【ネヴァーダイズ 3:ザ・ファイアスターター】
この小説はTwitter連載時のログをそのままアーカイブしたものであり、誤字脱字などの修正は基本的に行っていません。このエピソードの加筆修正版は上記の書籍に収録されています。現在第2部のコミカライズがチャンピオンRED誌上で行われています。
第3部最終章「ニンジャスレイヤー:ネヴァーダイズ」より
【3:ザ・ファイアスターター】
チリングブレードはぎこちない足取りで、カスミガセキ・ジグラットの深部をゆく。隔壁フスマを開けるごとに気温は10度ずつ低下する。現在地点の気温はマイナス110度。ニンジャ装束はパキパキと音を立てる。ニンジャであろうと、コリ・ニンジャ・クランの者でなくば長期間の滞在が困難な領域だ。
吐く息すらも凍りつく絶対凍土が、ネオサイタマの政治の中枢のなお内奥に隠されている。「嗚呼」重い足取りを進めながら、チリングブレードはかすかに震え、呻いた。それは寒さのためではない。ヤモト・コキとの戦闘は不本意な結果に終わり、彼の名そのものである氷のツルギは打ち砕かれた。
チリングブレードは歴戦のニンジャだ。イクサに次ぐイクサでカラテを磨き、研ぎ澄ませてきた。しかし、ヤモト・コキも同様であった。恐るべき死の戦士であった。……複合的な状況を鑑み、彼のケジメは免れた。だがそれはあくまでアルゴスの、アマクダリの判断である。コリ・ニンジャ・クランはどうか。
市民社会において単なるはみ出し者のクズに過ぎなかった彼は、あの日の凍てつく夢によって全てを変えた。剣を捧げるべき乙女を得、戦う意味を得た。ほかに価値あるものなど、何があろう?それゆえ彼は何より恐れる。乙女の寵愛を失い、顧みられることもなく、虚無に置き去りにされることを。
彼は「コ」「リ」「忍」と三文字ショドーされたノレンをくぐり、高速エレベータを下った。彼は己を抱きしめた。寒い。恐ろしい。「お許し下さい。ホワイトドラゴン=サン」彼は呟いた。バシュッ……。エレベータは底に到達し、白いダイヤモンドダストが流れこんだ。彼はチャンバーに足を踏み入れた。
「よくぞ戻った」怜悧な声がチャンバーに反響した。チリングブレードはその場で素早く跪き、アイサツした。「ドーモ。ブリザード=サン。チリングブレードです。ただいま帰還致しました」「ドーモ。チリングブレード=サン」アイサツを返したのは神秘的な氷装束を纏う長身の男だ。瞳なき目が白く光る。
「お許し下さい!」チリングブレードは素早くドゲザした。コリ・ニンジャ・クランの者でなくば、メンポをつけていようと額が氷に張り付き、顔面を不可逆損傷したであろう。「我がイクサ芳しくなく……」「許しを与えるのは女王だ」ブリザードは厳かに言った。「アタマを上げ、コリ・ケンを見せよ」
「ハーッ!」チリングブレードは半ばで砕けた自剣をうやうやしく掲げた。「わが力及ばず!そも、あの小娘のジツはそこらのエンハンスとはモノが違う、いわば卑劣な……」「黙れ、チリングブレード=サン。この地で俗情を吐露するべからず」「ハイ!ゴメンナサイ!」「目をあげよ」「ハイ!」
チリングブレードはコリ・チャンバーを見た。巨大な氷柱や逆さツララが並ぶ神聖地を。氷柱には呪力あるハイクが様々に刻まれ、金が流し込まれている。足元の氷の下には黄金のプレートが埋まっている。それは女王に仕える戦士の目録であり、チリングブレードの名も当然書かれている。誇りそのものだ。
チャンバーの氷壁の中には苦悶の表情で心停止したニンジャ達がもがきながら埋め込まれ、永遠に封じられている。現在のコリ・クランが神聖契約を結んだアマクダリ・セクトのシステムにたてつき、冷凍禁錮刑に処された堕落ニンジャ達。そして、より太古の。それらは平安時代のニンジャまで遡る。
そして……おお……チリングブレードは目を細め、恐れ多い女王を……見た。チャンバーの中央に、シメナワの巻かれた巨大な神聖氷塊がある。氷塊の中に、哀れな女の死体がある。憑依の瞬間に命が耐えられず死亡し、その強力無比なコリ・ジツの力で爆発四散を免れた、哀れなトゥララ・ニンジャ憑依者が。
