。 

「勝てるぞ!」誰かが叫んだ。「ヨロシサンのクソ野郎め!完全なルール違反だ!H&Sネットワークに今回の件をタレ込んで……」そこで突然、この世のものとは思えないカラテシャウトが響き渡った。「イヤーッ!」「アバーッ!」一発で、スモトリの巨体が弾き飛ばされ、クルマに叩き付けられた。 

「それは困りますねえ、先にルール違反でパラディンを殺したのは、あなた方なのに」その人影は言った。「敵のサイバネ野郎か!」シゲオが銃を連射した。「イヤーッ!」だがそいつは目にも止まらぬ連続側転で銃弾を回避し、クルマの上に着地した。ヤクザリムジンのライトがそいつを照らしていた。 

「ドーモ、シケイダーです」そいつはニンジャ……紛れもなく、緑ニンジャ装束に身を包んだ……ニンジャだった!しかも頭部はセミめいたバイオ異形!「アイエエエエエエエエエ!」俺は叫び、失禁した!「せめてもの償いに、あなた方は私の戦闘データ収集に役立ちなさい」そして、殺戮が始まった。 

「イヤーッ!」ニンジャは銃弾をジャンプでかわすと、スラッシャーに飛び掛かった。「イヤーッ!」「グワーッ!」「イヤーッ!」「グワーッ!」…重サイバネ強化されているスラッシャーが、カラテパンチとキックだけで、一方的に押されているようだった。俺は叫び声を上げてグルグル走り回った。 

 まるで手が出なかった。赤子と大人の戦いを見ているようだった。ベイビー・サブミッションだ。「イヤーッ!」「グワーッ!」「イヤーッ!」「アバーッ!」血飛沫と悲鳴。ニンジャは俺たちを嘲笑うかのように、カラテで殴りつけ、蹴りつけた。「手加減していますよ、戦闘データのためにね!」 

 もう記憶が曖昧だ。ハッカーの脚にはスリケンが刺さり、血を流していた。俺の腕にも刺さっていた。シゲオが最後の切り札である電磁サイバネナイフを投擲した。だがニンジャは連続バック転で回避した。「あなた方は死んで当然の下等存在です。イヤーッ!」次の瞬間、凄まじい超音波が発せられた。 

 悪夢だ。騒音と超音波で頭の内側をシェイクされているようだった。俺は咄嗟にサイバネ耳管を制御し、閾値を切った。他の者は無理だった。「アーッ!アーーーッ!アイエエエエエエ!」シゲオが耳を押さえ苦しんだ。「アッ!頭!頭が!アイエエエエエエエエ!」屈強なスモトリも前後不覚に陥った。 

「あなたには効かなかったようだ」俺の眼前に、ニンジャ覆面と頭巾、そしてセミめいた顔が近づいた。それは俺の襟首を掴み、質問していた。「アイエエエエエエエ!ニンジャ!ニンジャナンデ!?」「サイバネですか?効かないのは心外です」「アイエエエエエエエエ!」「次は至近距離で試します」 

「アイエエエエエエ!ナンデ!」「何故?あなた方を殺すのが私の存在理由です」ニンジャは笑った。「そして私は、殺しが大好きなんです」セミめいた目からは何も読み取れない。俺は周囲を見た。皆、死んでいた。恐怖と苦痛で意識が途切れかけた。何かに祈ろうと思ったが、祈る神も特に無かった。 

 俺は失禁した。ニンジャに殺されるんだと思った。すると、物心ついてからそれまで、ずっと遠くにいって乖離していた現実感が、不意に俺と重なった。ソーマト・リコールもあった。俺は不意に怒り狂い、何か叫んで暴れた。そこから先は……駄目だ……思い出せない。 

 ……「思い出せないだと?」ヤマヒロが言った。掌はじっとり汗ばんでいた。「CDが音飛びするみたいに、記憶が飛ぶんだ」イシカワは憔悴していた。「次に気がついた時、俺はぽかんと突っ立っていた。死の静寂だった。俺は離れていても心音を把握できる。全員死んでいた。ニンジャもヤクザもだ」 

「ニンジャまで?」ヤマヒロはごくりと唾を呑んだ。「焼け焦げたセミめいた死体の一部が、仰向けに転がっていた」「誰が殺った。スラッシャーが一矢報いたってのか?それとも……誰かが、助けに来たのか?」「誰かが……ウッ!」イシカワは記憶を掘り起こそうとし、フラッシュバック光景を見た。 

「ウウーッ!」……まるで水の中にいるように、全てがスローモーション光景で蘇った。あの時……暴れるイシカワをシケイダーは殴りつけ……その直後に……イシカワから目をそらし別の方向を見た。そして叫んだ。(((まさか……貴様は……!)))そして彼をコンクリート地面に……放り捨てた。 

「……駄目だ、思い出せない!今まで思い出そうともしなかった。全て、俺の妄想だと思っていたんだ。あのニンジャの死体も、何もかも、実際全部が!」イシカワは顔を青ざめさせ、震えた。「解った、兄弟、落ち着け、落ち着け」ヤマヒロが肩を押さえた。人目を引くのはアブナイだ。「深呼吸しろ」 

 ……俺は夢かと思っていた。だが、腕に刺さったスリケンの痛みが、俺を現実に繋ぎ止めた。シケイダーが投擲したスリケンだ。だが今となっては、スリケンの事も現実だったかどうか怪しい。どこかで抜いて捨てたか、それともマッポが抜いたか……いずれにせよ、どこかでスリケンは無くなっていた。 

 記憶は混乱してる。俺はFBI検死官みたいに、全員の死因を律儀に調べたわけじゃない。そんな事をしてる余裕がどこにある。辺りは真っ暗で、周囲の心音はゼロ。俺だけ生き残った。それだけで十分だ。奴らのクルマの一台が、まだ生きていた。俺はそれを飛ばした。とにかくそこから離れたかった。 

 どれだけ走ったか解らない。俺は運転に失敗し、どこかの電柱に激突してクルマは動かなくなった。走って逃げようとした時、助手席にアタッシェケースを見つけた。俺はそれを開けた。中にはかなりの額の万札とマネー素子が入っていた。恐らく、俺たちを騙すための見せガネか何かだったんだろう。 

 俺はニンジャの追跡に怯えていた。きっとニンジャが追いかけてきて、俺をカラテで追いつめ殺す。どこへ逃げても現れる。ベッドの下、灯籠の影、あるいはタンスの中から飛び出してきて、俺を殺すだろうと。だから死ぬ準備をした。マネー素子をロンダリングした後、あの娘に最後のドネートをした。 

 不思議な気分だった。優越感でも充足感でもない。これまでのUNIX的な達成感とも違う。ただ、この世界で為されるべき事が、ひとつだけ、為されたような……結局はそれも自己満足か。何にせよ、俺は狂っているのかもしれないと思った。ニンジャだなんて。俺はふらふらと彷徨い、自首していた。 

 ……「それで話は終わりか、イシカワ=サン?」「ああ、それで終わりだ。もうそれからはニンジャも見ていない。暗黒メガコーポの刺客が、塀の中まで俺を殺しにくるんじゃないかと怯えた事もあったが、今じゃもう……どこからどこまで妄想か解らない。でもあの日のスリケンの痛みが、時折、蘇る」 

「安心しろ、お前は狂っちゃいねえよ」その言葉を聞くと、イシカワは力無く微笑んだ。「ヤマヒロ=サン、あんたは何を見たんだい」「俺か?俺は天……そうだな、いいか、これから話すのは、にわかには信じがた」『自由時間、あと5分、ドスエ。シマッテー』監視塔から無表情な電子音声が流れた。 

「……プリズン生活は長いぜ。また次の機会にな」ヤマヒロが大時計を見た。「ああ、話せて良かった。俺もようやく苦しみから解放…」その時、イシカワは何か不吉な視線を感じ、グラウンドから屋内に戻る囚人たちの群を見た。その中に一人、立ち止まり、彼を睨む男が居た。傷だらけの顔。青い目。 

「アイエエエエエエエエ!」イシカワは腰を抜かしブザマに後ずさった。いくらかの囚人が彼を見た。「おい、どうした」ヤマヒロが血相を変え屈み込んだ。「シ、シゲオが、見ていた」「死んだスラッシャーか?どこに」イシカワが指し示したが、もうその男は他の囚人たちの影で見えなくなっていた。 

「どいつだ」「……い、居なくなった」イシカワは胸を押さえて深呼吸した。「悪い、見間違いだったかも」「そりゃそうだ。シゲオは死んでたんだろ?」「ああ、死んだ。もしかして幻覚か、それとも、オバケ…」「兄弟、立てよ」ヤマヒロは手を差し伸べ、助け起こした。「オバケなんざ存在しねえ」 

「なら俺が狂って…」「狂ってもいねえ。現実から目を背けるな。ニンジャは現実だ」ヤマヒロが彼の肩を叩く。「いいか、聞け。俺は味方だ。また近いうちに会うぞ。俺の話を聞かせてやる。お前も、どうにかして記憶を完全に取り戻せ。確信が持てたら……俺の仲間に引き合わせてもいい」「仲間?」 

『あと3分、ドスエ』「……」ヤマヒロは口をつぐみ、踵を返すと、険しい顔で刑務所へと歩き出した。イシカワは不意に海に放り出されたような不安感を覚え、駆け寄り、囁く。「おい、待ってくれ、仲間って何の事だ」と。ヤマヒロは重い息を吐き、問い返した。「……秘密を守れるか?」「ああ」 

「ここは妙だ。ニンジャ事件関係者で、ある共通項を持つ奴らが、何人も投獄されてやがる。俺がさっきみたいな話を聞くのは、初めてじゃねえ」「それは……何か目に見えない神秘的な力が……働いているとか?」イシカワは恐る恐る訊ねた。ヤクザの顔が一瞬、不安に歪んだ。「そんなモンは信じねえ」

