【ジ・インターナショナル・ハンザイ・コンスピラシー】#1
◆◆◆
リロン・ケミカル社ヘッドオフィス、13階。通路は黒漆塗りで、等間隔に配置された鉢植えには蘭の花が植えられ、ゼンのアトモスフィアを生み出している。ゆるやかに湾曲した通路の形状すらも、そのゼンに寄与するべくデザインされたかのようだった。だが彼女は今、必死で全力疾走し、この空間のゼンを乱している。
「クソが……!」カチグミ・サラリマンらしからぬ罵り声とともに、彼女は後方を見る。連なる複数の足音。近づいてきている。前に向き直ると、再びのカーボン・フスマ・シャッターである。彼女は身を屈め、フスマの脇に設置された小さなパネルを覗き込んだ。
『権限を確認ドスエ』電子音声。網膜認証が通った。殺人的速度で開いたフスマの奥へ、彼女は躊躇なく入り込む。まだ安心するには早過ぎる。再びの疾走を開始。
既に「モノ」は得た。データは彼女の首で社員証と共に揺れている。後は生きて帰るだけ。いや、帰った後にはタフな交渉が待つわけだが……それは次に考える事だ。今はただ、生きて抜け出せ。
通路が膨らみ、フスマは前方と左。右手には社内ドリンク自販機だ。『おいしいかな? 疲れを吹き飛ばしませんか?』彼女の接近を感知し、自販機から唐突な無機質音声が発せられた。「イヤーッ!」KRASH! 瞬間的怒りに駆られ、彼女は自販機を殴り壊した。前方フスマの奥に気配を感じる。ならば進路は左のフスマだ。
再びの網膜認証。彼女は転がるようにオフィス・エリア「総務2課」へ入り込んだ。UNIXデッキが並び、一人作業していた残業サラリマンが彼女を見て仰天する。「アイエッ!? 誰……」「あ、お気になさらず」彼女は愛想笑いをした。だが残業サラリマンは恐怖に顔を歪めていた。彼女は訝しんだ。
「何か……」答えを待つまでもなかった。彼女は残業サラリマンの網膜に映る、鏡写しの自分自身の姿を見た。モザイクめいた映像の乱れがコンマ数秒。そこには女性社員ではなく、黒い長髪、無精髭、黒い眼帯の男の姿がある。「チッ」彼女、否……彼は、舌打ちした。ジツの力が時間限界を迎えたのだ。
「アイエエエエ!」残業サラリマンが悲鳴をあげる。悲鳴が止まった。彼は残業サラリマンの首を掴み、力を込める。「アバババッ……」泡を吹き悶絶する残業サラリマンの網膜越し、彼は自身のジツが再び実を結ぶ事を確かめる。彼の姿は再び歪み、今度はこの残業サラリマンと瓜二つになった。
ぐったりとなった哀れなサラリマンを床に捨てた1秒後、フスマが開き、銃を構えた武装社員が雪崩込んできた。「ムーブムーブムーブ!」「アイエエエ!」彼は残業サラリマンらしい恐怖の仕草で、悲鳴を上げてホールドアップした。「一体何なんですか! やめてください!」
「産業スパイが侵入したという報が」先頭の武装社員が銃を構えたまま言った。「IDを確認させてください。念の為、網膜認証……を……」武装社員は説明の途中で凍りついた。オフィス机の陰からはみ出す、倒れた社員の足が視界に入ったのだ。一瞬後、拳が武装社員の顔面を砕いていた。「アバーッ!」
「ついてねえにも程があるぜ……」吹き飛ぶ血液と歯を避けながら、残業サラリマン姿の彼は毒づいた。もうおわかりだろう。この逃走者は、ニンジャである。ニンジャは象徴的な名を持つ。彼の場合、その名はペイルシーガルだ。「敵だ……アバーッ!」二人目にチョップ突きを打ち込み、絶命させる。
「ムーブムーブ!」三人目、四人目! BLAMBLAMBLAM! 発砲! マズルフラッシュが閃くなか、ペイルシーガルは上に飛び、天井を蹴った。空中回し蹴りが三人目の首を刎ね飛ばし、身を捻った二段蹴りが四人目を襲う! だが四人目は、「イヤーッ!」蹴りを受けた! そのまま、掴んだ!「何ッ……」「イヤーッ!」
KRAAASH! ペイルシーガルはUNIXデスクに叩きつけられた。「グワーッ!」撒き散らされるオフィス用紙の吹雪のなか、ペイルシーガルは横に転がり、追撃の肘落としを回避した。そのままバック転を二度打ち、着地と同時にオジギした。「ドーモ。ペイルシーガルです」アイサツである。乱闘の最中に、何故?
