S5第3話【ジ・インターナショナル・ハンザイ・コンスピラシー】
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リロン・ケミカル社ヘッドオフィス、13階。通路は黒漆塗りで、等間隔に配置された鉢植えには蘭の花が植えられ、ゼンのアトモスフィアを生み出している。ゆるやかに湾曲した通路の形状すらも、そのゼンに寄与するべくデザインされたかのようだった。だが彼女は今、必死で全力疾走し、この空間のゼンを乱している。
「クソが……!」カチグミ・サラリマンらしからぬ罵り声とともに、彼女は後方を見る。連なる複数の足音。近づいてきている。前に向き直ると、再びのカーボン・フスマ・シャッターである。彼女は身を屈め、フスマの脇に設置された小さなパネルを覗き込んだ。
『権限を確認ドスエ』電子音声。網膜認証が通った。殺人的速度で開いたフスマの奥へ、彼女は躊躇なく入り込む。まだ安心するには早過ぎる。再びの疾走を開始。
既に「モノ」は得た。データは彼女の首で社員証と共に揺れている。後は生きて帰るだけ。いや、帰った後にはタフな交渉が待つわけだが……それは次に考える事だ。今はただ、生きて抜け出せ。
通路が膨らみ、フスマは前方と左。右手には社内ドリンク自販機だ。『おいしいかな? 疲れを吹き飛ばしませんか?』彼女の接近を感知し、自販機から唐突な無機質音声が発せられた。「イヤーッ!」KRASH! 瞬間的怒りに駆られ、彼女は自販機を殴り壊した。前方フスマの奥に気配を感じる。ならば進路は左のフスマだ。
再びの網膜認証。彼女は転がるようにオフィス・エリア「総務2課」へ入り込んだ。UNIXデッキが並び、一人作業していた残業サラリマンが彼女を見て仰天する。「アイエッ!? 誰……」「あ、お気になさらず」彼女は愛想笑いをした。だが残業サラリマンは恐怖に顔を歪めていた。彼女は訝しんだ。
「何か……」答えを待つまでもなかった。彼女は残業サラリマンの網膜に映る、鏡写しの自分自身の姿を見た。モザイクめいた映像の乱れがコンマ数秒。そこには女性社員ではなく、黒い長髪、無精髭、黒い眼帯の男の姿がある。「チッ」彼女、否……彼は、舌打ちした。ジツの力が時間限界を迎えたのだ。
「アイエエエエ!」残業サラリマンが悲鳴をあげる。悲鳴が止まった。彼は残業サラリマンの首を掴み、力を込める。「アバババッ……」泡を吹き悶絶する残業サラリマンの網膜越し、彼は自身のジツが再び実を結ぶ事を確かめる。彼の姿は再び歪み、今度はこの残業サラリマンと瓜二つになった。
ぐったりとなった哀れなサラリマンを床に捨てた1秒後、フスマが開き、銃を構えた武装社員が雪崩込んできた。「ムーブムーブムーブ!」「アイエエエ!」彼は残業サラリマンらしい恐怖の仕草で、悲鳴を上げてホールドアップした。「一体何なんですか! やめてください!」
「産業スパイが侵入したという報が」先頭の武装社員が銃を構えたまま言った。「IDを確認させてください。念の為、網膜認証……を……」武装社員は説明の途中で凍りついた。オフィス机の陰からはみ出す、倒れた社員の足が視界に入ったのだ。一瞬後、拳が武装社員の顔面を砕いていた。「アバーッ!」
「ついてねえにも程があるぜ……」吹き飛ぶ血液と歯を避けながら、残業サラリマン姿の彼は毒づいた。もうおわかりだろう。この逃走者は、ニンジャである。ニンジャは象徴的な名を持つ。彼の場合、その名はペイルシーガルだ。「敵だ……アバーッ!」二人目にチョップ突きを打ち込み、絶命させる。
「ムーブムーブ!」三人目、四人目! BLAMBLAMBLAM! 発砲! マズルフラッシュが閃くなか、ペイルシーガルは上に飛び、天井を蹴った。空中回し蹴りが三人目の首を刎ね飛ばし、身を捻った二段蹴りが四人目を襲う! だが四人目は、「イヤーッ!」蹴りを受けた! そのまま、掴んだ!「何ッ……」「イヤーッ!」
KRAAASH! ペイルシーガルはUNIXデスクに叩きつけられた。「グワーッ!」撒き散らされるオフィス用紙の吹雪のなか、ペイルシーガルは横に転がり、追撃の肘落としを回避した。そのままバック転を二度打ち、着地と同時にオジギした。「ドーモ。ペイルシーガルです」アイサツである。乱闘の最中に、何故?