そしてその神聖氷塊の手前、黄金の神輿に正座する、純白のツノカクシ姿の憑代のニンジャはゆっくりと刮目し、瞳の無い白い目で、チリングブレードを見た。コヨイ・シノノメの身体を通して、ホワイトドラゴンは語りかける。「貴方は我が剣。剣は鍛え直され、再び我のために戦う」
「そんな。では、ケジメもセプクも無しで!?」チリングブレードは声を上ずらせた。ホワイトドラゴンはかすかに笑った。「あああ」戦士は慟哭した。涙は溢れるそばからダイヤモンドダストと化して散る。「あああ。勿体なきお言葉。あああ」「目を伏せよ!」ブリザードが注意した。凝視が長く畏れ多い。
「ハハーッ!」チリングブレードは頭を下げ、より高くコリ・ケンを掲げた。ホワイトドラゴンは無造作に片手を差し上げた。ダイヤモンドダストが剣の周囲を舞い、宙に浮かべた。みるみるううちに失われた刃はツララが育つ如く復元し、完璧な……以前以上に長く鋭い剣が作り出された。ゴウランガ……。
「ゆけ!戦士よ!」ブリザードは命じた。「ハーッ!」チリングブレードはコリ・ケンを背負い、連続バック転で氷のチャンバーを退出した。ホワイトドラゴンは再び目を閉じ、静かに呼吸する。冷気はネオサイタマ全域を冷やし続ける。氷の中に閉じ込める……。
◆◆◆
アルゴスはネオサイタマ市街を睥睨する。LANネットワーク、無数の監視カメラ、アマクダリ・ニンジャのニューロン活動によってリアルタイムで構築され更新される膨大なデータの息遣いを。無数の目を動かし、ニチョームを見る。フィルギアらが対応ニンジャを出し抜き、かのアクセス不可の地へ戻った。
障壁は数分の間ひらかれていたが、やがて閉じられた。ペイガンが侵入を果たしたが、恐らく死んだだろう。反抗組織の動きを待つ。また、サヴァイヴァー・ドージョーのニンジャ達が飛び出していった事も確認している。意図はじきにわかろう。彼はヨロシサン製薬と通信し、サブジュゲイターを動かした。
幾つかの小競り合いと、ハイデッカーによる逮捕連行がレポートされている。通常の営みであるが、アルゴスのニューロンはデータ化できない、いわば、アトモスフィアを感じている。彼の無数の目は二地点に焦点をあわせる。ひとつはカスミガセキ・ジグラット。ひとつはネオサイタマを離れた成田宇宙港だ。
10月10日の連続暗殺事件はニンジャスレイヤーによる巨大な陽動作戦に過ぎなかったとアルゴスは結論づける。ネオサイタマ市街へアマクダリの力を集中させ、洋上のキョウリョク・カンケイをハッキングし、以て最重要機密にアクセスした。大いなる敗北だ。アルゴスは敗北から学んでいる。
ニンジャスレイヤーはどこに現れる?どこに潜む?ニチョーム。カスミガセキ。成田。勿論ニンジャスレイヤー唯一人の為に全アマクダリを傾ける愚行は冒せない。能力の高い「12人」が殺害されたことは痛手だ。アルゴスはその穴を監視機構とハイデッカーの強化によって補っている。支配を維持せよ。
最も高い可能性として想定しているのはカスミガセキ・ジグラットだ。既にアガメムノンは成田宇宙港入りを済ませ、オナタカミとフクトシン博士の技術の粋を集めたスペースシャトル「クロフネ」はスタンバイ状態に入っている。ジグラットを突かれればアマクダリのシステムは回復不能のダメージを負う。
KMCレディオによる非LAN通信扇動、ローニンの地下抵抗活動、ニチョーム潜伏者のイレギュラーな動き。「フジキド・ケンジ組織」の点と線。首謀者すなわちニンジャスレイヤーを排除すれば、反抗組織は瓦解し、均一化される。ニンジャスレイヤーは注意深く立ち回っているが、年貢の納め時は近い。
カスミガセキにはサーヴィターを始めとする精鋭ニンジャが配備され、ハーヴェスターが本営を作り、水も漏らさぬ防備を敷いた。そして成田宇宙港。ネオサイタマ支配の戦力を維持しながら、最大限割ける限りの戦力を成田にも配備した。