「じゃあ一体何が……?もしかして、俺たちは贖罪の使命を……」イシカワが言った。自首したあの日から、自分の生き残った理由が、神秘的な高次存在によって何からの使命を与えられたからではないか、と考える事があった。「贖罪の使命だと?」ヤマヒロは脂汗を浮かべ、落ち着かぬ様子で歩んだ。 

「いいか現実を見つめろ。記憶を取り戻せ。俺は仮説を確かめにゃならん」ヤマヒロは刑務所へ戻る囚人の列の中でイシカワに言った。「オバケだのフェアリーだのにビビるな。男だろ。お前は狂っちゃいねえ。弱気になるな。全ては現実だ。思考を放棄するな。考えろ。思い出せ。俺は味方だ。いいな」 



「アブナイ」「割り込まない」「更生して」「世界平和」……重犯罪囚人たちに向けられた手厳しいモラル・ショドーが、食堂室のコンクリート壁に貼られている。しかしこれらの空虚なスローガンは、もはや看守たちにすら顧みられることはなく、油汚れで朽ち果てようとしている。 

「ジンジャで十二人殺した」「デッカーを殴ったことがある」イシカワの前に並んでいる屈強な囚人二人が、逞しい上腕二頭筋とタトゥーを誇示しながら、シャバでの武勇譚を競い合う無益行動。「私語厳禁!私語厳禁!」配給の老人看守が壊れたラジカセめいて繰り返し、配膳皿へ合成ヤキソバを盛った。 

 イシカワは剥がれたタイルで足を滑らせながら、ヤキソバをもらった。「私語厳禁!私語厳禁!」老看守は繰り返す。誰も注意を聞かない。入口でライオット銃を構える厳めしい警備マッポも、サイバーサングラスの下では万札を賭けたIRCショーギをプレイ中。スガモ・プリズンは老朽化し予算不足だ。 

 無論、監獄島への出入りはハイテク検問で厳しく取り締まられ、対空砲もある。しかし外部の目が届かぬ所では、予算カットと穏やかな腐敗が進行中だ。誰もこの刑務所から逃げ出したり、暴動を起こそうとしないからである。重犯罪者はまず間違いなく、シャバに敵を持つ。ここの方が遥かに安全なのだ。 

『コブチャです』自動サーバーが非人間的な電子マッポ音声を発し、湯のみにコブチャを注いだ。イシカワはテーブルのすみに座り、チャを飲んで、食料を胃に詰めこむ。「ヤマヒロ=サンは、ウサギ棟か…」彼は溜め息をついてひとりごちる。彼はニワトリ棟であり、一緒になれる機会は少ないと解った。 

 今日もネオサイタマには、重金属酸性雨が降りしきる。昼でも監獄内は暗い。ガゴンガゴンガゴンキー…壁の大型ファンが錆びた音を立て、天井のタングステン灯は漏水でしばしば火花を散らす。「ネズミ棟の改修工事、いつ終わる」「予算なんて、永遠に降りねえんじゃねえのか」横で囚人らが談笑する。 

 イシカワは突如、誰かの視線を感じた。冷や汗を垂らしながら、広い食堂内を見渡した。オレンジ色のツナギを来た囚人たちが多数。中央では、次ローテーションの囚人らが配膳エリア前に長い列を作っている。その人ごみの向こう……遠くのテーブルに、その男はいた。傷だらけの顔。青い目。シゲオだ。 

 そのシゲオは囚人服を着て、コブチャを飲みながら、冷たい目つきでイシカワを見ていた。目を逸らす事なく、遠くから、彼をじっと凝視し続けていた。何かを言いたそうな顔で、じっと。「アイエエエエエ……」イシカワは椅子から転げ落ちた。「おい、どうしたよ、ニボシ野郎」隣の囚人が笑った。 

「いや、な、何でも無い」イシカワは額の汗を拭い、深呼吸して立ち上がった。そして再び、シゲオがいた方向を見る。囚人の列が邪魔でよく見えない。列が進んだ。目を凝らすと……そこは空席だった。「何だ、また幻覚か……?どうなってんだ」「おい、ここを出てアサイラムにでも行ったらどうだ?」 

 ……一週間が経った。あれから三度、イシカワは監獄内の別な場所でシゲオらしき男を見ていた。正体を確かめようとしたが、そのたびに、男はどこかへ行ってしまった。数少ない囚人仲間に聞いても、そのような男は知らないという。そして一週間後のこの日……イシカワは図書館でシゲオを見た。 

 書架と書架の間、人目につかない場所で、彼はシゲオと向かい合ったのだ。「ようやく話し合えるぜ、イシカワ=サン」それは声を発した。「消えてくれ……」イシカワは、それがオバケか、あるいは脳内UNIX記憶から現れたテクノ幻影だと思っていた。「センコを供えて欲しいなら、出所後に……」 

「俺を、死人だと?」シゲオは傷だらけの唇を歪ませ歩み寄った。人工皮膚で覆われたその顔は、あの事件の時よりも、さらに醜悪になっている。「シゲオ=サン。みんな、死んだんだ。あんたもブッダのもとへ…」「ならこれでどうだよ」彼はイシカワの持つ本を奪い取った。ナムサン!実体がある!? 

「アイエッ!」イシカワは息を呑んだ。「やっぱりあの時のハッカーか。会えて嬉しいねえ…。話がある、俺と来い。仲良くしようぜ」「ハイ」有無を言わさぬ声だ。シゲオは彼の肩を叩いてスキンシップし、読書机へ連行した。歩きながら、イシカワはサイバネで心音をスキャン。確かに拍動している。 

「聞きたい事がある。お前は協力する義務がある」「解った、何でも言う。その前に、生きてた理由を証明してくれ」イシカワは脂汗を垂らした。「俺はサイバネ心臓を埋め込んでる」シゲオが左胸を指差した。「だがそれは些細な問題だ。この世界では密かに二つの軍団が闘争している。天使と悪魔だ」 

「エッ!?」イシカワは絶句した。途方も無い狂気が、相手の言葉から漏れ出している。「俺はサイバネ心臓を一時停止して生き残り、天使の軍団に加わる事になった。お前がどちらの側に属するのかを、これから判定する」シゲオは続けた。「質問は簡単だ。ハイ、イイエ、どちらでもない、で答えろ」 

「待ってくれ、シゲオ=サン。あの日、殺戮の中で何を見た。それはニン」「シーッ、黙れ、それは減点だ」シゲオは無表情に言った。そして拳を握った。「かなり大きな減点だぞ」「アッハイ」イシカワは萎縮した。この男もまた、あの悪夢の如きニンジャ体験で、精神に混乱をきたしたのだろうか。 

 質問が始まった。「お前はあの日、ただひとり生き残ったと思い、カネを持って逃げたな?」「ハイ」「その後、自首してここに逃げたか?」「ハイ」「カネはどうした?あれは俺たち全員分のカネだ。大金だ。シャバに隠したか?」「イイエ」「趣味でドネートしてるってのは、嘘だろ?」「イイエ」 

 イシカワは生きた心地がしなかった。おぼろげに、シゲオが何を糾弾しようとしているのかが、掴めてきた。「いい結果が出てきている」シゲオは頷きながら言った。「さらに判定を続ける」「ハイ」「お前は元々ヨロシサンの手下だったか?」「イイエ」「では他のメガコーポの手下か?」「イイエ」

「暗黒メガコーポは悪魔の側に属していることを知っていたか?」「イイエ」また雲行きが怪しくなってきた。イシカワは休み時間終了の電子音声を待ち望んだ。「お前は俺たち全員をワナにはめて殺し、カネを総取りしようとしたな?」「イイエ」「もう一度よく考えてみろ。答えは?」「イイエです」 

「……あと2問だ。お前は盗んだデータを偽物だと言い、俺たちを騙したな?」「イイエ、ラッコでした」「お前は実は、最終戦争に関わるデータを、その時入手していた」「イイエ、本当にただのラッコでした」「フゥーッ…」シゲオは息を吐き、舌打ちした。「残念な結果だ。お前は嘘をついている」 

「本当だ!全て、ブッダに誓って、本当だ!」イシカワが懇願するように言った。「俺をあまり怒らせない方がいいぞ」シゲオは歯ぎしりしながら立ち上がり、イシカワの両肩に手を乗せ、強引に椅子に座らせた。「解ったぞ。お前はまだあのデータを隠し持ってるんだな。この頭の中に」「アイエッ!」 

『休憩時間、あと5分、ドスエ。シマッテー』福音の如き電子マイコ音声が監獄に響く。ガムを噛んでいた警備マッポたちが顔を上げ、異状が無いかを確かめ始めた。「……いいか、俺は諦めないからな。俺はカラテ18段だ」シゲオは手を離すと、残忍そうな笑みを浮かべて、イシカワのもとを離れた。 

 

◆◆◆

 

「なるほど、カラテ18段か……フゥーム」陰鬱な曇り空の下、ヤマヒロはこの前と同じグラウンドの隅に座り、イシカワの話を聞いていた。「そいつァ、オバケより厄介なサイコ野郎だな、兄弟。囚人服が真新しかったって事は、新入りだ。運が悪かったな」「一体どうしたら……」イシカワは弱気だ。 

「額面通り受け取る必要はねえ。俺はこの手の駆け引きに精通してる。相手をビビらせるために、ふっかけるんだ。実際は、カラテ8段くらいだろう」「じ、じゃあ、ヤマヒロ=サンは?」「入所して少しなまったが……今でも20段はある。塀の中じゃ、ナメられたら終わりだからな」頼もしい男だ。 