なぜなら……「ドーモ。ペイルシーガル=サン」見よ。対手もアイサツに応え、オジギを返した。「ノンリニアです」彼らはアイサツをかわした。なぜなら、この武装社員もまた、ニンジャだからだ。となれば、イクサにおいてもアイサツは絶対の礼儀作法。古事記にも書かれている。
「その目」ペイルシーガルは唸るように指摘した。ノンリニアの双眸は不可思議な色彩を帯びて脈打っている。「何らかの見破りのジツというわけだな。先程、俺のジツが見咎められたのが解せなかったが、合点がいった。お前の力か。非ニンジャのクズに混じって警戒していたか」「然りだ。盗っ人めが」
「最悪の相性だな」ペイルシーガルは自嘲的に笑った。「思えば今日は朝からツイていなかった。TVをつければ最初に目にしたのはミチグラ・キトミの間抜け顔。デリバリーのスシにはワサビが忘れられていた」「それは不幸だったな」ノンリニアは応じた。「だが、ショーユ抜きよりはマシだろう」
「ワサビだのショーユだのはどうでもいい」ペイルシーガルは後ずさった。「ツイていないのはな、ノンリニア=サン。白状すると、俺はカラテがさほど得意ではない……」「その真偽を今から確かめてやる」ノンリニアはカラテを構え……一瞬後……ペイルシーガルの歪んだ笑みに、拳が叩き込まれた。
「イヤーッ!」「グワーッ!」カラテシャウトと悲鳴がオフィスに反響し、ペイルシーガルは背中から壁に叩きつけられた。神棚に飾られた「定時退社」のショドーが落下し、粉々に砕けた。ノンリニアが地を蹴る。「イヤーッ!」「イヤーッ!」突進しながらの蹴りを、ペイルシーガルは横に転がり躱す。
起き上がると、彼はもはや先程コピーしたばかりの残業サラリマンの外見を維持できておらず、眼帯姿の正体をあらわしていた。微妙な状況だ。これでフスマを網膜認証する事ができなくなった。いや、できたとて、敵対的なニンジャと争いながら、パネルに間抜けに顔を近づける暇などない……「何?」彼はノンリニアの横を見た。
「本当にカラテが足りんのだな」ノンリニアはペイルシーガルを凝視したまま呟く。「言うに事欠いて、くだらんブラフを」「……」ペイルシーガルは肩をすくめた。ただ笑う。「ツイてない」の極地だ。超常の死神まで現れるとは。ペイルシーガルの視線の先。予兆なく出現した黒くアブストラクトな影が、ノンリニアの頭を掴んだ。
「グワーッ!?」ゆっくりと、ノンリニアの身体が吊り上げられる。ペイルシーガルは、黒い影の背後のUNIXデッキが火花を放ち、モニタが明滅して正体不明の漢字を大写しにしているさまを目撃した。「汎罪」と。「ハンザイ」彼は呻いた。急速に実体化しながら影が告げる。「デス・ライユーの破滅を知れ」
「ア、ア」ノンリニアがビクビクと身体を震わせる。デス・ライユーは今や、確固たる身体を……フードつきニンジャ装束を、不気味に輝く瞳を、邪悪なメンポ面頬を得ていた。ノンリニアは抵抗しようとした。デス・ライユーは微かに目を細め、ノンリニアの肉体を、素手にて真っ二つに引き裂いた。
サツバツ!「サヨナラ!」無惨に破壊されたノンリニアの爆発四散の風をかきわけるように、デス・ライユーはペイルシーガルに近づいた。終わりだ。……だが、デス・ライユーは身を屈め、彼に手を差し伸べた。ペイルシーガルは躊躇した。武装社員の増援の接近音が聞こえる。ままよ。彼は手を取った。
たちまち、視界に01ノイズがたちこめ、増援武装社員の突入音は夢幻じみて遠のき、霞んだ。
こうしてペイルシーガルは招かれた。スカウトされたのだ。ハンザイシャとして。――「ハンザイ・コンスピラシー」なる謎の組織の存在を彼が知ったのは、数年前の、この瞬間であった。
【ジ・インターナショナル・ハンザイ・コンスピラシー】
1
足下、水平線、頭上。ありえぬ重なり方をした階段が連なる光景が、浮遊する床とカンファレンス・テーブルを取り囲んでいる。ペンローズの階段じみた非現実的光景だ。実際ここは現実の物理世界ではない。地球上あるいは軌道上の何処か、秘された「VPN」の地平に作られた特殊な電子コトダマ空間だ。
逆さ、あるいは斜めの階段をゆっくりと踏み進め、カンファレンス・テーブルに近づきながら、ペイルシーガルはあらためて「彼ら」を、「この地」を、「ハンザイ・コンスピラシー」を知るきっかけとなった、かつての自身のやらかしを、思い起こしていた。それはまるで100年も昔の出来事だ。
階段を歩き、カンファレンス座標へ接近すると、暗号化された幹部たちの会話が明瞭となる。『電子阿片取引セクションの収支報告……』『オムロ・レターパック詐欺の収益は第2クォーターと比較し220%……』『闇オイラン・セクションより報告。収集したセンシティブ情報に関して、確認事項が……』
カンファレンス上空には発光するミンチョ文字のホログラム。およそ100の名前が連なる。名前の横には、その序列の根拠を示す数値がある。数値は「犯罪指数」だ。今まさに行われている月例世界犯罪会議の成果報告により、指数はアップ・ダウンする。トップランカーはパリ支部に所属する「ロキ」。
当然その犯罪ランキングにはペイルシーガルの名もあった。彼の位置は現在、61位。上空の文字列にはグリッチノイズが走り、時折、「犯罪こそが人を人たらしめる」「犯罪とは最先端のアート」「変化あれ。それが犯罪である」「無能者と裏切者に死を」といった呪術的文言がサブリミナル表示される。
ペイルシーガルの指には「指輪」が装着されている。これは物理世界においてUNIXをこのVPNコトダマ空間に接続するためのドングル・キーの役割を果たすと共に、この電子コトダマ空間においては認証バッジの意味を持つ。彼の接近に伴い、カンファレンスの場に沈黙のさざなみが打った。当然の如き警戒だ。
