【スピン・ザ・ブラック・ヘイズ】
【スピン・ザ・ブラック・ヘイズ】
1
ゴウン……ゴウン……ゴウン……ゴウン……用途不明の計器類が鳴らす唸りに混じって、湿った足音と、人の声帯が発する奇怪な音が聴こえてくる。「キュロロロロロ……キュロロロロロ」
その足元に緋色のガスが漂い、既に殺めた白衣姿のヤクザ数名の死体を覆い隠す。ブラックヘイズはハンドヘルドUNIXを操作する。モニタ上で黄色く明滅する「許容値」のミンチョ漢字と横の数字は、彼が曝された毒素の総量の推定値を示している。数値は少しずつ、だが確実に上昇してゆく。
それまで通路の角で身を沈め、動かずにいたブラックヘイズは、観念するかのように立ち上がった。「タイガーの尾を踏む以外に無しか」 「……キュロロロ……」進み出たブラックヘイズを知覚し、異様に長い手足を持つ不気味なニンジャが不自然な角度で首を巡らせた。
手足に穿たれた木のウロのような孔から緋色の煙が溢れ、足元にわだかまる。ブラックヘイズは挑発的にステップを踏んだ。「来い、ペスティレンス=サン」「キュロロロロ!」ペスティレンスと呼ばれた奇怪なニンジャは瞬時に蛙めいて身を縮めたかと思うと、恐るべき敏捷性で跳びかかった!
「イヤーッ!」ブラックヘイズは前転した。頭のすぐ上を、逆棘つきの恐るべき爪が通過した。ブラックヘイズはそのままペスティレンスの股下をくぐり抜け、更に跳躍、床に手をついてフリップジャンプした。「キュロロロロロ!」ペスティレンスが振り返った。
ブラックヘイズは全力疾走を開始。「キュロロロロローッ!」ザシュッ! ザシュッ! ザシュッ! 床を蹴り、恐るべき速度でペスティレンスが迫ってくる。ペスティレンスがガバと両腕を拡げた。アブナイ! とらえられる!
「キュロロロ……グワーッ!?」だがペスティレンスはブラックヘイズを掴む寸前でその動きを止めた。否、止めたのではない。動かすことができないのだ。ブラックヘイズは床を転がり、間合いをとって起き上がった。ペスティレンスはパントマイムじみて窮屈そうに虚空でもがく。
一体これはいかなる事か? サイキックか? ……否。闇の中、執拗に目を凝らせば見えることだろう。壁から壁に蜘蛛の巣じみて張られた複数のワイヤーが。これはブラックヘイズの自家薬籠中の戦術。腕先から射出するネットで敵を捕らえて離さぬヘイズ・ネット・ジツである! ネットにはカーボンナノチューブ技術が用いられ、強度と柔軟性を兼ね備えている!
「キュロロロロロロ! キュロロロロロロ!」「動けまい……!」ブラックヘイズは呟き、注意深く後ずさった。ハンドヘルドUNIXを見る。黄色からオレンジのグラデーションで明滅する「許容値」のミンチョ漢字。数値はゆるやかに上がり続けている。
この表示が黄色から赤へと変われば、待ち受けるのは、即ち、死……否、死よりも酷い運命である。壁には「酉年」「ナンバシックス」と書かれたプレートが埋め込まれている。「キュロロロ……イヤーッ!」KRAAACK! ペスティレンスはいきなり両腕を跳ね上げ、ヘイズ・ネットを引きちぎった。ブラックヘイズは目を疑った。
ヘイズ・ネットの耐久度と柔軟性を考えれば、これは通常ありえぬ挙動だった。「これほどまでか……!」「イヤーッ!」回避が間に合わない! 「グワーッ!」ペスティレンスのヤリめいた飛び蹴りを受け、ブラックヘイズは身体をくの字に曲げて吹き飛ばされた。
「チイーッ!」舌打ちし、受け身を取るブラックヘイズに、床を蹴ったペスティレンスが再び襲いかかった。「イヤーッ!」右手爪!「イヤーッ!」左手爪! ブラックヘイズはバック転を繰り返して飛び下がった。
「キュロロロロロ!」ペスティレンスが上半身をぐるりと捻じり、両手の爪を振り上げた。ナムサン! これをバック転で回避するすべはない。なぜなら彼は、今や閉じた鋼鉄のシャッターフスマを背にしていたからだ!「……さて……」ブラックヘイズは呟き、カラテを構え直す。
その時である。
KRAAASH!「ゴアアオオオン!」背後のフスマが向こう側から引き裂かれた。そしてその奥からも、鋭利な爪を生やした巨大な影が現れた!「GRRRR!」白い毛皮で覆われ、4つの目と猪めいた鼻、サーベルタイガーじみて鋭く長い牙を持つモンスターは、両腕をひろげ、怒りに満ちた咆哮をあげた!