「これが塀の外だってんなら、俺にもやりようがある。兄弟特別料金で、毎月のボディガードを請け負ってやれるんだがな……。監獄でさえなけりゃあ、チャカ・ガンを頭に撃ち込む事だってできるんだ」そして付け加えた。「これも特別料金でな」「でもここは塀の中……」「そうだ、それに棟も違う」 

「カネも無い……」イシカワは言った。「参ったな、兄弟が困ってる所を見てると、胸が痛むぜ……だがな、難しいんだよな……。結局、シャバの埋蔵金ってのは、一銭も無えのか?」「無い。本当にドネートした」「それをサイコ野郎に理解させるのは……無理だろうな。言葉が通じる感じじゃねえ」 

「それに、そもそも」イシカワは頭を抱えながら言った。「まだ実感が持ててない。本当にシゲオは、実際存在するのか」「兄弟、図書館で会ったんだろ?」「ヤマヒロ=サンは見てないだろ?俺もあれから一度も会ってない。サイコ野郎は俺なんじゃないのか?ニンジャも結局、俺の妄想で、全部……」 

「ビビってんじゃねえ。ニンジャは現実だ。目を逸らすな」ヤマヒロは相手の胸ぐらを掴んだ。「アイエエエエエ……」イシカワは震え上がった。ヤマヒロは手を離し、穏やかな声で言った。「……すまんな、カッとなっちまって。お前を責めてるんじゃねえ。許せねえのさ。お前をこんな風にした奴を」 

「ハイ」「いいか、まず思い出せ。…このコンサル料はサービスだ」ヤマヒロは溜め息をついた。「あの夜の事を正確に思い出せ。囚人定期インタビュー時に、デッカーにそれを伝えろ。俺の仮説が正しけりゃ、お前は棟を移されて……」その時、イシカワがバスケコートを指差した。「いた、シゲオだ」 

「どいつだ?」ヤマヒロが目を細め身を乗り出し、グラウンドに溢れる囚人たちを凝視した。「バスケコートの」「ブッダ……!あいつか。今、こっちを見てる野郎だな」「ヤマヒロ=サン、見えるんだな?ああ、ああ、良かった……!」「ああ、見えるぜ。待ってろ……。俺がハナシを付けてきてやる」 

「待ってくれヤマヒロ=サン、アブナイだ!奴はカラテが18段も」「大丈夫だ。まずは、俺の可愛い兄弟に手ェだすんじゃねえよって、言葉で解らせてやンのさ。そうすりゃ安心だろ?」「ハイ」「見ろ、野郎、目逸らしたぞ。ずいぶん理性的じゃねえか。本物の狂人かどうか、確かめる価値アリだな」 

「鉄棒まだか!」「ナイッシュー!」「12人は殺したぜ!」運動意欲を持て余した囚人たちでごった返し、グラウンド中央過密部分は半分以上がオレンジ色に染まっている。「悪ィな、ちょっと道、開けてくれよ」ヤマヒロはイシカワをあとに残し、拳をゴキゴキ鳴らしながら、その傷顔囚人に迫った! 

 だがシゲオと思しき傷顔囚人は、ヤマヒロの接近に気付くと、囚人たちの間を巧みにすり抜けて、総合棟へと早足で向かう。その距離30メートル。「やっこさん、ビビってやがるな」ヤマヒロは後を追った。グレーターヤクザの血が騒ぐ。「スガモ刑務所のマナーを教え込んでやるぜ……ヤクザ式でな」 

 サバンナに生きる野生動物めいた眼差しで、ヤマヒロは敵の体格、身のこなしなどを観察する。「野郎、けっこう強そうだな。10段くらいはあるか……?だが、奴はヤクザじゃねえ。スラッシャーだ。駆け引きってモンを知らねえ。刑務所の地の利も、経験の長い俺が有利。それを思い知らせてやるぜ」 

 シゲオは徐々に乱暴に囚人たちの間を掻き分け始める。ヤマヒロも追う。ここで露骨に騒ぎを起こせば、監視塔の狙撃マッポにポイントを献上してしまう。「総合棟に逃げ込むか……?なお都合がいいぜ……!」ヤマヒロはIRC賭けショーギに没頭する警備マッポの横を抜け、シゲオに続いて総合棟へ! 

 シゲオは廊下を抜け、追跡をまくべく、総合研修ルームの人ごみの中を抜ける。ヤマヒロは一瞬見失いかけたが、辛うじて追跡を続行。エレベーターではなく廊下の端の非常階段を上る。ヤマヒロも追う。「さらに階段を上がって……図書室に行くか?」図書館に入られると、警備の目もあり少々面倒だ。 

 その途中の閉鎖トイレ前で追いつけば、効率よく脅迫できる。看守が気紛れに廊下の監視カメラを見ていると厄介だが、実際暴力を振るわなければ言い逃れは簡単だ。囚人も殆どいない。階段を登り切ったヤマヒロは、閉鎖トイレ前で一気に距離を詰め……肩に手を置いた!「おい、シゲオ=サンだな?」 

「何だ?……シゲオ?」男がゆっくりと振り向いた。だが……ナムアミダブツ!人相が明らかにグラウンドで見たものと違う!顔に傷は無く、目の色も青ではなく黒。体格は追っていた男とほぼ同じだが……どこかで間違えたか?「シマッタ……。いや、すまねえな、人違いだ」「そうかい」男は笑った。 

「誰を捜してた?」「シゲオって名前の……いや、それはハンドルネームだから、ここで呼ばれてる名前じゃねえんだが。とにかく、傷だらけの顔で青い目の奴さ」ヤマヒロが問う。「知らねえな」「悪かったな、いつここに入った?」「数ヶ月前」「そうだよな、見た気がするぜ。何棟だ」「ウマ棟だ」 

「そうか、悪かったな」ヤマヒロは不意に、残してきたイシカワが不安になり、踵を返した。だが、駆け出そうとした所で、ヤクザセンスがざわついた。そしてもう一度確認すべく、振り返ろうとした。「12ヶ月前じゃねえよな?それで服を再支給」「イヤーッ!」突如、側頭部へ痛烈なカラテパンチ! 

「グワーッ!?」不意を打たれて直撃を受けるヤマヒロ!脳が激しくシェイクされ視界が揺らぐ!「イヤーッ!」再び重いカラテフック!「グワーッ!」敵は……やはりあの囚人だ!だが何故!?その囚人は姿勢を崩したヤマヒロを掴み、頭を閉鎖トイレの扉に叩き付ける!「イヤーッ!」「グワーッ!」 

 刑務所暮らしで鈍っていたヤクザの血が騒ぐ!ヤマヒロは額から血を流しながら、目をかっと見開き、敵の脇腹に連続肘打!「イヤーッ!」「グワーッ!」ワザアリ!束縛が解ける!(((かなり強いが…ニンジャじゃねえ……!やれる!)))「イヤーッ!」ヤマヒロの全体重を乗せたケリ・キックだ! 

 だが敵はこれを両腕ブロック!両者のカラテ段位は拮抗している。ならば有利なのはどちらだ?「シマッタ…!」ヤマヒロが姿勢をぐらつかせた。不意打ち攻撃でテンプルを揺らされたのが致命的だった。「イヤーッ!」「グワーッ!」重いケリキックを腹に食らい、トイレ扉に叩き付けられるヤマヒロ! 

 SMAAASH!腐っていた板材が壊れ、ヤマヒロは薄暗い閉鎖トイレの中へ転がった。距離を取るべく、そのまま黒ずんだタイルの上を転がる。「ゲホッ、ゲホーッ!ちくしょう!」歯を食いしばり、顔を上げて、戸口を睨む。敵は勿体ぶるように戸口を潜り、歩み寄った。「シゲオを探してるって?」 

「それはこんな奴か?」男は首筋に手を当て顔の人工皮膚を裏返した。傷だらけの奇怪な人相へと。ナムサン!精巧なサイバネアイも色彩を変え、黒から青に変わった!「医療扱いサイバネか……!」ヤマヒロは床に座ったまま敵を睨みながら、手探りを続けた。腰の後ろに、鋭く折れた角材を発見した。 

 (((唯の狂人じゃねえ。よっぽど厄介だ。こいつは刑務所内だろうとお構い無しに俺を殺す!そういう手合いだ……!)))ヤマヒロは覚悟を決めた!(((ヤクザをナメるんじゃねえぞ……!)))「これから手短に判定を……」敵は威圧的に近づく。「イヤーッ!」ヤマヒロは即席武器で足を狙う! 