「……諸君」沈黙を破ったのは、桟敷席めいて、1レベル上位の高度に位置する地点に座る存在が発した言葉だった。紫のスーツに身を固め、紫のニンジャ頭巾を被っている。右目だけに開けられた覗き穴に、見せつけるように片眼鏡をつけている。プロフェッサー・オブ・ハンザイ。謎めいたハンザイ・コンスピラシーの首領その人であった。
「彼を歓迎したまえ。充分な犯罪野心の持ち主だ」プロフェッサーがあらためてペイルシーガルを示すと、まばらな拍手が起こった。「ほう」「あれは確か……」「知らんな」「なるほど、プロフェッサーが招いたならば……」「如何ほどのものか」テーブルを囲む20人ほどの者達の囁きを前に、ペイルシーガルは動じる事もなく待機。逆に値踏みするように各アカウントにpingを送る。
彼らは世界中のハンザイ・コンスピラシー支部の代表者である。正体のわかる者もいれば、ほぼ完全な匿名存在もいる。たとえばローマ支部の代表者であるクリミナトゥスは、「デウス・エクス・クリミナ」の首領として知られる恐るべき犯罪者だ。だが結局のところ、大半は卑怯者や下衆の集まりだ。かつてのペイルシーガルがそうだったように。
暗黒メガコーポや論理聖教会に駆逐され、遅かれ早かれ自滅する、程度の低い存在。犯罪に手を出す者は所詮、追い詰められた愚か者だ。割の合わぬ賭けをビジネスと勘違いするような連中だ。……その筈だった。「プロフェッサー」がデス・ライユーを遣わし、救済し、意味を与えるまでは。
桟敷席のプロフェッサーは長い脚を組み替える。報告が再開される。「ゼン・ミライ社CEOの誘拐計画は順調です。次回会議においては華々しくその結果をお伝えできるはずです」LA支部代表があけすけに計画の一端を明かす。驚くべき犯罪だ。だが全会一致の計画ゆえに、明かすに何の問題もなし。
「ウチはなァ……カニですわ、カニ。カニカニ」アタラシ・サイベリア支部代表がジェスチャーする。「ヒヒ……違法カニキャッチ漁船団をガッチリと組織してやりましたわ。企業連中はワシらの暗躍を知らんまま、ルーチーンめいて捕物気分……文字通り、血の海となりましたわ」
凄惨な映像。完全武装の複合企業船団が、溺死したマグロめいて暗い海に沈んでゆく。アリめいて、バラバラと零れ落ちる洋上武装サラリマン。嘲笑いながら大量虐殺を見届けるのは「蟹大漁」の旗を掲げる小型高速船の群れと、甲板に一人ずつ立つニンジャだった。そのさまは悪夢じみていた。
「実際、蟹は赤いダイヤですからな」リオ支部代表が髭を紳士的にしごいた。「私のもとにも是非、お裾分け頂きたい。……ンン……我々は、まあ、つまらないものですが」凄惨な映像。地平線まで連なる、正座した首無し死体の列。「ご覧の通り、反抗的ギャング組織の粛清は完了しました。これによって電子阿片の安定供給が可能となります」
「アー……私の番ですか」NY支部代表者が、ずれた眼鏡を指先で整える。ワイヤフレーム三面図が上空に投射される。参加者がざわめいた。「然り」NY支部代表者は認めた。「ヌーテック社の核弾頭を盗み出す事に成功しました。保管場所に関しては、ま、現在検討中という状態ですな」
「ははは!」桟敷席でプロフェッサーが手を叩き、苦笑した。「検討中とは何とも困った話だ。そして、次は……」冷たい目が南極支部代表を見やった。厚手のボア・ジャケットを着込んだ男がビクリとして立ち上がった。「ス……スイヤセン! 寒さのせいで、今期はその、上手くいっておりやせんで」
「寒さ。成る程」プロフェッサーは少し考えたようだった。そして指を鳴らした。「アイエッ」南極支部代表の足元に四角い電子穴が空き、彼は一瞬にして吸い込まれた。反応消失。一瞬の沈黙の後、参加者一同は失笑した。彼は粛清されたのだ。「……さて。こんなところか」プロフェッサーが確認した。
「いよいよ今回の主要議題に入るわけだが……ンンッ」プロフェッサーは咳払いし、ペイルシーガルを見た。彼の全ニューロンが、搾り上げられるような感覚を訴えた。直視されれば、異常なまでの知性の輝きが、嫌でもわかった。推定知能指数4000超の瞳だ。
「残念な知らせと、有意義な知らせがある」
プロフェッサー・オブ・ハンザイの言葉は、時としてその平易な言葉が謎掛けである。代表者達の間に緊張が漂う中、彼は続けた。「残念とは即ち、我が組織にこの後、さらに一名の欠員が発生する事だ。有意義とは即ち、それにより組織がより柔軟かつ強固に鍛え直されるという事だ。喜ばしい……!」
「誤解だ!」会議参加者の一人が狼狽しながらシャウトし、立ち上がった。ネオサイタマ第一支部長、匿名アカウントである。「他の誰かが脚を引っ張った! 私は無実だ! ハメられたのだ!」「フ……」ペイルシーガルは冷たく笑い、ぶしつけに言葉を挟んだ。「まだ誰もあんたを訴えちゃいなかったぜ」
第一支部長は鼻白んで凍りついた。プロフェッサーが会議参加者に呼びかけた。「こちらのNo.61ペイルシーガル=サンが見事な理知を働かせ、ネオサイタマ第一支部長の残念な裏切り行為を未然に阻止してくれた。それゆえ彼はここに招かれている」「欠員補充を狙うにしても、南極の椅子には座りたくないんでね」
「な、なにをバカな……私は潔白……!」「私のジャッジが間違っていると?」プロフェッサーは片眼鏡に指を添わせた。「証拠は全て精査した。君は私よりも高い知能を有しているという主張をするのかね? 君の命ひとつを以てテウチとしよう」「ア……ア!?」第一支部長の匿名ヴェールが崩れる!