「発射10分前」アルゴスのニューロンがレポートを受け取る。システムはすべて緑。クロフネはアンタイ・ニンジャ装甲で覆われている。アーチニンジャ級ニンジャソウル憑依者のジツであっても破壊することは不可能だ。乗組員は全てニンジャであり、通常の人類が耐えられない発射スケジュールに耐える。
成田宇宙港。旧世紀の国際空港は再び旧世紀を開始する出発点として生まれ変わった。等間隔で配置された黒いトリイは四方八方へサーチライトを投げかけ、武装マグロツェッペリンとUAVが飛び、守護ニンジャとハイデッカーが定時巡回を続けている。
発射5分前。当然ながら、既に乗組員の搭乗は完了している。アガメムノン。そしてドラゴンベインとスワッシュバックラー。彼ら二人のハタモトは鷲の一族であるアガメムノンを地上において再び見出し、潰えかけた未来を繋いだ英雄であり、遺伝子レベルの忠誠を誓った戦士である。
クロノスはオナタカミの粋を集めたニンジャだ。モダンエイジとプロボットは宇宙作業の訓練を積んだニンジャ。不測の事態に備える。更に二名、ペケロッパ・カルトのシーカーとキルナイン。アルゴスを神として崇める彼らがアルゴスの月基地メインフレームのエンジニアとなる。この八名が乗組員である。
航空部隊が放射状に退避を開始した。発射1分前。ググン…グゴゴン…巨龍の唸り声じみた重低音が空気を震わせる。発射10秒前。カウントダウン開始。システムは全て緑。アルゴスはネオサイタマ市街を、ジグラットを、宇宙港を並列監視する。5秒前。「来なさい。アガメムノン=サン」アルゴスは呟く。
4秒前。クロフネが震動し、煌くパーティクルが立ち込める。宇宙港配備ニンジャのジャガンナートが交戦信号を伝えてきた。成る程、ニンジャスレイヤーは宇宙港を選んだか。UAVカメラが映像データを提供する。ずんぐりした宇宙服を着込んだニンジャが地上でジャガンナートにカラテを叩き込む瞬間を。
宇宙服は赤黒にペイントされ、頭部に「忍」「殺」とショドーされている。ニンジャスレイヤーだ。彼の出現経路のレポートがアルゴスに後追いで提供されてくる。出現自体は想定内。ゆえに遡って吟味する行為は無意味である。ジャガンナートは爆発四散し、彼の着込んだ重UNIX装甲が爆裂した。3秒前。
爆発衝撃で赤黒の宇宙服は垂直に空高く飛び上がった。2秒前。パトリアークが対空カラテミサイルで迎撃を試みる。ニンジャスレイヤーはスリケンを投げ返して相殺し、退避するマグロツェッペリンにフックロープを投擲する。1秒前。ニンジャスレイヤーはロープの巻上げ力を利用し振り子めいて運動する。
ゼロ。クロフネが垂直上昇を開始。クロフネはアンタイ・ニンジャ装甲でコーティングされており、外部からの攻撃による撃墜は不可能だ。アマクダリの黒い矢は鷲の一族の継承者を乗せ、天をめがける。ニンジャスレイヤーにもはや干渉の手段は無い。宇宙港の警備は極めて厳重であり、突破は遅きに失した。
遅きに。失した。振り子運動。ニンジャスレイヤーはツェッペリンに取り付き、旋回する。回転が速度を乗算する。「イイイイイ……イイイイイイイイヤアアーッ!」ニンジャスレイヤーはツェッペリンからロープを切り離し、飛んだ。ツェッペリンはパトリアークのカラテミサイルを受けて墜落してゆく。
アルゴスは垂直上昇するクロフネとニンジャスレイヤーの跳躍軌道を計算する。目的は撃墜ではないのだ。「イヤーッ!」ニンジャスレイヤーは飛行方向にフックロープを投擲し、アンタイ・ニンジャ装甲の継ぎ目に鉤爪を引っ掛け、巻上げ機構を働かせ……しがみついた。スペースシャトルのブースターに。
ブースター側面に張り付いたニンジャスレイヤーは、蜘蛛めいて横へ這って行く。目的は明白だ。大気圏突入後のブースター切り離しの巻き添えにならぬよう、シャトル本体へ移動しているのだろう。アルゴスは船体カメラを動かしてニンジャスレイヤーを追うが、どちらにせよ現時点での干渉は不可能……。