「イヤーッ!」熟練スラッシャーはその一撃をかわし、ヤマヒロの顔面を蹴り上げる!アブナイ!「グワーッ!」「イヤーッ!」さらに蹴る!「グワーッ!」さらにヤマヒロの髪と囚人服の襟を掴み、薄汚い小便器に頭を勢い良く叩き付ける!「イヤーッ!」「グワーッ!」「イヤーッ!」「グワーッ!」 

 シゲオは反射的に、腕の仕込みサイバネナイフで殺害モーションを取ろうとした。だが、無論それは持ち込めていない。「やめてくれ……」ヤマヒロが命乞いする。シゲオは舌打ちし、さらに叩き付ける!「イヤーッ!」「アバーッ!」「イヤーッ!」「ア……ア…」ヤマヒロは痙攣し、動かなくなった。 

 

◆◆◆

 

「遅いな……」イシカワはグラウンドの隅でぽつんと座ったまま、ヤマヒロの帰りを待っていた。『自由時間、あと10分、ドスエ。シマッテー』監視塔から無表情な電子音声が流れた。空は毒イカスミめいた汚染雲がわだかまり、暗さを増し、ぽつぽつと重金属酸性雨が降り始めた。今夜は荒れそうだ。 

 囚人たちが総合棟へと戻り始める。一足早く、各々の監獄棟へ戻る者もいる。イシカワも帰ろうと思った時……肩に手が置かれた。「ドーモ、あんた、さっきのヤクザのお仲間か?」振り返ると、そこには見知らぬ黒い瞳の男が立っていた。「…あんたは?」「少々厄介な事になってな、来て欲しいとさ」 

「どこへ?」「……こっちだ」二人は他の囚人たちの流れに乗り総合棟へ。総合棟を抜け、さらに先へ進もうとする。進めば、ニワトリ棟からはかなり遠い。「もう時間が」イシカワが監視塔の大時計を見る。「あいつが死ぬぞ」男は言った。イシカワの心臓が、蹴られて跳ね上がったように強拍動する。 

 雨が激しくなり、辺りは途端に暗くなった。二人はさらに北へ進んだ。囚人たちはまばらになり、オレンジ色は殆ど見えなくなった。灰色ばかりだ。「ウサギ棟からも遠いぞ。どこへ…」「あそこだ」男は朽ちかけた旧世紀コンクリート建造物を指差した。ネズミ棟だ。古い門の前には警備マッポが一人。 

「あれは閉鎖棟だぞ。何でこんな所に」「来れば解る」不穏な返事だ。警備マッポの所まで三十メートルほど。(((おい、何か妙だぞ。こいつの声……背格好……)))酷い雨だ。見通しが悪くなってきた。イシカワは悟った。これはアブナイだ。絶対にアブナイだ。助けを求めるべく、叫ぼうとした。 

 だが、男が振り返り、イシカワの鳩尾に重い膝蹴りを入れていた。「アイ……エエエエエ…」その声は雨音にかき消された。男はイシカワを肩で担ぎ、警備マッポの方へと近づいた。「おい、君達……何をしている!休憩時間終了!5分前行動重点!ただちに自分の棟へ……!」「急病人だ、助けてくれ」 



「……ザザザザ……ハァーッ、ハァーッ、おい、大丈夫か?ここまで来れば、もう安心だろう。おい回ってるか?カメラだ、回ってるか?……ずっと回ってる?ファック!……皆さん、見ましたか?……!恐るべき光景です、極めて恐るべき光景を……ザザザザザザ……我々取材班は撮影してしまいました」 

「……都市伝説は本当だったのです。ザザザザ……恐ろしい体験でした。白いワニ、実在します」『実在する』とモニタに大きな文字が流れる。「一歩判断を間違えば、我々も今頃。……フXXク!おい!来たぞ!……ザザザザザザ……フXXク!ナムアミダブツ!逃げろ!逃げろ!アイエエエエエ!」 

「……ザザザザ……果たして報道特派員たちが見たものは?」「「「コワイ!」」」チープな電子観客音声。「続きはコマーシャルの後!その後はザザザザ……数々の再現映像をもとに、あのツキジ・チェーンソー・マサカー事件の裏側に迫ります!マグロ冷凍室に隠された禁断の殺人部屋!?ご期待……」 

 ザザザ…ザザザザ……どこか冷たく湿った薄暗い場所でイシカワは目を覚まし、そのノイズ混じりのTV音声を聞く。ありふれたスカム都市伝説番組だ。……問題は、自分が今どこに居るのか、その音声と明滅するモニタ光が何に由来するか、全く検討がつかない事だ。身体を起こそうとしたが、動かない。 

 手足、そして腰の辺りで、ベルト固定具の音が鳴る。(((俺は……拘束されてるのか……?)))途端に、恐怖によって脳内薬物が分泌され、神経がシャカリキでガツンと殴られたかのように冴え渡った。心臓が暴れ出し、呼吸が粗くなる。(((俺は寝台の上か?……拘束具付ストレッチャー?))) 

 (((警備マッポが助けてくれたのか?ならここは何処だ?そこら中で雨漏りの音が聞こえるぞ)))壁でバチバチと非常ボンボリ灯が火花を散らす。もう一度身体を捻ってみるが、拘束は固い。無駄な抵抗だ。(((なんで俺をうつぶせに固定する。おかしいだろ。患者は仰向けに固定するもんだろ))) 

 イシカワはサイバネ聴覚のノイズ閾値をさらに下げた。部屋はかなり広い。反響音でソナーめいて解る。他の人間の心音は聞こえない。今のうちに何とかしなければ。「ンーッ……ンーッ……」イシカワは首を左右にひねる。天井から吊り下げられたTVの光が、部屋の隅で明滅する。囚人用娯楽ホールか。 

 壁には戯画化されたネズミの絵とそれを示す漢字が大きく描かれ、経年劣化で半ばカサブタめいて剥がれ落ちている。ここはネズミ棟だ。間違いなく、あの男がやったのだ。あの男がシゲオだと、イシカワは気絶直前に気付いた。声色を変えているが、波形が同じである事実に気付いたからだ。だが遅かった。

 あの男がシゲオならば、何故仰向けではなくうつ伏せかは、想像に難くない。彼は今、入所時に埋められた後頭部の生体LAN端子穴3個を無防備に晒し……(((ダメだ、他にもっと考える事がある)))イシカワは状況把握と脱出の手段捜索に集中を試みた。凄まじい緊張で、口の中には唾がもう無い。 

「…ウーッ!ウアーッ!」イシカワは再び全身を暴れさせた。寝台が盛大に鳴る。(((何か無いか何か無いか何か無いか……奴が帰ってくる前に!)))イシカワは歯を食いしばり、精神状態を過去にチューンしようとした。精神を犯罪者のチャネルヘ戻せば、さらに冷静な判断ができるやもしれぬ。 

「アアアアーッ!」イシカワは乏しいカラテを振りしぼり、再び全身を暴れさせる。だが盛大な音と叫び声が、湿った閉鎖棟のコンクリートに響いただけだった。チューンはまだ合わない。その直後、獣のようなシゲオの唸り声と駆け足の靴音が聞こえ、イシカワは全身を激しいショックで身震いさせた! 

 ノイズ閾値を限界まで下げ、限界まで聴覚を“開いて”いたイシカワは、まるで突然耳元で叫ばれたかのような戦慄を味わう!即座に閾値を上げる!(((落ち着け、まだ『ここ』じゃない!)))「イシカワアアアア!」だが奴は明らかにこのホールに接近している!(((ヤバイ!来る!来る!))) 

 イシカワは首をひねり、恐る恐る音の方向を向いた!SMAAAAASH!娯楽ホールの扉が蹴り開けられ、泡を吹くほど怒り狂ったシゲオが現れた!「イシカワアアア!逃げようとしたのかァ!?イシカワアアアア!」その手には、今しがた漁って来たと思しき、錆び果てたハンダごてとハンドドリル。 

 ナムサン!まさかそんな工具でLAN端子再開通手術を行えるとでも!?「アイエエエエエエエエ!」イシカワは死に物狂いで暴れた!「イシカワアアア!」シゲオは一直線に拘束寝台に駆け寄る!人工皮膚の顔は汗一つ流さず、青いサイバネアイは無表情!だが声には異常なまでの怒気をはらんでいる! 

 CRAAAAH!床のブリキバケツが蹴飛ばされ凄まじい音を立てる!「……フゥーッ!フゥーッ!」シゲオは逞しい腕で、イシカワの背中や拘束部位を乱暴に触り、捻り、後頭部端子痕を指先で確かめた!「逃げてません!逃げてません!」イシカワは絞殺も覚悟しながら、懇願するように叫んだ! 

「……フゥーッ、フゥーッ……ARRRGH!」シゲオは一度落ち着きかけたが、次の瞬間暴力衝動が振り切れ、ゴリラめいた腕力で両腕を二度イシカワの背中に叩き付けた!「アバーッ!」視界が真っ白になるような激痛!「……フゥーッ……」シゲオは口の泡を拭い、床に座り込むと、肩で息をした。 

「フゥーッ……フゥーッ……ダメだ……殺しや拷問は……」シゲオはフラフラと立ち上がった。それから傷だらけのサイバネ人工皮膚を首元から脱ぎ、裏返した。「俺は天使の軍団に属す……」傷の無い無表情な顔が現れた。「アイエエエ……」イシカワは失禁し、ストレッチャー中央から水滴が滴った。 

 TVが弱々しい明滅を始める。シゲオは舌打ちし、壁際の非常発電装置のコードを引いた。エンジンが唸り、LEDボンボリ灯がわずかに息を吹き返す。寝台の近くには食事配膳カウンター。その上には恐ろしい工具類、オハシ、LANケーブルが複数。シゲオの腰にはマッポガン、鍵束、IRC端末。 

「……やめてくれ、頼む、やめてくれ」イシカワが息も絶え絶えに言った。シゲオは下の囚人作業室から漁ってきたハンダごてを接続した。先端が熱を帯び始める。半年前のネズミ棟集団清掃の日から、彼は独りで準備を万端に整えてきた。「イシカワ=サン、これから最後の審判を行う。質問に答えろ」 

 そしてまた、図書館の時と同様の質問が始まった。全て最初から問い直し始めた。質問数は増えていた。「より正確を期すためだ」シゲオは言った。イシカワは答えた。可能な限り時間を引き延ばすために。奴はマッポを殺し銃や通信機を奪った。ならば時間を稼げば望みはある。そう信じる他なかった。 

「イシカワ=サン、俺たちをハメてカネを持って逃げたな」「イイエ」「ラッコも嘘だな」「イイエ……シゲオ=サン。あの日見たんだろう、そしておかしくなったんだ。あの日、ニンジ…」「シーッ、黙れ!減点だ!二度目だぞ!」シゲオは睨み、拳を握った!怒りパルスはいつ振り切れるか解らない! 