……時間は、しばし、巻き戻る。
深さ80メートル。ネオサイタマ郊外に設けられた隔離施設の最深部に、二人のニンジャが立った。ガンメタルカラーの装束を着た男の名は、ブラックヘイズ。プラチナブロンドの髪を長く伸ばした美しい女の名はフェイタルという。
「こいつ一匹の為だけに、こんな大仰な施設を?」フェイタルは呟き、強化ガラスショウジ戸越しに、ほんのタタミ十枚程度の広さの独房の中央に佇む異様な存在を見る。異様に長い手足を持ち、身長は3メートル超。顔をうつむかせ、微動だにしない。
「うらやましいなら、お前が代わるか。独房の中は冷房も完備だ。死ぬほど涼しいぞ」ブラックヘイズは葉巻をふかし、UNIXをタイプしながら、モニタの3Dワイヤフレームを見つめる。 摂氏マイナス90度の表示。
フェイタルは肩をすくめた。「代わっていいのか? それなら、奴の相手をするのはお前だな」「クチの減らない女だ」「それにしても、こいつ、この状態で生きているのか?」「死んでいるさ。ズンビーだからな」「そういう意味じゃない。わかっているくせに」
「ああ。依然、危険だ。俺達を……目で……追っている」ペスティレンス。イモータル・ニンジャ・ワークショップの実験体第九号。古代の邪悪なニンジャソウル「ヤマイ・ニンジャ」を憑依させたズンビーであり、奇怪な病原菌を撒き散らす恐るべきニンジャだ。感染者は更に周囲の生物を襲い、際限なく感染者を拡げてゆく。
将来的にはソウカイ・シンジケートとヨロシサン製薬の協業として、治療薬のマッチポンプ販売による利益創出が期待されていた。だが、このズンビーニンジャはあまりにも危険かつ強力に過ぎた。ソウカイ・シンジケートの闇ビジネスにすら不必要なほどに。
ヨロシサンの治療薬開発も暗礁に乗り上げ、運用計画自体が無期延期となった。だがペスティレンス自体は、一度生み出されてしまったからには、無機質なUNIXデータめいてUNDOする事もできぬ。関係者は、いつとも知れぬ将来に解決可能性を賭けた。先送りだ。かくして、研究施設まるまる一つが専用の隔離チャンバーに作り変えられた。
現在も、こうして自動制御のUNIXが、いつ使うかもわからぬデータ・モニタリングを続けている。ブラックヘイズとフェイタルはまさにその場所を訪れているのだ。目的は、無人のままに採取された、彼らには何の価値があるかもわからぬ、ペスティレンスのバイタル・ヒストリー情報の回収である。
「後先考えない計画もあったものだな。やってみて "ダメでした" で、隔離に廃棄か」フェイタルがコメントした。ブラックヘイズは頷いた。「いつものリー先生とヨロシサンの短絡思考のハイブリッドだ。INWとビジネスしていると、この手のふざけた事態には一週間で慣れっこになる」
「で、ダークニンジャは以前、どうやってコイツを閉じ込めた?」「一応、資料一式は存在しているが……」ブラックヘイズはパンチシートをめくっていく。「あまり参考にならん」「何故」「カラテで制したとの事」「ハハァ」
『データ吸い出し、完了ドスエ』キャバアーン! UNIXがシークタイム終了を示す電子音を鳴らし、たった今ブラックヘイズが差し込んだフロッピーディスクを吐き出した。「とっとと帰るぞ」彼はディスクを懐におさめた。
「わたしが参加する意味が果たしてあったのか、疑問だな」フェイタルは欠伸した。「ただのお使いじゃないか」「それに越したことはない」ブラックヘイズはむっつりと言った。「お前が動かねばならぬ場合、それは最悪の事態を意味する。ここはまともな場所ではない」「いつもの臆病風か? 傭兵殿」フェイタルは鼻を鳴らした。
ブラックヘイズは答えようとした。「臆病ではない。これは用心……」ブガーブガーブガー! 赤灯照明が明滅し、アラートが鳴り響いた。ザリザリザリザリ。モニタ上のウサギと蛙がノイズに呑まれ、ローポリゴンの嘲笑う顔面モデルが浮かび上がった。『アハー! アハー!』
「これは!?」「ふむ。第三者による干渉だ。お望みの、力仕事の時間が来たぞ」「ちょっと待て! どういう事……」『アハーッ!』「待てん。急げ、外だ!」ガゴンプシュー……不吉なシリンダー音が鳴り響き、冷たい空気が流れ込む。独房内のペスティレンスが、電気ショックを受けたかのように身体を痙攣させた!