あらわになったのは「ヤジマ・シュナイダー」の名とIP。ペイルシーガルは眉根を寄せる。ネオサイタマに駐在するオムラ高官の名ではないか。自分が追い詰めた相手は、思いがけぬ名士であった事だ。そのような社会的地位の持ち主すらも、蜘蛛の指輪をつけるか。「嘘だ! し、知った事か! 私はシツレイする!」ヤジマは踵を返し、走り去ってログオフした。逃走だ。
プロフェッサーの肩が微かに揺れた。笑ったようだった。その瞬間、ペイルシーガルは、桟敷席の彼の背後に控えていた存在に気づく。力溢れる影が身じろぎし、消えた。……数秒後。新たなモニタ窓が中空に生じた。ナムアミダブツ。中継映像が示すのはネオサイタマ某所。たったいま首を引き抜かれて地に伏した、ヤジマの死体だった。
生首を無雑作に掴んだまま、処刑人が監視カメラ中継の画角から歩き去った。ペイルシーガルは呻いた。処刑人デス・ライユーの恐ろしさは、数年前、初めて目にしたあの日から、決して色褪せる事がない。プロフェッサーが指を鳴らすと、ペイルシーガルは第一支部長の椅子に座る己を見出した。
たちまち、参加者全ての視線が、再びペイルシーガルのもとに集まった。心地良い体験ではあり得なかった。だが、ここが真の出発点だ。ハンザイを知り、蜘蛛の指輪を得たあの時から、己の目指す高みは既に決まっているのだから。
「歓迎しよう、ペイルシーガル=サン。仮の立場を真のものとする為に、クエストを与える」プロフェッサーが指さした。
ペイルシーガルは己の指輪を一瞥した。蜘蛛の意匠の指輪は真紅に色を変じている。だが、その上に「仮」の漢字が被さっている。彼は口の端を歪めて笑った。「で、クエストってのは?」「盗みだ」プロフェッサーは即答した。
「標的は、月の石……ブギーマンの月の石だよ。ペイルシーガル=サン」
2
ネオサイタマに来て日の浅い者は、すぐにわかる。用心深さの欠如。あるいは、ぎこちないまでの用心深さ。どちらにせよ、この街のプロトコルに馴染まぬ身のこなしだ。
この夜、オカモチ・ストリートの屋台街、ネオンライトの色彩を映す霧雨の中、粗末な屋台に座ったダークスーツ姿の男女も、そうしたものだった。男は肩までの長さの髪を真ん中で分け、顎髭を生やし、サイバーサングラス。女は金髪で、冷たく青い目の持ち主だった。男の名はビル。女はザルニーツァ。
屋台のノレンには「会員制な」と書かれている。会員制であった。迂闊な市民が近づき、店主のひと睨みに怯んで去っていった。ビル・モーヤマは一瞥すらせず、ドンブリのソバをぎこちなく箸で手繰っている。仕立ての良いダークスーツとダイヤモンドのタイピンが、いかにもこの場にそぐわない。
ヒートリ・コマキータネー。奇妙な歌唱を投げかけるのは、上空をゆっくりと横切るマグロツェッペリンの巨影だ。高層建築のホロ・モニタは粗い解像度の見返り美人をリピートしている。路上の誰かが咳き込み、倒れて動かなくなった。店主の凝視。ザルニーツァはソバを少し口につけた。
異国の匂いに、来し方行く末を思う。ここまでの彼女の歩みは、激動と言ってよかった。遠くアラスカはシトカの街で、恐るべきヤクザの王の娘として、幾多の敵を手にかけてきた。だが王は滅び、鎖は断たれ、彼女の眼の前に、思いがけず、世界がひらけた。
今の彼女には「ダイヤモンドのタイピン」がある。アルカナム社のエージェントの証だ。隣にいるビル・モーヤマは直属の上司であり、ハイエージェント。彼女の戦闘能力を高く評価し、組織に招き入れた。今の彼女が自由なのか。それはわからぬ。だが、前には進んだ。
「ウキハシ酔いは残っているかね」ビルは尋ねた。「いえ」「なによりだ。時差にやられる者もいる」使用者を一瞬にして遠く離れた場所へ転移せしめる「ウキハシ・ポータル」は最先端のテックであり、自由に利用できる立場の者は、いまだ極めて少ない。それこそ、彼らの如く、暗黒メガコーポの上級職にでも居なければ。「私はニンジャとしての訓練を積んでいます。十二分に」「成る程」
ザルニーツァは箸を置いた。そして呟く。「オペレイション・ムーンチャイルド」……店主は背中を向け、テンプラを揚げている。ビルはソバを啜り、言った。「盗み出された月の石の奪還。そして盗人たるブギーマンの捕獲。その為の諸作戦だ。君にはまだ、微に入り細を穿ったレクチャーを行えていないが」
「諸作戦……ですか」ザルニーツァは確かめるように繰り返した。ビルは短く頷く。「泥縄式に順応してもらう。残された時間は少ない。足踏みしていれば、想定されざる外患の呼び水となるだろう」「例の蜘蛛の指輪の組織のような?」「……然りだ」ビルは頷いた。「……ハンザイ・コンスピラシー……」
先日、ビルとザルニーツァは「オペレイション・ムーンチャイルド」に関するシャナイ機密を盗み出そうとしていた邪悪なニンジャの陰謀を未然に防いだ。しかし下手人たるそのニンジャ、パイドパイパーを尋問する事は出来なかった。一足早く、「ニンジャスレイヤー」の手で爆発四散させられたからだ。
現場に残された蜘蛛の指輪を解析し、辿り着いた組織、それがハンザイ・コンスピラシーだ。「ハンザイ・コンスピラシーには依然、謎が多い。国際的な犯罪組織であり、頂点に立つ存在はプロフェッサーと呼ばれる正体不明の存在。情報は入念に断片化されている。無軌道な犯罪者のネットワークらしきものだ」