 シゲオは『手術道具』を確認しながら、淡々と質問を続ける。「あれは実はラッコ映像などではなかったな?」「イイエ」「お前の脳内UNIXの開通手術を行い、あのTVに接続すれば、全て解るぞ」「イイエ」「これは質問ではない」「ハイ」もう全ての結末は、最初から決まっているかのように。 

 ナムアミダブツ!イシカワは為す術無く、このまま発狂マニアックの手で凄惨な死を迎えるのか!?その時……(((左手がいける…?)))脳内物質分泌が持続する中、イシカワの精神が発狂一歩手前でチューンされ、冴えた。拘束具を一カ所ずつ動かし、左手部の軋み音の微かな違いに気付いたのだ! 

 密かに手首を捻る。シゲオは気付いていない。いけそうだ。あと少し時間があれば!だがもう質問は、あの日の終わりへと差し掛かろうとしている!(((ナムサン……!)))「大金はシャバに隠したな?趣味でドネートしているのは嘘だな?」減点覚悟でイシカワは叫んだ。「本当だ!証拠がある!」 

「証拠がある?」シゲオは配膳カウンターにハンドドリルを置き、拘束寝台を振り向いた。(((ナムサン……こっちに来るな……来るなよ……!)))イシカワは祈りながら左手を動かし、同時に返事を返す。「そうだ!そのIRC端末で接続できるぞ!俺のアカウントを言う!」死のマルチタスクだ! 

 何故かシゲオは却下しなかった。イシカワは手首を必死で捻りながら、息をついた。「いいか!俺がこれから言う会員制の難病ドネートIRCに接続してくれ!アドレスは……!」「……」シゲオは目を警備マッポのIRC端末に落とす。アカウント情報入力中に、イシカワの左手が……拘束を脱する! 

 イシカワが拘束され、端末を操作できないのが、逆に幸運であった。彼は口頭でゆっくりと情報を告げる。その間に左手を忍ばせ、次は腰の拘束具へ。「パスワードは」シゲオが問うた。イシカワが答えた。通った。アカウントは実在したのだ!「……」シゲオは手を震わせ、画面を食い入るように見た! 

「履歴を……頼む!」イシカワが問う。腰の拘束が外れた。身を起こし……右手へ!「見ている」シゲオが声を震わせ言った。「最後の履歴を知らないんだ!お、俺のドネートで、彼女は助かったのか?ツキヨ=サンだ」「……助かった」「ブッダ!」イシカワは感情の爆発に堪えきれず、嗚咽を漏らす! 

「何てこった……何てこった」シゲオは座り込み、IRC端末を見ながら頭を抱えた。「つまり……奴は悪魔の軍勢ではない…?」「これで解ってくれたか!?俺にはシャバの埋蔵金なんて無い!」イシカワは寝台の上に乗ったまま、ついに全拘束を脱した!無論、狂人に対し細心の注意を払ったままで! 

「フゥーッ、フゥーッ……そんなはず無い…ありえない事だ……いや!だが!もしかすると!」シゲオは何かおかしな様子で自問自答を始めた。イシカワはこのまま説得を続けるべきか考え、その選択肢を一瞬で否定した。シゲオはこちらに全く注意を払っていない。イシカワは密かに、寝台を、降りた。 

「俺は嘘をついていたぜ!」シゲオが目を落としたまま笑った。イシカワは忍び歩きを止めた。「オイランが俺の姉だと言ったよな!あれは嘘だ!嘘だと解っていたよな?」「大丈夫だ、落ち着け」「気に食わねえパラディンを殺し、取り分を増やす方便さ!皆、俺のような人間ばかりと思っていたぜ!」 

 イシカワは返事をせず、戸口へと忍び歩いた!バチバチとLEDボンボリが火花を散らした!「とんだ勘違いだった!俺は天使の軍勢になんざ、属していなかった!俺はやっぱりこれだったんだ!」シゲオは顔の人工皮膚を裏返し、傷だらけのスラッシャーになって笑った!「俺は悪魔の軍勢にいた!」 

「全て辻褄が合った!ツキヨという女が天使の軍団長!お前に命令を下し操っていたのだ!」シゲオは狂気とニンジャめいた暴力殺戮衝動に支配された!ナムサン!過去のNRSが彼の精神に異常を与えているのは明らか!「お前の脳内には天使どもが使う最新バイオ兵器の設計図だ!今取り出して……」 

 シゲオは赤熱したハンダごてを持ち、立ち上がった!そしてストレッチャー寝台へ歩み寄る!「……」シゲオは短い沈黙の後、再び怒りに泡を吹き、娯楽ホールの戸口を振り返った!「……イシカワアアアア!逃げたなアアアアアア!」「アイエエエエエエ!」イシカワは既に暗い廊下を駆け抜けていた! 

「ハァーッ!ハァーッ!」イシカワは暗い閉鎖棟を死に物狂いで駆ける!シゲオを振り切るため、小刻みに角を曲がりながら!鉄格子窓からの明かりで辛うじて視界を確保。構造がニワトリ棟と同じならば、ここは3階だ。外は激しい重金属酸性雨!雷光!ネズミ棟に近づくマグライト光の群!救援か!? 

 マグライト光の群れは1ダースほど。中庭からネズミ棟に向かって近づいてくる。捜索中らしく、光は全方向に向けられ歩みは遅い。もどかしいほど遠い!「助けてくれ!ここだ!」イシカワは錆びた鉄格子を掴み、3階の割れた窓から必死に助けを求めた!凄まじい重金属酸性雨が彼の声を塗り潰す! 

「イシカワアアアアアア!」後方、廊下の角から再び追跡者の獣じみた叫び声が聞こえる!「ニューロンを見せろォオ!」「アアアアーッ!」イシカワは窓の鉄格子を必死で揺らすも、破壊不能!これ以上のタイムロスは死!「アアアアアアアアーッ!」イシカワは救援呼びかけを諦め、再び走り出した! 

 BLAMN!イシカワが廊下を曲がり切った直後、彼の後方をマッポガンの銃弾が掠める。ナムサン!シゲオは片手に銃、片手に赤熱ハンダごてを持ち、異常興奮状態で追跡してくる!「アイエエエエエエ!」イシカワは非常階段がシャッター封鎖されている事に気付き、別ルートを探して廊下を駆ける! 

「ハァーッ!ハァーッ!ハァーッ!」朽ち果てて床に転がった防弾フスマを踏み越え、イシカワは警備職員用の事務室へ!ここは広く、出入口も2カ所あり、ガラス窓からは2階の室内運動場を見渡せる作りになっていた。ガラスを割って飛び降りるか?「イシカワアアアアアア!」廊下から追跡者の声! 

 イシカワは室内運動場を一瞥した。この高さから飛び降りて、逃げ切れるのか?負傷したら?他に道は無いのか!?奴は鍵束を持ち内部構造にも精通している!裏をかかねば逃げ切れぬ!「イシカワアアアア!」「アアアアーッ!」CRAAAAASH!床に放置されたフクスケを投げつけガラスを粉砕! 

「……フゥーッ!フゥーッ……!」追跡者が警備室に入ってきた。室内を猛獣めいた目つきで見渡し、赤熱ハンダごてを掲げながら、割れたガラスの方向へ向かう。(((ハァーッ、ハァーッ、ハァーッ!)))イシカワはそれを後方から見ていた。イシカワは何処に!?部屋の隅のロッカーの中だ……! 

 イシカワは口を手で押さえ、息を殺し、放置ロッカーの歪んだスリットからシゲオの挙動を観察していた。何故飛び降りなかったのか?上からの銃撃に対し無防備になるからだ。銃を持つスラッシャーに背をさらして逃げるのは無謀すぎる。それに運動場の扉が封鎖されていたら、結局は袋小路と同じだ。 

 視界は極めて悪い。だがサイバネ聴覚は敵の位置をソナーめいて感知できる。「……フゥーッ……フゥーッ!」シゲオは割れた窓から顔を出し、青いサイバネ義眼で闇の中をサーチ。それから腰の鍵束を弄り、唸る。逃走ルートを計算しているのか?(((ブッダ……頼む……!)))イシカワは祈った! 

 シゲオは理解不能な妄言をわめき散らし、下の室内運動場へと……飛び降りた!イシカワは倒れ込むようにロッカーを開け、警備室内の床に姿を現す。「……ハァーッ!ハァーッ!」辛うじてやり過ごせた。だが敵は下階にいる。下に向かわねば脱出できない。彼は立ち上がり、別の脱出路を探し始めた。 

 イシカワは廊下に戻り、中庭へ脱出可能な窓が無いか探した。ブッダが与えた貴重な猶予時間だ。だが、どの鉄格子も彼の腕では破壊不能。部屋の多くは封鎖され隠れ場所無し。非常階段シャッターは鍵が無ければ開かぬ。エレベーターは錆び付き停止中。では北の非常階段はどうだ。彼は駆けた。 

 外で雷が光る。マグライト光の群れはもう見えない。彼らが正面入口側に向かっているだけならば良いのだが……万が一、遠ざかっていたら。「考えるな……考えるな!」イシカワは息を切らしながら駆け、北の非常階段前へ向かう。だが……ナムアミダブツ!これもまた、シャッターで封鎖されている! 

 だが、こちらの閉鎖シャッターは錆び果てている。……壊せるのでは?「アアアーッ!」イシカワは必死で体当たりする。シャッターが盛大に軋む。だが壊れない。「アアアアアアーッ!」再びタックルを。だが壊れない。イシカワは周囲を見渡し、床に放置された小型消火器を掴み上げ……叩き付けた! 

 SMASH!SMASH!SMAAAASH!ついに錆びたシャッターは悲鳴を上げ、大穴が開いた!「ハァーッ、ハァーッ!……ヤッタ!」イシカワは息を切らし、壁にもたれかかる。だが階段を降りようとした次の瞬間……「イシカワアアアアア!聞こえたぞォオオオオ!」階下から狂人の声! 