……「イヤーッ!」ポルダリングめいて、ニンジャスレイヤーは装甲の継ぎ目から継ぎ目へ指先をかけ、ニンジャ握力で己の身体を移動させていく。「イヤーッ!」少しずつ。少しずつ!(((でかしたぞフジキド!たかが打ち上げ花火、何ほどのものか!)))ナラクの声がニューロンに木霊した。
(((だがこの速度はちと骨だ。モタモタしておれば、オヌシは消し炭となろう)))(ならば黙っておれ、ナラク)ニンジャスレイヤーは集中力を高めた。一挙一投足の誤りが犬死にに直結する。大気圏突入が近い。「イヤーッ!」ニンジャスレイヤーはシャトル本体にしがみつき、身体を引き上げた。
第一宇宙速度!ゴウン……巨大なブースターが切り離され、洋上へ落下してゆく。ニンジャスレイヤーは己を凝視するカメラアイを掴み、引き剥がして棄てると、その継ぎ目に手を挿し込み、ゆっくりと力を込めた。「イイイヤアアーッ……!」微かな庇めいて歪んだ装甲の陰に、彼は潜り込むようにした。
全てのものが熱を帯びて赤く輝き始めた。ニンジャスレイヤーの目も燃えていた。決断的な憎悪と殺意にだ!庇めいて歪んだ装甲の陰で、彼は一心に耐えた……宇宙服の中の彼自身が宇宙速度を克服せねば、目的達成は無い!「ヌウウウウウーッ!」(((フジキド!)))ナラクの叫びがニューロンに響いた。
クロフネは大気圏を突破!本来はメインエンジンをここで切り離すが、極短時間で月へ到達するクロフネは通常のシャトルとシーケンスを異にする。安心はまだまだ先だ。チャドー。フーリンカザン。そしてチャドー。「スウーッ!ハアーッ!」ニンジャスレイヤーは呼吸を深める。宇宙をフーリンカザンせよ!
「スウーッ!ハアーッ!スウーッ!ハアーッ!」宇宙服が赤熱してゆく。アンタイ・ニンジャ装甲を庇としたが、まだ足りぬか?崩壊は間近なのか!だがその時、宇宙服の継ぎ目にマグマめいた赤黒の火が脈打ち、輝き始めた。(((フジキド!)))「ナラク!」おお……ゴウランガ……ゴウランガ!
重量バランスの崩れたシャトルを、墜落を免れるために小型のブースターの細かい駆動によって滞り無く制御するのは、他でもない、アルゴスである。アガメムノンを月へ運ぶために、ここはアルゴスが尽力せねばならないのだ。アルゴスが通常の感情と呼べるものを持たなかったのは幸いであった。
アマクダリのスペースシャトル「クロフネ」は地球の重力を突破した。ニンジャスレイヤーを乗せて。地上では、そのような事をつゆ知らぬオイラン・キャスターが、シャトル打ち上げ成功を伝える高揚的なニュース原稿を読み上げていた。
◆◆◆
ズンズン、チャカポコ、チャカポコ……ズンズン、チャカポコ、チャカポコ……
チャカポコ、チャカポコ……シノブは旧式ウォークマンでCDを聞きながら、帰路についていた。黒ずんだ対汚染ブーツの爪先を見ながら歩く。寒波でバイトは休業。来月の手取りが減る。何を切り詰めればいい。すれ違ったカチグミ・サラリマンの啜るオーガニックマッチャの香りが、彼女をいらつかせた。
大型街灯モニタには、シャトル発射成功を報ずるニュースが何度もループ。オナタカミ社の株価は上昇。違う世界の話。シノブは舌打ちし、ため息をついた。ロケットが飛んだから何だ。自分の生活には何も関係ない。他の街頭TVに目を転じると、パブリックエネミー達と賞金総額が順番に映し出されていた。
そこには一瞬、フジキド・ケンジの顔も映し出される。いっときだけネオサイタマを騒がせた指名手配犯。この男についても、シノブは一般人が調べられる限りのことを調べた。…つまりは、何も解らないということだ。真相など闇の中。今では、あの事件自体が、話題にすることを避けられているフシがある。
彼女とフジキド・ケンジとの間には、何の接点もない。むしろ、シノブのやり場の無い怒りの対象のひとつですらある。生活は八方塞がり。好転する兆しは皆無。ニュース番組は言っていることがコロコロと変わる。フジキド・ケンジはテロ組織の首謀者。墓碑銘を調べようにも、とうの昔に撤去されている。