「所詮は犯罪者、という考えもあるのでは?」「私の勘はそうは告げていない」ビルは言った。「彼らは明確な目的意識のもとで、オペレイション・ムーンチャイルドへの探りを入れている。そのアルゴリズムは奇妙だ。アンバランスなのだ。侮るわけにはいかない」
「ブギーマンとハンザイ・コンスピラシーが相互に関与している可能性は?」「それも懸念の一つだ」ビルは思いを巡らせる。「ブギーマンは単なる超自然現象ではない。あれ自体が意志を、目的意識を有する。ゆえに、あらゆる可能性を排除できない」「だからこそ、今夜」ノレンを越えて、女が座った。
「今夜、キメる必要がある」女はザルニーツァよりも体格が優れ、ブロンドの色はややくすんで、仕草は荒々しい。「ドーモ。メルセデスです」音を立てて、彼女は屋台カウンターに瓶詰めの脳みそを置いた。シリンダーに満たされた液体に脳髄が浮いている。脳が青く光った。『初めまして。ジョンです』
ザルニーツァの瞼がぴくりと動いた。さほど心を動かさない。メルセデスはその反応を愉しんだようだった。「君がザルニーツァ=サンだな。よろしく」「ドーモ。ザルニーツァです」握手をかわす。メルセデスのネクタイにもダイヤモンドのタイピンがある。アルカナム・エージェントだ。
『どうか驚かないでください。驚いたでしょう? 驚きますよね。でも、ご安心を』ジョンが口を挟み、液体を青く明滅させた。脳髄から伸びるLANケーブルが、まるでクラゲの触手めいている。『僕は入社三年目で、初のネオサイタマ出張です。刺激を受ける街ですね。僕のこれは、ちょっとした事故でね』
メルセデスに口を挟ませず、ジョンはスピーカーからエコー音声を響かせる。『脳だけになりましたが、僕はニンジャです。むしろ肉体から自由になる良い機会が得られました。ウチにはライトニング=センパイという偉大な先人もおられますしね。実際、僕の感知能力は、こうなる以前の10倍以上に高まりました』
「脳。注文は」ソバ店主が睨んだ。『あ、トロ成分カートリッジあります?』「よく喋る脳だ、貴様の後輩は。メルセデス=サン」更に一人がノレンをかきわけメルセデスの隣に座った。長身、黒人のアルカナム・エージェント。頭髪を刈り込み、埋め込み式グラスとメンポを装着している。「ドーモ。ハートブレイクです」
エージェント同士のアイサツを、ビル・モーヤマは奥ゆかしく見守っていた。メルセデスは腕時計型マイクロUNIXを操作し、情報共有を行った。「ジョン君の無駄口で時間が無駄になったが、ともかくこれで面子が揃ったということ。既にブギーマンの潜伏エリアは絞られています。共有座標の確認を」
ビルが目配せした。ザルニーツァもマイクロUNIXを確認する。「ダイフク・ビルディング」のカタカナが明滅し、座標数値が表示された。目を上げると、屋台店主も腕を上げ、手首のマイクロUNIXを確認していた。ハートブレイクが眉根を寄せ、咳払いして促すと、店主はニヤリと笑った。「オニズカだ」
オニズカは身を屈め、シャツの上に着ていたカッポ・ウェアを脱いで、しまってあったジャケットを羽織った。ネクタイにはやはりダイヤモンドのタイピンがついている。「お前は馴染みすぎだ」ハートブレイクが指摘した。オニズカはふてぶてしく笑う。「それが任務ッてものだろうよ?」
彼らはビルとザルニーツァよりも早い時点でネオサイタマに入り、今回のオペレイション・ムーンチャイルドに関する事前調査を行っていたエージェント達だ。『賑やかなものですねえ! これ程までに我が社のニンジャが一同に介するなど、セレモニーの時でもなければありえない!』ジョンが感動した。
ビルの厳しい目には、何の明るい見通しも油断の色もなかった。然り。ブギーマンとは、暗黒メガコーポのアルカナムをして、これ程のニンジャの頭数を揃え、コトにあたらねばならぬ程の相手なのだ。ペンタゴンに投獄された実験対象でありながら容易く脱出し、月の石を始めとする最大機密を盗み出した存在。
オニズカは寸胴鍋の蓋を開き、中から銃火器の数々を取り出して、カウンターの上にガチャガチャと並べた。ビルはすぐにその一つ、エメツ刻印入りのハンドガンを取り、バランスを確認する。アルカナム・エージェントはスリケンではなく銃を用いる。「気張れよ新人」オニズカがザルニーツァを見た。
「このブロックの治安担当メガコーポは? 実効支配している企業についても……」メルセデスが確認した。「KATANAだ」ビル・モーヤマの厳しい横顔が腕部マイクロUNIXの光を受ける。「作戦行動にあたり、KOL社との黙認契約を確保した。行動開始を通告し、そののち30分だ。時間を合わせろ」
タント・ダガー。クイックブレード。ハンドガン。サブマシンガン。リボルバー。ショットガン。グレネードランチャー。さらには……ブギーマン拘束具。アルカナムのエージェント達は無数の武器を装備し、「会員制な」のノレンを跳ね上げ、ネオサイタマの濡れたコンクリートを、大股で歩き出した。
彼らの背後、屋台街にそぐわぬエリアル・ビークルのモーター音と風が夜を切り裂いた。降下したエリアル・ビークルは「会員制な」の機動屋台をクレーンで吊り上げ、そのまま上昇してゆく。投げかけるサーチライトが、任務に臨むエージェント達の輪郭を逆光で照らし出した。