 イシカワは階段を駆け下りた。二階廊下出口もシャッターが降りている。目もくれず、階段を下り1階!だがここも廊下出口にシャッター!「アーッ!ブッダ!ブッダ!」開かない!2階に戻る!「イシカワアアアア!」狂人の声と金属音がシャッターの向こうに!鍵を開けようとしているのか!? 

「アイエエエ!」イシカワは3階へ逃げた!4階に向かっても閉鎖されていれば終わりだ!シャッターの開く音が聞こえ、階段を駆け上る追跡者の荒々しい靴音!「イシカワアアアアア!お前の脳データを抜き、その後は天使の軍団長を殺してやる!履歴にある全員だ!何年、何十年かかってもなァア!」 

「アイエエエエ!アイエエエエエエ!」イシカワは小型消火器の栓を抜き、非常階段に向かって闇雲に撒き散らしてから、再び廊下を逃げた!かつて自分がハック&スラッシュで殺戮していた民間人も、このような恐怖と絶望を味わいながら死んでいったのだろうか。シゲオの追跡音がまた近づいてくる。 

 恐怖と酸素不足で、イシカワの視界が歪み始めた。音が聞こえなくなってきた。サイバネ聴覚が送るインジケータだけに変わってゆく。自分の叫び声もろくに聞こえない。どこをどう走っているのか。雷鳴が轟き、追跡者と逃亡者のシルエットを廊下に刻む。銃声。角を曲がる。再び警備室に戻っていた。 

 イシカワは再びロッカーに逃げ込まざるを得なかった。追跡者が入ってきた。二度同じ手は通じなかった。シゲオは広い室内を見渡し、チャブや放置物などを荒々しく破壊し始めた。闇の中に凶悪な赤熱ハンダごての軌跡が光った。そして遂に、シゲオは室内のロッカーを端から一個ずつ調べ始めたのだ。 

 イシカワは死を覚悟した。インガオホーだ。確かに自分はハック&スラッシュで直接殺害行為は行わなかった。だが罪無きカチグミ市民の家々の扉を開き、スラッシャーを内側に招き入れた。(((インガオホーだ……)))彼は罪を悔いた。(((俺は死んで当然だ。だが……あの患者たちは…?))) 

 このような騒ぎを起こし、シゲオがただで済むとは思えない。だがスガモでは、即座の銃殺は無かろう。ならばあの狂人は、何年、何十年かかってでも、天使の軍団を皆殺そうとするに違いない。(((俺のせいか……ちくしょう……俺がドネートなんざしたから)))イシカワはそれだけが無念だった。 

「イシカワアアアア!」シゲオが1個ずつロッカーを破壊し、近づいてくる。ニューロンの時間感覚が狂い、恐ろしいほど緩慢。いっそひと思いに殺してくれれば、どれほど楽か。イシカワはブッダを呪った。そして心の中で助けを求めた。警備マッポ部隊に。生きているかどうかも解らぬヤマヒロに。 

 (((男だろ……弱気になるな)))ヤマヒロの顔が浮かぶ。遂にイシカワの脳内でソーマトリコールが始まった。(((アイエエエエ!)))極悪非道のハック&スラッシュ行為。最後の惨劇の夜。記憶欠落。そして再びヤマヒロの声。(((全ては現実だ、思考を放棄するな……記憶を取り戻せ!)))

 10110011……あの夜の惨劇へ、再び……!……「……困りますねえ、先にルール違反でパラディンを殺したのは、あなた方なのに」謎の人影は言った。「敵のサイバネ野郎か!」シゲオが銃を連射した。「イヤーッ!」そいつは目にも止まらぬ連続側転で銃弾を回避し、クルマの上に着地した。 

「ドーモ、シケイダーです」そいつはニンジャ……紛れもなく、緑ニンジャ装束に身を包んだ……ニンジャだった!しかも頭部はセミめいたバイオ異形!「アイエエエエエエ!」イシカワは叫び、失禁した!「せめてもの償いに、あなた方は私の戦闘データ収集に役立ちなさい」そして、殺戮が始まった! 

「イヤーッ!」ニンジャは銃弾をジャンプでかわすと、スラッシャーに飛び掛かった。「イヤーッ!」「グワーッ!」「イヤーッ!」「グワーッ!」重サイバネ強化されたスラッシャーが、カラテパンチとキックだけで、一方的に押されている。イシカワは叫び声を上げて、グルグル走り回っていた。 

 まるで手が出ない!赤子と大人の戦いを見ているかの如き、ベイビー・サブミッション!「イヤーッ!」「グワーッ!」「イヤーッ!」「アバーッ!」血飛沫と悲鳴!ニンジャは犯罪者の一団を嘲笑うかのように、殺人カラテで殴りつけ、蹴りつけた!「手加減していますよ、戦闘データのためにね!」 

 ハッカーの脚にスリケンが刺さり、血を流していた。イシカワの腕にも刺さっていた。「ARRRRRGH!」シゲオが最後の切り札電磁サイバネナイフを投擲!だがニンジャは連続バック転でこれを回避!「あなた方は死んで当然の下等存在です。イヤーッ!」次の瞬間、凄まじい超音波が発せられた! 

 悪夢だ!騒音と超音波で、頭の内側をシェイクされているかのようだ!イシカワは咄嗟にサイバネ耳管を制御し、閾値を切る。他の者は無理だった。「アーッ!アーーーッ!アイエエエエエエ!」シゲオが耳を押さえ苦しんだ。「アッ!頭!頭が!アイエエエエエエ!」屈強なスモトリも前後不覚に陥った。

 そして……セミめいたニンジャがイシカワに近づく……「次は至近距離で試します」……「何故?あなた方を殺すのが私の存在理由です」……「そして私は、殺しが大好きなんです」理不尽が彼らを踏みにじる!「助けてくれ……誰か……ニンジャを……このニンジャを!」イシカワが叫んだ!その時! 

「イヤーッ!」闇夜を切り裂くカラテシャウト!そして四枚のスリケン!「イヤーッ!」シケイダーは手をかざし、音波の壁を作ってスリケンを防ぐ!「何者だ!」次の瞬間!「Wasshoi!」禍々しくも躍動感のある掛け声とともに、埠頭倉庫の屋根から赤黒い影がイナズマめいた速度で着地した! 

「アイエエエエエ!ニンジャ!」この地獄に現れたのはまたしてもニンジャ!「アイエエエエエ!」イシカワは恐怖に目を剥き、暴れた!シケイダーはイシカワをそんざいにコンクリートへ放り捨てた!そして謎の介入者を指差した!「……その『忍』『殺』メンポ……!まさか……貴様は……!」 

 (((あれは……何だ)))イシカワは謎の介入者を見上げた。心臓を凍らせるような恐るべき復讐者の眼光!満身創痍に傷だらけの装束、そして襤褸布めいたマフラーが憤怒を孕んで不気味に揺らめいた!(((別の悪魔が、現れたのか……!)))シゲオはサイバネ心臓の拍動を止め、失神していた。 

「ドーモ、シケイダー=サン、ニンジャスレイヤーです……」それは地獄の底から響くような威圧的な声で、アイサツした。イシカワは恐怖のあまり再失禁した。だがその目はニンジャたちの戦いに吸い寄せられ、逸らす事はできなかった。「ドーモ、ニンジャスレイヤー=サン、シケイダーです……!」 

 オジギ終了からコンマ3秒!機先を制するように、ニンジャスレイヤーの右腕がムチのようにしなり、スリケンを投擲した!「イヤーッ!」シケイダーが咄嗟に張った音波障壁で軌跡を歪められながらも、憎悪に満ちた鋼鉄の刃はセミめいた胸部に突き刺さる!「グワーッ!」緑色のバイオ血飛沫が飛ぶ! 

「イヤーッ!」復讐者は一気に距離を詰め、回し蹴りを繰り出す!「イヤーッ!」シケイダーはブリッジ回避!直後、両手と頭部を敵に向け、収束音波攻撃を放つ!「イヤーッ!」死神は3連続側転で紙一重回避!「「「アバーッ!」」」後方で収束音波攻撃を受けたクローンヤクザ3体の頭部が爆ぜる! 

 着地からのトビゲリ!「イヤーッ!」「グワーッ!」よろめくシケイダー!「イヤーッ!」「グワーッ!」「イヤーッ!」「グワーッ!」「イヤーッ!」「グワーッ!」ニンジャスレイヤーの情け容赦ない連続カラテフックがシケイダーに叩き込まれる!イシカワは恐怖に震えながらも、それを見ていた! 

「バ……バカな!この私が!」シケイダーは連続バック転とジャンプ回避で仕切り直しを測る!再度のカラテ激突!「「イヤーッ!」」「「イヤーッ!」」「「イヤーッ!」」だが「イヤーッ!」「グワーッ!」「イヤーッ!」「グワーッ!」音波攻撃をかいくぐった復讐者のカラテフックが敵を再捕捉! 

「ニンジャ……ニンジャだ…!」空虚なニヒリズムに支配されていたイシカワの胸に、得体の知れぬ衝動が宿った!彼は全てを思い出した。あの夜、理不尽を殺す恐るべき復讐者が現れ……ニンジャに恐怖を与えたのだ!人間を虫けらのごとく踏みにじっていた暴虐と狂気が、恐怖し、声を震わせたのだ! 

 (((シゲオ=サン。あの日、殺戮の中で何を見た。それはニン……)))(((シーッ、黙れ!それは減点だ!)))あの時のシゲオの目……!あの声は、恐怖……!(((ニンジャだ……ニンジャだ!!)))ロッカーに隠れるイシカワの頭の中で、何かが爆発した!狂気がもたらした超自然的洞察! 