「ハー、期待するだけさせといて、何もやってくれない……」シノブはぼそりと呟いた。テロ組織なら、このクソッタレな世界を、何もかもブッ壊してくれたらよかったのに。どうなろうと、今よりはマシな気がする。皆クソみたいな事で足を引っ張り合っている。昨日は頭を下げる角度が浅いと客に罵られた。
あの日。10月10日。何かが起こりかけた。何かが変わりかけた。だが結局は、何も変わらなかった。むしろあの日以降、自分たちの頭を押さえつける見えない力は強くなった。キョートとの戦争もそうだ。不謹慎ではあるが、どこかで大勢が死ねば、何かが劇的に変わるのではないかとシノブは思っていた。
結局、何も変わらなかった。ジリー・プアー。彼女にとっては全てがジリー・プアーのままだった。むしろ、遥かに悪かった。それが現実だった。バイト先のマネージャーにはいつも、現実を見ろと叱責される。見ている。これが現実だ。シノブは悪化の一途をたどる365日クソッタレの現実を見ているのだ。
シノブは危うく、このまま人の流れに乗り、地下鉄に向かいそうになった。まだ帰ってはいけない。彼女は振り向いた。いつもと違う道を歩く。それだけでも、このクソッタレな現実に少しだけ反抗している気がした。誰かが旗を掲げてくれれば。誰かが声を上げてくれれば。ついてゆくのに。そう考えながら。
だが過激組織にも宗教にも興味なし。シノブはデパート内を歩く。高級ブランド店の前。オイランドロイドを2体も侍らせたカネモチを見る。隣の喫茶店。高級コーヒーを飲むカチグミたちは、オナタカミの株価を見てユウジョウ。「簡単な仕事でした!」「分かりきってる勝利でした!」「相当儲けました!」
錚々たるカチグミ企業エンブレムをネクタイに輝かせて歩く、威丈高のサムライ企業戦士たち。顔を上げると、行き交うサラリマンたちは皆、最新型のサイバーサングラスをかけて無表情。素顔をさらしているのは自分だけ。シノブはまるで、丸裸で街を歩く石器時代の野蛮人めいた、みじめな不安感を覚えた。
カバンが重く感じる。中に入っているのは財布、カメラ、キュウリ、ライター、センコ、化粧品。それだけだ。中古の旧式カメラは、いつ壊れてもおかしくない。ファインダーを覗く事も少なくなった。三ヶ月前、黄金立方体が浮かぶ空が綺麗だと思い、レンズを向けた時は、周囲の市民に咎められ、消沈した。
「大丈夫、姉ちゃん様が来てやったぞ」シノブは胸の中で小さく独りごちた。自分自身を勇気付けるためにも。それは本来、当然の権利であり、誰にも咎められるはずがない。だがここ数ヶ月、人々の無言の眼差しが、監視が、あるいは自律兵器のカメラアイが、彼女を恐れさせ、何度もその行動を躊躇させた。
センコを捧げるべき物理ポイントは、この先の広場。分厚いガラスで覆われた企業ショウケース前。かつてそこには慰霊碑があった。それは2年ほど前に撤去されてビアガーデンに変わり、やがてショウケースに変わった。2ヶ月前から、ショウケース内にはオナタカミ社の自律多脚戦車が踏ん反り返っている。
シノブは数年前、テンプラ屋で働いていた弟を失った。頼りない奴だったが、自分より勉強はできた。そのくせ、好きなものは一緒で、いつもバカ話をしていた。センタ試験に失敗した自分と違い、弟は大学を出た。だが就職には失敗し、結局はテンプラ屋のバイトになった。お互いお前はバカだと笑い合った。
シノブは長いこと、弟と一緒に暮らしていた。将来の不安で眠れない夜は、深夜まで映画を見て、酒を飲んで、音楽を聴いて、バカ話をして、罵り合って、笑いあった。それももうできない。それがただ寂しい。あいつが生きていたら、このクソみたいな街の中で少しは、いや、どれだけ人生はマシだったろう。
(エー、この事故を永遠に忘れず、教訓に……)慰霊式典のお偉いさんの言葉が、虚しく脳裏に響く。誰も永遠など期待していなかった。だがいかなネオサイタマといえど、早すぎる。それ以外にも、街から様々な記念碑や慰霊碑やハカバが失われている。それが何を意味するのか、シノブには解るはずもない。