◆◆◆
屋台ユニットを吊ったエリアル・ビークルがしめやかにネオサイタマのスモッグの夜空を上昇し、マルノウチ・スゴイタカイビルの影の上を横切り、砕けた月がものいわぬ夜。オカモチ・ストリートから1区画離れた地点、密集多層住宅地の只中に、「ダイフク・ビルディング」は変わらず存在し続けている。
ダイフク・ビルディングは、ビクトリア調時代へのノスタルジーと明治エラへの執着を渾然一体とした、築100年超、レンガ造り6階建ての建造物だ。ただそれだけで、破壊と再生の過剰な新陳代謝を繰り返すネオサイタマにおいて異質である。建物に面する街路もその歴史に頭を垂れて神秘的な霧をはらむ。
ヴィンテージ物件として名高いダイフク・ビルディングの現在の所有者は、ケンセツ・ミキマという老人であるとされる。日本政府崩壊ののち、資産価値の高いこの物件を複数の暗黒メガコーポが手ぐすね引いて求めるも、ジアゲ関係者のむごたらしい不審死が相次ぎ、やがてタブーめいた場所に変わった。
「ヒッ、ヒヒ、十人十色、十人十色……」背中を丸めた浮浪者が路地のガス灯の下でゴミを漁っていた。ネズミ達が走り去り、浮浪者も驚きに顔をひくつかせ、脚をひきずりながら去ってゆく。五つの影がビルディングの壁に長く伸びた。五人のエージェント、小脇には六人目のシリンダー脳。
ダークスーツ姿にダイヤモンドのタイピンで統一された彼らは無言で目を見交わす。物言わぬドアの前にメルセデスが立ち、シリンダー脳のジョンを掲げた。『ンンン感じますね』脳髄を浮かべる液体が知力の輝きを受け、コロイドめいて青く輝いた。ハートブレイクは顔をしかめる。「何がだ」『存在です』
「コイツはずっとこんな喋りなのか」ハートブレイクはメルセデスを睨んだ。「たしかに鬱陶しい奴になったが、前よりは有能だよ。ニンジャ存在を鋭敏に感知する。特にブギーマンの痕跡を追うならば絶対に必要な能力だ」『嬉しいです!』メルセデスは脳シリンダーを腰のフックに吊るして固定した。
鉄格子で補強された扉の前に立つ四人・1体からはやや離れ、指揮官たるハイエージェント・ビル・モーヤマは後方で腕を組んでいる。メルセデスはそれを一瞥して頷き、古式のドアブザーを鳴らした。『……何かね』応答があった。「アルカナム社の者です。お取次ぎを……」『ジアゲかね。帰り給え』
「管理人の方ですか」『シツレイな。私は本人だ』「本人?」『この館の主、ケンセツ・ミキマだ。他に誰がおる』「……」「とっととやっちまうか」オニズカが促す。メルセデスは交渉を試みた。「地域で一括契約されている弊社のセキュリティ契約をご存知ですか? 追跡中の犯罪者が付近に潜伏を……」
『犯罪者かね。ふふふ……』濁った笑いが応えた。『うつつは夢よ。私はこの揺り籠でマッポーの滅びを微睡むのだ』ハートブレイクが肩をすくめた。メルセデスはマスターキーじみた腕力で鉄格子を破壊しようとしたが、思いがけず扉は自ら開いた。『好きにしなさい。私はね。揺り籠だ……』
「イカレ野郎に興味はない」ハートブレイクは拳の骨を鳴らした。ジョンがシリンダーを光らせた。『ご注意を。イカレ野郎は大量ですよ。ニンジャ反応、複数です』ザルニーツァはタント・ダガーを回し、深呼吸した。ビル・モーヤマが腕部マイクロUNIXを見る。エージェント達はしめやかに入り込んだ。
カゴーン……。鉄骨の軋むような重苦しい音が頭上から振ってきた。ビルディングの中央部が吹き抜けになっており、明るいスモッグの光が啓示めいて頭上から降り注いでいる。奥には連なる階段と、踊り場ごとに設置された各部屋の扉が見える。「難物だぞ。これは」ハートブレイクが呟く。
ビルディング内には蜘蛛の巣があちこちに張り、正体不明の霧めいた重く無害な気体が垂れ込めていた。空間に無秩序に並べられた大小さまざまなテーブルには、壊れたオイランドロイドやテディベア、陶器便座、地球儀、「明治維新」「オスカーワイルド」などと書かれた額縁ショドーなど、混沌の極み。
「ブギーマンは何処だ」オニズカが尋ねる。『それがですね。たとえば宝石がバーッと散らばっていますでしょう? その中から一つのサファイアを見つけ出すとしたらどうですか? 難しくてですね』ジョンは喩えた。『つまりそういう事でして』「掃除が必要だな」応ずるように、ギイギイとドアが開く音。
外張りの階段と踊り場に繋がれた複数のドアが開き、一人また一人と各部屋の中から現れたのは、ナムサン。明らかにニンジャである。メンポを装着し、白い息を漏らし。どの者も明らかに尋常の精神状態ではない。室内から垂れ込めた煙が、吹き抜けの霧を濃くした。エージェント達はカラテを高めた。
「ドーモ。サードウェルです」ニンジャの一人が首を傾け、眼下のアルカナム・エージェント一行を指さした。「何……なんの……用だね。夢を見たのか? 八芒星の夢を。そして、温まりに来たのかね……?」「我々はアルカナムだ。調査に協力してもらいたい」メルセデスが言った。ニンジャ達は笑いで応えた。
「ドーモ。ドアビレッジです」別のニンジャが震え笑った。「見たところ、こいつらは不適格だな。いや、いや……違う!」前屈みになり、見据える……ザルニーツァを。「少なくとも一人は違う。その女だ。さあお前、こちらへ来るがいい。他の者達は殺しなさい。さあ!」手招き。無論、ザルニーツァは拒絶した。