 シゲオがすぐ隣のロッカーに迫る!(((ニンジャ!ニンジャ!ニンジャ!)))イシカワは咄嗟に、ロッカー内にあった襤褸布の如き黒Tシャツを掴み、迷う事無くそれを頭に巻いた!何たる狂気!まるでニンジャだ!そしてロッカー扉を内側から蹴り開け、勢い良く飛び出した!「Wasshoi!」 

「アイエエエエエエエエエ!」シゲオはニンジャを見て竦み上がった!「アイエーエエエエエエ!」足をもつれさせ、顔を背け、殺虫剤をかけられた虫めいて床を逃げ回る!冷酷無比なるスラッシャーが……あらゆる理屈の通じぬ発狂マニアックが……NRSトラウマ元凶を直視させられ、恐怖したのだ! 

「イヤーッ!」イシカワは愚かな偽カラテを構え、敵を追い回した!「アイエエエエエエエ!」BLAMBLAMBLAM!シゲオは後方へ闇雲に銃を乱射!銃弾がイシカワの肩をかすめる!だが彼は恐怖しない!(((俺は情け容赦ないニンジャだ!)))「イヤーッ!」机の上のフクスケを、投げる! 

「イヤーッ!」そして放り投げた!SMAAAASH!シゲオの頭部に命中し、凄まじい音を立てながら陶器製のフクスケが割れる!「グワーッ!」「ハァーッ!ハァーッ!」イシカワが息を切らし始める!だが攻めを止めれば死あるのみ!「イヤーッ!イヤーッ!」踏みつける!「アイエエエエエエ!」 

「イヤーッ……イヤーッ……!」苦しい!イシカワの動きが徐々に鈍る!それに呼応し、シゲオのNRS衝撃が減衰!シゲオの目に狂気と殺意が戻り始める!もはやこれは狂気と狂気が殴り合う殺人ボクシングに他ならない!「ARRRRGH!」泡を吹きながら、シゲオはニンジャの足を蹴り飛ばす! 

 CRACK!「グワーッ!」片脚が嫌な音を立てた!イシカワは後方によろめき机にブザマによりかかる!「ARRRGH!」シゲオは頭を振り、酔っ払ったように左右にふらつきながら立ち上がった!弾切れを起こした銃を捨てカラテを構える!……イシカワの脳内に再びソーマト・リコールが起こる! 

 ……「イヤーッ!」「グワーッ!」「イヤーッ!」「グワーッ!」音波攻撃をかいくぐった復讐者のカラテフックが敵を再捕捉!シケイダーは強烈なカラテ打撃を受け音波攻撃もままならぬ!手負いの死神は、一気に勝負をつけるべく、懐に飛び込みラッシュを仕掛けた!「イイイヤアアーッ!」その時! 

「かかったな、ニンジャスレイヤー=サン!イヤーッ!」シケイダーの装束が内側から裂け、セミめいた六本のバイオサイバネ節足が出現!「グワーッ!?」バイオサイバネは死神を檻の如く抱えこみ、危険な密着状態に!「私の全身、これすなわちヨロシ・バイオサイバネティカ社の英知の結晶です!」 

「ヌウウウウーッ!」ニンジャスレイヤーは胸の前で両腕を畳んだブロック状態で拘束され、身動きが取れぬ!セミじみた外骨格バイオサイバネは見た目以上の筋力で彼を締め上げ、離そうとしないのだ!「無駄です、ニンジャスレイヤー=サン!私のバイオサイバネは通常の5倍のニンジャ筋力!」 

「セミ・ニンジャクランのソウルに、セミめいたバイオサイバネの相乗効果!その威力を味わいなさい!」シケイダーは人間型の両腕を大きく広げながら掲げ、密着音波攻撃を開始した!「グワーーーーッ!」死神の目鼻から鮮血が!「そんな……!これで、終わりなのか……?」イシカワは拳を握った! 

「お別れですニンジャスレイヤー=サン!感謝しなさい、人類進化に貢献できる事を。この戦闘データは来るべきカンゼンタイの……」収束音波を強めようとした彼は、己の胸部を襲う凄まじい灼熱感を知った!「グワーッ!?」「ニンジャ……殺すべし!」ニンジャスレイヤーの両腕が黒炎に包まれる! 

 ニンジャスレイヤーはこの絶望的状況の中でも、死中に活を見いだすことを止めなかったのだ!「グワーッ!」バイオサイバネ拘束が緩んだ!一瞬の隙を突き、死神はワン・インチ・パンチを腹部に叩き込む!「イヤーッ!」「グワーッ!」さらなるワン・インチ・パンチ!「イヤーッ!」「ゴボーッ!」 

 ニンジャスレイヤーは完全に拘束を脱する!「バ……バカな……!」「イヤーッ!」黒い炎を纏わせながら、渾身の右カラテストレートを叩き込んだ!「グワーッ!」左カラテストレート!「イヤーッ!」「グワーッ!」右!「イヤーッ!」「グワーッ!」左!「イヤーッ!」「グワーッ!」…… 

「天使どもを殺す……!皆殺しだ!」シゲオが威圧的に吠えた!その逞しい腕とカラテは見るも恐ろしい!イシカワは混濁した意識のまま、歯を食いしばった。(((……何処の誰だか知らん狂人のカネで助けられて、生きる希望を得たと思ったら、何処の誰だか知らぬ狂人に殺されるのか……!?))) 

 (((それも含めて俺のインガオホーだってのか!?ブッダ!クソッタレのゲイのサディストめ……!そんな理不尽は許さんぞ!…見てやがれ!)))「俺はニンジャだ……!イヤーッ!」狂気のカラテシャウト!シゲオが一瞬、ひるんだ!そのままイシカワは全力で走り、捨て身のタックルをしかけた! 

 イシカワはもはや、この後のことなど考えていなかった。その一撃を受け、シゲオは大きくよろめき、二人は後方の割れたガラス窓から、室内運動場へとまっさかさまに転落した。 




 音波攻撃を回避しながらのカラテ応酬!「イヤーッ!」シケイダーのバイオサイバネ節足が死の鎌めいて襲う!「イヤーッ!」ニンジャスレイヤーはブリッジ回避からのメイアルーアジコンパッソ!「グワーッ!」シケイダーを蹴り飛ばした!きりもみ回転しながらヤクザベンツに激突、吐血!「ゴボーッ!」

 死神も、また無傷ではない。血の涙。腕と背中からはバイオサイバネ節足攻撃によるおびただしい出血。それでもニンジャスレイヤーはザンシンを決め、バイオニンジャを睨み、死刑執行人の足取りで歩み寄った。「ニンジャスレイヤー=サン……私を倒したとて、いい気になるな……」シケイダーが呻く。 

「私の戦闘データはIRC送信された。それこそ私の存在意義……引き継がれるのだ……恐るべきプロジェクトへ!」シケイダーの音波発声器官は、胴体部以外もはや無惨に潰されている。死神は歩みを止めず言った。「そうか、儚い命だったな、シケイダー=サン。ハイクを詠むがいい」「ま……待て!」 

 シケイダーは立ち上がり、最後のセミ・カラテを構えた。「どうした、命乞いか?」ニンジャスレイヤーもジュー・ジツを構える。「ニンジャスレイヤー=サン、私の最後のカラテで貴様のニューロンに刻み付けてやるのだ!そのコードネームを!恐怖するがいい!……イヤーッ!」飛び掛かるシケイダー! 

「イヤーッ!」ニンジャスレイヤーのヤリめいた対空チョップ一閃!その一撃は危険なバイオサイバネ節足を弾き返し、シケイダーの胸を貫いた!「グワーッ!……いつか必ず!我々の全データとジーンを受けついだ者が……お前を殺す!その名は……カンゼンタ…」シケイダーは爆発四散!「サヨナラ!」 

 ニンジャスレイヤーは最後のザンシンを決め、「忍」「殺」メンポから蒸気めいた息を吐く。シケイダーはバイオサイバネ移植部位がブスブスと燃え残り、さながら巨大なセミの死体じみていた。ニンジャスレイヤーはへたり込むイシカワに一瞥をくれると、何も言わず、高く跳躍し、夜の闇へと消えた。 

 イシカワは寂しい秋の重金属酸性雨の中で、そのハイク・フォトジェニックな光景を見ていた。神秘的な一瞬のソーマト・リコールが終わりを向かえ、全てが……真っ白に変わっていった。 

 だが次の瞬間、衝撃と激痛がイシカワを無慈悲な現実に引き戻した!暗黒の閉鎖棟へ!「「グワーッ!」」イシカワとシゲオは、割れたガラスまみれの室内運動場へともろともに落下!したたかに全身を叩き付けられた!「……ゴボッ!ゴボーッ!」イシカワは背中を仰け反らせ、激痛にのたうち回る! 

 二人は数十秒ほど転がり、呻き続けていた。早く起き上がらねば。イシカワは身体を動かそうとするが、激痛が彼を阻む。そこかしこにガラス片が刺さっている。「……ARRRRRRRGH!」シゲオが唸り、先に立ち上がった。イシカワも立とうとしたが、力が入らない。シゲオが威圧的に歩み寄る。 

 シゲオは肩と頭に大きなガラス片を刺したまま、しかし気にも留めず、サイバネ無表情で歩み寄る!そしてイシカワの腹部を蹴り上げた!「イヤーッ!」「ゴボーッ!」そしてイシカワの頭を掴み、そこに巻かれたTシャツを剥ぎ取ろうとする!「お前は……ニンジャなどではない……!」 

「ヤメロー!ヤメロー!」死に物狂いで抵抗する!「イヤーッ!」「ゴボーッ!」シゲオはついにTシャツを剥ぎ取った!血塗れのイシカワの顔がさらけ出される!「ワハハハハハ!」シゲオはそれを見て哄笑した。そしてTシャツを……己の頭に巻いた!?「俺こそがニンジャなのだ!」完全なる狂気! 