冷気が押しよせる。シノブは限界までジャケットのジッパーを上げる。その下には露店で衝動的に買ったアートTシャツ。何か解らないが、エネルギーを感じたからだ。アートで世界が少しはマシになるのではと馬鹿正直に信じていた頃もあった。だが世界は、そんな物をもう必要としていないのかもしれない。
近頃、このセンコ行為が煙たがられているのを、シノブは気づいていた。今はまだ、センコを捧げただけでどこかに連れて行かれるほど、この街は狂っていなかった。だがいずれは、センコを供えることすら犯罪行為とされかねない。そう遠くない未来に。クソッタレ。シノブは胸の奥でキツネサインを作った。
広場が近い。緊張感が高まる。弟を想う気持ちと、自分の中の意地が混ざり合う。改めて自分に言い聞かせる。バカな真似をしたらだめだ。ルール違反の線を踏み越える気はない。犯罪者になって牢屋に放り込まれるのはまっぴらゴメンだ。自分はそんなにバカじゃない。ヤバそうだったら何もせず通り過ぎる。
広場前に到達したシノブは、即座に異変を感じた。ネオサイタマを覆う寒波のただ中にあって、奇妙な熱を感じた。不穏な人だかり。そのなかで屹立する、黒の碑!あれは!
シノブは耳を塞いでいたイヤホンを引き抜き、コードを丸めて、ポケットに突っ込んだ。皺ひとつないスーツを着てサイバーサングラスをかけるカチグミサラリマンやグレーター・オーエルの間をかき分けて進んだ。そして仰ぎ見た!そこで、シノブの理性は飛んだ。迷いも、打算も、分別も、全て吹き飛んだ!
果たしてそれは、夢か幻か。二年近く前にこの広場から撤去されたはずの慰霊碑が、戻ってきていたのだ!「アイエエエエ!」シノブは震える手で、ほとんど無意識のうちに、バッグの中からキュウリを取り出した。それはキュウリを胴体に、ワリバシを脚に見立てたタリスマン、すなわち霊の乗る馬であった。
今夜は一年の最初の満月の夜、すなわちオールド・オーボンの夜であった。オヒガンと現世を繋ぐゲートが開き、祖先のスピリットが地上を歩み、生者と共に踊るとされる、廃れて久しい伝統的祭日である。アノヨから帰るやもしれぬ弟のために、シノブはキュウリの馬を家で作り、カバンに仕舞っていたのだ。
「アイエーエエエエエ!なんでハイデッカーはまだ来ないんですか!?」「こんな物がここにあっていいんですか!?ゴボーッ!」サラリマンたちが苦しんでいる。中には嘔吐、失禁している者すらいる。シノブは震える手でキュウリを握りながら、彼らを押し分け、吸い寄せられるように慰霊碑へと近づいた。
シノブは、あの憎たらしい多脚戦車の残骸に気づいた。ガレキの下に埋まった自律兵器の、拳型にへこんだ装甲板には、未だ発散しきれぬカラテ運動エネルギーが残り、鉄と硫黄の香りとともに、黒い碑の周囲に渦巻いていた。シノブはただそれを熱としてだけ感じ取り、踏みつけ、一段高いガレキ山を登った。
シノブは慰霊碑前にキュウリを設置し、ライターで素早くセンコ束に火をつけた。サイバーサングラスの視線が集まった。アルゴスもそれに気づいた。誰かがシノブの行為を咎め始めた。早くハイデッカーを呼べ。こんなことが許されるはずがない。シノブはそれら全ての言葉を無視し、弟のためにただ祈った。
「破壊行為があったんだぞ!現場を荒らすな!」「ハイデッカーが困るだろ!」「何て身勝手な女だ!」罵詈雑言が増す。あと少しで終わる。あと少しの我慢だ。一線を踏み越えるな。シノブは目を固く閉じ、弟にオーボンの祈りを捧げ、子供の頃のように言葉をかけた。(大丈夫、姉ちゃん様が守ってやるぞ)
シノブは必死に耐え、耐え、イヤホンを耳に詰め込もうと指を震わせた。その時。「そいつドゲザマートの店員だ!働いている所を見たぞ!」「迷惑行為!直ちにドゲザしろ!」顔の見えない誰かが言った。それがついに、重い緞帳めいて雑音を遮断し続けていたシノブの最後の自制心を、容赦なく切り裂いた!