「もう、いいだろう」ハートブレイクが一歩前に出た。「コイツらを片付けて、そのうえで、ジョン=サンに "驚異の部屋" とやらの場所を割り出させろ。この悪趣味なマンションを虱潰しに漁るのは勘弁だ」『散開し、対処せよ』骨伝導通信機を通し、待機中のビルの司令がくだされた。
「「イヤーッ!」」互いにアイサツを繰り出すと同時に、アルカナムのエージェント達は瞬時に散らばり、壁や階段の手摺をトライアングル・リープで駆け上がった。住人のニンジャ達もまた、思い思いの相手を定め、壁を走り、階段を側転して、攻撃を仕掛けた。「イヤーッ!」「イヤーッ!」「イヤーッ!」「イヤーッ!」
メルセデスは空中で回転し、二挺拳銃で銃撃した。「グワーッ!」リバーベースが肩と胴体を撃ち抜かれ、バランスを崩す。そこに飛びかかったのはオニズカ。装束の襟元を掴み、階段手摺の欄干に顔面を叩きつけた。「アバーッ!」ジョンが激しく明滅する。『危険な力を感じる! 対処します!』
脳がフラッシュライトめいて発光! 数秒後、湾曲しながら飛来したアローカーブのカラテミサイルがホーミング機能を喪失し、エージェント達とはあさっての方向に逸れて、内壁に炸裂した。「イヤーッ!」怯むアローカーブの頭上から、ザルニーツァが切り込む!「グワーッ!」
「アルカナムの犬め! 企業が何故こんな事をする!」サードウェルは銃をしまいながら突き進んでくるハートブレイクを見つめ、階段を上がりながら後退する。「ここは祖先の時代より生き続ける土地であり、ゆえにこそ、かの者がしばし羽をお休めになられ……」「貴様らの言うそれがブギーマンか?」
「ア……アアー」サードウェルは身を震わせ、恍惚として仰け反った。「そこまでわかるなら……イヤーッ!」両手を触手めかせて変形させ、ハートブレイクを奇襲! だがハートブレイクは眼前に拳を立てるピーカブー・スタイルで瞬時に接近し、ワン・インチに入っていた。「イヤーッ!」「グワーッ!」
右拳! 脇腹粉砕!「イヤーッ!」「アバーッ!」左拳! 肋骨粉砕!「イヤーッ!」「アババーッ!」右拳! サードウェルはキリモミ回転して吹き飛び、部屋の一つに叩き込まれた。ハートブレイクは踏み込んだ。室内の壁には暗黒のトリイとハッポースリケンが血で描かれ、素材たる犠牲者の死体が複数。
「おうおう。サンズ・オブ・ケオスな」ハートブレイクは素早くハンドガンを構え、苦悶するサードウェルの頭を撃ち抜いた。BLAMN!「サヨナラ!」爆発四散!「何処にでも湧き、集まってくる……」振り向きざま、アンブッシュしてきたリバーバンクを殴った。心臓部を一撃!「アバババーッ!?」
心臓に加えられた過剰なカラテ衝撃が血流に乗って全身を駆け巡り、リバーバンクは即死爆発四散!「サヨナラ!」ハートブレイク……彼のニンジャネームは、まさにそのボックス・カラテの奥義から名付けられたものであった。彼が再び吹き抜けへ戻ると、オニズカがグレネードランチャーを構えていた。
「クラッチマイナ!」スコン! 特徴的な射出音とともに、放物線を描いて飛んだグレネード弾が、対岸の踊り場でカトン・ボールを生成しようとしていたハイアイランドに直撃した。「アバーッ! サヨナラ!」爆発四散!「花火を作るまでもねえ。テメェが花火になったぜ」
「お前は何故……何故、何故だ?」ドアビレッジは顔を押さえて身構え、向かってくるザルニーツァに問いかける。「わかるぞ。お前のソウルの指紋が見える。美しい世界を、恍惚を、煩悶を知ったのだろう?なぜその上でヌンジャに弓引く真似ができるのだ?洗脳されているのか?」
「洗脳か……フフッ」ザルニーツァは少し笑った。「わかるさ。その感覚は」タント・ダガーがプラズマ光を纏う。ドアビレッジは説得を諦め覚悟を決めたか、顔を覆う手をはねのけた。すると、ナムサン! 顔が裂け、中から角まみれのアクマの形相が飛び出す!「アクマヘンゲ・バイト! AAARRGH!」
「イヤーッ!」ザルニーツァの刃が弧を描き、ドアビレッジの首を刎ねた。黒い血を噴き出させながら、首なしのドアビレッジは後ろ手に構えていたカタナに稲妻を纏わせ、イアイした。「イヤーッ!」ザルニーツァはドアビレッジの背後に着地した。ドアビレッジは四肢断裂爆発四散した。「サヨナラ!」
ザルニーツァは勝利直後の奇襲にそなえるザンシン姿勢を解き、周囲をあらためて見渡した。この異様なビルディングを棲家とするニンジャ達との戦闘は終わりに差し掛かっている。オニズカがニアコーブの背中にクイックブレードを突き刺し、蹴り飛ばして吹き抜けの下へ落下爆発四散させたのが最後だ。
「ヌンジャ。ソウルの指紋……」ザルニーツァはドアビレッジの呟いた言葉を反芻した。心地の悪いメタファーだ。『カルトに引き込まれるな』ビル・モーヤマの通信が答えた。『ブギーマンのもとに、こうしてサンズ・オブ・ケオスのニンジャが自発的に集まるケースは想定していた。粛々と対処するのだ』
「そういう事だ、脳味噌」オニズカがジョンを促す。「お望み通り雑音を消したぞ。どうなんだ。今も感じるか?」『はい、実際これで非常にクリアですよ。います……感じますよ! 大丈夫です。外に逃げてはいません! ビル=サンが睨みを効かせて居るのでしょうね!』「何処に居る!」『送信します!』