2
「外だ! 出るぞ!」ブラックヘイズは叫んだ。「死にたくなければ走れ!」「イヤーッ!」急転直下! 二者はUNIX室から外へ転がり出た。「どうなってる!」「罠にハメられた。第三者による干渉だ」「バカな! 施設は外部ネットワークから切り離されている筈……」
『ブラックヘイズ=サン! 貴方はここで死ぬ定めです! アッハハハハハ!』施設内スピーカーから勝ち誇った笑いが轟いた。「第三者殿の有り難い自己紹介だ」ブラックヘイズは呟いた。フェイタルは眉根を寄せた。「恨みでも買ったか」
「さあてな」ブラックヘイズは首を振った。「この手の輩は多過ぎて、いちいち気にしていられない。フリーランスのサガだ」「ハハア。なるほど」フェイタルは皮肉に笑った。「後ろめたさのリスクが付きまとうわけか」「必要経費だ」
「キュロロロロロロ!」後方で奇怪な鳴き声が聴こえた。声の主は振り返って見ずとも明らかである。独房から解放されて自由になったペスティレンスだ。ドシッ、ドシッ、ドシッ……音立てて大股に床を蹴りながら、身長3メートル超のズンビー・ニンジャが迫ってきている。足元には緋色のガスが立ち込め、不穏であった。
「ガスはヤマイ・ニンジャのニンジャソウルに起因するニンジャ病原菌だ。呼吸器から感染する。メンポを装着しろ」ブラックヘイズが言った。「ガスの比重が重いのは幸いだが、致命的だぞ」「やれやれ!」フェイタルの装束の首元が変形し、鼻と口を覆う。「危険手当が10倍に跳ね上がったぞ!」
「キュロロロロロロ!」「イヤーッ!」ブラックヘイズは後方へ片手をかざした。ヘイズ・ネットが展開され、ペスティレンスの行く手を遮る。「グワーッ!」ペスティレンスは通路に張られたネットにテニスボールめいて引っ掛かり、弾かれた。「キュロロロロ……キュロロロロ!」
「ブルズアイ!」フェイタルが快哉した。「吹っ飛ばせ。お定まりの葉巻のグレネードで」「ダメだ」KRAASH! ブラックヘイズは壁のガラスボタンを殴りつけ、強制的にシャッターを下ろす。ガゴン! 冷たい鋼鉄が二人とペスティレンスを遮った。
「おいッ!? 何してる!」「あのガスは火気厳禁。しかも奴は爆発に耐える。俺達の自爆になるのがオチだ」「アー……どうしてそんな最悪なニンジャを作った?」「同感だな。それはまあ、地上に戻った後で是非リー先生を問い詰めるとしてだ……」
ブラックヘイズは十字通路を見渡し、ハンドヘルドUNIXの表示を見た。緑色のミンチョ漢字が明滅している。ドシッ! ドシッ! シャッターが震え、向こう側からの打撃によって、シャッターが歪み始める。ヘイズ・ネットの拘束を脱したか。
「長くはもたんな」「ところで」フェイタルは身構え、前方を睨んだ。「あれ、どう思う? 前方は前方でジゴクのようだが」……ナムサン。徐々に濃くなる緋色の煙の中、闇の中から一人、また一人、おぼつかない足取りの者たちが進み出てくる。白衣を着たクローンヤクザ……の、成れの果てだ。コワイ。
その動きは明らかに常人のそれではない。両手を前にだらりと垂らし、ぎこちなく左右に揺れ、うめき声をあげる彼らの頭には、汚れた布が巻き付いている……まるでニンジャ頭巾のように!「アバー……」「アバー……」「アバーッ!」「感染者のお出ましだな」ブラックヘイズが言った。
「かつて、ダークニンジャが事態を収拾するまでにこの地で費やされた犠牲者のなれの果てだ」「イヤーッ!」フェイタルが跳び、鋭い二段回し蹴りでズンビーの首を立て続けにへし折った。「イヤーッ!」「アバーッ!」そこへ襲いかかる新たなズンビーにブラックヘイズがインターラプトし、殴り倒した。
「どこから沸いて出た。来た道では影も形も無かったのに」「ペスティレンスの独房同様、さきの遠隔操作でゲートを開いたのだろう。まとめて隔離されていたものが呼び込まれたのだ」ブラックヘイズは答え、再びハンドヘルドUNIXを確認。空気は緋色に霞み、ミンチョ漢字の横の数値は上がり続ける。
『アハーアハーアハー! 彼らはジゴクから戻った私の騎士達だ!』スピーカーから狂笑が発せられた。『ここは貴方のハカバなのです、ブラックヘイズ=サン! 罪を償い続けなさい……永遠に!』「アバババーッ!」前方の闇の奥から叫び声が接近してくる。
二人が身構えた直後、叫び声の主達が闇から飛び出した。特殊部隊めいた兵装の三体! やはり頭にはボロ布! 素手で襲い来る!「イヤーッ!」「アバーッ!」「イヤーッ!」「アババーッ!」ブラックヘイズとフェイタルは素早いカラテで襲撃者を次々に打ち倒し、念入りに頭部をカイシャクした。