「何でだよ」シノブは全身が空に釣り上げられるような恐怖と怒りと惨めさを同時に感じた。「何でだよ、ふざけるな!」奥ゆかしさをかなぐり捨て、両手で全方位に中指を立てた!怒り!激しい怒り!燃え上がるような怒り!「なんで!私が今!お前達なんかに!ドゲザしなきゃいけないんだよ!ふざけ…!」
彼女の叫びは、凄まじい怒号にかき消された。「「「ザッケンナコラー、市民!」」」群衆をかき分け、ハイデッカーが現れたのだ。シノブは今にも失禁しそうなほどの戦慄に襲われた。だが、耐えた。そして、いつの間にか、あっという間に、取り返しのつかない線を踏み越えてしまっていたのだと直感した。
シノブは彼女の声をかき消すほどの盛大な野次の中、必死に事情を陳述した。自分はセンコをあげに来ただけだ。なぜダメなのかと。だが、手遅れだ。騒乱罪である。「スッゾコラーッ、市民!」ハイデッカーは整然とガレキ山を登った。慰霊碑にしがみつき抵抗するシノブのカバンを掴み、引きずりおろした。
「インガオホー!」「奥ゆかしくしろ!」顔の無い声が浴びせられた。シノブはバランスを崩して転げ、財布も、カメラも、何もかも、荷物をぶちまけ、死に物狂いで抵抗した。泥雪に塗れ、立ち上がり、再び碑まで這い上ろうとした。騒ぎを聞きつけた群衆が増え、周囲をピットめいて囲まれ、逃げ道は無し。
ハイデッカーが粛々とした足取りで迫る。ガレキ山の裏手、シデムシ残骸の横を、シノブはブザマに這い登った。その時、アドレナリンの異常興奮をも超えて、彼女の腕に鋭い痛みが走った。何かが、ジャケットごとシノブの肌を切り裂いた。粒のような鮮血が飛んだ。何らかの刃物が、そこに埋まっていた。
武器だ。シノブはヤバレカバレでそれを掴み、引き抜き、構えた。握りしめた鋭利な刃物は、ただそれだけで、彼女の指と手のひらをも、深く切り裂いていた。それこそは、残骸シデムシのアイカメラに突き立てられたまま放置されていた、死神のスリケンであった。
「ハァーッ!ハァーッ!ハァーッ!」慰霊碑横へと逃れ、再び立ち上がったシノブは、震える手で、それを見た。掌の上に乗った鋼鉄の星は、恐ろしいほどに重かった。それはスリケン。ニンジャの武器。プラスチックの玩具や紛い物でもない。本物のスリケン。なぜ本物のスリケンが、こんな場所にあるのか。
頭がおかしくなってしまったのだろうか。そうかもしれぬ。何の前触れもなく慰霊碑が戻ってくるなど、そもそもがこの世の道理を超えているのだから。ならば、もはや後戻りはきかぬ。そもそも、失うものなどもう無かったのだ。いま、シノブの手にあるのは、この血染めのスリケン、ただ一枚だけであった。
センタ試験と同じ。やり直しは効かない。もう自分は死んだも同然。でも、あいつらみたいになるより、遥かに良かった。この際、ニンジャみたいにやってやるとシノブは思った。弟と一緒に、他愛もない旧世紀映画で見た、ニンジャのように。言葉も道理も通じない、いっそすがすがしい殺戮の戦士のように。
シノブはガレキの礎の上、弟の名前が刻まれた慰霊碑とともに並び立ち、フィクションの悪影響と思しき不恰好なカラテを構えた。左手はカタナめいてしなやかな曲線を描き、前方へと勇ましく突き出されていた。右手はスリケンを握り、耳の横へ。吹き抜ける風が、スリケンの刃に切り裂かれ、甲高く鳴った。
シノブは射抜くような怒りの視線で、敵どもを睨みつけた。ハイデッカーは数歩引き下がった。気圧されたのではない。アルゴスからの命令である。アルゴスは彼女の手に握られたスリケンを発見し、何らかの解析を行っていた。これもまた、フジキド・ケンジ・グループによる何らかの撹乱作戦であろうかと。
アルゴスの眼にされた市民たちの何人かが、シノブの出血に気づき、反射的に、サイバーサングラスを外した。雪の中に落ちた血の赤は、グラス越しよりもはるかに鮮烈であった。「ソマシャッテコラーッ……市民!」アルゴスから、新たな命令が下された。ハイデッカーの一人が、ショットガンを構えたのだ。