エージェント達は腕部マイクロUNIXに表示された地図上のマーカーを確認した。「アア? ここか?」ハートブレイクは踊り場の壁に手を触れた。横のドアから室内に入る。先程のように荒廃した部屋があるが、マーカーは壁の中を示している。「待て」メルセデスが外から探った。「妙な感覚が……ある」
「何だ、何だ」ハートブレイクは踊り場に戻り、UNIX間取り図を確認する。「驚異の部屋? ここに? 壁の中か? 構造的にもあり得んだろう」『僕の感知能力をどうか信じてください』「拘束具を準備して」メルセデスはハートブレイクに言った。壁に手を当て、ワン・インチ・パンチした。「イヤーッ!」
SLAM! 震動が壁を伝わり、亀裂めいて、壁紙の繋目が左右にわかれた。カラテが道を拓いたのだ。黒く細く狭いウツロを前に、エージェント達は目をみかわす。非現実的な感覚。だが、理解の埒外の事象をそのまま飲み込めぬ者は一流たり得ない。『驚異の部屋……ああ……』ジョンが光った。ビルは冷静に前進を指示する。『警戒せよ』
3、2、1。
メルセデスが、次にハートブレイクがエントリーし、銃口を室内に向けた。然り、室内だ。黒い切れ込みの奥には確かに、窓付きの部屋があった。二人がクリアリングを行う間に、オニズカが、ザルニーツァがエントリーした。窓の外では蛍光ネオンライトのさざなみ。重金属酸性雨が激しさを増していた。
ザルニーツァは反射的に腕部UNIXの間取り図を見た。現在地点が地図からはみ出している。だが窓の外には現実のネオサイタマが広がっている。ザルニーツァは発狂可能性を切り離した。そして室内を見渡した。
骨董。鏡台。真鍮のダルマ。オイルヒーター。トースター。ケトル。蒸気機関車のポスター。センゴク・ウォーロードの骨董武者鎧。電子戦争以前のスニーカー。加水分解を免れている。水墨画。油絵。四角いモニタ。ボトルシップ。プラズマが閃く球体。
「で、このジジイが家主のケンセツか」ハートブレイクが銃口で示したのは、窓際の安楽椅子で動かない、ソクシンブツじみた老人だった。老人の口元にはLAN通話器が装着されている。重いまぶたが微かに動く。『ああ。さっきドアフォンで鳴らした、何処かのカイシャの』死体ではなかった。『好きにしなさい。うつつは夢だ』
「ペッ! ペッ! 蜘蛛の巣が……」オニズカが埃と蜘蛛の巣を払いのける。そして窓を二度見る。ザルニーツァは彼の視線を目で追った。空に稲妻が光った。雷光が一時、室内をモノクロに変えた。
そのときザルニーツァはアンティーク机に堆積している塵に気づいた。否、それは堆積する塵ではなかった。おぼろなマントの背だった。顔は部屋の隅の闇の中に呑まれ、定かでない。手元が――そう、手だ――動き、机の上の帽子を取った。カウボーイハットめいた異形を。
その者は最初からそこに居た……この「驚異の部屋」の暗がりに、腰を下ろしていた。
ザルニーツァは他のエージェントに注意を促そうとした。心臓が強く打ち、黒いトリイの荒野が、ハッポースリケンの影が、ニューロンに閃き消えた。口がカラカラに乾き、声が出せない。その者は歪んだ帽子を目深に被り、立ち上がった。
「コウ……ソク……」ザルニーツァは声を絞り出した。「拘束具を!」ハートブレイクは彼女が殆ど最初の音節を発語するかしないかのうちに反応し、既に拘束具の射出トリガーを押し込もうとしていた。邪悪なる弾丸がマントを突き抜け、ハートブレイクの心臓を貫通した。ハートブレイクは目を疑った。
BBLAMNN。音が遅れて部屋を跳ね返った。「SHHHH……」冷たい息を吐きながら、その者はマントを翻し、掌の上で、奇妙な銃を……呪われしレリック銃をクルクルと回転させた。さっきは振り向きすらせず、マント越しに撃ち抜いてみせたのだ。「あ……」ハートブレイクは悲鳴を上げようとした。「ア!」その叫びは歪んだ。
ぎゅる、と音が鳴り、空気が渦を巻いた。ハートブレイクは歪む渦の中に巻き込まれた。否、ハートブレイクが渦なのだ。苦しみ悶え、声ならぬ声をあげながら、撃ち抜かれた傷の中へギュルギュルと吸い込まれてゆくハートブレイク。メルセデスが叫び、二挺拳銃を向ける。その眉間が撃ち抜かれた。
BBLAMNN。BBLAMNN。BBLAMNN。音が遅れて部屋を跳ね返った。引き金を引いたまま、撃鉄を撫でるファニングが、メルセデスの脳天を蹂躙した。「ア……!」メルセデスが渦巻きの中へ飲み込まれる。二人のニンジャが死んだ。爆発四散すらせず、二つの死は痕跡に変わった。エメツめいた黒いマキモノに。
『うつつは夢だ』安楽椅子で、ケンセツが譫言を呟いた。床に転がる脳髄が悲鳴をあげた。『タスケテ!』オニズカが地を蹴り、向かっていく。ザルニーツァは畏怖を呑み込み、オニズカに続いた。ブギーマンは異形のカウボーイハットの鍔を掴んで引き下ろし、崩れるように身を屈めた……!
3
「イヤーッ!」オニズカはクイックブレードを逆手に持ち、ブギーマンの首筋に突き下ろした。もはや銃の間合いではない。アドバンテージは彼にあった。銃のままであれば。翻ったマントの下からブギーマンが鞘走らせた紫の光は、南北戦争時代のM1862軽騎兵刀が放つ殺しの輝きであった。
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