「イヤーッ!」「アバーッ!」「原理は知らんが、感染者はニンジャ頭巾を被る。ズンビーニンジャが作り出したニンジャゾンビだ」「ニン……まあいい。こいつらの仲間入りはしたくない」「こいつらも感染源だぞ。攻撃を受けないように注意しろ」「冗談。非ニンジャの、それも足元もおぼつかない連中に」
「お前の楽観主義はしばしば俺の頭痛の種だ。ペスティレンスはじきに拘束を脱する。ニンジャゾンビの対処に手間取れば、遅かれ早かれ親玉に追いつかれる。慢心と自己過信がしばしば大火傷に……」「オッサンは話が長い」フェイタルは首を振った。「それに、いざとなれば守ってくれるんだろ」「お前が勝てぬ相手から?」
「アバー」「アバーッ」「イヤーッ!」「アバーッ!」殺到するニンジャゾンビを倒しながら、彼らは回廊から回廊へ渡ってゆく。「きりがない!」「そこを右だ」ブラックヘイズはハンドヘルドUNIXを一瞥した。ミンチョ漢字の横の数字は上がり続ける。無視できない数値だ。
走る速度を緩めず、カーブをきるスピードスケート選手めいて、二人は直角の曲がり角を曲がった。「キュロロロ」その先に絶望めいた巨体が待ち構えていた。ペスティレンス。回り込んで来ていたのだ! この隔離施設の迷路めいた構造を理解している……? その目に邪悪な知性めいた光が一瞬浮かんで消えた。
「キュロロロロ……ドーモ……ペスティレンスです」邪悪なズンビーニンジャはゾッとするようなアイサツを繰り出した。床に緋色の霧が溢れた。「ドーモ。ブラックヘイズです」「ドーモ。フェイタルです」二人はオジギを返した。ニンジャゾンビが相手でも、アイサツされれば返さねばならない。古事記にもある。
「イヤーッ!」オジギ終了からコンマ2秒、二人は同時に跳んだ。「イヤーッ!」ペスティレンスの振り下ろす爪がブラックヘイズの装束とフェイタルの髪の一筋を切り裂いた。ブラックヘイズは左の壁を、フェイタルは右の壁を蹴り、トライアングル・リープを繰り出した。そして跳び蹴りだ!「イヤーッ!」
だがペスティレンスは彼らの極めて敏捷な動きを完全に捉え、無慈悲なカラテで対応した。「イヤーッ!」竜巻めいた回転から繰り出される鋭利な両手の爪!「「グワーッ!?」」二者は床を転がり、起き上がる。ブラックヘイズの脇腹、フェイタルの右肩の装束が裂けていた。まさに皮一枚。アブナイ!
「イヤーッ!」ペスティレンスは瞬時にフェイタルのワン・インチ距離に詰めた。ハヤイ!「グワーッ!?」フェイタルは極めて速いケリ・キックをかろうじて受けた。回転しながら吹き飛ぶフェイタル!「イヤーッ!」更にペスティレンスは振り向きざまの蹴りをブラックヘイズに見舞う!
「イヤーッ!」ブラックヘイズは強烈なハイキックをガードした。重い! ハンマーで殴られたような衝撃がブラックヘイズの腕から全身を伝い、骨がミシミシと音を立てる。「イヤーッ!」ブラックヘイズはショートフックを繰り出す。「イヤーッ!」ペスティレンスの膝蹴りの速度が上回った!「グワーッ!」
ブラックヘイズは空中で一回転、地面に着地した。『アハーアハーアハー! 思い上がってはいけませんね! ペスティレンスは貴方より遥かに強い!』 緋色の煙が散った。ハンドヘルドUNIXの「許容範囲」の文字が点滅し、緑から黃に変化する。ブラックヘイズは舌打ちし、飛び退って間合いを取った。
ガゴーン! その時だ。背後から攻撃を仕掛けるべく動き出したフェイタルの目の前にシャッターが落ちた。
彼女は目を丸くした。一瞬にして、無慈悲な鉄が、ブラックヘイズとフェイタルを分断してしまった……!『アハーハー! いかがですか? これで正々堂々、ペスティレンスとの一騎打ちができるのでは?』
嘲笑う声!『残念ながら、あの女とは永久の別れです。この区画から出るには今の通路だけが唯一の退路。グルグルと無限の煉獄をさまよい、罪を償うべし!』「イヤーッ!」ペスティレンスが長い腕を振り回した。「イヤーッ!」ブラックヘイズはバック転で回避する。
『アハーアハー! もっと息を荒げて戦うといい! いずれペスティレンスのヤマイは貴方のニンジャ耐久力を突き抜け、甘美な死の世界へ誘います。五分後? 十分後? どれだけ保ちますかねえ……?』「確かに旗色が悪いな」ブラックヘイズは呟き、踵を返した。「キュロロロロ!」ペスティレンスも走りだした!