なぜなら……「ドーモ。ペイルシーガル=サン」見よ。対手もアイサツに応え、オジギを返した。「ノンリニアです」彼らはアイサツをかわした。なぜなら、この武装社員もまた、ニンジャだからだ。となれば、イクサにおいてもアイサツは絶対の礼儀作法。古事記にも書かれている。
「その目」ペイルシーガルは唸るように指摘した。ノンリニアの双眸は不可思議な色彩を帯びて脈打っている。「何らかの見破りのジツというわけだな。先程、俺のジツが見咎められたのが解せなかったが、合点がいった。お前の力か。非ニンジャのクズに混じって警戒していたか」「然りだ。盗っ人めが」
「最悪の相性だな」ペイルシーガルは自嘲的に笑った。「思えば今日は朝からツイていなかった。TVをつければ最初に目にしたのはミチグラ・キトミの間抜け顔。デリバリーのスシにはワサビが忘れられていた」「それは不幸だったな」ノンリニアは応じた。「だが、ショーユ抜きよりはマシだろう」
「ワサビだのショーユだのはどうでもいい」ペイルシーガルは後ずさった。「ツイていないのはな、ノンリニア=サン。白状すると、俺はカラテがさほど得意ではない……」「その真偽を今から確かめてやる」ノンリニアはカラテを構え……一瞬後……ペイルシーガルの歪んだ笑みに、拳が叩き込まれた。
「イヤーッ!」「グワーッ!」カラテシャウトと悲鳴がオフィスに反響し、ペイルシーガルは背中から壁に叩きつけられた。神棚に飾られた「定時退社」のショドーが落下し、粉々に砕けた。ノンリニアが地を蹴る。「イヤーッ!」「イヤーッ!」突進しながらの蹴りを、ペイルシーガルは横に転がり躱す。
起き上がると、彼はもはや先程コピーしたばかりの残業サラリマンの外見を維持できておらず、眼帯姿の正体をあらわしていた。微妙な状況だ。これでフスマを網膜認証する事ができなくなった。いや、できたとて、敵対的なニンジャと争いながら、パネルに間抜けに顔を近づける暇などない……「何?」彼はノンリニアの横を見た。
「本当にカラテが足りんのだな」ノンリニアはペイルシーガルを凝視したまま呟く。「言うに事欠いて、くだらんブラフを」「……」ペイルシーガルは肩をすくめた。ただ笑う。「ツイてない」の極地だ。超常の死神まで現れるとは。ペイルシーガルの視線の先。予兆なく出現した黒くアブストラクトな影が、ノンリニアの頭を掴んだ。
「グワーッ!?」ゆっくりと、ノンリニアの身体が吊り上げられる。ペイルシーガルは、黒い影の背後のUNIXデッキが火花を放ち、モニタが明滅して正体不明の漢字を大写しにしているさまを目撃した。「汎罪」と。「ハンザイ」彼は呻いた。急速に実体化しながら影が告げる。「デス・ライユーの破滅を知れ」
「ア、ア」ノンリニアがビクビクと身体を震わせる。デス・ライユーは今や、確固たる身体を……フードつきニンジャ装束を、不気味に輝く瞳を、邪悪なメンポを得ていた。ノンリニアは抵抗しようとした。デス・ライユーは微かに目を細め、ノンリニアの肉体を、素手にて真っ二つに引き裂いた。
サツバツ!「サヨナラ!」無惨に破壊されたノンリニアの爆発四散の風をかきわけるように、デス・ライユーはペイルシーガルに近づいた。終わりだ。……だが、デス・ライユーは身を屈め、彼に手を差し伸べた。ペイルシーガルは躊躇した。武装社員の増援の接近音が聞こえる。ままよ。彼は手を取った。
たちまち、視界に01ノイズがたちこめ、増援武装社員の突入音は夢幻じみて遠のき、霞んだ。
こうしてペイルシーガルは招かれた。スカウトされたのだ。ハンザイシャとして。――「ハンザイ・コンスピラシー」なる謎の組織の存在を彼が知ったのは、数年前の、この瞬間であった。
【ジ・インターナショナル・ハンザイ・コンスピラシー】
ここから先は
この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?