 イシカワは最後の力を振り絞り、生まれたての子鹿めいて立ち上がり、駆けた!「ワハハハハハ!全ての鍵は閉鎖してあるぞ!貴様の脳を開く!そして天使の軍団を壊滅させるのだ……!」遂にニンジャという名の暴虐の象徴を得たシゲオは、不完全だった妄想を完成させ、赤熱ハンダごてを掲げて追う! 

「ワハハハハハ!」危険ニンジャ妄想者は逃げるイシカワを追いかけ、後方からLAN端子痕を狙って赤熱ハンダごてを何度も突き出す!アブナイ!「アイエエエエエ!」イシカワは閉鎖された扉を叩き、開かぬと解るや、屈み込む!突き出されたハンダごてが頭上で扉にぶつかり、甲高い音を響かせる! 

 イシカワはへたり込み、それでも抗うように震え、腕のガラス片を抜いて手で握った。掌から血が流れる。「ワハハハハハ!そんなもので俺に勝てるとでも?……この場で手術だ!もはや俺はTVなど無くとも、映像を読み取れるだろう。ニンジャだからな!」シゲオは笑い、ハンダごてを高々と掲げた! 

 ナムサン!もはやこれまでか!?その時!イシカワの背を支えていた鉄扉が後ろに開く!「アイエッ!」「「「「フリーズ!」」」」闇を切り裂いて、警備マッポ軍団の漢字マグライト光群!「グワーッ!?」突然の強烈な光にシゲオが苦しむ!低光量設定していたサイバネアイの過剰フィードバックだ! 

「ウオーッ!来るな!俺はニンジャだ!」シゲオはハンダごてを振り回し、光を払い除けるように暴れ狂う!だが彼はどう見てもTシャツを頭に巻いただけの危険ニンジャ妄想者だ!「「「囲んで棒で叩く!」」」「やめろ!俺は光に弱い!」ニンジャが光に弱いと考えている!フィクションの悪影響だ! 

「「「囲んで棒で叩く!」」」「グワーッ!」スガモ重犯罪刑務所の精鋭警備マッポ軍団は、情け容赦なくシゲオを包囲し、囲んで棒で叩いた。圧倒的だった。先程まであれほど恐ろしかった狂人は、化けの皮を剥がされたかのように、ブザマな姿をさらしていた。……狂気の時間は終わりを迎えたのだ。 

 イシカワは力無く仰向けに転がっていた。「よう兄弟、遅くなって悪かったな……」憔悴した笑い声と手が差し伸べられた。「少し見ねえうちに……一人前の男の顔になりやがって……」それは、血塗れのヤマヒロだった。彼は重傷であったにも関わらず、警備マッポに事情を伝え、捜索に同行したのだ。 

 彼は手を握り返し、ふらふらと立ち上がった。ヤマヒロも若干ふらつき、笑いながら相手の肩を叩いた。「くそったれめ……よく生きてたぜ」彼が便器の中から立ち上がり、警備マッポを呼ばなければ……数分でもそれが遅れたら……間に合わなかっただろう。それはグレーターヤクザの執念であった。 

 シゲオを床に押さえつけながら棒で叩き続けていた警備マッポ軍団が、ついにそのTシャツ覆面を剥ぎ取った。その下から、傷だらけの醜悪な顔が露になる。マッポが緑色の光で顔面をスキャンするが、登録が無い。「おい、俺がさっき言った通りだろ!そいつも一種の覆面だ……!」ヤマヒロが言った。 

「俺には人権がある!これは医療扱いだ!」シゲオが獣めいて唸り抵抗したが、棒で叩かれ、サイバネ人工皮膚を剥がされ裏返された。イシカワは突然の形勢逆転に唖然としていた。「明るいとこに出してみりゃ、しょっぺえ狂気さ。芯の通ってねえ狂気なんざ、こんなもんなんだよ」ヤマヒロが言った。 

「ああ」イシカワが頷いた。「思い出したか?」ヤクザが肩を貸しながら問う。「ああ、思い出した」「あとでゆっくり聞かせてくれや、兄弟……」二人は肩を組み、悪夢の閉鎖棟から離れるように、廊下を歩いた。ふらふらと蹌踉めきながら。警備マッポが付き添い、レシーバーで医療班の手配をした。 

「止め!棒、止めーッ!」「即座に、指差し点検!」後方で警備マッポたちがざわめいた。「班長が棒で叩きすぎたのでは!?」「そんな事は無い!」「過剰暴力扱いになる!」「完全に心停止しているぞ!」「圧迫止めーッ!」「医療班!医療班追加!」……「心停止……?」イシカワは眉をひそめた。 

「待て!そいつは……サイバネ心臓…!」イシカワが振り返り、叫んだ。だが遅かった。死んだように倒れていたシゲオは、突如バネ仕掛けめいて立ち上がると、動揺していた警備マッポ軍団の間を抜け、凄まじい形相で走った!床のハンダごてを拾い、ドスめいて脇に構えながら!「イシカワアアア!」 

 ヤマヒロが二人の間に割り込む!そして!「ザッケンナコラーッ!」ケリ・キックが狂人の顔面にめり込んだ!「グワーッ!」インガオホー!続けざま、ヤクザストレートを叩き込む!「スッゾコラーッ!」「オゴーッ!」シゲオは武器を取り落とし、失神!ヤマヒロもふらつき、その場に座り込んだ! 

 警備マッポ軍団は痙攣する狂人を拘束し、ヤマヒロに手を差し伸べた。「ハァーッ……ハァーッ……ヤクザをナメんじゃねえ」ヤマヒロは手を払い、自力で立ち上がった。そして再び、兄弟の肩を叩いた。「話つけてやったぜ。困ったら、また俺を呼べ。後払いでいいぞ」「ハイ」イシカワは深く頷いた。 

「カネは無いですが……」イシカワはその威厳に恐れ入り、思わず敬語になっていた。「なんでぇ……」ヤマヒロは意識が飛びそうな頭痛の中、しかめっ面で笑った。「本当にドネートかよ……」外では重金属酸性雨が弱まり、黒雲の隙間から覗くドクロめいた月が、ショッギョ・ムッジョと呟いていた。 

 

◆◆◆

 

 ニンジャ……それは実在せぬフィクションの産物だ。ネットワークが地表を覆い尽くしたこの時代にニンジャが実在し、ジツを使い、スリケンを投げ、サイパー都市の路地裏を駆けているなどと考える者は、愚者のそしりを免れまい。だが……徐々にニンジャ憑依者の秘密は裏社会から滲み出しつつある。 

 無論、それは未だ、裏社会の住人たちが囁く都市伝説のレベルに過ぎない。ニンジャの秘密を守り、非合法ビジネスを円滑に進めようとする者たちの手で、情報統制が敷かれているからだ。公権力か?否。ネオサイタマは、いや日本政府そのものは、暗黒メガコーポと邪悪なニンジャ組織の支配下にある。 

 その闇に挑まんと暗闘を続ける者もいる。暗黒非合法探偵イチロー・モリタ、ヤバイ級電脳犯罪者ナンシー、あるいは神々の使徒ヤクザ天狗などだ。……だがそれだけではない。彼ら裏社会の住人とは異なる手段で、そして極めて危険な橋を渡りながら、公僕の力でニンジャの闇に迫らんとする者もいた。 

 一台のマッポビークルが、スガモ重犯罪刑務所の重点検問を通過し、監獄島への長い橋を渡った。一般の警備マッポたちには、その助手席に乗るコート姿の男が誰なのか、検討もつかない。ただ、示されたパスの通り、淡々と彼らを迎え入れる。不吉極まりない49の課番号をマーキングしたビークルを。 

 薄暗い第七マッポ・バラック前。副所長が敬礼で彼を出迎えた。「……仰々しいのはやめてくれ」コートの男がビークルから降り、副所長とバラックに入る。「わしは引退した事になっとるからな」対酸性雨コートを脱ぎ、ボンボリ灯に照らされた男は、厳めしい眼帯の老人…ノボセ・ゲンソンであった。 

「引退な……」副所長は小さく笑った。刑務所内で彼は、オハギ賄賂と賭けショーギで堕落した、世渡り巧みな古狸として認知されている。だがその真の姿は、警察機構の正義を信じる、時代遅れのシーラカンス化石めいた堅物であった。そしてやや種類は違うが、やはりノボセのように剛胆であった。 

 彼らは殆ど言葉を交わさず、目で語り合い、N案件の物理ファイルが入った分厚い黒封筒を交換した。「……騒ぎが起こったと聞いたが」「失態だ。初めての事例でな。NRSによるN妄想者が暴行を。全てはファイルに。また、その被害者を1人、ウサギ棟にて保護する」「なるほど」ノボセが頷いた。 

「そのN妄想者が、敵の走狗である可能性は?」「調査中だが、極めて薄い」「僥倖。ここの秘密はまだ漏れておらんか。……だがいずれ、それも限界を迎える。Nデッカーを1人、常駐させるか?」ノボセが問う。副所長はしばし思案した。「……いや、まだいい。それがむしろ目を引く可能性もある」 

「一理ある」ノボセは腰のカタナの柄に手を乗せた。「面目ない話ではあるが……外部の目だけでなく、NSPDすら、もはや全く信用ならん」「それは昔からだろう」副所長が笑った。「……そうだな」ノボセも苦笑する。「我々はずっと、勝ち目の無い戦いを続けているのかも知れんな」 

「では引き続き、我々は“都市伝説”の情報収集に勤しむとするか……」副所長は封筒を血液とハンコの二重認証型アタッシェケースに仕舞った。「うむ」ノボセも同様のケースを閉じた。「「ドーモ」」二人は短く別れを告げる。ノボセ老はコートを纏い、ドアを開け、重金属酸性雨の中に踏み出した。 

【アーバン・レジェンド・アブナイ】終



N-FILES(設定資料、原作者コメンタリー)

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