ドシュッ! ドシュッ! ドシュッ! ドシュッ! 大股の走りがブラックヘイズの真後ろまで迫る。ブラックヘイズは走りながら繰り返しハンドヘルドUNIXを確認する。『アハーアハーアハー! 確認、また確認! そんなにもヤマイが恐ろしいですか! いや、わかります! しかし愉快だ! どうせ逃げ場はない!』
「イヤーッ!」ペスティレンスが跳びかかった。「イヤーッ!」ブラックヘイズは間一髪、側転で回避した。「イヤーッ!」ペスティレンスの長い腕がブラックヘイズの頭のすれすれ横を薙ぎ払った。アブナイ!『だが感染するまで生きていられるかも怪しいですねえ!』
再びブラックヘイズは走り出す。「アバー」「アバーッ」「アバーッ!」道を遮るようにニンジャゾンビの大群が現れる!「イヤーッ!」ブラックヘイズは回転ジャンプで彼らの頭上を飛び越え、壁を走ってやり過ごした。ヘイズ・ネットが上から投げかけられ、ニンジャゾンビ達は囚われもがく。
数秒後に追いついたペスティレンスは、ブラックヘイズを隔てるこれらニンジャゾンビと鉢合わせた。怪物は躊躇なく眷属を蹴散らし始めた。「イヤーッ!」「アバーッ!」「イヤーッ!」「アバーッ!」ナムアミダブツ! だが多少の時間稼ぎにはなる!
ブラックヘイズはニンジャゾンビが少ない道を選び、更に幾つかの十字路を経由した。この逃走で得られる猶予時間は僅かだ。『逃げ足には自信があるようだ! しかし所詮その区画の面積は限られています!』スピーカーの声の指摘は残念ながら真実である。彼は曲がり角に滑り込んだ。
ペスティレンスに追い立てられる彼は、区画をぐるりと周るように動いた結果、先程のシャッターの地点へ再び戻ってこようとしていた。出口なしのジゴク……! 今や緋色の霧が区画全体に立ち込め、足元には分厚いガスの層が生まれている。
『アハーアハー! 隠れていてもペスティレンスはすぐに見つけ出します! ブラックヘイズ=サン! ホラホラ……近づいて来ましたね!?』ゴウン……ゴウン……ゴウン……用途不明の計器類が鳴らす唸りに混じって、湿った足音と、人の声帯が発する奇怪な音が聴こえてくる。「キュロロロロロ……キュロロロロロ」
その足元に緋色のガスが漂い、既に殺めた白衣姿のヤクザ数名の死体を覆い隠す。ブラックヘイズはハンドヘルドUNIXを操作する。モニタ上で黄色く明滅する「許容値」のミンチョ漢字と横の数字は、彼が曝された毒素の総量の推定値を示している。数値は少しずつ、だが確実に上昇してゆく。
それまで通路の角で身を沈め、動かずにいたブラックヘイズは、観念するかのように立ち上がった。「タイガーの尾を踏む以外に無しか」
◆◆◆
フェイタルは闇の中で一人、じっとアグラ・メディテーション姿勢を取っていた。目を閉じた彼女は苛立たしげに眉間に皺寄せ、口をへの字に結んでいる。ピクピクと眉毛が動いた。彼女の背にはシャッターがあり、目の前には、ニンジャゾンビの死体が小山のように積み上げられていた。
その死体ひとつひとつが、ボロ布を巻いた頭を惨たらしく潰され、砕かれている。頭を失えば、もはやこの者たちは二度と動き出すことはない。ナムアミダブツ。他でもない、彼女がそれをやったのだ。
シャッターで締め出された彼女は当初、ブラックヘイズとペスティレンスの区画へ別ルートで侵入する手段を探したが、徒労に終わった。地上へ一足先に脱出する選択肢もあった。だが、それはミッションの放棄を意味する。彼女は怒りに任せてこの区画のニンジャゾンビを掃討した。
ピコココ……やがて、懐の携帯IRC端末が音を鳴らした。「やっとか。しょうのない奴」彼女は呟き、端末を取り出した。短いメッセージの送信者はブラックヘイズ。ペスティレンスに追われる中で慌ただしく送信したのだろう。彼女はアグラ・メディテーションを解き、立ち上がった。
装束のジッパーを引き下ろすと、豊満な乳房が顕になった。ゴウランガ。しかしその美しい裸体はほんの数秒。白い肌に縄状の血管組織が浮かび上がり、硬い樹皮のように身体を覆い始めた。「AAAARGH……」フェイタルは唸り声を上げる。その声が徐々にくぐもる。
まず眉毛の上に第三、第四の目が開いた。瞳が拡大し白目が失われた。美しい鼻は猪めいて醜く上へ反り返った。犬歯がサーベルタイガーめいて上下に伸び、プラチナブロンドは鬣と化して体毛に同化した。巨大化した耳はダラリと伸びて、ロップイヤーウサギめいて長く垂れ下がった。
全身が二倍にも膨れ上がり、豊満な乳房は無骨な胸板と化し、全身は白い毛皮で覆われた。ナムアミダブツ……ナムアミダブツ!「AAAAAAARGH!」変身を終えたフェイタルは身体をのけぞらせて咆哮した。そして、「ゴアアアアオオオン!」鋼鉄のシャッターを黒い爪で切り裂いた!