「お…おい君、早くドゲザしなさい!」「死ぬぞ!」群衆のアトモスフィアが変わり始めた。女一人にハイデッカー3人。それだけでも勝負は見えていた。フリークアウトした女は現実に打ちのめされ、泣き叫び、装甲車で連行されてゆくだろう。ここで起こるのはせいぜいその程度と、誰もがタカを括っていたのだ。
だがいまや、彼女は凶悪な刃物を構え、ハイデッカーは銃を構えている。事態はより悪い方向へ進んだ。ただの銃ではない。明らかに過剰火力と思われる、暴徒鎮圧ショットガンである。どれほど想像力に乏しい者でも、オーバーキル光景が即座に脳裏に思い浮かんだ。彼女は散弾を浴び、ネギトロめいて死ぬ。
彼女はガレキに横たわり、打ち上げられたマグロめいて口をパクパクと動かし、死ぬのだ。それはあまりに理不尽だ。あるいは自分の投げた言葉の責任に、ようやく恐ろしくなっただけの者もいよう。それでもここにいた多くの者が、今や、他ならぬ己の内から湧き出した良心から祈るように見守っていたのだ。
最後の警告が行われた。「スッゾコラー、市民!直ちに武器を捨てドゲザを…!」「イヤーッ!」だがもはや聞く耳など持たぬ!シノブは不恰好に、ただ力任せに、鋼鉄の星を投げ放った!どこから来たのかも解らぬこのスリケンよ、願わくは、このクソッタレの現実をズタズタに切り裂きたまえと祈りながら!
BLAMN!無慈悲なる銃声が鳴り響いた!ナムアミダブツ!シノブは撃たれ、その場で仰向けに倒れた!ハイデッカーの額めがけ、投げ放たれんとしていたスリケンは、見当違いの方向へと墜落した!
だが、シノブは生きていた。狙いは急所を大きく外れていた。「ウウーッ……」シノブは呻いた。右肩が、焦げるように熱い。しかし、まだ生きている。ゴウランガ!まだ生きている!それだけではない。碑の周囲を、凄まじい熱が、叫びが、掲げられた拳が、取り囲んでいる!だが……これは如何にして!?
無論、カラテである……!群衆の中から、銃声が鳴るよりも前、フライング気味に飛び出し、一線を踏み越えた5人の男たちがいたのだ。
彼らはニンジャではなかった。ヤクザでもマッポでもなく、何ら特別な者たちではなかった。サラリマン、サラリマン、エスイー、スモトリ崩れ、逞しいメキシコ人のビル清掃員。何のつながりも無いこの5人は衝動的に、ハイデッカーへとタックルを仕掛け、あるいは組み付き、叫び、殴り掛かっていたのだ!
堰を切ったように、大勢が続いた!彼らは逆にハイデッカーを囲み、棒で叩いた!反撃の銃声が鳴り、悲鳴が響いた!だがそれは、怒りの火に油を注ぐだけだった!津波は止まらなかった!人々はサイバーサングラスを放り捨て、慰霊碑前でモッシュめいて渦巻き、うねり、叫び、拳を振り上げた!ゴウランガ!
今なおシステムを信奉する者たちは、己の世界の足元にヒビが入ったのを直感し、逃げ去ってゆく。碑の横では、見ず知らずのサラリマンがシノブを助け起こした。「おい!彼女、肩を撃たれてる!誰か!手当てできる奴はいないか!?」彼は赤の他人のために、必死になって叫んでいた。「誰かいないか!?」
マルノウチ・スゴイタカイビル前広場は、モータルによる叛乱の着火点と化した。
【3:ザ・ファイアスターター】終わり
【4:ザ・コードブレイカー】へ続く
N-FILES
ホワイトドラゴンの冷気でネオサイタマが凍りつく中、宇宙服を着たニンジャスレイヤーは成田宇宙港にあらわれ、スペースシャトル「クロフネ」へと飛び乗った。同じ頃、市街ではハイデッカー体制への抵抗が開始され、叛乱の火の手が上がろうとしていた。このエピソードはシリーズ最終章のため、これまでの各部のシリーズ最終章と同様、フィリップ・N・モーゼズとブラッドレー・ボントが交互でシーンを担当するリレー執筆形式となっている。
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