『え?』唖然としたような監視者の呻きを、スピーカーが拾った。フェイタルはシャッターの裂け目に手をかけた。厚い鋼の板を裂き拡げ、壊した先、まず彼女はペスティレンスの姿を見た。それから手前に立つブラックヘイズの背を見た。彼は微かに振り返り、頷いた。
「GRRRROOOWL!」フェイタルは両腕をひろげ、怒りに満ちた咆哮をあげた! そして一瞬の躊躇もなくペスティレンスに突進し、殴りつけた!
3
「アバーッ!」ペスティレンスが横殴りの爪を受け、壁に叩きつけられる。「ゴアアアアア!」フェイタルは蹴りを放った。「アバーッ!」腹部を壁に縫い付ける。「ゴアアアア!」「アバーッ!」横面を殴りつける。ナムサン! まさにそれは怒り狂った獅子の檻を解き放つが如し!
「ゴアアアアオオオン!」フェイタルは更なる爪攻撃! その腕をペスティレンスが止めた!「キュロロロロロロ……!」小刻みな痙攣とともに、掴んだフェイタルの手首を徐々に押し戻す。身体の孔から緋色の煙を噴射する。「ゴアアアアーッ!」「アバーッ!」フェイタルはペスティレンスに頭突きを見舞った。
「こいつ……やはり相当だ!」フェイタルが声を発した。「今の私でも長くは抑えられんぞ。とっとと、やれ!」ブラックヘイズは無言で頷き、走りだした。フェイタルが引き裂いたシャッターの外へ逃走? 否! ニンジャゾンビがいまだ徘徊する深部に向かってである!
「ゴアアーッ!」「イヤーッ!」ペスティレンスはフェイタルの拳を止めた。そして押し返した。「イヤーッ!」更にチョップで反撃する!「GRRRR!」フェイタルが殴り返す!「ゴアアアオオオン!」「キュロロロロロ……!」激しい白兵戦が始まった!
ブラックヘイズの背が闇に消える。彼がどんな打開策を閃いたか、フェイタルは知る由もない。しかし彼が勝算無しに動く男ではない事を彼女はよく知っていた。ゆえに今彼女が為すべき事は、ペスティレンスをこのまま釘付けにし、ブラックヘイズに狙いを果たさせる事だ。
ニンジャ自律神経が体内の毒を警告する。更にはニューロンの深層がざわめく。彼女の内なるニンジャソウルが本能的に恐れているのだ。眼前の敵ペスティレンス、ヤマイ・ニンジャを!
「ゴアアーッ!」「グワーッ!」だがフェイタルは畏怖を殺し、ペスティレンスを更に殴りつけた。そして虚空に叫んだ。「傭兵殿! 私は待つのが嫌いだ。甲斐性なしの誹りが嫌なら、せいぜい急げ!」
◆◆◆
「ハアーッ……ハアーッ……ハアーッ……!」UNIXモニタに顔を近づける彼の歯は、ガスマスクの中でガチガチと音を鳴らしていた。画面上では36分割された監視カメラ映像がせわしなく切り替わり、うろつくニンジャゾンビ達や、激しく格闘するペスティレンスと「白い怪物」の様子を伝えてくる。
「どこだ……どッ、どこだブラックヘイズ=サン! ふざけるなよ……」首から下げたINW職員カードを震える手で握りしめる。「女の正体……何だ? あんなニンジャを連れてくるなど……ひ、卑怯な」
「イヤーッ!」
KRAAASH! 頭のすぐ上で聴こえたカラテ・シャウトと破砕音に、男は身を固くした。「アイエッ……」
「イヤーッ!」KRAAASH! 天井部のパネルが強烈な蹴りで破壊され、男の足元に叩きつけられて跳ね返った。「アイエエエ!」四角く開いた天井から緋色の煙が流れ落ちてくる。やがて恐るべきニンジャが顔を出した。「……ドーモ。ブラックヘイズです」「アイエエエエエ!」
「イヤーッ!」ブラックヘイズは着地した。そしてタタミ数枚程度のごく狭い室内を見た。「これはこれは。なかなか快適そうじゃないか」「アイエエエエ!」ガスマスクの男はへたりこんで失禁し、にじり下がった。ブラックヘイズはUNIXを見た。「なるほど。ここでモニタリングを」「アイエエエエ!」
振り返り、冷蔵庫の扉を開ける。「ほう。ケモビールにスシ・パック、固形オキアミ栄養バーも完備されている。長期滞在のカウチ・ポテトといったところか」「アイエエエエ!」「名乗れ。INW職員=サン」ブラックヘイズが凄んだ。「ア、アイエエ……ゴナイダです。だが、だが何故この場所が」
ブラックヘイズは無言でハンドヘルドUNIXのモニタを見せる。オレンジから赤のグラデーションで明滅する「許容値」のミンチョ漢字。だが彼が示しているのはそこではない。扇型のワイヤフレーム上で、白い光が二つ、重なるように光っている。「俺と、お前だ。少し離れて、この光は同行者のフェイタル」
「あ!」ゴナイダは反射的に声をあげた。ナムサン! 生命反応のセンサー表示! ブラックヘイズが逃げながら常に参照していたのは、自身の汚染許容値もさることながら、この生命センサーであったのだ。
ペスティレンスもニンジャゾンビも、要は死体。生きた人間の反応をセンサーに返しはしない。加えて、ネットワークから隔絶されたこの地で遠隔UNIX操作が不可能であることは自明。ブラックヘイズは陰謀者が最深部のごく近くに潜んでいるであろうと確信して動いていた。「良く見えたぞゴナイダ=サン」
ブラックヘイズはゴナイダの首を掴み、容赦なく高く吊り上げた。「答えてもらおう。怨恨か? カネか? 背後に居るのは何処の誰だ」「アバッ……わ、私の単独の計画だ……」ゴナイダは弱々しく言った。ブラックヘイズは掴んだ指から伝わるゴナイダの脈拍を読み取り、嘘偽りの無い事を確認する。
「手間がかからず済んで何よりだ」「シブサマ・ケミカル社。覚えているか」「……」「あれは五年前。呪わしきヨロシサン製薬が傭兵部隊を我が社のプラントに送り込んだ。私はかつてあのプラントでシブサマX655を開発した主任研究員だ!」
シブサマX655! 闇に葬られた恐るべき非人道毒ガス兵器! シブサマ・ケミカル社はバイオプラントの大規模爆発事故を起こして倒産した化学メガコーポである!「シブサマX655は輝かしき殺戮天使。理想の虐殺兵器となった筈……それを貴様らが……真実にも価値にも知性にも蒙昧な愚か者どもは社の財産を蹂躙し、化学構造式を略奪し……施設は爆発……!」
ゴナイダの声は次第に非難の色彩を帯び、荒く、大きくなっていった。「私自身もあの爆発に巻き込まれて生死の淵を彷徨った。INW研究者として再起した私は、INWの契約エージェントである貴様の過去を調べあげ、まさにあの時の憎むべき敵であると知った! お前は許されない! お前は……クソーッ!」
「なるほど怨恨か。実に話が早い」ブラックヘイズは無感情に言った。ゴナイダは震えた。「呪われよ」「俺もお前も、日の当たらぬ場所で泥水を啜るドブネズミだ」ブラックヘイズは言った。「呪われているのさ。始めからな」ブラックヘイズはUNIXデッキにゴナイダの身体を叩きつけた。「グワーッ!」
そして、おお、ナムサン! ゴナイダのガスマスクを無慈悲に剥がし取ったのである! 中から現れたのは、爆発で損壊した皮膚をバイオ・サイバネティクスで継ぎ接ぎにした男の顔であった。「アバババーッ!?」天井の穴から流れ込む緋色の煙を生身で吸い込めば、非ニンジャのゴナイダはひとたまりもない!
ゴナイダの目が飛び出さんばかりに見開かれ、ジゴクめいた呪いを込めてブラックヘイズを睨んだ。「貴様……アバババーッ!」「イヤーッ!」ブラックヘイズはガスマスクを床に叩きつけ、踏みつけて破壊すると、天井の穴から上へ上がり、最後にこの哀れな男を一瞥した。
「善悪、正当、その手の問いに答えはない。確かなのは、要するに俺が勝ち、貴様が負けたという事だけだ。そして憎悪を向けられた相手は当然それなりの反応を返す。覚悟はしていたか?」「アババーッ!」「カラダニキヲツケテネ」ゴナイダの叫び声を背後に、ブラックヘイズは再び走りだした。
◆◆◆
「イヤーッ!」ペスティレンスの右チョップが命中!「イヤーッ!」左チョップが命中!「AAAARGH!」フェイタルが膝をつき、うなだれる。「キュロロロ!」ペスティレンスは天を仰いで吠え、両手を高く振り上げた。「……それはカイシャクの動作か?」フェイタルは顔を上げ、四つの目でペスティレンスを睨んだ。
「まさか勝ったつもりじゃないだろうなァ!」弾丸めいた加速! フェイタルはペスティレンスにタックルし、組み付いた!「ゴアアアアア!」両腕でペスティレンスの胴体を締め上げながら、持ち上げる!「ゴアアアアオオオン!」後ろへ倒れ込みながら、ペスティレンスの身体を床に叩きつけた! KRAASH! ナムアミダブツ! 伝説のカラテ技、バックドロップだ!
「キュロロローッ!」並みのニンジャであれば間違いなく爆発四散する衝撃ダメージを受けながら、ペスティレンスはなお動いた。床を跳ね、バック転を繰り出し、間合いを…「グワーッ!」その身体が宙に釘付けとなる! 邪悪ズンビーの身体を受け止めているのは、たった今、背後のブラックヘイズが展開したヘイズ・ネットだ!
「キュロロロロローッ!」「GRRRRR!」すかさずフェイタルが突進した。助走をつけて振りかぶった拳を……叩きつける!「アバーッ!」ペスティレンスの身体がミシミシと音を立て、ヘイズ・ネットが軋み……断裂した!「アバババーッ!」床に転がるペスティレンスの身体にネットが絡まる! 拘束!
「トドメヲサセーッ!」フェイタルが叫んだ。だがブラックヘイズは制止した。「無駄だ! 俺達の今の装備では奴を殺すことは出来ん」もがくペスティレンスの身体が蒸気を発する。ニンジャソウル由来の信じがたい高速自己修復プロセスだ!「殺す必要もない。一銭のカネにもならん」「できる! 今なら殺せる!」
「頭にバカげたボロ頭巾を巻くのはゴメンじゃなかったか」ブラックヘイズはハンドヘルドUNIXの表示を示した。赤点滅。「直ちに退避」のアラート。フェイタルは唸った。そして変身を解いた。一瞬にして、そこには美しいプラチナブロンドの美女の姿があった。
ブラックヘイズは彼女の肩を叩き、走りだした。フェイタルは舌打ちし、後について走りながら、思い出して装束のジッパーを上げる。後方では暴れるペスティレンスとネットの断裂音。回廊を突き進み、スロープを上がり、螺旋状の通路を越えた。大掛かりな四重の隔壁を手動で閉じ、再びロックした時には、アラート表示は「青・異常無し」に戻っていた。
シリンダー型エレベータで数十メートルの上昇を開始した時、ようやく彼らは緊張を解いた。「お前の用心に付き合ったばかりに、散々な目にあった」フェイタルはエレベータ内で座り込んだ。ブラックヘイズは懐からフロッピーディスクを振ってみせた。「……だが、カネにはなる」フェイタルは渋々頷いた。
かくして、恐るべきヤマイ・ニンジャの憑依者、ゾンビーニンジャ第九号たるペスティレンスは再び隔壁によって施設ごと封じられた。データ回収が行われた今、もはやこの施設を訪れる者はあるまい。
ネオサイタマ郊外某所の深い闇の中、それは死ぬ事も、生きて外へ逃れる事も無く、訪れられる事も、かえりみられる事もなく、ただそこに在り続けるだろう。傍らに新たに加わった眷属、哀れなシブサマ・ケミカル研究者のズンビーを従えて。
「地上階。お疲れ様ドスエ」マイコ音声が告げ、重々しいエレベータ・フスマが開いた。ボンボリライトの白い明かりと、地底に比べれば遥かに静謐なネオサイタマの空気が彼らを出迎えた。ブラックヘイズは葉巻を咥え、親指のライターで火をつけた。
「呆れた。煙を逃れて、早速また別の煙か。今度は別のアラートが出るぞ?」フェイタルが顔をしかめた。ブラックヘイズは紫煙を吐き出した。そして言った。「リスクなしでは生きられんのがフリーランスのサガ、人のサガ、といったところだな」やや得意げだった。フェイタルは顔を背け、肩をすくめた。
【スピン・ザ・ブラック・ヘイズ】完
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